シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「愛怨峡」(1937年 日本映画)

2024年07月17日 | 映画の感想・批評
 戦前の信州の雪深い温泉町。旅館の跡取り息子、謙吉は女中のおふみと恋仲にあったが、支配的な父親に許してもらえず東京へ駆け落ちする。友人宅へ転がり込んだものの謙吉は働かず、おふみは身重ながらミルクホールの仕事を見つけてくる。ところがおふみの留守中に父親が謙吉を連れ戻しに来て、謙吉はわずかなお金を置いて実家へ帰ってしまう。おふみは生まれた子供を里子に出し、養育費を得るためにカフェの女給として働き始めた。アコーディオン弾きの芳太郎はそんなおふみを陰ながら見守っていた。二人は互いに恋心を抱いていたが、芳太郎は敢えておふみと男女の関係になろうとはしなかった。
 やがて二人はおふみの伯父の旅回りの一座で漫才のコンビを組むことになり、子供を引き取って地方巡業に出た。信州で興行を打った際、二人の舞台を見た謙吉はおふみの姿に心動かされ、かつての非情を詫び、もう一度やり直したいともちかけるのだが・・・

 他の多くの溝口映画と同じように、この映画でも主人公のおふみは男や社会に翻弄され、蔑まれ、絶望の底に突き落とされる。苛酷な運命をさまようのだが、興味深いのは必ずしも落ちぶれていくわけではないところだ。田舎の温泉町の女中、ミルクホールの店員、カフェの女給、旅回りの漫才師と転変を繰り返すたびに、おふみは逞しく成長していく。弱々しかった女性が自立した強い女性に変わっていくのだ。ここが他の溝口映画と少し異なるところで、献身愛を捧げて男の犠牲になったり、男社会に立ち向かっていくというドラマにはならず、おふみは子供と自分のためにしゃにむに働き、さっさと独り立ちする。謙吉の前で、
「私は芸人なの、遊びましょう・・・こんな面白い女になってしまった・・」
と開き直る場面が印象的だ。おふみを演じた山路ふみ子が吹っ切れた女を好演している。
 芳太郎は子供の教育のためにおふみは謙吉と復縁するのが良いと考え、故意に粗暴な男を演じて、おふみの自分(芳太郎)への未練を断とうとする。このあたりはオペラの『椿姫』や成瀬巳喜男の『鶴八鶴次郎』を彷彿とさせる、新派的な展開だが、おふみは芳太郎の心を見抜いていた。芳太郎が芝居をしているのを知っていて、息子のために謙吉と縒りを戻すことを決める。しかし謙吉の父親が結婚に反対し、謙吉が今なお父親にまったく無力であることを知って、息子を連れて家を出ていく。伯父の一座と合流し、再び芳太郎と漫才コンビを組んで巡業の旅に出る。二人の愛が成就したことを示唆する場面で映画は終わる。溝口にしては珍しいハッピーエンド。逆境に生きる女性の強さ、気高さを高らかに描いた秀作である。(KOICHI)

監督:溝口健二
脚本:依田義賢  溝口健二
撮影:三木稔
出演:山路ふみ子  河津清三郎  清水将夫

「フェラーリ」(2023年 米・英・伊・沙合作)

2024年07月10日 | 映画の感想・批評
 イタリアのフェラーリ社創設者、エンツォ・フェラーリ氏の実話。そのエンツォ・フェラーリをアダム・ドライバーが演じる。会社の業績が振るわず、経営は危機に直面していた。このままだとレースが続けられない。共同経営者の妻ラウラ(ペネロペ・クルス)との間に生まれた息子ディーノの病死が原因で、夫婦関係は破綻している。その一方で、かなり以前から関係がある愛人(シャイリーン・ウッドリー)との間に生まれた息子ピエロを認知せずにいた。公私共々問題を抱えている。そんな折、フェラーリ躍進の大勝負に打って出ることにした。イタリア全土1,000マイルを走るロードレース“ミッレミリア”(イタリア語で「1,000」という意味らしい)への出場を決めたのである。
 決して、レース映画ではない。エンツォ・フェラーリ氏は元レーサーだったそうだが、一人の経営者としての生きざま・覚悟・気合・情熱を描いている。「ジャガーは、売るために走るが、フェラーリは、走るために売る」というセリフ、ドライバーの恋人がフェラーリのエンブレムの上に腰掛けていたら、強引に移動させるシーン、エンジンの構造の話をピエロに語る際の嬉しそうな表情・声など、常に、会社のこと、レースのことを考えていたのだろう。それが、経営者なのだろう。終始、緊張感のある映像だった。後半の公道での事故シーンは酷かった。「ドライバーは死を覚悟しているが、観客は違う」という言葉は重かったが、「事故=死」に直結していた時代かもしれないが、「死」に対する考えが希薄なのは気になった。観客や友人ドライバーが亡くなったのも、さらりと語られるだけ。事故のシーンもグロテスクなシーンだが、あっけなく幕切れ。昔は事故が当たり前だったのか。文明開化は人々の生活を一変させるが、その一方で悲劇を生む側面があるはず。現在の華やかなレースやショーとは全く違う一面が観られた。
 恐妻を演じたペネロペ・クルスは上手かった。特に、銀行でのやりとりや愛人宅を発見したシーン。苛立ち、怒りが身体から伝わってくる。常に、影をまとい、「暗さ」を背負っている。また、アダム・ドライバーも『ハウス・オブ・グッチ』の時もそう思ったが、一見、彼だと分からないぐらい、その人物に成り切っている。二人の共演も見物であった。
 最後に、製作国が英語圏で、舞台がヨーロッパの映画にありがちな話。イタリアで生まれ、ずっとイタリアで生活する人は、イタリア語を話すと思う。でも、本作品はイタリア語訛りの「英語」。気になるのは自分だけだろうか。アダム・ドライバー出演なので、観る前から分かってはいたが、やはり気になる。映画でよく取り上げられる“ナポレオン”や“ヒットラー”が英語をしゃべっているのと同じ。では、「観なければ良い」という意見も頂きましたが、赤字のタイトル「Ferrari」には勝てませんでした。
*余談。フェラーリのエンブレム背景色は赤ではなく黄色です。そこに国旗の3色と跳ね馬が描かれておりますね。所説あるようですが、赤は「イタリアイメージカラー」ということのようです。
(kenya)

原題:Ferrari
監督:マイケル・マン
脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
撮影:ピエトロ・スカリア
出演:アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス、シャイリーン・ウッドリー、サラ・カドン、ガブリエル・レオーネ、ジャック・オコンネル、パトリック・デンプシー

「わたくしどもは。」(2023年 日本映画)

2024年07月03日 | 映画の感想・批評
 第36回東京国際映画祭コンペティション部門に正式出品された作品である。富名哲也監督はこの作品が長編第二作目。佐渡島に眠る無宿人の墓からインスピレーションを得て、オリジナル脚本を書いたと言う。
 舞台となった佐渡島は日本海の中で最大の島である。724年以来流刑の地と定められ、1221年の承久の乱にさいしては順徳上皇の、1271年には日蓮の、1434年には世阿弥の配所としても知られている。劇中に能の場面があるが、伝統芸能の盛んな地でもある。もっとも能を広めたのは世阿弥ではなく、江戸時代に入ってからの話である。金山は今、世界文化遺産登録を目指している。鉱山の坑道を一本の線につなぐと約400km。佐渡島から東京くらいまでの道程になると言う。独自の歴史を持つこの島を舞台にしたことが、作品の魅力となっている。
 冒頭、白いワンピースを着た女性が横たわっている。記憶がなく自分の名前すらわからない。鉱山で清掃の仕事をするキイ(大竹しのぶ)が彼女を発見し、自宅に連れ帰る。女性はキイと暮らす少女達にミドリ(小松菜奈)と名付けられ、キイと一緒に清掃の仕事をすることになる。ある日、ミドリは猫に導かれ構内で暮らす男性と出会う。彼もまた記憶も名前も失っていた。ミドリにアオ(松田龍平)と名付けられ、二人は何かに導かれるように一緒に過ごすようになる。そんなミドリの前にアオとの親密さを漂わせるムラサキ(石橋静河)が現れ、ミドリは心を乱される。
 ミドリが発する「わたくし」という日本語の響きが耳に心地よい。アオのアンニュイな表情が謎を深めていく。時代も状況設定もわからないまま強度のある映像を観続けていくと、次第にこの世ならぬ所へ導かれていくような感覚に陥る。館長(田中泯)の「四十九日」の言葉や、自死しようとしている少年(片岡千之助)に「こっちの世界に来てはいけない」とアオが叫ぶ様子から、徐々に状況が明らかになっていく。現世で一緒になれなかったミドリとアオの、この世とあの世のはざまでのつかの間の逢瀬だったと考えると、ラストシーンの互いを探し求めるような手のアップが、切なく迫ってくる。
 俳優陣が各々に佐渡の風景の中に嵌っている。ミドリ、アオ、ムラサキ……と色の名前がついているが役柄と色のイメージがうまく重なり合っている。
 アート作品と言えるだろう。名前も記憶も無くした時、人間を人間たらしめるものは何だろうという気持ちが湧いてくる。そして改めて、自分を自分たらしめているものは何かという思いが静かに沸き上がってくる。(春雷)

監督・脚本:富名哲也
撮影:宮津将
出演:小松菜奈、松田龍平、片岡千之助、石橋静河、内田也哉子、森山開次、辰巳満次郎、田中泯、大竹しのぶ

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(2023年 アメリカ映画)

2024年06月26日 | 映画の感想・批評


 やっと梅雨に入り、しっとりと落ち着いた空気も悪くないなと思うこの頃、あと1ヶ月もすれば夏休みだ。近年は少なくなったが、全寮制の学校に通う生徒達にとって、夏休みやクリスマス休暇前は、家族が待つ家にやっと帰れる、待ち遠しい、嬉しい時期だったに違いない。しかし、中には事情があって学校に残らざるを得ない者たちもいた。
 時は1970年の12月。舞台はボストン近郊にある名門私立男子校のバートン校。生徒も教職員も家族のもとに帰る準備に忙しい中、古代史の教師ハナムは校長から今年の居残り役を命じられる。帰省できずに学校に留まる生徒の子守りをせよというわけだ。これにはハナムが有力者の息子を落第させたことへの学校側の制裁という意味もあったのだが・・・(なるほど、いかにも名門私立校ならではの処遇)。彼は休暇中だというのに、残った生徒達に当然のように勉強を続けさせている。生真面目で融通が利かないからか、生徒達の支持も全く得られず。ところが生徒の中に航空関連の会社社長の親がいて、保護者の承諾があればヘリでスキー旅行に行けることになり、唯一母親と連絡が取れなかったアンガスを残して他の生徒達はここぞと出発!かくしてバートン校にはハナムとアンガス、そして一人息子をベトナム戦争で亡くしたばかりの料理長、メアリー・ラムの3人のみが“居残り者たち(ホールドオーバーズ)”となって留まることとなる。
 この3人がそれぞれ違った孤独感を持ちながら、お互いに関わり合うことで変わっていく姿を見ていくのが心地よい。監督は「サイドウェイ」や「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」など、ロードムービーならお任せのアレクサンダー・ペイン。今回もその温かで繊細なる語り口に、観る者は自然と寄り添ってしまうのだ。
 ハナムを演じるのは「サイドウェイ」から20年ぶりにペイン監督とタッグを組んだポール・ジアマッティ。ちょっぴり斜視な所も上手く役柄に活かし、個性溢れる教師役を好演。見事ゴールデングローブ賞の主演男優賞に輝いた。メアリーを演じたダヴァイン・ジョイ・ランドルフは1986年生まれの38歳なのだが、設定はそれより10歳以上は上だろう。まさに貫禄という言葉がふさわしいその演技は高く評価され、アカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を獲得。そして特筆すべきなのはアンガスを演じた新人ドミニク・セッサだ。21歳にして高校生を演じるにはかなり大人びた雰囲気なのだが、名門校の優等生という役柄にはピッタリ。それでいて大人達の前で見せる妙に子どもっぽい姿も実に微笑ましく映る。何とこの作品が長編映画のデビュー作というから、今後の活躍が楽しみだ。
 1970年という時代背景もこの作品の魅力の一つ。全編を通じて流れるのは、自分も高校生だった頃流行ったシンガーソングライター達が作った名曲の数々。映画はアメリカン・ニューシネマの全盛期で、ダスティン・ホフマン主演の「小さな巨人」を映画館で観るところでは思わずニヤリ。そういえば、上映開始直後のプチプチ音も、クロージングの「THE END」の文字も、今では観ることが難しくなったフイルム上映を意識してのことなのだろう。デジタルでアナログを表現する、そういう細かい演出がいかにもペイン監督らしい。
 休暇が終わって再開された授業。あんなにカチンときたハナムの厳しい言葉も、この2週間で彼のいいところをいっぱい知ったからか、今となっては快い響きに感じられる。しかし彼には次なる試練が待ち受けていた。この歳で、一人の生徒のためにすべてを投げ捨てる決心をしたハナム。 新しいスタートを切るハナムたちを心から応援したくなる、何とも後味のいい作品に久しぶりに巡り会えた。大丈夫、きっといいことあるよ!!
(HIRO)

原題:The Holdovers
監督:アレクサンダー・ペイン
脚本:デヴィッド・ヘミングソン
撮影:アイジル・ブリルド
出演:ポール・ジアマッティ、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ、キャリー・プレストン

「碁盤斬り」(2024年 日本映画)

2024年06月19日 | 映画の感想、批評
彦根藩の進物番をしていた柳田格之進(草彅剛)は掛け軸盗難の濡れ衣をきせられ、妻も職も失い、江戸で娘のお絹(清原果耶)と貧しい浪人暮らしをしているが、武士としての矜持と品性を失わず、それは囲碁の手筋にも表れている。
質両替商の萬屋源兵衛(國村隼)は「鬼のケチべえ」と揶揄されるような強引な商いをしていたが、格之進と出会い対局する中で、彼の人柄に感化され、まっとうな人間になっていく。
ある日、源兵衛の店で五十両が行方不明になり、番頭と手代の弥吉(中川大志)が、その日源兵衛と囲碁をしていた柳田を犯人ではないかと疑いをかけてしまう。
ちょうどその頃、部下だった梶木左門(奥野瑛汰)によって、藩を追われた事件の真相を伝えられた格之進親子は復讐を決意したばかりであった。
お絹は父の潔白と覚悟を信じ、自ら吉原に身売りして五十両を用立て、格之進に仇討ちを果たすよう促す。
格之進は弥吉に五十両を渡し、「金がでてきた時は弥吉だけでなく、源兵衛の首をもらい受ける」と宣言し、江戸から姿を消す。

草彅の侍姿はなかなか似合っている。静と動のめりはりがあってよかった。走る姿はちょっと武士らしくないかな。
國村の大店の旦那が柳田と碁を打つ中で商売の在り方も正していく姿にしずかに感動する。
中川大志、武家の生まれという役どころ。番頭に言われて格之進を疑わざるを得なくなるが、お絹に惹かれていくかわいさが微笑ましい。
斎藤工も狡猾さをにじませながらの敵役がはまっている。最後はやはり侍だった。
小泉今日子、カッコいい。ちょうどこの前後で観た前進座のお芝居「文七元結」も本作のベースになっているのか、吉原に生きる女性のキップの良さがでている。足ぬけに失敗した女郎への厳しさはゾクッとする。
それほど過酷な世界のはずなのに、ラストで絹が無事に解放されたとき、周囲の女郎たちが温かく見送るところは、「はて?」。
原作本では、足ぬけした女郎のその後を絹が親身に世話をすることで周囲の変化が描かれていたが、映画ではそこを出せていない。
清原果耶の武家の娘がりりしいし、所作も美しい。ますます楽しみ。先に春雷さんが取り上げた「青春18×2」をまだ見られていないので残念。

碁は全くわからないなりに、演者の表情で緊迫感が伝わってくる。
碁会所では身分も男女も関係なく、対等に参加しているらしいのが新鮮に思えた
時代劇らしい照明や美術もよかった。

白石監督にとっては初の時代劇とのこと。それは意外だった。「ひとよ」「死刑にいたる病」「凪待ち」などを観た。バイオレンスがきつくて、思わず目をむけてしまったし、鑑賞後が重々しかったが、今作はどこかすがすがしさがあったのが救い。
山田洋次監督が『たそがれ清兵衛』を機に時代劇を作り始めたように、白石監督の時代劇も楽しみになってくる。

柳田は掛け軸を受け取って、さあそれをどうしたのだろう。娘の祝言からそっと旅立ち、自分の清廉潔白さから藩を追われた部下たちの家族にお詫び行脚に行ったのだろうか。品格や礼節を何よりも大事にする本作の登場人物たち、今の時代に大事なことを問いかけているように思えた。
(アロママ)

監督:白石和彌
脚本:加藤正人
撮影:福本淳
原作:加藤正人「碁盤斬り柳田格之進異聞」
出演:草彅剛、清原果耶、中川大志、奥野瑛太、小泉今日子、斎藤工、國村隼