ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

イッツ 賞タイム! ジュリーと”賞”あれこれ。

2020年03月21日 21時02分03秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
若じゅりさんの物語、今回は「賞」のお話です。

歌謡曲、歌番組全盛期だった昭和40年代から平成初期にかけて
最古参で今も健在(かなあ・・・)の「日本レコード大賞」に続けて
あまたの賞番組が乱立した時期がありました。
もう今はほとんど衰退したようで、レコ大だけはなんとか踏ん張っているようですが
その辺のお話は置いといて・・・・

ジュリーはデビュー後数年は賞とは縁のない立ち位置にいました。
というのも、日本の音楽界は1960年代に始まったエレキブームを
当時は「不良の音楽」とレッテルを貼り認めてこなかった経緯があったからです。
エレキが過激な物で青少年に悪影響を与えると蔑んだのですな。今では冗談みたいな話ですが。
多くのグループサウンズのバンドが皆悪者扱いされていたわけで。
長髪=不良と言うわけのわからん公式もできていて。
エレキバンドでも短髪でスーツを着ていたブルーコメッツだけは例外扱いでした。
短髪でスーツは紳士であって不良ではないということだったようで
ブルーコメッツだけは賞番組にもNHKにも出られたのですが
・・・ヘンな時代でしたね、長髪エレキはNHKに出られずどんなに売れても賞をもらえない。

御多分にもれずジュリーのザ・タイガースもあれだけ絶大な支持を得て大ヒット曲を世に送り出し
一大ブームのトップを走り続けていたというのにNHKとレコ大にはシカトされていました。

でも、エレキバンドの文化は生き残り、今じゃ当たり前のスタイルになりましたが
先駆者であるグループサウンズの時代はあっという間に過ぎ去って
僅か3~4年、長くて6~7年程度でほぼほぼすべてのバンドが解散。
ザ・タイガースも1966年11月から1971年1月までの僅か4年そこそこですい星のごとく消えて行ったわけで。
その間ミリオンセラーも生んだものの、結局NHKと賞レースには縁がありませんでした。

それが、ブームが去った頃漸くにして長髪=不良のレッテルは剥がれ
ソロになったジュリーにもフッツーに今更のようにNHKからオファーがあり賞レースにも絡んで・・・。

その最初がソロシングル2曲目(正確には3曲目ですがタイガース時代の1曲はノーカンということで)の
「許されない愛」のヒットにありました。1972年のことです。

思いがけず?レコード大賞の歌唱賞受賞者5人の一人に選ばれ、紅白歌合戦出場も果たした。
ジュリー曰く「寝耳に水、寝た子を起こされたよう」。
だけど認められたことは素直に嬉しいと思ったそうですし
だからこれからも賞をもらえるように頑張ろうと思えたそうです。
よくやった、頑張ったと世間が評価してくれることは、賞を取ることだと考えたのでした。
目に見える形での評価はレコードの売り上げ以外ではそれでしか測れない、と当時は考えていたようです。
・・・今は知らんけど。

その翌年、1973年にはご存知、大ヒット曲、代表曲のひとつ「危険なふたり」で
レコード大賞の大衆賞、そしてその年第4回であった新設の賞番組「日本歌謡大賞」で念願の大賞を受賞。

大賞とった明けの月刊明星にどアップのグラビアと共に
「沢田研二、最良の日」のキャッチが載っていたのを覚えていますよ。
確か有線放送大賞もとったのではなかったかいな??

それ以来は両大賞のほぼ常連になりました。
レコ大の大賞以外の各賞の名目は若干変化があり、
一時は大賞のノミネートというアカデミー賞もどきの形式もありましたが
おおむね歌唱賞をほぼ例年連続受賞、
歌謡大賞では放送音楽賞をゲットし続け・・・。

とはいえ、黒歴史みたいな時期も一時はありまして
1974年は「追憶」でそれぞれの賞を取りましたが

1975年は折角のビッグヒットであった「時の過ぎゆくままに」がレコ大から落ち、
歌謡大賞でかろうじてひっかかった・・・のは、ちょっと事件を起こしてしまったからでしょう。

オフレコみたいな話ですが、その時の大賞受賞者は布施明さんで「シクラメンのかほり」。
当時布施さんは同じ渡辺プロダクション(今のワタナベエンターテインメント)に所属。
裏ではプロダクション側からジュリーに、今年は諦めろ、まだ君には将来の可能性がある、
この次はきっと取らせてやるから今回は我慢しなさいと因果を含められたとかなんとか・・・
ほんまかどうかはわかりませんがそんな話を随分後で小耳にはさみましたよ・・・?
1976年、なんだかんだで謹慎(自分から謹慎するとナベプロに申し出たらしい)して
賞レースからも一切の辞退を申し出たためこの年は受賞なし
そして自分からの立ち直り?というべきか、巻き返し、出直しで
1977年、見事に己に雪辱を晴らしたジュリー史上最大のヒット曲「勝手にしやがれ」で
その頃乱立していたあらゆる大賞を・・・いっこ除いて総ナメ、ほぼ独占受賞!

・・・除いたいっこというのはFNS歌謡音楽祭のグランプリです。ホンマ、これだけです、逃したの。
その後長いこと、ホンマに長いこと恨みつらみをゆうてはりましたからねww
あの時は雨が降ってたとかそれがジンクスに思えるとかトラウマになってる的なこととか・・・おいおい。
この時は歌謡大賞も「史上初(もっとも歌謡大賞はその時でまだ8回目でしたが)」の2個目獲得!
司会の高島忠夫さんが「初めてだ、初の2回目ですよ、ジュリー」とかなんとかのたもうで
ジュリーも「うちにトロフィーあります、これで2個になりました」とかテンパった声で応えてて・・・そらテンパるわな。

1978年は今度は「初のレコ大2連覇」と宣言してすごく精力的に仕事をこなして行きました。
ずっと連覇、連覇と言い続けていたのですが残念ながらトライしていたのは「LOVE (抱きしめたい)」

各賞をいっぱいとることはとったけど大賞は逃し、レコ大も残念ながら取れず。
皮肉なのか何なのか、前年いっこだけとれなかったFNSのグランプリは獲得したけれど
それこそ雪辱を果たしたというよりはイヤミのようでもあり・・・イヤイヤイヤ、とれて良かったと言うべき??
同曲はレコ大で最優秀歌唱賞を取りましたが、その時のジュリーの口惜しそうな顔と言ったら。
なんせ、最優秀歌唱賞をとったらそのあとの大賞受賞はまずないからね。
司会の黒柳徹子さんが「去年と比べて(トロフィーの)重さはどうですか?」などと
意味不明の質問をしたり・・・フォローのつもりでおっしゃったのでしょうが
「大賞は曲に贈られるけど最優秀歌唱賞は歌手に贈られる」と慰め?みたいな話があったり・・・
周囲は明らかに不機嫌を隠さないジュリーを取りなすのにてんやわんや。
大賞より価値がある、などという声もあって、それに対してジュリーは年明けの公演の際に
「重さはどうですかて、軽いに決まっとるやろ、何を聞いてるんですかね?」とか
「大賞よりスゴイ? だったら大賞の後で発表せいや!」とかぼやきを連発・・・。
まあ・・・それだけ入れ込んでたと言うか、ホンマに賞にはこだわり続けていたことでありました。

長くなったので一旦切ります。続きはまた今度・・・・。

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