ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

人の心は

2016年02月24日 | 聖書



        人の心は病苦をも忍ぶ。
        しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節)


     きょうの聖書通読エッセイの箇所にあった言葉です。
     ほんとうに、深くうなずいてしまいます。
   

     たくさんの方々が、病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であっても、なんとか、
     治療して元気になりたいと願うのです。
     生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の強い抗がん剤やつらいリハビリにも、
     立ち向かえます。
     しかし、心がひしがれた瞬間、人間は耐えきれなくて、折れてしまうのではないでしょうか。

           ★★

     だからといって、「打ちひしがれた人」に「元気を出しなさい」と励ますのはどうでしょうか。
     「心を前向きにシフトして」「いつもポジティヴに」
     なんて、言ってもらって、どうなるわけでもないでしょう。

     箴言がこの言葉を載せているのは、
     心のひしがれた人を励ますためでも、
     そこから脱出する方法を、てっとり早く教えるためではなく、シンプルに、

     だれでも、
        人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか
     となり得ると、宣告しているだけだと思います。

     人間は、ついはっきりした答えを欲しいと思うのですが、
     聖書は、容赦なく、問題を問題として投げかけています。

      たとえば、次のことばはどうでしょう。


           貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。
           彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおされのこと。(箴言19章7節)
 

           ★★


     赤裸な人間の心を、ポンと提示されて、
     「これはひどい! 少なくとも私は違う!」とは、
     だれも言い切れませんね。
     自分にも思い当たる弱さや闇、これが、罪(SIN)と言われるものだと納得です。

     ちなみに、箴言の前置きは次のようになっています。

 
       イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

        これは、知恵と訓戒とを学び、
        悟りのことばを理解するためであり、
        正義と公義と公正と、
        思慮ある訓戒を体得するためであり、
        わきまえのない者に分別を与え、
        若い者に知識と思慮を得させるためである。
        知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、
        悟りのある者は指導を得る。      (箴言1章1節~5節)

     




         
     






最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。