犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(5) 付録2.

2014-05-27 23:42:20 | 慰安婦問題


 続いて、二つ目の付録です。こちらは文末にSEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944, page 10-13という出典表記があります。

付録2. 連合国最高司令部連合翻訳通訳局調査報告

『日本軍慰安施設』 第2節 慰安施設 9慰安所 bビルマ(1)


 1944年8月10日、ワインマウ近くで、妻と20人の軍売春婦とともに逮捕された慰安所所有者の民間人捕虜は、次のように陳述した。

 「捕虜は、妻および義弟(妻の弟)とともに、朝鮮の京城で食堂を経営し、少しばかりの金を稼いだが、営業は不況に陥った。彼らは、より多くのお金を稼げるチャンスをうかがい、「慰安婦」を朝鮮からビルマに連れていく許可を得るために、朝鮮軍司令部に応募した。捕虜の陳述によれば、その募集は朝鮮軍司令部がまず行い、それが捕虜と同じような境遇にある日本人「業者たち」に伝わった。」

 「捕虜は、女性の性格、人物、年齢に応じて、家族に前借金300~1000円を支払い、22人の朝鮮人女性を買い入れた。この22人の女性たちの年齢は、19歳から31歳までだった。女性たちは、捕虜の排他的財産であり、軍が彼女たちを使って金儲けをしたわけではない。朝鮮軍司令部は、日本軍のあらゆる司令部から交通、飲食、医療等、必要なすべての支援を受けられるよう要請する書面を、彼に与えた。」

 「義弟は食堂経営のために残し、捕虜と妻は、22人の女性を連れて、1942年7月10日、釜山港を出たが、一行は、朝鮮人女性703人と、約90人の、彼のように賤しい品性の日本人男女だった。彼らは、7隻の護衛を受けながら、四千トン級の旅客船に乗って航海した。無料渡航券を軍司令部から提供されていたが、航海中の食費は捕虜が支払った。彼らは、台湾に立ち寄りシンガポールへ向かう別の22人の女性たちを乗せ、シンガポールでは違う船に乗り換え、1942年8月20日、ラングーンに到着した。」

 「ラングーンで彼らは、それぞれ20~30人のグループに分かれ、ビルマの各地に散らばった。各グループは、いろいろな連隊、部隊、隊形に属させられたため、部隊はそれぞれ自身の慰安所をもつことになった。」

 「捕虜のグループは第114歩兵連隊に属させられた。彼らは、営業しながら数カ月間、コウングー、メクデラ、メイミョーで過ごしたあと、ミッキーナに到着した(1943年1月頃)。ミッキーナには、すでに二つの慰安所があり、合わせて三つの慰安所に63人の女性たちがいるということになった。捕虜の、22人の女性のいる共栄慰安所、20人の女性のいる錦水慰安所、朝鮮人と同条件で(中国の)広東で買い入れられた21人の女性のいる桃屋慰安所だった。後方の地域には、日本人のいる慰安所もあり、たとえばメイミョーには8つの慰安所中、日本人慰安所が二つあったが、それより前方には日本人慰安所はなかった。」

 「すべての慰安婦は、次のような契約条件で雇用されていた。彼女たちは、総収入の50%をもらい、無料交通券、無料の食事、無料の医療を与えられた。交通券と医療は軍当局から提供され、食料は兵站の支援を受けて慰安所所有者が購入した。慰安所所有者は、高い価格で彼女たちに衣服、必需品、奢侈品を販売することで、別に利益をあげた。どの女性も、家族に支払った金を利子つきで返したとき、朝鮮までの無料帰還交通券をもらい、自由の身とみなされた。しかし戦況のせいで、捕虜が連れていたグループでは、それまで一人も慰安所を離れることが許されなかった。1943年6月、第15軍司令部は、借金のなくなった女性たちに故郷に帰るよう周旋したが、このような条件を満たし、帰還を望んだ女性も、たやすく、居残るように説得された。」

 「捕虜の慰安所では、女性たちの月収は最高で1500円、最低で300円程度で、慰安所の規定にしたがい、彼女たちは慰安所所有者に毎月最低300円を支払わなければならなかった。」

 「料金表と利用時間表は、連隊の指示にしたがって固定されており、利用時間表は将校、下士官、兵士が同じ時間帯に出会わないように工夫されていた。利用時間表は厳しく守られ、下士官と兵士は一週間に一回、慰安所を訪れることができるようになっており、将校はいつでも、何回でも利用できる。支払いはチケット制で、女性たちは慰安所名、連隊の印、料金が記された2インチ四方の木製のチケットを保有する。捕虜の慰安所では、次のように利用時間表と料金が設定されていた。

兵士 10:00~15:00 料金1.50円
下士官 15:00~17:00 3円
将校 21:00~23:59分 5円
将校 23:59~朝 20円」

 「しかし丸山大佐の命令で、その後、料金は次のように半分に引き下げられたが、利用時間表は前と同じだった。

兵士 10:00~15:00 料金1.50円
下士官 15:00~17:00 2円
将校 21:00~23:59分 5円
将校 23:59~朝 10円」

 「慰安所は、第114歩兵連隊によって管理された。連隊本部の永末大尉が連絡将校を務めた。通常、連隊本部の兵士二人が、頻繁に通う兵士の身分を把握するために慰安所に派遣されていたが、ほかの連隊の兵士たちも、もし第114歩兵連隊の兵士の宴会に参加した場合は、その慰安所を利用することが許された。憲兵もまた、慰安所を巡察する義務があった。捕虜の慰安所の一日あたりの利用者は、下士官、兵士80~90人、将校10~15人だった。」

 「慰安所では、酒(さまざまな地酒)を兵士たちに自由に販売したが、憲兵が、飲み過ぎや喧嘩が起きないよう監視していた。こうした監視にもかかわらず、兵士たちが飲み過ぎた場合、憲兵は彼らを慰安所の外へ引き出した。それでもときどき喧嘩が起こったが、同様の方法で鎮圧された。」

 「メイミョーでも似た規則が施行されたが、たくさんの部隊がそこに駐屯していたため、いくつかの慰安所には、部隊ごとの日程表があった。たとえば、日本人女性の慰安所、第一フルサの日程表は、次の通り。

日曜日:第18師団本部職員
月曜日:第18師団騎兵連隊
火曜日:第18師団工兵連隊
水曜日:昼間は性病検査を受けたあと自由、夜は将校専用
木曜日:第18師団医務部隊
金曜日:第18師団山砲連隊
土曜日:第18師団輸送連隊」

 「別に、翠香園という慰安所があり、将校専用だった。」

 「避妊具の使用については、きびしい指示があった。それゆえ、捕虜によれば、性病感染の場合は全面的に軍人自身の不注意に起因するものだ。捕虜がミッキーナで慰安所を経営していた1年半の間、性病感染はたった5件で、感染者は治療のために第18師団第2野戦病院の軍医官のもとに送られた。第114歩兵連隊の軍人たちの間でも、若干の性病感染があったが、捕虜はこの問題で連隊本部と摩擦を起こしたことはなかった。」

 「慰安所にいる間、軍人たちは、軍隊の問題についてほとんど語らなかった。日常的な軍事的環境から逃避したかったのだろう。捕虜が言うには、彼は、何らかの興味深い軍事上の「秘密」を漏れ聞く機会はなかったが、これは憲兵が派遣されていたため、軍人たちが言いたいことがあっても、自由に話すのをはばかっていたからだろうと考えていた。兵士の間での、日常的な不平は、将校たちに対する批判、配給の不足、郷愁だった。」

 「女性たちは、連合軍の宣伝ビラを見かけたことはあったが、読んだことはなかった。例外は、一人の女性が、そのときには信じなかったが、ミッキーナでの絶望的状況についての情報に関するビラを覚えていたということだ。彼女たちは、前方での放送を聞いていなかったが、ある兵士が公然と「ラジオ放送」について話しているのを覚えていた。」

 「7月31日の夜12時、ミッキーナの三つの慰安所の女性63人と慰安所所有者の一団が、ミッキーナからの撤収を開始した。彼女たちは、普通の服の上に黒と緑色の軍服をはおっていた。彼らは10隻の小さなボートでイラワジ川を渡った。残りの軍隊の大部分は、すでにミッキーナを出発していたが、患者と負傷者は後に残された。彼女たちはこれについて次のように語った。「これらの兵士たちは、川を渡ったとしても歩けないので、川を渡らせてもまるで意味がない。救助されることを期待して、川に浮かばせて下流に流すほうがましだ」。彼らは、ワインマウの北部に出て、8月4日までジャングルの中に隠れていた。その後、一団は退却する軍隊の跡をたどり始めた。8月7日、彼らは戦闘に巻き込まれ、混乱の中で集団は散り散りになった。」

 「20人の中国人女性はジャングルに残り、中国軍に投降した。約20人の朝鮮人女性よりなる一団は、日本軍の後を追った。8月19日、ほかの捕虜によって発見されたとき、悲嘆にくれている小さな集団は、日本軍の後を追っていた。捕虜の一団は、空家になっていた原住民の家に避難し、捕虜が筏を作ろうとしている間、ここに二日間留まった。負傷した日本軍人たちもいっしょだった。8月10日、その家は、英国軍将校の指揮下にある数名のカチン族によって包囲され、彼らは生け捕りになった。もともと63人いた女性たちのうち、移動中に4人が死に、2人は日本の軍人だと誤認されて銃殺された。」



 日記の中には、借金を完済し、故郷に送金し、無事に帰郷していった慰安婦のことが何度も出てきますが、戦況が悪化するまでビルマに居残った慰安婦たちは気の毒でした。まさに天国と地獄です。

 この報告書に出てきた慰安婦63人中、6人が命を落としています。10%弱です。

 「白骨街道」と呼ばれたビルマ・インパール退却戦における日本軍の損耗率はずっと高かったので、この数字の評価は難しいけれども、もっとも過酷だったビルマで10%ですから、他の戦場での生還率はもっと高かったでしょう。


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3 コメント

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誤訳?異訳? (河野 道之)
2014-05-29 20:47:56
毎度,楽しく読ませてもらっています。記事は一覧表にして整理して参考にさせて貰っています。
「日本の朝鮮統治」を検証する1910-1945 310頁を31頁に,『THE NEW KOREA 朝鮮が劇的に豊かになった時代』695頁を49頁に要約したものを作成しました。読まれていなければPDFを送りますよ。

さて,今回の記事の中で
アジア女性基金のHPで公表されている資料でsister-in-law になっている部分が義理の弟に,慰安所所有者に毎月最低150円を収めるが最低300円になっています。
また,SEATICは連合軍東南アジア翻駅・尋問センターで,連合国最高司令部連合翻訳通訳局はATISです。

単なる誤訳でしょうか?それとも何らかの意図があるのでしょうか?付録1については,単語のニュアンスに問題を感じますが,ほぼ正確でした。
SEATICとATIS (河野 道之)
2014-06-01 18:29:08
前回はよく読まずに投稿したようです。末尾にSEATIC文書番号が明記してありました。
時系列で整理すると,
1944年7月31日夜半、ミートキーナにある3軒の売春宿から63名の女性と売春業者たちの一群が、避難を開始。
8月3日,ミートキーナ守備隊の最高責任者・水上少将自決。丸山大佐以下の脱出部隊はイラワジ河東岸に脱出。
8月10日ワイモウ付近で、売春業者キタムラエイブンとその妻トミコは,朝鮮人慰安婦20名とともに捕獲され,8月20日 ~ 9月10日に尋問を受けた。
10月1日,アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属 アメリカ戦時情報局心理作戦班は,「日本人捕虜尋問報告 第49号」で報告。
11月30日,連合軍東南アジア翻駅・尋問センター(SEATIC)「SEATIC Interrogation Bulletin No. 2」
1945年11月15日,連合軍通訳翻訳部(ATIS)「調査報告第120号」
という文書の流れになるようです。
パタヤ (犬鍋)
2014-06-02 01:19:15
河野様

照合していただき、ありがとうございました。

正直、戦争のさなかに、このような報告書を作成していた連合軍に感心しました。

後日、ベトナム戦争のとき、米軍がタイのパタヤに保養所(歓楽街)を作ったとき、この報告書を参考にしたんでしょうか。

ご紹介の二冊、いずれ読みたいと思っていますので、PDFの送付には及びません。ありがとうございました。

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