なぜキリストを受け入れようと思ったのかは、「神様に促されたから」というしかありません。もっと正確には、「神様がいらっしゃる」ことに気が付いたというべきでしょう。大きな壁にぶつかって、何とか突破しようと四苦八苦しているときに、その壁が突然崩壊したような体験をしました。神が、不思議な力で壁を壊してくださったと信じることが出来たのです。
この瞬間、私は回心したのです。救われたと実感したのです。
このような出来事は神様が働かれたから起きたことです。ですから、救われるのを、召されるともいいます。
そして、神様を受け入れようと思ったとたん、自分が生まれ変わったのを「知った」のです。再生というのはそういう意味です。英語でも、rebornと言うようです。
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洗礼は、自分が生まれ変わったことの社会的表明です。もともとパレスチナでは水による「悔い改めの洗礼」がありました。バプテスマのヨハネが、キリストが世に来られることを預言しながらヨルダン川でイスラエル人たちに授けていたのは、この洗礼です。悔い改めは、罪を犯してしまった人間が神の前に罪を悔い改める意味がありました。神様との関係回復に、罪の悔い改めは不可欠なものです。
キリスト・イエスが来られた後の洗礼には、「罪の悔い改めをした人間」に聖霊が働かれて、じっさいの「救い」を得させてくださると、説明されています。
そのようなプロセスは、あらかじめいくら学んでもわかるものではないような気がします。救われてから、何年も経つうちに分ってくるのです。というのも、持続的に聖霊が働いてくださるのを経験するからです。
それもまた言葉だけでは説明できるものではないと思います。ある牧師はそれを食べたことのない南国のおいしい果物にたとえて説明しています。ある外国人宣教師は日本の温泉にたとえていました。
救われたという実感は、体験してみないと分からないというのは本当です。その喜びは年ごとに成長しているので、私も16年目の受洗記念日を嬉しく思い起こしたのです。 感謝!!