犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

「堤岩里教会虐殺事件」の真相~「省略」による「誇張」

2007-03-01 06:59:57 | 近現代史
 教科書記述に出てくる、
「華城堤岩里では全住民を教会に集合させたあと、監禁し、火を放ち、虐殺した」
という部分は、有名な「堤岩里教会虐殺事件」のことと思われます。

 三一運動弾圧の、ひいては日帝時代全体の残虐性を象徴する事件として、しばしば引き合いに出されます。事件後、朝鮮独立運動を支援していたキリスト教会の宣教師などが、この事件について海外メディアに告発したことで、国際的にも知られるようになりました。

 教科書の記述だけを見ると、
「ある村の老若男女すべて(数百人?)を教会に集めて閉じ込め、生きながら焼き殺した」
かのような印象を与えます。

 実際はどんな事件だったのか。

 まずは、日本側の資料を見てみましょう。


 日本の憲兵隊司令官兼総督府警務総長の児玉惣次郎による報告では、

「有田中尉(歩兵第79連隊付き)は、同地方騒擾の根源は堤岩里における天道教ならびにキリスト教徒であることを聞き、これを検挙、威圧する目的で部下11人を率い、4月15日午後3時半、発安を出発、巡査および巡査補と同行し、途中暴民の逃亡に備えるため巡査に兵二名をつけて、小隊主力の反対方面で行動させ、堤岩里に到着すると、巡査補に天道教徒およびキリスト教徒20余人をキリスト教会堂に集合させ、先の騒擾および将来の覚悟に関し、二、三の質問を試みていたところ、一人が逃亡しようとしたため、これを防止したところ、他の一人とともに打ち掛かってきたため、直ちにこれを斬り捨てた。この状況を見ると、鮮人すべてが暴行の態度に出、その一部は木片または椅子などをもって反抗したので、直ちに出て、兵卒に射撃を命じ、ほとんどすべてを射殺するに至った。この混乱の中、西側隣家より出火し、暴風のため直ちに教会堂に延焼し、ついに20余戸を焼失するに至る」(姜在彦『朝鮮近代史』1986、平凡社選書からの引用。読みやすく表現を改めました)

 要するに、有田俊夫が指揮する軍警が、堤岩里を包囲して住民たちを教会堂に集め、騒擾の責任者を割り出そうと審問したところ、一人が脱出しようとした。それを阻止すると二人が抵抗したので斬り殺した。この虐殺場面を見た住民たちがいきりたって木片や椅子などで反抗したので、軍警は教会堂の外に出て一斉射撃し、20余人を殺害した。
 火事の原因ははっきりしませんが、日本軍警が残虐行為をごまかすために教会堂を焼き払ったものと思われます。

 また、この報告書にはありませんが、別の資料では、教会に集めたのは村民のうち、キリスト教徒、天道教徒の成人男子(15歳以上または20歳以上)であり、射殺したあと証拠隠滅のため(?)、放火したもの。
 教科書の記述の「全住民を監禁、放火、虐殺」とはずいぶん印象が違うのではないでしょうか。

 韓国の教科書は、日帝の蛮行について詳細に記述するのを常としていますが、この件に関しては「省略」によって、事件を実際より「誇張」するという手法が使われています。

「キリスト教・天道教徒の成人男子20余人」(正確には23人で、事後に殺された二人の夫人を含む)と書いてしまうより、「全住民」と書いておけば、読者のほうで勝手に女・子どもも含めて数百人規模と誤解してくれる。そういう計算を働かせたうえの「省略記述」でしょう。

 もちろん、数百人じゃなくて23人だからといって、一般市民に対する虐殺であることにかわりはありません。

 またこの事件が国際的に表沙汰になったあとになってから、日本側はおそらく嫌々ながら、この事件の犯人を処分(刑事処分ではなく行政処分)にしたというのも問題です。

 長谷川総督はこの件につき、総理大臣に

「以上、検挙班および軍隊の行為は、遺憾ながら暴戻に渡り、かつ放火のごときは明らかに刑事上の犯罪を構成する」

と、放火者が日本軍警であることを認めつつ、その行為を

「公認するのは、軍隊ならびに警察の威信に関わり、鎮圧上不利であるだけでなく、外国人に対する思惑もあるため」

指揮官を刑事処分ではなく、行政処分にすることにした、と述べている。(姜在彦『朝鮮近代史』)

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