かたばみの つぶらなひかり 足止る
すべての人は草、
その栄光は、みな野の花のようだ。
主(しゅ=聖書の神)の息吹がその上に吹くと、
草は枯れ、花はしぼむ。
まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(旧約聖書・イザヤ書40章6節7節)
イザヤ書は旧約聖書の23番目に置かれた書物です。
イザヤは、古代イスラエル王国の中でももっとも活躍した大預言者でした。
貴族の出身で、何代もの王に仕え、力ある預言者として活躍しました。
預言者とは、「神の言葉を預かる人」のことです。
古代イスラエル王国では、政治組織の中で定められた「祭司」に対して、
必要に応じて、神が預言者を召されました。
誰が預言者になるのかという基準はなく、身分の上下、年齢、男女の別なく
ある日、神さまから預言を口に授けられた者は、預言をしなければなりません。
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預言は未来のことだけでなく、王や国の進路について、戦略や戦術について、
権力者の不正について、ときに次の王の名を明らかにもしました。
いまでいう顧問、評論家、アナリスト、
時には、アジテイターのような役割を担っていました。
神から言葉を預かったら、権力者や民に都合の悪いことも言い、行うので、
預言をすることは、時に、いのちがけでした。
当然のことながら、偽(にせ)預言者もいて、ホンモノの預言者を苦しめました。
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イザヤの預言集は、イザヤ書66章として残されています。
この数は、奇しくも新旧約聖書66巻の数と一致し、
イザヤが、ただならぬ預言者であったひとつの証明となっています。
イザヤの預言の神髄は、
「救い主預言」と言われるものです。
イザヤ書全編を通じて、
やがて、来られる救い主(キリスト)が
みずから犠牲となって私たちの罪をあがない、
私たちを永遠の安息と平和のなかに入れて下さることが
語られます。
人類の「救い」は、神の悲願であり、神のお約束です。
ですから、
そのおことばは、「永遠に立つ」と宣言されているのです。
ちょっと家を空けていました。
といっても、都内にいたのです。都内旅行です。
九州から上京してきた友人と下北沢で二泊、昨夜は我が家で一泊。
(私にとっては自宅に戻っただけ!!!)
● ● ◎ ●
友人をリムジンバスの乗り場まで見送ってそのあと、久しぶりに野菜スタンドを覗きました。
小さな峠道のかかりにあるそのお宅に近づくと、
うぐいすが鳴いています。
うぐいすの鳴き声のとおり、口笛で真似をしながら、
うぐいすと鳴き声を競うなんて、
なんて優雅なのと思いつつ、野菜スタンドを品定め。
たまたま品定めに来られた見知らぬ女性に照れて、
「うぐいすを遊んであげているのですよ」
「???!!!」
「うぐいすが遊んでくれているのかもしれませんけどね」
「!!!???」
ともあれ、今日の買い物は三点。
起きたばかりのような土付きの顔、
いいでしょう!!
感謝!!
5月の初め、垣根や植え込みが、つつじで彩られるのを見るのは、壮観です。
淡いピンクの桜が散った後、急に眼にもあざやかな赤やローズ色や、真っ白な花が続く道。
ああ、初夏がきた!と、叫びたくなります。
白は、基本中の基本でしょうか。花嫁の色?これから染まる色!
私はこの真紅が好きです。カルメンの衣装!
定番のつつじ色。安心で暖かい五月の表情です。