ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

自殺サイト2

2017年11月02日 | 


     ネットで自殺願望者と知り合い、彼らを釣り上げるようにして自分に引きつけ、
     あらかじめ計画した場所で、計画したように、殺害したらしいというニュースに
     ショックを受けた人は多いと思います。

     じっさい、この地上には、どんな出来事が起きても不思議ではないのは、
     歴史をちょっと調べただけでも、知ることができますが、

     一見平和なこの日本で、わずかな騒音にも、ていねいなサ―ビスにも、
     目に見えないウイルスの可能性にも、
     細心の注意を払って、しずしずと生きている市民が多いこの日本で、
     「こんなことが、あるの!!」と、さとうも驚いているのです。


     ネットは、私にとって全く新しいツールです。
     クリック一つで情報やメールが何千人にでも拡散できるなんて、
     アナログ世代には、まだ、信じられないのですが、私も一応SNSも使っていますし、
     このようにブログも利用しています。しかし、ネットで世界に知人ができるということは、
     「愛ある関係が増えることではない」のは、自明です。
     ですから、
     どれほど、ネット上での知り合いが増えても、自分の書き込みに「いいね」が増えても、
     本当の慰めや癒しにはなりません。

     「死にたいのです」と投稿する人たちの寂しさの多くはほんとうなのでしょう。
     そして、「僕もです」「私もです」と共感の投稿を読んで、それ自体は、慰められるのかもしれない。
     けれど、それが永続性のあるものかどうか、本人が一番よくわかっているのでしょう。

     本当に風を避けたい時は、ビニールシートだって、ないよりあったほうが楽になります。
     のどが渇いて死にそうなときは、ミネラルウォーターにこだわってはいられないでしょう。
     ネットで寂しさを訴えて、癒しを求めて、仮に誠実な人から返信をもらっても、
     じっさいに知り合って、付き合って、結婚して、家族もできて・・・
     それでも、「孤独」だと気がつく日が来るかもしれません。


       ★ ★★


     ネットでの知り合いは、楽な関係です。自己紹介も名前も、嘘でもかまわないのです。
     性別や年齢のような事実さえ、だませるかもしれません。
     住所や出身地や、勤め先や、学歴や、家族関係、財産も明かす必要がありません。
     自分をうまくカモフラージュできるように、相手の「事実」も、カモフラージュされているわけです。

     相手が、幽霊か、獣か、狼か、あるいはただの幻である可能性は、あるのです。

     「行きずりの知り合い」と言うことばは、昔からありました。
     酒場や街路で、出会った相手と、いっしょにお酒を飲むとか、ときには、一夜を共にする・・・、
     そのような危うい出会いは、人の暗い部分をふるい立たせるロマンがあるのです。

     しかし、それが夢であり幻想であることを、ふつうはみんな「知っている」のです。

       ★★


     ネットでの出会いが、三文小説の「行きずりの出会い」と
     どれほども変わらない、かもしれないのです。
     少なくとも吟味してみる価値は、あるのではないでしょうか。

     犯罪をそそのかす悪魔は、どこにでもいます。
     年配者には、手を替え品を変えて、「振り込め詐欺」が生まれているように、
     ある意味、悪に免疫のない若いナイーブなたましいから、だまし取る者がいると思います。

     わずかなお金ならともかく、いのちまで奪われてはおしまいです。
     いのちを下さった神様、お父さんお母さん、育ててくれた社会や学校や、先生や友人の悲しみを、
     想像してみてください。     、

     
     


      私の小説「世界はだれのもの」をふくむ、短編集1を
      明日(金曜日)の午後5時から来週月曜日の午後4時まで、
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      ネットで知り合った「怪しげな自殺請負人」から、間一髪で逃れることができた女性の話しです。
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自殺サイト

2017年10月30日 | 



    自殺サイトにアクセスしていた女性が、
    ネットで知り合った男に連れ出され、殺されたらしいというニュース。
    今でも、自殺サイトなんかがあるのかと、ちょっと驚いている。

        

    2010年の夏、
    私は開設したばかりのSeeSaaブログに、何篇かの小説を出した。
    その短篇の一つが、自殺サイトに集団自殺を志願した女性の物語だった。(世界はだれのもの)
    サイトで知り合ったリーダーと約束を交わし、志願者が集まるために、ある夜、ある駅まで行く。
    しかし、そこには、来るはずの他の志願者二人は来ず、リーダーと名乗る男と二人だけになったとき、
    彼女は、ふと、その夜、
    高校時代の友人の部屋での小さなクリスマスイブ・パーティに、招かれていたのを思い出した。
    友人の顔が浮かんできて、ちょっと葛藤しているとき、当の友人が、電話をかけてくる。
    車でピックアップするので、最寄り駅に来るようにとの誘いだった。
    瞬間、彼女は、我に帰り、改札を駆け抜け、プラットホームへ上がる。
    飛び乗った電車は、終電だった。彼女は、一瞬に、死の淵から生還したのだった。

 
    ネタバレしてしまったように見えるでしょうが、私が、これで書きたかったのは、もちろん、
    自殺願望に至るひとりの若い女性の、底知れない孤独な内面でした。けれど、
    同時に、サイトで「見知らぬ自殺願望者と出会う」あやうさに、
    何か言わないではおれなかったのだと、思います。
    2000年ごろから、集団自殺のニュースが、時おり報じられていたころでした。


        ★ ★ ★★★


    道を歩いていて、たまたま顔が会った人から、「いっしょに死んでくれませんか」と言われて、
    「いいわ」と応じる人は、まず、いないのではないでしょうか。
    ぎゃくもあるでしょうか。道でたまたま目があったからと、「私の命を取ってください」
    なんて言えっこないでしょう。そんなことをしたら、
    今はやりのことばどおり、「ドン引き」されることでしょう。
    コミックや純文学なら、あるいは、「いいわ」と答えるところから、話が始まるかもしれない。
    でも、それで、そのまま死んでしまったら、話は終わってしまう。
    むしろ、素敵なストーリィが展開されていく。それゆえ、
    読者は、そこに夢と可能性を見出し、
    想像力に引かれる架空の話の中で、「生きよう」と思う。思わせるような希望をみるために、
    コミックや映画や小説があるのでしょう!と、思うのです。

      

    ネットの中には、確かに、たくさんの夢や希望があるように見えます。
    仕事を見つける人もいるし、恋人を見つける人も、未来の配偶者を見つける人もいる。
    資格を取ることもできるし、知らない世界の情報を知ることもできるでしょう。

    欲しい物がいろいろと売られていて、
    自分を売ったり、自分の持ち物を売ったりもできる。

    わざわざお店に行って服を買ったり、毎日スーパーに食料を買いに行くこともない。
    地球の裏側の町の様子も、あらかじめ調べてから旅行に行ける、

    手術を受ける前には担当医の説明と、ほかの医者の説明を比べることもできる。
    たしかに、無料で、心の問題の相談に乗ってくれるサイトもある。
    でも、でも、

    道を歩いていて「たまたま出会った知らない人」に、「渡してはいけないもの」を、
    まして会ったこともない人に、「一番大切なもの――命」を
    預けるのはやめましょう。

    人は、何もしなくても、やがて、死んでいく。
    確実に、死んでいくのですから。    




     ◎さとうまさこの小説のサイトは、今は閉じています。小説は2016年12月、電子書籍になり、
      現在、アマゾンから販売されています。
      よろしければアマゾンの販売画面で、「さとうまさこ短編小説集」と入力してくださって、
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「日の名残り」カズオ・イシグロ

2017年10月23日 | 



      アマゾンで電子書籍になっていて、クリック一つで買える手軽さに食指が動いた。
      イギリス在住の日本人(国籍は知らないですが)が、英語で書いた小説なんて
      私には、単純に「すごい!」と思う。

      30年ほど前、イギリス行の飛行機で隣り合わせた日本人の女の子(17.8歳?)が
      分厚いペーパーバックを読んでいて、
      「英語の方が、日本語より少し楽なんです」とこちらを驚かせた。
      たぶん、親の仕事の関係で、幼い時からイギリスに住んでいたのだと思う。
      それにしても・・・です。

      読むより書くのは、より大変だし、小説のような「芸術性の高い」文は、
      日本語だって「スキル」がいる。

       ★★★★★


      イギリス人男性の一人称で語られる話には、とくに、読者を引っ張っていこうとするような
      作為的なストーリーはない。
      語り手であり、主人公である男は、
      イギリス名門貴族の屋敷で、父親の代から執事として仕えていたという「稀有な職業人」である。
      いま、人気のことばを使えば、「プロフェッショナル」です。
      プロフェッショナルと言われるほどの人は、彼(彼女)でなければ知り得ない「世界」をもっている。
      それは、たんなる知識や情報とも異なる、生きざまとしか言いようのない世界でしょう。

      一流の体操選手の映像を、どれほどたくさんみても、その演技が作られる過程をテキストで学んでも、
      けっして、彼の真似ができないように、それに生涯をささげてきた画家や役者から、どれほど
      絵を習ったり、演技をつけてもらっても、同じものは作れないように、
      「時間」に、いのちを練り込んで得た成果が、「プロフェッショナル」かなと思うのです。


      名門のお屋敷で、国でも有力な大貴族に仕え、おおぜいの召使いの上に立って
      完全な執事を目指してきたスチーブンス。
      彼が、主人から休暇をもらって、
      むかし、同じ屋敷で女中頭だった女性に会いに行くというだけのストーリーです。

      彼女への淡い恋心や、かつて彼が仕えたダーリントン卿や
      客として訪問してきた貴族や政治家の思い出が織り込まれていますが、それらは、
      ある意味、第二次大戦をはさんだ時代の、「特ダネ」だと言えますが、

      この小説の世界は、歴史を再現することでもなければ、
      この執事が生きた特殊な世界を語ることでもないようです。
      ゆったりとたゆたう大海原の波立ちの奥にある、熟成され、きらめく、ふしぎな空間とでも
      呼ぶような、超一流の執事の「品格」が描かれているのです。

      このような執事は、この時代の、この家からしか生まれなかったでしょうという意味で、
      彼は、歴史の貴重なあかしとして、切り取られています。

      ノーベル賞に選ばれたのは、やはり、それが非常に稀有な香りをはなっていたからかもしれないと、
      思わず、うなってしまいました。

      
     
 
      

      、

最上の業

2017年09月25日 | 





         最上の業

    この世の最上の業は何?
    楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
    しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
    従順に平静に、おのれの十字架を担う。
    若者が元気一杯で歩むのを見ても、ねたまず、
    人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
    弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
    老いの重荷は、神の賜物。古びた心にこれで最後の磨きをかける。


    誠の故郷に行くために己をこの世につなぐ鎖を
    少しずつ外してゆくのはまことにえらい仕事。
    こうして、何もできなくなればそれを謙虚に承諾するのだ。
    神は最後に、一番よい仕事を残して下さる。それは祈りだ。
    手は何も出来ないけれども最後まで合掌できる
    愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために。
    すべてを成し終えたら臨終の床に、神の声を聞くだろう
    『来たれ我が友よ。我汝を見捨てじ。』と。
              「人生の秋」(ヘルマン・ホルベルス著)より







キリスト教テキスト「神の国」、著者のまえがき

2017年07月17日 | 

                                       453円

  7月1日出版の電子書籍
       「神の国」――キリストの教えの中心をやさしく語る



     著者佐々木正明師のまえがきをご紹介します。

    ★ ★ ★ ★ ★

 はじめに

 私は16歳でクリスチャンになりました。それまで無宗教と言える環境で育った私には、人生観と進路計画をまったく変えてしまうほどの出来事でした。それで大学への進学は止め、聖書学校に入り、21歳で東京の下町で牧師の働きを始めました。ベトナム戦争真っ最中の沖縄に渡って、北部の過疎化の村で教会を始めたのは、23歳の時でした。東南アジアで宣教師として活動をするのを夢に見、猛毒のハブをひき殺しながら、真っ暗の砂利道を走り続けたのです。28歳でフィリピンに移り、マニラの神学校で学び、32歳でルソン島北部の山岳奥地に入り、念願の宣教師の活動をはじめました。

 主な活動地は、電気も水道も学校も商店も病院も薬もないところでした。車で行ける所はどんなにひどい道でもまだ良いほうで、ほとんどは数時間、場合によっては十時間以上も、けもの道のような険しく急な坂道を歩き続けなければなりませんでした。現代社会から取り残されたように、物々交換の赤貧に生きている人々の中で、聖書の教えを語り、教会を開始する働きを続けました。

 この未開の文化と極限状態の中で暮らす人々に、どのように語れば、聖書の教えを理解してもらえるか懸命に考えながらも、多くの人たちの中に聖書の教えが定着し、教会が始められるのを見て、毎日が喜びと感動の日々でした。ところが突然、帰国を余儀なくされてしまったのは、海外生活が23年に及んだ時のことでした。次男の病気のためでした。

 海外で働く宣教師として、その地固有の(土着の)文化と言うものを重く受け止めて、聖書の教えを語り続けて来た私は、日本で教会を始めることになったときも、考えました。「日本の文化、日本人の感覚、考え方、感じ方を大切にして語ろう。西欧で発展させられた「キリスト教」ではなく、聖書そのものを、日本人に分かってもらえるように語ろう。」
 まったく知らない九州の最西端の市に遣わされた私は、まず、保守的な感覚の強さに驚かされましたが、使わなかった日本語の錆をこすり落とし、習得し損ねていた日本の文化を、自分のものにしようと意識して暮らし始めました。もっとも役に立ったのは、学者や識者と言われる人たちの高説ではなく、くだらないと言われるテレビ番組や大衆小説でした。その一方で、「キリスト教」ではなく「キリストの教え」をもういちど学びなおそうと、改めて聖書を前に座りなおしました。

 この「神の国」はそのような背景から生まれたものです。これは「キリストの教えの中心」あるいは「土台」です。日本人に必要なのは「キリスト教という宗教」の教えではなく、「キリストの教え」そのものだというのが、私の信念となったからです。とは言え、この文章は帰国して間もなく書いたものに、少しばかり手を加えただけですので、日本の読者は、海外での体験談などに違和感を持たれるのではと、案じるものです。日本での働きの体験が、まだまだ少なかった時の文章であると、寛容なお許しを願うものです。ただ、このような視点と感覚で書かれた文章は、今でもあまり存在しないということから、読者には、必ず大きな収穫になると確信するものです。


 なお、この学びをより確実なものとするために、ぜひ、かたわらに聖書を置き、文中の聖書引用個所をご自分で開いて読み、確認しながら学んでくださることをお勧めいたします。
っぶ
 神様の祝福が豊かにありますように。
                

     2017年 7月 1日
               庭の枇杷の実が色づくころ長崎県の片隅で        

                                  佐々木正明






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