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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書15、あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。(伝道者の書7章13節~18節)

2020年05月21日 | 聖書
 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。(伝道者の書7章13節)
 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。(14節)


 伝道者の視点は、知恵を下さる神に戻って行きます。
 ここに言われている二点、神が曲げたものを人はまっすぐには出来ないこと。順境の日に喜び、逆境には反省するというのが、神を知る者の「知恵」なのでしょう。
 人は、神をこのような全能で主権をお持ちの方だと認めない限り、悪あがきをすることになります。
 地震や不条理な犯罪が起きると、神を否定する人たちは鬼の首でも取ったように言います。「どこに神がいるのか」
 しかし、聖書の神は、この世界の統べての場所に遍在しておられ、この地上そのものを現出しておられ、私もあなたも神の作品であり、ろくろの上にある土の器であると思えば、そんな生意気なことは言えませんね。

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 じっさいこの世は、不条理に満ちています。
 楽園を追放された時に、人類は悪魔もろとも、不条理の世界に入ったのですから仕方がありません。

  私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。(15節)、

 私自身、長い間、このような聖書の神に「物申したい」人間でした。
 いえ、救われた後でも、あるみことばには、爪を立てたいような気分になりました。
 たとえば、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章45節)

 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(16節)

 これは、「あなたは(自分こそ)正しい」と思い込みやすい人間性への戒めかもしれません。良い人は「自分は正しい」「自分は知恵がある」と思うように方向づけられて成長してきたわけです。
 逆も言えます。
 
 悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに,なぜ死のうとするのか。(17節)

「悪くて何が悪い」と開き直る声もあります。「生きるってことは、なまやさしいことではないんだ。みんな他人やほかの者を犠牲にして生きているんだ」。
 もとより、そのような「悪」は神の厭われるところで、彼は滅びの中にいるのです。みずから死のうとするようなものなのです。
 私たちは、善悪を含め、神の目を恐れながら微妙なバランスを生きなければならないのかもしれません。絶対に正しいなどという生き方はあり得ないのだから、と伝道者は見ているのです。

 一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。(18節)







伝道者の書14、知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。(伝道者の書7章10節~12節、箴言1章7節)

2020年05月20日 | 聖書
 知恵という言葉は、あまり使われなくなりました。私達が、いま、ふつう「学び」と考えているものは、知識です。学校やカルチャーセンター、いろんな講座などで学べるのは、知識なのです。マニュアル化した教科書があって、カリキュラムを立てて講義ができ、後でテストをして採点ができるようなもの、それが知識です。一方知恵は、知識を生かす大きな物の見方、考え方、人生を歩く上での直感を伴なうような選択力ともいうべきものではないでしょうか。
 同じソロモンの著書だと言われている「箴言」には、つぎのようなことばがあります。

 主(しゅ=神)を恐れることは知識の初めである。
 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1章7節)

 ここにある、知恵と訓戒は、主から来るものであるのは推測できます。昔のイスラエルの家庭では、父親が教育を担っていました。子に神の律法を暗記させ、訓戒し、生きる上で、それをどのようの行うかを教えたのです。父親は神の代理として子を教育するのですから、父を恐れて聞き従うことは、神に聞き従うことになります。
 ぎゃくに、どれほど知識があっても、すべてをお造りになった神を恐れないのは、愚か者だと言うのです。

 確かに、学位を取ることも、エリートを作る良い大学に行ける知識を学ぶことも大切です。けれども、知識は、(神の目からご覧になって)「正しい」使われ方をして、初めて意味があるのです。

 難しい科学知識があってサリンを製造し、それを地下鉄に撒いて大量殺人を行なったオ●ム信者の人たちには、知恵がなかったわけです。宗教集団と名乗っていましたが、彼らは神に聞き従ったのではなく、教祖(人間)に従っただけだったのです。

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 「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。(伝道者の書7章10節)

 たとえば、歴史知識を深めることは、なかなか面白いのです。海外旅行の見聞でも同じです。英語を習って日本語との違いを見るとか、たまには、旅行に出て、日常と非日常を較べてみるとかも楽しいことです。

 それでも、較べた結果、「昔の方が今より良かった」というのは、知恵のないことだというのです。昔の時間がもはや過ぎたものだから、そんな比較は意味がない、後ろ向きであるというのは真実です。
 それ以上に、たぶん、決して両方を完全に「味わって」いるのでも、「知って」いるのでもないからでしょう。私たちは、限りのある時間、この地上に置かれた小さな命に過ぎません。一生を使っても、体験できる出来事は、全世界のほんの一部にすぎません。
 ネットが普及し、どんな知識も即座に手に入るような気がする時代ですが、それを「味わったり」「運用できる」ためには、知恵がいるのです。

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 資産を伴う知恵は良い。
 日を見る人に益となる。(11節)
 知恵の陰にいるのは、
 金銭の陰にいるようだ。
 知識の益は、
 知恵がその持ち主を生かすことにある。(12節)

 同様に、本来、良い物である資産も知恵を伴なわなければ意味がないと伝道者は言います。確かに、お金は、増やすにも、貯めるにも、使うにも、知恵が要ります。お金があってもなくても、知恵がなければお金の奴隷になります。何も持たない人でも、ほんとうの知恵があれば「金銭の陰にいるようなものだ」という言葉は傾聴に値します。
 知恵はじつに、「その持ち主を生かす」と言うのです。











伝道者の書13、良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節~9節)

2020年05月19日 | 聖書
 

  良い名声は良い香油にまさり、
  死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節)
  祝宴の家に行くよりは、
  喪中の家に行くほうがよい。
  そこには、すべての人の終わりがあり、
  生きている者が
  それを心に留めるようになるからだ。(2節)

 
 香油はお金を出せば買えますが、名声はお金では買えません。死体の腐臭を防ぐために振りかけられる香油は、お金があれば買えるのです。しかし、どれほど高価な香油も、彼が生前に築いた名声ほど彼を飾りません。まさに、「棺を蓋いて事定まる」のです。
 死は、人生とは何かを考えさせられる絶好の機会です。だからこそ、心と足が重くなる喪中の家にこそ行くべきだと言うのです。

  悲しみは笑いにまさる。
  顔の曇りによって心は良くなる。(3節)

 言葉の流れで、喪中の家つまり、悲しみの家に行くのは、笑うより勝るというのです。顔を曇らせるのは知恵を得ることなのでしょう。

  知恵ある者の心は喪中の家に向き、
  愚かな者の心は楽しみの家に向く。(4節)
  知恵ある者の叱責を聞くのは、
  愚かな者の歌を聞くのにまさる。(5節)

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  愚かな者の笑いはなべの下のいばらがはじける音に似ている。
  これもまた、むなしい。(6節)

 「鍋の下のいばらがはじける音」は、今の人には想像がむずかしいですよね。さとうが結婚した相手はかなりのへき地に実家がありました。ガスの設備があっても、枯れ枝を燃やして燃料の足しにしていました。
 炉の中に投げ込まれた枯れ枝や枯草は、簡単に火が付き、ぱちぱちと景気の良い音を立てて燃えますが、すぐに燃え尽きてしまいます。大きな薪をついでやらなければ、湯を温めることさえできないでしょう。
 愚か者の笑いも同じです。ガハガハと大声で笑うけれど、少しも人の心を暖めません。
 テレビのバラエティ番組なんかで、度を超えて笑っている芸人を見て、ふと、むなしくなる時がありますね。

  しいたげは知恵ある者を愚かにし、
  まいないは心を滅ぼす。(7節)

 どんな知恵あるものも、しいたげを行うときは、愚かになっていることなのです。同時に、わいろをもらうことは、やはり知恵ある者の価値を滅ぼすと、伝道者は言います。
 そうしてまた、繰り返されるのです。終わりは初めにまさると。
 ことわざも言います。「終わり良ければすべてよし」

  事の終わりは、その初めにまさり、
  忍耐は、うぬぼれにまさる。(8節)

 時にはうぬぼれなければやっていけないのが人間でしょうが、自我を殺して忍耐をするべきなのでしょうか。苛立つ時にも、忍耐をするべきでしょうか。

  軽々しく心をいらだててはならない。
  いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。(9節)

 すぐに苛立つのは愚か者だとすれば、愚か者でない人など、めったにいないようにも思えるのですが。

 頂点にいる王の立場は、じつはいら立ちを耐えることが多かったのかもしれません。





伝道者の書12、 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。

2020年05月18日 | 聖書
 

 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。(伝道者の書6章7節)

 たしかに人は「食うために労苦する」のです。実際に、世の中の問題はすべてここから起きている、と多くの人は納得していると思います。
 聖書には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイの福音書4章4節) とあります。
 荒野で40日40夜祈り断食されたイエスは空腹を覚えました。そこに悪魔が近づき、イエスに石を見せて、「あなたが神の子なら、この石をパンに変えてみなさい」と誘惑したのです。イエスは、この悪魔を退けて、「人はパンだけで生きるのではない」と言われたのです。

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 伝道者(ソロモン)は、国が全盛期の時代の王でした。もとより、彼自身は、飢えの恐れなど、全くなかったし、「口のために働く」必要もなかったでしょう。食欲はいつも満たされ、それも贅沢に満たされていたはずです。王の仕事は、時に疲れを覚えるものであるとしても、労働者のように、「これも生活のため、家族の糊口を満たすため。全く子供らときたら、食べ終わったとたん、何か食わせろと言うのだから・・」などと、思うことはなかったでしょう。

 ソロモンの一日分の食糧は、上質の小麦粉30コル、小麦粉60コル。肥えた牛十頭、放牧の牛20頭、ひつじ百匹。そのほか、牡鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥であった。(1コルは約220リットル)。(Ⅰ列王記章22節~)と記されています。一人分の食糧にしては膨大すぎますが、これは、王には「王の食卓に連なる大勢の者たち(親族縁者、賓客、政府の高官、みつぎや謁見のためにやってくる外国からの客、時には功績に応じて選ばれる庶民など」がいて、その数は1000人にも上ったのです。
 21世紀の日本にも同じような催しがあるようで、国会で問題となったりしています。
 いずれにしても、首長が庶民を招待する宴会の起原は古そうです。さらに、ソロモンの宮廷では、それが毎日であったと言うのです。
 もっとも、王の席は特別に仕立てられていて、王からは客の様子が見えても、客からは王は見えなかったようです。まして、客が馴れ馴れしく王に「密接する」ようなことはありませんでした。
 また、その膨大な食料は、それぞれの地方の「守護たちが持ち回りで納めた」(同27の節)のですから、食料調達のためにソロモンが頭を痛める必要もなかったのです。

 それでも、毎日毎日やって来て、食卓を食い荒らす人々の旺盛な食欲を見るにつけ、王は、うんざりすることが多かったのではないでしょうか。

 いつも空腹に脅かされる「人の宿命の始まり」を、聖書は記しています。 
 これは、創世記で、アダムとエバが罪を犯して楽園を追放されたことが、原因です。

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 聖書によれば、人は、もともと完全な世界「エデンの園」に置かれたのです。そこは文字通り楽園でした。食べ物は豊富で、人は欲しい時に欲しいだけ、園にある実を食べてもよかったのです。また、「いのちの木の実の」を食べて、永遠に生きることができました。
 「園の管理」という(多分に)ゆるーい仕事がありましたが、もっと大切な仕事は、神様と毎日、お話することでした。
 禁じられているのは、園の中央にある「知恵の木の実」を取って食べてはならないということだけでした。「それを食べるとき、あなたはかならず死ぬ」と、神は仰せになったのです。
 ある日、そこに、「そそのかす者――蛇の姿をした悪魔」が現れたのです。
 そして、エバを誘惑して、知恵の実を食べさせるのです。エバが夫に与えたのでアダムも食べたのです。

 創世記の楽園追放の物語は。膨大な聖書の最初の3章まで(5ページ分ほど)ですので、よろしければ、ぜひ一度お読みください。聖書は図書館にも置いてあると思います。また、キリスト教会にも来客用に備えています。もちろん、本屋さんやアマゾンでお求めになることもできます。

 食べても食べてもすぐにお腹が空いて満足できないのは、楽園から追放された私たちの宿命であるこという聖書の物語に、さとうは納得するのですが。
 確かに、すぐにお腹が空くのは、切ない宿命です。
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言いたいのは、やまやまですが・・。




伝道者の書11、私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。(伝道者の書6章1節~6節)

2020年05月16日 | 聖書
 

 私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。(伝道者の書6章1節)
 神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。(2節)

 富のもつ悪は、それを持つ人が結局「それを楽しむことが許されない」ことだと、伝道者は言います。
 富は、持ち主に、富を守り増やすよう強要するだけではありません。その結果として、まわりの人を嫉妬と怒りで包み、その富を奪おうと思わせるのです。
 外国からの侵略、盗賊の被害。王位をめぐる争いや革命、富は、常にあらゆる人から虎視眈々(こしたんたん)と狙われているのです。

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 もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。(3節)

 実際、旧約聖書の世界(紀元前の中東)では、百人の子供を持つ王は珍しくなかったのです。子供は一族の繁栄のしるしですし、とくに王は欲するだけの妻をもつことができたのですから、王子や王女もたくさん生まれるのです。
 たくさんの富と子供の数は、祝福のしるしだと考えられた時代です。
 しかし、一方で、暗殺されたり、戦場で倒れる王もいたのです。名声のある王たちの無残な最期を、ソロモンは「痛ましい」と考えたのでしょう。彼は、そのような王を,「死産の子」より悲惨だと位置づけるのです。
それくらいなら、最初から生まれてこなかった子の方が良かったというのです。

 その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。(4節)
 太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。(5節)
彼が千年の倍も生きても、・・しあわせな目に会わなければ、・・両者とも同じ所に行くのではないか。(6節)

 ありあまるほどの富があって、寿命が千年あっても、死産の子どもと同じところに行く。それなら、安らかであっただけ(生きる労苦がなかっただけ)、死産の子どもの方がよかったという考えは、ほんとうに虚無的です。読むほうも吐息ため息です。