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シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「美しい夏」(2023年、イタリア)

2025年08月20日 | 映画の感想、批評
原作はパヴェーゼが1940年に執筆、1949年に出版されている。イタリア最高峰の「ストレーガ賞」を受賞。長らく読み継がれてきた名作という。映画化は初とのこと。

1938年のイタリアのトリノ。作家を目指していたが、学費が続かずに大学を休学し、工員に甘んじている兄セヴェリーノ。兄を追いかけて田舎から都会に出てきた妹のジーニア、16歳。
お針子として洋裁店で生真面目に働いている。仕事終わりの時間に端切れでドレスをオリジナルで作ってオーナーに注目されるくらいなのだが、どこか満たされずに、楽しいことが起こらないかと甘い期待を抱きながら、じりじりと暮らしている。まあ、16才だもの。
現代日本ならまだまだ高校生、約90年近くも前の第二次世界大戦前夜のイタリアでは、働くこともごく普通のこと。そして、この世代の焦燥感は万国共通、普遍的である。

夏のある日、兄やその友達たちと湖畔へピクニックに出かけたジーニア。そこへ奔放な姿で湖に飛び込み、皆のもとへやってきた長身の美しい女性。ジーニアは一気に心を奪われる。3歳年上のアメーリアとの出会いである。
後日、カフェで出会ったアメーリアは「私もお針子をしていたけれど、失業して今は絵のモデルをしている」
「アメーリアに近づきたい、大人の世界に足を踏み入れたい」、ジーニアの焦り。

タイトルが夏なのに、アメーリアと街を歩き、やがて画家たちのアトリエに入り浸るようになる、季節は冬。
初めての恋とアメーリアへの思いに揺れ動き、仕事もおざなりになっていくジーニア。
大事な顧客のウェディングドレスも任されたのに、遅刻を繰り返し、とうとう解雇されてしまう。
アメーリアも梅毒を感染させられ、体調を崩してしまう。

ジーニアにはそれでもやさしく見守ってくれる大人がいた。
まず一緒に暮らす兄。「痛みは忘れるな。幸せになれ、不幸な人生は無意味だ」いいこと言ってくれる。さすが作家志望の青年。
真剣に謝るジーニアを最後は許し、下働きからやり直させる女性オーナーの器量の深さ。

そして、また夏がめぐってきて・・・・・・よい大人に囲まれて、脱線したジーニアも次の夏には一段成長している。

二人の衣装も美しい。戦争前夜のイタリア、決して派手ではないのだが、帽子やワンピースもかわいくて、そこはやはりファッションの国である。

二人の女優さんの年齢は実は、ジーニア役のイーレ・ヴィアネッロのほうがお姉さん。声も太く低く、落ち着いた印象があるが、それでも恋に恋する少女のゆらめき、初々しさを十分に表現していると感じる。
対するアメーリア役のデーヴァ・カッセルこそ、本作撮影時は二十歳前だったそう。モニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセルの娘(と言われても、私にはピンとこないのですが)、早くからその美貌をファッション業界で注目されてきた。確かに画面に登場した瞬間から大輪の花を思わせる存在感。

ヒリヒリするような瞬間もありながら、少女が大人の階段を上っていくお話し。
女の子の孫がいたら、ハラハラさせられそうと、完全におばあちゃん目線で見ていることも、ちょっと悲しいのだけど。久しぶりの洋画観賞、それも静かに心にしみる作品でした。
(アロママ)

監督:ラウラ・ルケッティ 
脚本:ラウラ・ルケッティ
撮影:ディエゴ・ロメロ、スアレス・リャノス 、
原作:チェーザレ・パヴェーゼ
原題:La bella estate 
出演:イーレ・ヤラ・ヴィアネッロ 、 デヴァ・カッセル、ニコラ・モーパス

「新釈 四谷怪談」(1949年 日本映画)

2025年08月13日 | 映画の感想・批評
 ぼくが少年時代、夏休みともなれば近所の映画館の前庭に決まって幽霊の張りぼてが立ったものです。商店街の一角にお化け屋敷が出現したような奇妙な感覚に囚われました。
  怪談の定番といえば鶴屋南北原作の歌舞伎の外題「東海道四谷怪談」。これまでに何度となく映画化されましたが、映画史に残る名作といえば、1949年につくられたこの映画と1959年の「東海道四谷怪談」(中川信夫監督)です。
 ここで取り上げる木下恵介版は鬼畜として描かれることの多い民谷伊右衛門を貧困に窮して道を違える平凡で小心な侍という解釈を施したところが従来にない新味です。いっぽうの中川版は原作に忠実に映画化した点で優れています。ぼくは高校のときに深夜のテレビ放映で中川版を見てそのあまりのぞーっとする恐さに肝を冷やし、さっそく岩波文庫から出ていた原作を読みました。
 物語の趣旨は、浪人の伊右衛門が仕官するため病弱の妻、お岩を亡き者にして良縁に預かろうという魂胆です。原作ではこの伊右衛門が残虐非道の異常性格にしか見えないところがミソです。したがって、若山富三郎版も長谷川一夫版も仲代達矢版も失敗作としかいいようがないのは、まず美青年に見えっこない若山を論外として、長谷川も仲代もアブノーマルという点でちょっと二枚目が勝ってしまったからでしょう。そういう点で表情を変えない鉄面皮の二枚目、天知茂が伊右衛門を好演した中川版がもっとも成功したのです。
 ところで、木下版の脚色の成功は、原作の設定をすっかり変えてしまって伊右衛門のキャラをいかにも優柔不断で気の小さい男にしたところです。根は真面目でいい人、人並みの良心もある。しかし、こういうタイプは悪の誘惑に弱い。メフィストフェレスにささやかれると魂を売ってしまい、善悪の判断が麻痺していわれるがままに従い、気がつけば加害者のひとりとして大罪に巻き込まれているという始末です。
 原作では、お岩は武家の娘であるが故に伊右衛門との関係は「忠義」に尽きるのですが、新釈ではお茶屋に奉公していた町女という設定になっていて、そこには現代的な恋愛関係が成立しています。伊右衛門はお岩に惚れているから容易に別れられないし不憫を感じる訳です。
 そういう点で、かなりトウが立ったとはいえ上原謙(このとき40歳。天知茂が演じたときは28歳)の伊右衛門は適役です。お岩殺しという直助の企みを断ることもできず、日夜悩みに悩んでいる。見ているほうがイラだってくるような性格で、たしかにこういう人はいるものです。もっともお岩役の田中絹代も上原と同い年ですから、通常美人女優が演じるこの役はちょっと辛いのですが、ここでは演技力(妹との二役)を必要とする役柄だったので彼女が選ばれたのでしょう。
 いっぽうで、直助権兵衛の希代の悪党ぶりの描写が鮮やかです。その片棒を担がされて、あとで捨てられる商家の下女を杉村春子が演じていて、直助役の滝沢修とのイキがぴったりなのはみごとだといわなければなりません。
 この前後編合わせて160分余の長丁場で特筆すべきは乱闘場面と捕り物場面の迫力です。明らかに無声映画のチャンバラを再現したと思われるキレ味のよい殺陣とキャメラワーク、編集(カット割り)には舌を巻きました。まるで、伊藤大輔やマキノ雅弘の剣戟を見ているようでした。木下恵介にこういう才覚があるとは意外で、かれの天才性を改めて感じました。さらにいえば、幽霊がおどろおどろしく出る場面を極力少なくして、リアリズムの陰謀劇に仕上げたのが映画史に残る名作となった主因だと思われます。
 レンタルが出ているので納涼に最適です。ぜひご覧下さい。 (健)

監督:木下恵介
脚色:久板栄二郎、新藤兼人
原作:鶴屋南北
撮影:楠田浩之
出演:田中絹代、上原謙、滝沢修、佐田啓二、宇野重吉、杉村春子、山根寿子

「歌行燈」(1943年 日本映画)

2025年08月06日 | 映画の感想・批評
 明治三十二、三年頃、能楽師の大師匠・恩地源三郎、その養子・恩地喜多八、小鼓の名人・雪叟(せっそう)は名古屋公演を終えて、伊勢の古市に立ち寄った。喜多八は古市で名人と言われている宗山の噂を聞き、素人を装って近づいて拍子で謡を狂わせ、宗山の慢心をくじく。宗山は屈辱に耐えかねて自害し、それを知った源三郎は喜多八を勘当し、以後謡を口にすることを禁ずる。一方、宗山の娘・お袖に一目惚れした喜多八は「人のおもちゃになるな」という言葉を残して姿を消す。
 二年後、喜多八は博多節の門附に身を落としていた。宗山を死に至らしめたことに今なお罪悪感を持ち続けている喜多八は、門附仲間の次郎蔵からお袖が困窮していることを聞いて激しく動揺する。生きるために芸を身につけたいと願うお袖に、喜多八は源三郎の禁を破り父の仇であることを隠して、鼓ヶ岳の松原で能「海人」の「玉之段」の舞を教える。お袖は喜多八が父の仇であることに気づくが、すでに恨みは消え、二人の間には愛が芽生えていた。やがて桑名で芸者に出たお袖は客となった源三郎と雪叟の前で、喜多八に伝授された「玉之段」を舞う・・・

 原作は泉鏡花の代表作として名高い「歌行燈」。原作では映画のパラレル編集のような技法を使い、時間軸を交差させながら、謎めいた登場人物の正体を明らかにしていくという複雑な手法がとられている。映画では脚本を担当した久保田万太郎が回想シーンを少なくして、時間軸に沿った物語展開にしているのでストーリーが頭に入りやすい。また原作にない次郎蔵という男が登場し、喜多八とお袖の恋の橋渡し役を演じている。
 鼓ヶ岳の松原で喜多八がお袖に舞を教えるシーンには夢幻的な気韻があり、原作者・泉鏡花と監督・成瀬巳喜男の美意識を感じさせる。夜明け前の人気ない町並みをお袖が松原に向かって走るシーンも、幻想の世界に引き入れられるような美しさがある。
 原作も映画も月夜にお袖が仕舞を舞うシーンをラストに設定し、これが作品全体のクライマックスになっている。お袖が舞い、源三郎が謡い、雪叟が小鼓を打つところに、小鼓の音を聞いた喜多八がやって来て共に謡う。合奏することにより心はひとつになる。合奏は和解の手段であり結果であり、象徴でもある。喜多八は養父と再会し、勘当が解け、お袖と結ばれるという大団円を迎える。このクライマックスの盛り上げがひときわ際立っている。
 この作品を見ていると芸道映画とは「かくあるべし」と思う。芸への敬意と羨望があり、矜持を忘れず、研鑽と伝授に生涯を賭ける芸能者たち。芸の上達と人間性の向上が同一視される世界。これが芸道の世界なのだ。
 また常人には窺い知れない芸の神秘と不思議をエンタメ的な手法で描いているのも興味深い。宗山は拍子の打ち方ひとつで喜多八の正体を知る。源三郎と雪叟はお袖の舞を見て喜多八が教えものだと気づく。喜多八は小鼓の音を聞いて雪叟が打っているとわかる。物語の重要な場面で、芸を極めた人間だけがもつ感性や能力が生きている。これがまさに芸道映画の面白さであり、ロマンであり醍醐味ではないだろうか。(KOICHI)

監督: 成瀬巳喜男
脚本: 久保田万太郎
撮影: 中井朝一
出演: 花柳章太郎 山田五十鈴 柳永二郎 大矢市次郎 伊志井寛

「F1/エフワン」(2025年 アメリア映画)

2025年07月30日 | 映画の感想・批評
 F1新興弱小チームのセカンドドライバーとして、デイトナ500のレースを終えたばかりの一匹狼のソニー(ブラッド・ピット)が急遽、加入するところから、物語が始まる。このチームのオーナーは、ソニーのかつての仕事仲間で、今シーズン中に1勝挙げなければ、チームが存続出来なくなる危機的状況だった。ソニーはかつて有望な新人レーサーとしてF1にも出場していたが、大事故を起こし表舞台からは立ち去っていた。ファーストドライバーのジョシュア(ダムソン・イドリス)やチームとうまく連携して、ソニーは救世主となれるのか。
 製作のジェリー・ブラッカイマーと監督のジョセフ・コシンスキーのコンビで、「ザ・ハリウッド」映画である。先日の「トップガン マーヴェリック」と同じで、舞台を空軍からF1に、主演をトム・クルーズからブラッド・ピットにしたということか。
 物語は、そんな展開になるだろうなと思う通りの展開になる。想像が付く。でも、それで良し。何故なら、“ハリウッド”だからである。分かり易い展開、カッコ良い俳優、そして、ハッピーエンド。観ていて安心感がある。ただ、定番とは言いつつも、ブラッド・ピットの年齢を考えると、ラストは、若者に勝利を譲ってあげても良かったのではないだろうか。人を育てることの難しさを理解しているシーンもあり、この年齢だからこそ出せる味があったのではないか。更に、ブラッド・ピットが仕掛けるグレーな作戦がいくつかあった点が気になった。特に、故意にマシンを接触させ、味方を有利に操作するシーンがあるが、かなり重い処分に相当する筈。実際のレースでも、年間ポイントを剥奪されるような重大な事案として取り上げられたこともあった。冒頭から、そんなシーンが何度かあり、高潔ではない印象が残った。
 興行面で見てみると、F1は、ヨーロッパ発祥のスポーツと謂われ、まだまだ、ヨーロッパ中心の印象があるが、雑誌『Number』7月3日号の記事「“F1未開の大陸”でなぜブームが起きたのか」に依ると、Netflixのドキュメンタリー番組のヒットと、F1への憧れ(「セレブ」「ハイソ」「スーパーリッチ」「スペシャル」)から生まれた作品とのことで、ハリウッド定番と重なる部分が多いことから、更なるF1界のアメリカ市場拡大を目論んでいるとも思えるビジネスの匂いがプンプンする作品でもあった。製作者の一人に、現役ドライバーのルイス・ハミルトンの名もある。映画業界、F1業界、現役ドライバーが、全世界をマーケートにしようと風穴を開ける気持ちで製作したのだろう。
 現役ドライバーやチーム代表もちょくちょく登場する。人によっては、セリフもある。ただ、かなり緊張しているのがはっきりと分かって、思わず笑ってしまった。日本人ドライバーの「角田祐樹」(Tsunoda Yuki)も、エンドクレジットで確認出来て嬉しかった。
 最後に、物語に戻すと、ラストの砂漠レースに挑むブラッド・ピットの風情は渋くて良かった。お金目当てではなく、ただ純粋にレースが好きというのが身体から滲んでいる。冒頭のシーンと同じく、一匹狼が真に喜びを感じる瞬間というところか。この佇まいを出せるのは、さすが、ブラッド・ピットである。自分自身の“映画が好き”という気持ちとオーバーラップさせているのだろうか。
(kenya)

原題:F1:The Movie
監督:ジョセフ・コシンスキー
脚本:アーレン・クルーガー
撮影:クラウディア・ミランダ
出演:ブラッド・ピット、ダムソン・イドリス、ケリー・コンドン、ハビエル・バルデム、トビアス・メンジーズ、キム・ポドゥニア、サラ・ナイルズ、アブダル・サリス、サムソン・ケイオ、キャリー・クック、ウィル・メリック、ジョセフ・バルデラマ、シェー・ウィガム

「夏の砂の上」(2025年 日本映画)

2025年07月23日 | 映画の感想・批評
 本作のチラシを手にしたのは今年の初め頃と記憶している。内容と出演者の顔ぶれに公開を待ち焦がれていた。原作は長崎出身の松田正隆による読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞の戯曲である。これまで何度も舞台化され、2022年には玉田真也監督も自身が主宰する劇団で上演しているが、映画化は初めてである。主演のオダギリジョーが共同プロデューサーを務めているのも注目点。「自分がプロデューサーという肩書きで映画に加わることは、この作品への本気度や覚悟を伝えたいという意思表示」とインタビューで語っているが、ロケハンから始まり編集や音作業など、仕上げの最後まで全て参加したというから期待度は増す。
 オダギリジョーは作家性や芸術性を重視した作品選びで唯一無二のスタイルを確立している俳優だ。海外作品への出演も多く、初長編監督作品の「ある船頭の話」(2019年)は海外でも評価されている。生まれ育ったのは岡山県の城下町津山。幼少の頃より保育所がわりに映画館に預けられ、映画少年として育っていく。合格した大学には行かず、映画の勉強のため渡米する。監督コースを志望するも願書の記入ミスで俳優コースに入ったというエピソードは暗示的だ。
 雨が降らない、からからに乾いた夏の長崎が舞台である。幼い息子を亡くした喪失感から、坂の多い街を漂う小浦治(オダギリジョー)。妻の恵子(松たか子)とは別居中。働いていた造船所が潰れてからは新しい職にも就かずにいる治の前に妹・阿佐子(満島ひかり)が17歳の娘・優子(高石あかり)を連れ訪ねて来る。儲け話にのせられた阿佐子は一人で博多の男の元へ行くため、暫く娘を預かってほしいと言う。こうして突然治と優子の同居生活が始まる。高校へ行かずアルバイトを始めた優子は、そこで働く先輩の立山(高橋文哉)と親しくなる。やがて不器用だが懸命に父親代わりを努める治との二人の生活に馴染んでいくのだが……。
 自宅が坂の上にあるため治は何度も坂道を歩く。その歩き方には独特のリズムがあり、時間の流れが刻まれていくようだ。別れ際に優子から手渡された女物の帽子を被って歩く姿には、不思議な美しさがある。両性具有の魅力と言っても過言ではない。
 治の幼い息子を飲み込んだ雨が、乾ききった長崎の街に再び降る。家中のやかんや鍋を持ち出して、はしゃぎまわる治と優子。それは慈雨のように観客にも降り注ぐ。
 出演者が各々に魅力的だ。特に優子役の高石あかりは言葉少なだが、その強い眼差しが言葉以上の事を語っている。思いがけない発見は、治の元同僚で治の妻を奪っていく陣野役の森山直太朗だ。近年はドラマにも出演しているが、その佇まいには、オダギリジョーとは対称的な魅力がある。
 家族も仕事も失い、最後には自分の身体の一部さえも失ってしまう治は、それでも夏の坂道をいつものように歩き続ける。その姿は長崎という街の持つ記憶と似ている。(春雷)

監督・脚本:玉田真也
原作:松田正隆(戯曲「夏の砂の上」)
撮影:月永雄太
出演:オダギリジョー、高石あかり、松たか子、森山直太朗、高橋文哉、篠原ゆき子、斉藤陽一郎、浅井浩介、花瀬琴音、満島ひかり、光石研