犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

あらためて「関東大虐殺」を考える

2024-05-25 23:30:23 | 近現代史

写真:映画「福田村事件」

 昨年は、関東大震災100周年でしたが、大震災の被災者・犠牲者の追悼よりは、そのときに発生した「朝鮮人虐殺事件」(韓国では「関東大虐殺」)の追悼のほうが目立っていました。

 その理由は、韓国がこの事件を、新たな反日運動として展開しようとしたからです。

 いわゆる従軍慰安婦問題は、支援団体の不正が明らかになり尻すぼみ、徴用工問題は日本側が相手にしないので盛り上がらない、そんな中で、韓国の反日政治家たちは、この問題を新たな謝罪・賠償のネタにしようとしているのです。

 日本にも同調者が現れ、映画(福田村事件)が公開されたりしました(私は観ていません)。

 この事件については、当ブログでも扱ったことがあります。

関東大虐殺100周年

『帝国大学の朝鮮人』(鄭鍾賢著、慶応義塾大学出版会、2021年)に、これに関する記述がないかと思って調べてみました。

 すると同書、176ページに、

関東大震災当時、朝鮮人約6000人余りが犠牲となったが、そのうち相当数の留学生が含まれていたものと推定される。

と書かれていました。

 ところが、これについての根拠は示されていません。著者は、韓国で定説となっている「約6000人余りの犠牲者」を裏付けなしに引いて、「そんなにたくさんの犠牲者がいたのだから、留学生も含まれていたにちがいない」という「推定」をしたんだろうと思います。

 これに関連して、同書は、「京都学友会」の機関誌『学潮』創刊号(1926年)の記事を載せています。

 これは、1925年に三重県の道路工事現場で起きた朝鮮人殺害事件について、京都学友会が幹部を送って調査し、「報告会」を行ったというもの。

 京都学友会というのは、1920年代に作られた「在京都朝鮮留学生学友会」の略称。京都帝国大学の留学生を中心に、同志社大、立命館大、同志社女子大、第三高等学校、専門学校、中学校など、京都の朝鮮人の男女学生と卒業生を網羅した、純粋な親睦機関。

 1926年のメンバーは500人以上。

 三重県大本町で起こった同胞殺害事件の批判演説会を三条の基督教青年会館で午後七時から開催する。群がる聴衆500余名、会場を鉄のように堅く取り囲んだ数百人の警官が警戒する中で、韓吉洙君の司会で始まった。本会(学友会)、労働総同盟、評議会、およびその他日本人各団体の弁士の熱烈な演説があったが、ほとんどが中止され、午後10時ごろ無事閉会となる。

「三重県同胞殺害事件」とは、1925年に三重県の道路工事現場で労働者として働いていた朝鮮人労働者60余名を、村の日本人や警察、消防組、青年団、自警団など2000人余が襲撃し、朝鮮人2人が殺害され、2人が行方不明になった事件。

 工場現場などで日本人労働者に軽蔑され、感情が積もっていたところ、活動写真館で日本人と言い合いとなり喧嘩が始まった。日本人の攻撃に対して朝鮮人労働者はダイナマイトなどを投げて激しく抵抗した。その結果、朝鮮人の死者・行方不明者4人が出たということです。

 この事件で、朝鮮人14人、日本人17人が有罪判決を受けたが、司法側は朝鮮人側により過酷な長期刑を宣告。これに対し、京都学友会は調査員を派遣、朝鮮人労働総同盟や評議会、日本人社会主義団体とともに糾弾集会を開いた。

 先の記事は、その報告です。

 著者鄭鍾賢は、

「関東大震災の殺戮を経験した朝鮮人留学生社会は、反日運動の尖兵となった」、

「関東大震災の朝鮮人虐殺に対する怒りはそれほどに大きかったのである」


などと書いていますが、それについての具体事例は、この記事だけ。

 関東大震災と時期も場所も異なる、工事現場の小競り合いで、朝鮮人労働者4人の死者・行方不明者が出た、それについて留学生が調査した、という行動が、「関東大震災の朝鮮人虐殺に対する怒り」の表れといえるのかどうか。

 関東大震災の朝鮮人虐殺は、巷間約6000人と言われますから、規模が違います。

 もしそのような大虐殺が行われ、そこに「相当数の留学生」が含まれていたのなら、関東の留学生団体を中心に、大きな「糾弾集会」がくり返されたはずです。

 4人の犠牲者で、先のような糾弾集会が開かれたのですから。

 しかし、朝鮮人の留学生のことを事細かに調べたはずの本書で、そのような糾弾集会があったという資料は見当たりません。

 日本の官憲の弾圧を恐れたから?

 私はそうは思いません。

 関東大震災後に朝鮮人虐殺事件が起こったのは、まぎれもない事実ですが、その規模は諸説ある。

日本の資料では、
①「司法庁報告書」:民間で殺害された朝鮮人が233人。
②「戒厳業務詳報」:軍によって殺害された朝鮮人が39人、軍民共同で殺害されたのが約215人、計254人。
③「内務省資料」:248人。
④「朝鮮総督府東京出張員」の見込み数:813名。
⑤「弔慰金が支払われた朝鮮人犠牲者数」:死因が災害か虐殺か区別せず、832名。

 それに対し、上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞」が1923年11月5日付で報道した「朝鮮人調査団報告書」は6,661人と、飛びぬけて多い。この数字が、今日、韓国で定説になっているのです。

「日本は事件を隠蔽しようとしている、犠牲者数もわざと少なめに発表している」

というのが韓国の理屈です。

 それにしても、日本の資料(①~③、⑤は災害死を含むので虐殺数は不明)はどれも二百数十人、総督府の見込み数(④)は八百数十人、一方、「独立新聞」は六千数百人…。

 この比較だけでも、独立新聞の数字は「誇張」の疑いが濃厚です。

 今回、鄭鍾賢さんの実証的で詳細な著作の中で、日本にいた留学生たちが、この「大虐殺」について目立った反応をしていないということは、「朝鮮人大虐殺6000人」という定説が「誇張」であることの傍証になる、というのが私の考えです。

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