小さな記憶を、ふと思い出したのです。
家族や友人や自分の履歴とも関係がなくて、
自分の人生にどんな影響も与えなかった記憶――。
銀座だった。
なぜ、銀座に行ったのかも覚えていない。
東京に来たばかりの頃だったから20代です。
昼間で、午後の早い時間だった。
地下鉄への階段を下りていた。
なぜか人けがなかった。
トントントンと下りて行って、踊り場で曲がってさらに下りる。
なんでもない場所で、なんでもない気分であった。
踊り場に、年配の男性がいるのに気がついた。
別に驚きはしない。公道なのだから
誰かとすれ違うこともある。
ところが、その人は私の行く手に立ちはだかったのです。
震える声で、言うのです。
「お願いです。お願いがあります」
きちんとスーツを着た初老の男性は――若かった私には、
50がらみの「おじさん」に見えた。
「一万円あげますから、ぼくの手を握っていてください」
まるで、手錠でもかけてくれというように、二つのこぶしをそろえて突き出している。
私は、一瞬棒立ちになっていた。意味が呑み込めなかった。
心のどこかで、警報が鳴った。
次の瞬間、男性の横をすり抜けて地下へ降りていた。
背後から追って来る気配はなかった。
地下道には、多くの人が歩いていた。
胸のドキドキがいつまでも収まらなかった。
別になんでもないことだったのです。
一分と損したわけではない。
それなのに、
暗い階段の踊り場の、小さな一瞬が焼き付いている。
あの頃は、あんがい、
こわがりだったかも。