ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

小さな場面

2016年06月30日 | 思い出

     小さな記憶を、ふと思い出したのです。
     家族や友人や自分の履歴とも関係がなくて、
     自分の人生にどんな影響も与えなかった記憶――。

     銀座だった
     なぜ、銀座に行ったのかも覚えていない。
     東京に来たばかりの頃だったから20代です。

     昼間で、午後の早い時間だった
     地下鉄への階段を下りていた。
     なぜか人けがなかった。
     トントントンと下りて行って、踊り場で曲がってさらに下りる。

     なんでもない場所で、なんでもない気分であった。
     踊り場に、年配の男性がいるのに気がついた。
     別に驚きはしない。公道なのだから
     誰かとすれ違うこともある。

     ところが、その人は私の行く手に立ちはだかったのです。
     震える声で、言うのです。
     「お願いです。お願いがあります」
     きちんとスーツを着た初老の男性は――若かった私には、
     50がらみの「おじさん」に見えた。
     「一万円あげますから、ぼくの手を握っていてください」
     まるで、手錠でもかけてくれというように、二つのこぶしをそろえて突き出している。
     
     私は、一瞬棒立ちになっていた。意味が呑み込めなかった。
     心のどこかで、警報が鳴った。     
     次の瞬間、男性の横をすり抜けて地下へ降りていた。
     
     背後から追って来る気配はなかった。
     地下道には、多くの人が歩いていた。
     胸のドキドキがいつまでも収まらなかった。


     別になんでもないことだったのです。
     一分と損したわけではない。
     それなのに、
     暗い階段の踊り場の、小さな一瞬が焼き付いている。
     あの頃は、あんがい、
     こわがりだったかも。

     




     


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