乳がん患者のサロン2 - ノエル編

乳がん患者の皆様、このサロンでのびのびと雑談しましょう。くつろぎの場です。

正義の追求って?

2008年03月01日 | 福島県立大野病院事件
現場での、その場その場の判断がすべて適切か、と後から判断材料を全部揃えて検証されたら、どんなお医者様でも耐え切れないのではないでしょうか。
また、そこまで完全無欠を求めていくのは、やりすぎではないかと思えます。
普通、裁判となると一瞬一瞬の判断をひとつずつ検証していく作業があるのでしょうね。

これは、正義を追求することでしょうか。
医療側の怠惰で治療を受けられなかったケースなどとは全く違うわけですから。
がんばって手術しているときの、医師の判断自体を裁くわけでしょう。。
これは裁判にはなじまないのでは。

最善を尽くしても後から見れば、適切ではなかった可能性があるときに、それを責められると、当事者は萎縮してしまう。
難しい手術は敬遠したい、という気持ちになるのではないかと危惧します。

医師と患者側が対立関係になるのは不幸なことです。
訴える側には何があったのでしょう。
事情がよく分かりませんが、出産には危険が伴うし、100パーセントの安全はない、ということの理解はあるのでしょうか。

警察がとりあげ、検察庁がなぜ起訴したのか。違法性があると判断したのは別の医師の意見を採用したからですね。
ひとりの医師の意見でなく、何人かの医師からの意見を聴取して、起訴するぐらいの慎重さがほしかったと思います。
すぐに何でも裁判をする時代。何か閉塞感を感じるのは私だけでしょうか。
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これは前回トピック子供でもわかる『福島大野病院事件』のyukoさんのコメントです。

>がんばって手術しているときの、医師の判断自体を裁くわけでしょう。。

非医療従事者の私は、この点に着目しています。
内科医よっしぃ先生は、「情報が全部そろった状況での裁判は『後出しじゃんけん』と言われるのです。」とブログに書かれています。子供でもわかる『福島大野病院事件』
さらに、内科医春野ことり先生のブログに関連記事を見つけましたので抜粋します。
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小松秀樹先生の講演を聞きました
医療崩壊―「立ち去り型サボタージ...  医療の限界  の著者、小松秀樹先生の講演、タイトルは「 医療を崩壊させないために」。医療事故調査制度についての痛烈な批判です。
1.はじめに
日本の医療機関は相矛盾する二つの強い圧力にさらされている。医療費抑制と安全要求である。医師の士気喪失の象徴となったのが、刑事司法の介入である

2言語理論体系の齟齬
司法と医療という社会の基盤となるシステムの間に大きな齟齬が生じている。
(つまり、医療は医療、司法は司法の独自のシステムがある。司法が医療を扱うときも、医療用語を使わず、司法用の用語に組み直している。
まるで脳の中で神経細胞がつながっていない状況とのこと)

福島県立大野病院事件では、多くの医師の団体が警察・検察に抗議した。その理由は、医療における因果関係の判定方法、正しいとされる医療行為の分布のありよう、労働環境の医療従事者への影響などを十分に認識することなく、「違法性」(死亡結果を惹起したこと)と、「責任」(死亡結果を予見すべきで避けるべきだったこと)があれば処罰できるという、あまりに乱暴な論理に基づいて医療における犯罪を認定しようとしたところにある。
(要するに、これだとほとんどの医者を逮捕してしまうことができる)

司法、政治、メディアはものごとがうまくいかないとき、規範や制裁を振りかざして、相手を変えようとする。(規範的予期類型)
これに対し、医療、工学、航空運輸など専門家の世界では、うまくいかないことがあると、研究や試行錯誤を繰り返して、自らの知識・技術を進歩させようとする。(認知的予期類型)

グンター・トイブナー(法社会学者)は分野ごとの正しさの衝突となると、法がすべての部分社会を統括するような規範の大体系を提示できるはずもなく、法はそれらの矛盾を解消できない。互いの合理性を尊重し、自立的部分社会同士の相互観察で共存を図るしかない、とする。
(つまり、医療における正しさと、法における正しさが違うわけで、法における正しさが人間を死なせないことだとすると、不可能なわけ。
その場合、それらを統括するような法をつくるのは無理な話で、互いの合理性を尊重して共存するしかない)

現在の刑法は明治41年(1908年)に施行されて以後、本格的改正はなされていない。
(つまり、100年も前に作られた刑法にわれわれはしばられているのである)

3.刑法211条 業務上過失致死傷罪
単純過失は罪か
2003年3月、東京都の1時間に50分以上閉鎖される開かずの踏み切りで、女性二人が電車にはねられて死亡する事故があった。
手動で遮断機の上げ下げをしていた保安係の男性が逮捕された。他の人間がここにいても間違いは起こりえた。立体交差にすれば事故は起こりえない。ヒューマンファクター工学の常識では、これは誘発されたエラーであり、「犯人」の処罰は安全を向上させない。社会はこの事件を個人の責任とした。会社は男性を懲戒解雇にし、刑事司法は逃げも隠れもしない善良な男性を逮捕起訴し、有罪とした。
(まさに、これと同じことが医療の現場でも起きているのだ)
医療はその性質上、業務上過失致死傷で訴えやすい。
検察は起訴するかどうかの判断について明確な基準を描けておらず、
被害の重大性、被害者側の処罰感情を判断材料にしている。
これは、不都合なことが起きたとき 「悪いやつを探し出して罰しろ」と主張する「被害者感情」が制御なしに一人歩きをしている日本の風潮と同じである。
( 以下、ことり先生のブログをお読み下さい)
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正義の追求って、何が正義なんでしょうか?

私の最大の注目点は、亡くなった妊婦さんを取り巻く状況です。
出産前に、本人や配偶者、取り巻く家族…それと、被告になった医師と。出産について何をどれだけ話し合ったのか。または話し合わなかったのか。。。

話し合わなければ、行動しなければ、その人が何を考えているのかは伝わりにくい。。。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (春野ことり)
2008-03-01 18:38:24
拙ブログの引用とトラックバック、ありがとうございました。
「正義の追及」について、小松先生も「正義って怖いんですよ。暴走しますから。フランス革命では正義の名のもとにギロチン刑にされましたからねえ」と講演で仰っていました。
まさに、大野病院事件も、警察の「正義」の名のもとによる暴走そのものなわけです。
このようなことは医療の委縮を招くわけで、患者さんたちにとっても一大事です。
一緒に声を上げていきましょう
返信する
Unknown (yuko)
2008-03-01 22:57:19
「医療における正しさと司法における正しさは違うわけで、互いの合理性を尊重して共存するしかない。」

そうですね。
ご紹介された一連の文章とノエルさんの解説は、私が表現できないけれど何かおかしい、と感じたことをぴったり的確に表しておられます。

全てを法で律しようとすると無理が出ますよね。
そのあたりを裁判官がどう判断するか、注目されますね。


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春野ことり先生 (ノエル)
2008-03-02 14:59:42
コメント、ありがとうございます。
フランス革命では正義の追及が、ロベス・ピエールの「恐怖政治」へ暴走、ロベスくん自身もギロチン行きになっちゃいましたね。

「正義」を前面に出されると、真っ向から反論するのは勇気が要ります。仏の一般庶民の本音は、「正義を追及」し過ぎたくなかったわけで(笑)。

ことり先生のグンター・トイプナーの解説で、この事件は互いの合理性を尊重・共存することと正反対のことをしているのだと思いました。

事件の詳細が同業の医師側から語られるようになって、被告となった医師と、自分の主治医がかぶってしまいました。患者の希望を優先し、非標準治療という危ない橋まで渡って下さった主治医です。この先生には、私のような難しい治療の必要な患者さんを、一人でも多く診ていただきたい。

ことり先生をはじめ、真剣に仕事をなさっている多くの先生が委縮してしまうのは、患者にとって本当に一大事です。私も声を上げます。






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yukoさん (ノエル)
2008-03-02 15:13:50
yukoさんが「正義の追及」という言葉を書き込まなければ、私はこれが暴走するとどうなるか、、、そこまで考えが及ばなかったでしょう。

>全てを法で律しようとすると無理が出ますよね。

実はこれについても深く考えたことがなかったんです。法で全てを律してくれた方が楽ですから。

「何かがおかしい」という感覚を養うには、情報や意見を多角的に集めるのが一つの方法だと、今回の事件からも思います。

また、yukoさん、最凶さん、海砂さんのご意見も自分の頭にはなかったもの。私も言葉にならないモヤモヤとした気持ちを、他の方の言葉によって補われるのは、すっきりしてうれしいです。
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