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『四国八十八ヶ所巡りへ』 第60番札所から第70番札所まで(第6弾)

2015-05-30 22:52:09 | 四国八十八か所巡り

 

雲辺寺のお参りも終わり、長い長い下り坂(誰の人生じゃ~ 笑)が始まりました

上の地図も"民宿岡田”さんで頂いた地図です

赤くなぞって有るのが歩いて行くルートです  

昨晩の夕食の時、詳しいレクチャーが有りましたが、もうすっかり忘れてしまってます

とにかく、足になるべくダメージが無い様に、降りて行くだけです

 

よいしょよいしょと金剛杖を支えに降りて行きます  慎重に・慎重にですね

 

下山していくと、さっき山頂から見えていた、雲海の中に入って行きました

霧の中 それとも雲の中を歩いている気分になって来ます  幻想的な風景です

 

それでも、しばらく下って行くと、霧を中を抜ける事が出来ました

木々の間から、陽ざしも射しています  

 丁石

  

 

鰻淵の伝説

昔むかし、現在の観音寺や大野原が豊田郡とよばれておったころのことじゃ。
奥谷別所に源左衛門と源三郎という兄弟が住んでおった。
ある年、何日も雨が降らず村の衆は日照りに難儀しておった。山のてっぺんで火をたいて雨乞いをしてもいっこうに雨はふらなんだ。源左衛門と源三郎の兄弟は、雲辺寺の麓にある竜王様の社にこもって、食べるものもろくにとらず、朝から晩まで竜神様に祈り続けた。七日目の晩、祈りつかれてうとうとした二人の夢の中に一人の女が現れて、社から近い木の下を指さして「ここを掘ってみなされ」と言ったそうな。二人は同時に目を覚ますと、同じ夢を見たことを不思議に思ったが「これは竜神様のお告げに違いない」と、夢に出てきた木の下を掘ってみた。
すると、そこから一匹のうなぎが這い出て来て、近くの渕へぽちゃんと飛び込んだそうじゃ。
にわかに大粒の雨が降り出し、やがて雨はどしゃ降りとなり三日三晩降り続いたそうじゃ。
こうして村は救われ、この出来事以来、渕は「おなぎさん」と呼ばれるようになって、雨乞いに多くの人が訪れるようになったということじゃ。

 

一升水 

約1,200年前、弘法大師が讃岐から阿波へ山越えされた道中、のどが渇いたので、お経をあげながら杖の先で一升ますほど地面を掘ると、水が湧き出したという言い伝えのある場所。どんな日照でも水が絶えたことはないそうです。

ここは、丁度良い休憩スペースが有りました。 ここでお昼タイムです

昨晩宿泊した、”民宿岡田”さんから頂いたお接待のおにぎりがお昼ごはんです  ひとり、ワンパック頂きました

ただ、二人とも疲れていて、このおにぎり二つが食べれそうに有りません・・・・

どうしようかと思っていると、太興寺方向から登って来る方が  

まだお昼を食べられていないと言われましたので、ワンパック頂いて貰うことにしました  良かったぁ~

そうすると、「お接待のお礼と言われて、緑の納め札」を頂けました  お遍路を5~7回 回られているのです

その方から、「68番に行ったら、ゼニガタを見たらいいですよ!」と教えて頂けました

ゼニガタ???  銭形平次?ルパン三世の銭形警部???なんだろう?? と不思議に思うばかりです

お遍路さんに行く時、周りの観光の事は全然下調べをしていない私達・・・・  

まあ、行けば分かるよね~と話しながら

お昼を食べた後は、再び下って行きました  

 (でも、このせっかく教えて頂いたことを、68番に着いた時、私たちは忘れてしまってたんですよね)

 

 

長い下りの山道もようやく終わりました  車が通る道に出ました~  長かった!!!!

ようやく民家も、見えて来ました  ホッと一息  何となく安心して来ました

下界に降りてきた気分です

 

下って来た山も随分遠くになってきました

軒先で作業をされている方に雲辺寺の方向を聞いて見ました

あんな所から歩いて来たんだなぁと思うと、感無量(大げさかな~~~ (=゜ω゜)ノ)

そして、「昔の雲辺寺までの道はこっちだったんだよ」とも教えて頂きました

 

 ここからは、人里の中の舗装された道  本当に安心。安心

 

麦秋  色づいた麦畑の横を歩きました

 

 

遍路道の途中で立っていた標示
右 こまつおじ すぐ こんぴら道 左 かんおんじ と刻まれていました

次にお参りする 大興寺は 豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、「小松尾寺ともよび、山号とするかし」と言われていました
地元の人たちは、今でも「こまつおじ・さん」と呼んでいます。道標も、古いものには「大興寺」という標示はなく、「こまつおじ」となっています。この道しるべも古い物なのでしょうね・・・・

 これは、現代の道標

 

鏝絵がある遍路休憩所(みんなのお休み処)

左官さんとのひょんな出会いから、豪華な休憩所が誕生した、とのことです。鏝絵(こて絵)の龍や鶴が楽しめる休憩所です。
こんな伝統技能を継承している左官さんは、もう数えるほどではないでしょう。そもそも左官さんが、もう少ないのです。

 

 

 

そして、歩いていると  誰が書いたのでしょうか????

いたずら書きなのかな?

 

そして、ようやく 67番札所 大興寺に到着(あと、少し)

 

真ん中に小さく見える青い看板は、大興寺手前にある「おおひら」さんという民宿です

昨日”民宿岡田”さんで一緒だった方も、この日はここで宿泊の方もいます

 

本当に、到着です  やったぁ~~~   お疲れさまでした 

 

 思わず、こんなポースも出て来ますよね 

 

 

山門(仁王門)文保2年(1318年)建立  

仁王門にある雄渾な2の金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。

鎌倉初期の作で、八十八ヶ所中最大とされる

 

参拝に向かいます

 

 小松尾寺のカヤ:樹高20m、胸高幹周3.92m樹齢およそ1200年、山門を入ってすぐ右にある。昭和51.3.23指定

ここも大興寺とは書かれていないですよね。そして、樹齢がおよそ1200年ということで

「弘法大師お手植えの木」と言われているのでしょうね   大きくて 見上げていると、首が痛くなって来そうです

 

 

足はパンパンに張っていますが、ここも階段を登っての参拝です 

境内の中で分かるのですが、ぼくちゃんの前に階段を登っているのは、昨日、三角寺を出発する時に「歩き遍路で、今日は野宿かな?」と話していたお兄さんでした。 昨晩はどうしたのかな?尋ねる事はしませんでしたが、今日は、次の68・69番までお参りしたいと話されていました。この後、お参りの後、次のお寺への道、途中まで一緒に歩いて行きました

 

鐘 楼

    

 

第67番札所 大興寺

大興寺の歴史・由来

縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである

 

本 堂

本堂のすぐ横が納経所でした、お参りのあと、ぼくちゃんはここで納経所の方と談笑

雲辺寺をうち終えたという、安堵感からかなぁ(笑)

 

現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。

  

天台大師堂

 

(弘法)大師堂

 

 

ぼくちゃん、真剣にお参り (*'▽') です

ゆっくり、ここもお参りしました  六十八番・神恵院も六十九番・観音寺へ出発です

そして、大興寺を出発するときに、階段を登ってくる「オランダのご夫妻」の姿が 

この日は、大興寺の所の”おおひら”に宿泊と聞いていました。雲辺寺からの下りの所でお昼を食べるところで私達は、「HAVE A NICE TRIP! 良い旅を」と別れていたのですが、本当にここでまた再会できるとは~   ぼくちゃんの「おーい」と言う呼び声に気がついてくれました。お二人は、おおひらさんに荷物を置いて、身軽に参拝。本当にここでお別れです。何度も何度も、岡田さんからの道で追いついたり、追いつかれたりを繰り返しながらの歩き遍路の道のり。不思議なご縁のお二人でした。

 

 

 

 

 

 

第68番札所 神恵院  第69番・観音寺

神恵院・観音寺の歴史・由来

六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。

<神恵院>

開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。

その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。

 

<観音寺>

創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山している。大師はそのころ、琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣ならって中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。

今日は、ここで打ち終わりです  本当によく歩いたよね  思わず出てきてしまう満足の笑顔です

 

共通の山門に、2つの寺名を左右に掲げてありました

     

 

順番通り、まずは、68番 神恵院からお参りします

本 堂

 鉄筋コンクリート製  お寺とは思えない外装です

 

  

階段を登るとお参りできます

中まで入って行くと、今までお参りしていたお寺と変わりはないですね・・・・

 

大師堂

 

 

 

 

 次は、69番 観音寺へお参りします  これが今日の打ち終わりです

 

 

本 堂

棟造、本瓦葺き。室町時代建立の前身堂の部材を用いて延宝5年(1677年)に建立されたもの。重要文化財指定

 

大師堂

5時前ですが、沢山の参拝者の姿が見られました

多分、みなさん今日のお参りはここで最後なのかなぁと思いながら私たちも、境内を歩いていました

 

     

 

鐘 楼

 

薬師堂

長い階段が目の前にあり、これを登るのは・・・・・次の機会にすることに (;;;'∀')

 

同じ敷地に二つのお寺  ご朱印も二つ頂きました  後はホテルに行くだけです

 でも、ここで大切なことを忘れてました  後で気づきますが

 

ホテルに着くまでの道すがら、沢山の「寛永通宝」

マンホールの蓋   オブジェ   等々

これを見て、雲辺寺からの下り坂で、おにぎりをお渡ししたお遍路の方から、教えてもらっていた「銭形」を見に行くのを忘れていたのを思い出しました

さっきお参りした68・69番がある琴弾公園(ことひきこうえん)山頂の展望台からこの「寛永通宝」の砂絵を見る事が出来るのです。階段を見て登るのを止めていた薬師堂の上に展望台につながる遊歩道があるらしい。

となれば、明日、再び 68・69番のある 「琴弾公園」に早起きしていかなければ・・・・

行かなくても良いんだけれども、やっぱりせっかく教えて貰ったのだから見ないとね

 

この日の夜 ホテル前で  何処かで見たような店内だと思う方居るはずですね

北九州でも良くお世話になる「ジョイフル」で

 

この日も、やっぱり早目に就寝    

明日は、68・69番に寄ってから 琴弾公園  そして、今回の区切り打ちの最後 70番 本山寺へのお参りです

 

 

GWの歩き遍路 いよいよ明日で終わり  明日も頑張るよ 


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2 コメント

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砂絵 (よっくん)
2015-06-01 06:42:49
写真を拝見していると凄い山道ですね。
山道は、下りが特に怖いですね。
ゆっくり下って行くと余計な所に力が入りますね。
「銭形」の砂絵は、よくTVで出てきますが、この68~69の所にあるのですか?
砂絵は、見れたのかな?続編が楽しみです。
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よっくん(小太郎)さんへ (ぼくちゃん 相棒)
2015-06-01 23:47:51
こんばんわ
下り坂は長くていつの鳴ったら終わるんだろう・・・・と思いながら歩いていました
歩いている間は夢中になっていたので、気づきませんでしたが、随分足に力が入っていたようです
有名な「銭形」 さてさて、どうでしょうか(笑)
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