犬鍋のヨロナラ漫談やで~

ヨロナラとは韓国語で諸国の意。韓国、タイ、ミャンマーなどの国々と、大阪の、人々・言葉・酒・食・歴史にまつわるエッセー。

「堤岩里教会虐殺事件」の真相~殉国記念館

2007-03-01 07:02:38 | 近現代史

 さて、堤岩里事件について、私の知るかぎりもっとも詳しい記述が見られるのは、教会跡地にある「堤岩里3・1運動殉国記念館」のHP(→リンク)です。

 ここには事件の背景から、事件の詳細な過程にいたるまで、その記述方式もかなり客観的で、信頼性は高いと思います。おそらく、外国人宣教師の報告書などをもとに記述されたものでしょう。

 HPには日本語版も用意され、全訳されています。ただ、機械翻訳を基にしたための誤訳、一部省略があること、また事件についての記述が、出典が異なると思われる二つの文書に分かれて記載されていて、細部が食い違うので、そのあたりを補正、再構成して、概略を紹介します。


 堤岩里事件は、発安の市の日デモなど、水原華城地域の住民の3・1独立万歳運動に対する報復、膺懲として、日帝が恣に行なった蛮行の決定版であった。

 水原華城一帯のデモが暴動化したのにともない、京畿道警務部は、憲兵、歩兵、巡査からなる特別検挙班を、これら地域に派遣した。

 この特別検挙班が編成・派遣された理由としては、
 第1に、3月28日沙江里で警察と駐在所が破壊され、野口巡査部長が殺害されたこと、
 第2に、28日午後1時、烏山で金融組合および日本人家屋が焼かれ、2万2千余ウォンの損害を出し、29日には800余名の韓国人が駐在所、面事務所、郵便局、日本人の家屋などを破壊し、烏山駅を襲撃したこと、
 第3に、3月31日、発安の市で千名の路上演説、万歳デモ、また日本人小学校放火、4月1日には、発安の市の周辺の山80余か所で狼煙を上げ、日本人家族43名が避難するようになったこと、
 第4に、3月31日夜、安城郡陽城に約2千名が集まり、警察官駐在所、郵便局および面事務所を破壊、放火し、電柱まで倒したこと、
 第5に、3月31日午後5時、安城邑内に約千名が集まって独立運動をし、軍人まで動員してやっと鎮圧したこと、
 第6に、4月3日、約千名が長安、雨汀の面事務所を破壊し、花樹里駐在所に放火し、川端豊太郎巡査を殺害したこと
などの過激な運動が、3月28日以後、引き続き起こったことがあげられる。

 検挙班は1919年4月2~6日、9~16日の2次に渡ってこれら地域を回り、デモの震源地となった村々を襲撃、放火し、大々的な捜索を行ない、デモの首謀者を検挙した。この過程で、水村里事件、堤岩里事件が起こった。

 水村里事件は、4月2日長安面と雨汀面の住民が合同で行なった激しい独立万歳運動が、その導火線になった。4月3日午前、長安面水村里と石浦里の住民たちは、独立万歳を叫びながら面事務所に押しかけ、建物を破壊した。そして、雨汀面珠谷里一帯のデモ隊と合流し、集会を行った後、雨汀面事務所を破壊し、花樹里駐在所を襲撃した。2千余人にふくれあがった群衆は、銃を撃ちて立ち向かう日本人巡査(川端豊太郎)を殺害した後、駐在所の建物に放火した。
 面事務所が破壊されただけでなく、駐在所が焼かれ、日本人巡査まで殺害されると、日本軍の検挙班は、水村里をその震源地と考え、天道教南陽教区の巡回宣教師、白楽烈とメソジスト教会伝道師、金教哲らを逮捕するために、4月5日深夜3時半頃に水村里を急襲した。
 この過程で、検挙班は天道教の伝教室、メソジスト教会礼拜堂だけでなく、民家にも火を放ち、村は全42戸のうち38戸が焼失した。検挙班は、4月11日にも水村里をはじめとして長安面、雨汀面の25の村を包囲し、204人のデモ首謀者を検挙した。このように、二度にわたった日本軍の検挙作戦は、この地域の激しい万歳運動に対する報復の性格が濃く、4月15日の堤岩里事件はまさにその延長線上に位置するものだった。

 3月30日、堤岩里を含めた隣近の住民千名余は、市の日を利用して独立万歳運動を起こした。この時、日帝警察の発砲により住民3人が死亡し、この過程で興奮したデモの群衆が、日本人家屋に石を投げ、日本人小学校に火を放ち、佐坂をはじめとした日本人43人が30里(12キロ)離れたのサムグェ地域に避難する事件が起きたが、精米事業者の佐坂は、その報復として4月15日の堤岩里事件に際し、日本軍の道案内を引き受けた。発安隣近の住民たちは、4月1日にも発安の市場周辺の山で烽火を焚きデモを行った。

 発安の市の日を利用した独立万歳運動は、儒学者李正根、天道教指導者白楽烈、堤岩里の安政玉(天道教)、古洲里の天道教指導者金興烈などによって計画された。市の日の正午、李正根の「大韓独立万歳」宣唱により始まった市の日のデモは、一瞬のうちに800人余にふくれあがった群衆の独立万歳の波となって広がって行った。群衆が発安駐在所に押しかけて万歳を叫ぶと、日本巡査たちは威脅射撃を加え、群衆はそれに石を投げながら立ち向かった。ついに日本軍鎮圧部隊は駐在所に迫った群衆たちに刀を振り回し始めた。
 この過程で、李正根と彼の弟子金ギョンテが刀を受けて殉国し、後に堤岩里、古洲里事件で犠牲になった洪元植、安鍾厚、安珍淳、安鳳淳、金正憲、姜泰成(堤岩里クリスチャン)、金聖烈(古洲里天道教信者)などが守備隊につかまって、日本の残酷な拷問を受けたのち釈放された。

 3月30日、発安の市の日デモの際の群衆たちによる駐在所襲撃事件は、4月15日に堤岩里と古洲里で日帝が恣に行った報復虐殺の導火線となった。
 3月30日、発安市の日デモと4月3日の花樹里・水村里デモが起った後、陸軍歩兵79連帯所属の有田俊夫中尉と歩兵11人が派遣され、4月13日に到着した。彼らの任務は、討伐作戦が終わった発安地域の治安維持であった。しかし、他の地域のデモの首謀者たちが、2次にわたる検挙作戦で大部分逮捕された一方で、発安デモを主導した堤岩里の首謀者は逮捕されておらず、不安要素として残っていることを知った有田は、堤岩里を討伐することにした。
 彼らは、4月15日午後2時から3時の間に400余名の群衆が集まり、万歳運動を始めると、群衆を解散させた。3月下旬から4月上旬の発安の3・1運動は、その原因が堤岩里の天道教ならびにキリスト教徒にあることを知った有田は、その日午後三時ごろ、部下11人を率いて、日本人巡査1人、堤岩里出身の巡査補趙熙彰、そして発安で精米所を営む佐坂の案内で、堤岩里に向かった。村に到着した後、趙熙彰と佐坂に、村の成人男性を教会に集めさせた。

 彼らは、聖日ではないが特別に訓示することがあるとだまし、40歳以上の男性は全て集まるように指示したが、集まりが悪かったので20歳以上は全て集まるよう指示を出した。
 そしてキリスト教徒と天道教徒が教会堂に集まった時、正門の前で守備隊は、やって来る人ごとに身長を測り、銃剣よりも背が低い子供は送り返し、背の高い者は理由の如何を問わず教会堂に入るよう命じた。
 それから教会堂に集まった住民に訓戒するふりをしたが、突然住民に向かってキリスト教の教旨を質問した。その質問に対して安というキリスト教徒が立ち上がり、「聖書は人間相互が親しく過ごすこと、神を敬虔にあがめること、神は最後の審判を教えている」と答えた。これに対して憲兵の中尉は、キリスト教徒たちの行為はその教理に背いていると一喝すると、教会堂の外に歩いて出て行き、何かしら3回鋭い号令をかけ、それに合わせて入り口に立っていた兵士たちが教会堂の内部に向かって銃撃をはじめた。
 教会堂の床に座っていた住民たちは、立ち上がっては倒れる修羅場と化した。その中で金正憲、安慶純、洪元植、ノ・ギョンテは脱出に成功したが、金正憲、安慶純、洪元植は教会堂の外で日本兵によって殺害され、ノ・ギョンテだけが生きて逃亡した。
 また愛する夫の不幸な急報を聞いて駆けつけた洪元植の夫人金氏、そして姜太成の夫人金氏も、日本兵により殺害された。

 このとき、教会堂内外で焼死した者の名は、次のとおりである。

安政玉、安鍾麟、安鍾楽、安鍾煥、安鐘厚、安慶淳、安武淳、安珍淳、安鳳淳、安有淳、安鍾、安弼淳、安明淳、安官淳、安相鎔、趙敬七、洪淳晉、金正憲、金徳用、姜太成、同夫人金氏、洪元植、同夫人金氏。

 このうちキリスト教徒は13人、天道教徒その他が10人になる。

 証言資料を総合して事件の過程を再構成すれば、ほぼ次のようになる。しかし時間や名前など細かな部分で誤りがある可能性もある。

有田部隊は、発安に住んでいた日本人佐坂と朝鮮人巡査補趙熙彰に命じて、堤岩里住民のうち成人男性(15歳以上/訳注:上の記述では20歳以上)を教会に集めた。

あらかじめ名簿を持っていたように、来ない人は探して呼んで来た。

有田中尉が、集まった人々に「キリスト教の教え」について問うたところ、安(安鍾厚と推定)という信者代表が答えた。

有田中尉は教会の外に出るやいなや射撃命令を下し、これに応じて教会堂を包囲していた軍人たちが窓から中を射撃した。

射撃が終わった後、教会にわらと石油をまいて火をつけた。

風が強く吹き、火は教会下手の家に燃え移り、上手の家は軍人たちが回って火を放った。

教会に火がつくと、洪(洪淳晋と推定)と「面によく来ていた人(安相鎔と推定)」、そして、趙慶泰(別の証言では櫓慶泰)が脱出を試み、洪は逃げる途中射殺され、「面によく来ていた人」は逃げて家にいたのが発覚して殺害され、趙慶泰は山に逃げて生き残った(訳注:逃亡者の姓名が前記の記述と異なる)。

脱出したところを射殺されたらしき死体が、二つ三つ教会の外にあった。

村で出火したのを見て駆けつけた姜泰成の妻(19歳)が、軍人に殺害された。

洪氏(洪元植勧士)の妻も軍人の銃を受けて死んだ。

そして、軍人が古洲里村に行き、天道教信者六人を銃殺した。

 この過程からわかるのは、この事件がはじめから緻密に計画された討伐作戦として起こったという点である。
 日本側の主張のように、「朝鮮に駐屯してまもないため、現地の状況に慣れていなかった一部の軍人が、日本人の犠牲に興奮して起こした「偶発的な」事件」ではないのである。斥候兵を予め送り、堤岩里住民の退路を断っていたことや、巡査補を通じて堤岩里キリスト教と天道教指導者の名簿を事前に入手してから召集した点、古洲里の天道教指導者を把握したあとに殺害した点などから、そのことがわかる。

 堤岩里で日帝が行った蛮行が、事件の翌日には速かに外部に知られるようになったのは、アンダーウッド、コティス、テーラーらの一行が、自動車で水村里の現場を確認しに行く途中、偶然、堤岩里の惨状を目撃したことが決定的なきっかけとなった。
 スコットフィールド宣教師は、4月18日、一人で堤岩里と水村里を訪問して以来、何度も往復して死者の弔いなどに手を貸す一方、事件の報告書をカナダとアメリカの知人に伝逹、「消えない花火」という本を出して、日帝の蛮行を世界に知らせるのに大きく寄与した。

『アジア』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
« 「堤岩里教会虐殺事件」の真... | トップ | 「堤岩里教会虐殺事件」の真... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

近現代史」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事