私は人生の晩年になって救われました。2005年5月15日に洗礼を受けたのです。今日で新生して16年になります。これは素晴らしい体験でした。自分の中ではその前年の12月15日に、神様に召されたという明快な自覚がありましたが、洗礼はそれから5か月後の、ペンテコステの日になったのです。
5月にしては、寒い日でした。プレハブの開拓教会には、洗礼のためにどこからか持ち込まれた粗末なバスタブが、青いビニールシートが敷かれた床に置かれていました。そこに水が張られ、世話をしてくださる女性がやかんで沸かした湯を何度か埋めていました。待ちに待った洗礼、でも、プールでさえあまり好きでない私は、なんだか手術台にでも上がる患者のように固くなっていました。じつは同じ日に3人の女性が受洗するのですが、一番小柄な私が最初と決まっていました。
自分で用意した白い服に着替え、30人くらいの人たちの前で洗礼の証を読み上げ、牧師の導きのとおり誓約を行いました。儀式をしている間に次第に気持ちが高揚してきました。新しく生まれるというのは実に不思議な気分でした。
これはもう、後にも先にもない経験なのだと思い、水に足を入れました。予想よりはるかに冷たくてびっくりしましたが、からだを沈めました。牧師の手が一瞬ですが、頭を押さえて水に顔を入れました。その時、いっせいに拍手が起こりました。
頭からびしょぬれになって立ち上がった時、しかし、もはや寒さや冷たさはなくてまばたきする目の先にきらめく水滴(?)が、花のようにゆれています。「生まれ変わったんだ」という喜びが全身ではじけていました。
★★
考えてみたら、私はいわゆるこの世に生を受けた日を自分では覚えていないわけです。へその緒があったり、赤ん坊の写真があったりして、自分にも誕生日があったのを知るのですが、この世に生まれたらしいことがわかるのは、それからずいぶん後のことです。
それに対して、二度目の誕生ははっきりと意識できるのです。それは、単に儀式ではなかったと思います。「洗礼を受けたのだからクリスチャンとしての自覚を持つのだ」と言ったものでもないのです。自分は、昨日の自分なのだけれど、何かが変わった!と気が付くようなものでした。当時は、かなり難しい仕事をしていたのですが、仕事は変わっていないのに困難さが薄らいでいました。
教会生活は、「恐る恐る」であると同時に、「ワクワク」するもの、「チャレンジング」なものでした。つまずきそうなときもありました。
じつは、救われてからが新生の本番だったのだと、最近になって噛みしめています。
たとえば、つぎのような聖書個所が、じつに納得できるのです。パウロのことばです。
また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだますように見えても、真実であり、(Ⅱコリント人への手紙6章8節)
人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、(9節)
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものをもっています。(10節)
明日、この追記を載せさせていただきます。
よろしくお願いいたします。