犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(4) 付録1.

2014-05-24 23:44:42 | 慰安婦問題


 同書巻末に二つの付録がついています。

 今回は、その一つを訳出・紹介します。この資料は、日本で出ている関連書にも引用されているので、すでにどこかに全訳が出ているのかもしれません。

 米軍による捕虜尋問報告で、安教授自身が翻訳したのか、英文からの翻訳か、日本語からの重訳かも不明です。おそらくは、韓国語による紹介は初めてだと思われるので、英文または日本語訳文をお持ちの方は、対照してみるのも一興かと思います(そんな暇な人はないでしょうが)。

付録1. 米国戦時情報局報告心理作戦班、『日本人捕虜尋問報告』第49号

まえがき

 この報告は、1944年8月10日頃、ビルマのミッキーナ陥落後の掃討作戦で逮捕された20人の朝鮮人「慰安婦」と、二人の日本人民間人に対する尋問から得られた情報に基づく。

 この報告は、日本人による彼ら朝鮮人「慰安婦」の動員方法、彼女たちの生活、労働条件、彼女たちの日本軍兵士に対する関係、反応と、軍事条項に対する彼女たちの理解度を示している。

 「慰安婦」とは、売春婦、または将兵たちが利用できるよう日本軍に付属していた「職業的兵営妓女」にすぎない。「慰安婦」という用語は日本人特有のものだ。ほかの報告も、日本軍が戦闘を要したあらゆる場所に「慰安婦」が見出されることを示している。しかしこの報告は、日本人によって動員され、ビルマの日本軍に付属していた朝鮮人「慰安婦」についてのみ扱っている。日本人は、1942年、ビルマへ彼女たち703人の女性を海上輸送したと報告されている。

動員

 1942年5月初旬、日本軍の依頼人たちは、日本軍によって新たに征服された東南アジアの諸地域で「慰安サービス」をする朝鮮人女性を動員するために、朝鮮に到着した。「サービス」内容は明示されていなかったが、病院にいる負傷兵を慰問し、包帯をまく仕事や、一般的に言って将兵を楽しませることに関わる仕事だと考えられていた。

 これら依頼人たちが使ったえさは、多額の収入、家族の負債を返済できる好機、辛くない労働と新天地シンガポールでの新生活に対する展望だった。このような虚偽説明を信じ、たくさんの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前借金を受け取った。

 これら女性のうち何人かは、以前より「地上でいちばん古い職業」に関係していたが、大部分は無知で教育も受けられなかった者たちだ。彼女たちが結んだ契約は、家族の負債返済に充てるための前借金によって、6か月から1年の間、彼女たちを軍の規則と「抱え主」に縛りつけた。

 約800人に及ぶこれらの女性が、このような方法で募集され、「慰安所業者たち」といっしょに1942年8月20日頃、ラングーンに上陸した。彼女たちは、8人から22人より成るグループに分けられた。彼女たちはここからビルマ各地へ配属されたが、その場所は、日本軍の駐屯地の近くにある一定規模の都市だった。最終的に、4つのグループがミッキーナに到着した。そのグループとは、共栄、錦水、バクシン楼、桃屋だった。共栄慰安所は「丸山クラブ」とも呼ばれていたが、ミッキーナ駐屯部隊長の丸山大佐が、自分の名前と同じであることに異議を唱えたため、彼女たちがミッキーナに到着したときに名称が変更された。

性格

 尋問で判明したところでは、朝鮮人「慰安婦」は平均25歳、教養がなく、幼稚で、利己的だ。彼女たちは、日本人の基準からしても、白人の基準からしても美人ではない。彼女たちは、自己中心的で自慢を好む。

 彼女たちの態度は、知らない人の前ではおとなしく優しいが、彼女たちは「男性をもてあそぶ方法を知っている」。彼女たちは、自分の「職業」が嫌だと言っており、自分の職業や家族についても話したがらない。

 彼女たちは、捕虜として、ミッキーナとレドで米国兵士から親切な取り扱いを受けたため、米国兵士が日本兵士よりも人情に厚いと思っている。彼女たちは中国軍とインド軍を恐れている。

生活と労働の状況

 ミッキーナで、女性たちは一人ずつ独立した部屋のある、二階建ての大規模家屋(平時は学校の校舎)に配置された。女性たちはここで生活し、就寝し、営業した。ミッキーナでは日本軍から規則的な配給を受けられなかったため、彼女たちは「慰安所の抱え主」から食事を提供された。

 ビルマでの彼女たちの生活は、ほかの場所と比べ、ぜいたくといえるほどだった。これは、ビルマでの2年目の生活において特に顕著だった。食料と物資は、配給にそれほど頼らずに、欲しいものを購入できる充分なお金をもっていたため、彼女たちの生活は良かった。彼女たちは、衣類、履物、巻き煙草、化粧品を買うことができ、軍人たちの故郷から送られてきた「各種慰問品」を、追加の贈り物としてもらうことができた。

 彼女たちは、ビルマに滞留している間、将兵たちといっしょにスポーツ行事に参加し、ピクニック、宴会、晩餐会に出席して、楽しく過ごした。彼女たちは、蓄音機をもっており、都市ではショッヒングも許可された。

衛生システム

 営業状況は、軍によって定められており、(部隊構成が)複雑な地域では、規則が厳しく守られた。軍は、そのような地域で、料金、利用の優先順位、特定地域で作戦に従事しているさまざまな部隊のための利用日程に関する仕組みを整える必要があったのだと思われる。尋問によれば、平均的な仕組みは以下の通り。

1. 兵士 午前10時~午後5時 1.50円 20~30分
2. 下士官 午後5時~午後9時 3.00円 30~40分
3. 将校 午後9時~午前10時 5.00円 30~40分

 以上は中部ビルマでの平均的料金だった。将校には、20円で一晩泊まることも認められていた。ミッキーナでは、丸山大佐が料金を平均の約半分に引き下げた。

利用日程

 兵士たちは、しばしば慰安所が混んでいることに不満を訴えた。軍が、規定の時間を超過することに、たいへん厳しい態度をとったため、性的サービスを受けられずに帰らなければならないことも多かった。

 この問題を解決するために、軍は部隊ごとに曜日を定めた。兵士が決められた曜日に来ているかを確認するために、部隊から慰安所に2人の兵士が配置された。秩序を維持するために、近くに移動憲兵もいた。次は、ナイミョーに駐屯する第18師団各部隊のための「共栄」慰安所が実施していた日程表だ。

日曜日 第18師団司令部
月曜日 騎兵部隊
火曜日 工兵部隊
水曜日 休業日、毎週の性病健診
木曜日 衛生部隊
金曜日 山砲部隊
土曜日 輸送部隊

 将校はどの曜日にも利用できた。女性たちは、日程が守られたとしても、混雑がひどすぎるからすべての客の相手はできないと不平を言った。その結果、彼女たちは多くの兵士たちから不評を買った。

 兵士たちは慰安所で料金を支払い、板でできた約2インチ四方のチケットを受け取る。チケットの左面に順番が、反対側の面に慰安所の名前が書かれている。所属と階級を確認したあと、兵士たちは「並んで順番を待つ」。彼女たちは、客を拒絶する特権を認められている。接客拒否は、客が泥酔しているときに多かった。

抱え主と生活状態

 「慰安所の抱え主たち」は、女性たちが稼いだ総収入の50%または60%を受け取ったが、その比率は、慰安婦が契約時、どれだけ借金があったかによって異なっていた。これは、たとえば女性がひと月に1500円稼いだとき、「抱え主」が750円を受け取ることを意味する。「抱え主」の多くは、女性たちに食料その他の物品を高く売ることで、彼女たちの生活を圧迫した。

 1943年後半、軍は借金を完済した慰安婦に帰国を許可するという命令を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に戻ることが許された。

 さらに尋問は、女性たちの健康状態が良好だったことを示している。彼女たちは、いろいろなタイフの避妊具を充分に支給されており、軍人たちも、軍から支給された自分の避妊具を持ってくることもあった。女性たちは、自分や客の衛生問題を判断できるよう、よく訓練されていた。日本軍の正規の軍医が週一回慰安所を訪ね、病気にかかった慰安婦は治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。軍自体も同じ手続で診察を受けたが、興味深いのは、兵士が入院してもその期間の給与を受け取ることができるという点だ。

日本軍人に対する反応

 女性たちに対する、日本人将兵との関係に関する尋問で、名前があがったのは二人だけだった。それは、ミッキーナ駐屯軍司令官の丸山大佐と、増援部隊を率いた水上少将だった。二人はまさに対照的だった。前者は、部下たちの面倒をみず、過酷で、利己的で、嫌悪すべき人物であったのに対し、後者は、自分の下で働く人々にできるだけ配慮する、心根のよい、親切な人物で、良い軍人だった。大佐は慰安所の常連だったのに対し、将軍が慰安所に入ったという話は聞かれなかった。ミッキーナの陥落と同時に丸山大佐は逃亡したと思われるが、水上将軍は、部下を撤収させられなかった責任をとって自決した。

兵士たちの反応

 「日本人軍人は、慰安所が満員で並んで順番を待たなければならないとき、だいたい恥ずかしそうにしていた」という、ある女性の言葉にしたがえば、平均的な日本人軍人たちは、「慰安所」で自分が他人に見られることを気まずく思っていたようだ。また、数多くの結婚申込の事例があり、実際に結婚が成立した事例も何件かあった。

 慰安婦の一致した意見では、彼女たちのもとに来るもっともタチの悪い将校や兵士は、酒に酔っている者および、翌日前線へ向かうことになっている者たちだった。しかし、彼女たちが口を揃えて言うには、日本軍人はたとえいくら酒に酔っていても、彼女たちを相手に軍事に関する事柄や秘密に関して、けっして話さなかったそうだ。慰安婦たちが、何か軍事上の話を持ち出しても、将校も下士官も話そうとしなかっただけでなく、「そのような、女にふさわしくないことは話題にするな」といつも咎め、そうしたことに関しては、丸山大佐さえ、酒に酔っているときにもけっして話さなかった。

 兵士たちは、たまに故郷から送られてくる雑誌、手紙、新聞を読むことがいかにうれしいかを話した。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、手拭い、歯ブラシ、小さな人形、口紅、木製(木綿製?)の服などが詰まっている「慰問品セット」を受け取ったという話もした。口紅や木製の服はどう考えても女性用の品で、慰安婦たちは、故郷の人々がなぜそんなものを送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り手自身がもらったものだろうとか、「現地女性」にあげるつもりで送ったのだろうと憶測した。

軍事情勢

 女性たちは、退却し捕虜になるまで、さらにいえば捕虜になった時でさえも、ミッキーナ周辺の軍事情勢についてほとんど何も知らなかったようだ。しかし、注目すべき若干の情報もある。

 「ミッキーナと、同地の滑走路への最初の攻撃で、約200人の日本軍が戦死し、同地の防衛要員は200人ぐらいしか残っていない。弾薬はごく少なかった」

 「丸山大佐は、部下たちを分散させた。その後の数日間、敵はあらゆるところから好き放題に射撃していた。彼らは、何か特定の対象を狙っている様子はなかったので、弾薬の無駄だ。これに反して日本軍は、一回に一発、それも間違いなく命中すると判断したときだけ撃つように命令されていた」

 「敵が西の滑走路を攻撃してくる前、ミッキーナ周辺に配置されていた軍人たちは、北部と西部の連合国軍の攻撃を阻止するために、ほかの地域に急派された。主に第114連隊所属の約400人が残っていた。まちがいなく丸山大佐は、ミッキーナ攻撃を受けることを予測していなかった」。その後、第56師団の水上少将が二個連隊以上の増援部隊を率いてきたが、それでもミッキーナを防衛することはできなかった。

 彼女たちが一致して述べたのは、連合国軍の砲撃は集中的で、恐ろしく、それで彼女たちは最後の日々を塹壕の中で過ごしたそうだ。そうした状況の中で、1、2人は仕事を続けた。慰安所が爆撃され、彼女たちのうち何人かは負傷したり死亡したりした。

退却と捕獲

 「慰安婦たち」の、退却と最終的な捕獲についての話は、記憶がやや曖昧だった。各種の報告によれば、状況は次のようであった。

 7月31日の夜、3つの慰安所(パクシン楼は錦水に合併されていた)の「慰安婦たち」、経営者の家族と従業員を含む63人の一行が、小型の船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、ワインマウの近くに上陸した。彼らは、8月4日までここにとどまっていたが、ワインマウには入らなかった。ここから彼らは、8月7日まで一団の軍人たちのあとについていったが、そのとき敵との小規模戦闘が起こり、一行は散り散りばらばらになった。

 3時間後、また軍人のあとについてくるように命令を受けた。彼女たちは命令通りに追いかけ、最後に、ある川の土手に着いたものの、そこに兵士の姿はなく、渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にとどまっていたところ、8月10日、英国軍将校が率いるカチン族の兵士たちによって逮捕された。彼女たちはまずミッキーナへ、その後はレドの捕虜収容所へ連行され、ここでこの報告のもとになる尋問が行われた。

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 女性たちは、撒かれた反日ビラについて、ほとんど何も知らなかった。兵士たちが持っていたビラを2、3枚見たことがあるが、それは日本語で書かれており、兵士は彼女たちにその内容をけっして話そうとしなかったため、内容を理解できる人はほとんどなかった。ある女性は、丸山大佐についてのビラ(ミッキーナ駐屯部隊に対するアピール文)について覚えていたが,それを信じなかった。ほかの女性たちは、ときどき兵士たちがビラについて話をしているのを聞いたが、彼女たちの陳述に特記すべきものはなかった。しかし興味深いのは、一人の将校が「日本はこの戦争で勝つことはできない」という見解を表明したということだ。

要望

 女性たちは、だれもミッキーナで行われた拡声器放送を聞いていなかったようで、兵士が「ラジオ放送」について話すのを小耳に耳に挟んだ程度だった。彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことをビラに書かないでくれと要望した。なぜなら、彼女たちが捕虜になったことを日本軍が知ったら、ほかの女性たちの生命が危険にさらされるかもしれないというのだ。しかし彼女たちは、朝鮮で撒く予定のビラに、彼女たちが捕虜になったことを書くのはいいアイデアだと思っていた。


 上の報告書を読む限り、慰安婦についてよく言われる「性奴隷」とは、ずいぶんイメージが違うなあと思います。

 また、報告書の中の「証言」は、聞き手が米軍で、当時「従軍慰安婦」を糾弾する立場にあったわけではない、第三者的な立場による尋問であること、捕虜になってすぐの証言であることから、「従軍慰安婦」が問題になったあとに聴取された元慰安婦の証言よりも信憑性が高いように思います。


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