ぼくちゃん & 相棒 の ひ・と・り・ご・と

旅行したこと、近場のお出かけ、美味しいものを食べたこと etc… 

連休は、岐阜へ GO =33333 (これで終わり:長良川鉄道 & おまけ)

2013-07-29 21:57:44 | イベント

長良川鉄道はかつて国鉄だった第三セクター路線  

岐阜から郡上八幡へ移動する時に乗りました 

岐阜から美濃太田まではJRで、美濃太田駅で乗り換えです


 

 

    長良川鉄道の歴史や各駅の紹介のHPがありました。結構詳しいことが判りました  

 http://www.gujohachiman.com/kanko/nagara_j.htm

 

 

   

長良川鉄道にはあまり似合わないような(ゴメンナサイ) 変わった顔出しパネルがありました

加茂農林高校がモデルとなったライトノベル「のうりん」にちなんだものだそうですよ

作者の白鳥士郎さんが岐阜県多治見市出身で、そして登場する高校は岐阜県立加茂農林高校がモデル。4巻には長良川鉄道鉄道が登場するそうです。ヒロインの木下林檎ちゃんと記念撮影できます

長鉄沿線応援団が主催する各駅由来の顔出しパネルプロジェクトってあって、他の駅にも顔出しパネルが設置されているらしいですね(まだ、予定かも)

 

  旅行と言えば、忘れてならないのが、駅弁です     

 

JRのホームにある駅弁屋。今となっては珍しくなった「立ち売り」もありました 

列車の中からカメラをむけると、笑顔 ww  (ピース  してくれてましたよ)

  松茸釜飯 購入     

郡上八幡についてからのお昼ご飯となりました  松茸、4枚いっぺんにパクリ(なんてことはしませんよ)

 

長良川鉄道からの車窓の風景を楽しみながら郡上八幡へ向かいました     

 

 

車窓の風景は、デジブックを作ったのでご覧下さい

デジブック 『長良川鉄道』

 

 

 

  

 <おまけ そのいち>

帰りの名古屋駅・・・・なにやら人だかりが(特に男の方かな  )

ニュージーランド産の超軟水プレミアムミネラルウォーター NuZeeウォーターはのキャンペーンでした

そこには、ピンククラウンが            

  

ピンククラウンに人だかりなのか、キャンペーンガールに人だかりなのかは定かでないけれども(笑)ぼくちゃんもしっかり、写真とってました 

 

<おまけそのに>

やっぱ、旅の締めくくりは、「駅弁」   

 

4日間、楽しい旅行でした(  雨もあったけど  ) 

今度は、違う季節に行きたいなぁ    


連休は、岐阜へ GO =33333 (第四弾:郡上八幡の美味しい物?!?)

2013-07-29 17:50:30 | イベント

郡上八幡 は食品サンプルの生産量日本一で、全国シェアの約60%を占めていて、飲食店などで目にするサンプルの半分以上が岐阜県で製造されていることになるそうです。

食品サンプルの生みの親・岩崎滝三さんは、郡上八幡の出身で、そのことが、きっかけで郡上に広まっていき、今では郡上の重要な地場産業となりました。

トップの写真も全部サンプルですよ 

 

ということで、街並散策の途中で、サンプル作り体験にも挑戦してみました

何事もやって見ることが肝心ですよね。 で、結構これが難しかったんですよ・・・・ 

色々な所で体験は行われていたけれども私は、”町家伊之助”で挑戦   

  → ここです

 

  まずは、お好みのシロップをグラスの底につけます

 

ホイップクリームをグラスに注ぎます。ホイップクリームを混ぜると、最初につけたシロップと混ざり合って、少しづつパフェらしい雰囲気ができてきます。間に隙間が無いように入れていくのがコツなんだそうです

このホイップクリームの素材は、シリコンだそうです。結構硬い   

 

力が足りないときは...立ち上がってやってみよう!!ホイップクリームを思いっきりグラスに注ぎます!真剣そのものでしょ ハ・ハ・ハ  

  後は、パーツを乗せて出来上がり  

 世界に一つだけのオリジナルパフェが完成 

 

サンプルビレッジ いわさき  も行ってみました。ここが、郡上八幡の出身食品サンプルの生みの親・岩崎滝三さんが設立した会社の岐阜工場のようです。

 

 

ここでは、体験はしなかったけど、こんな感じで天ぷらサンプル作り体験ができるんですよ

 

ここでは、ろうを使った食品サンプル作りが体験出来ていました。団体さんが来られて結構大勢でワイワイ楽しそうに体験されていました。天ぷらを作られてます。

 

おおーーーー、巨大かつ丼だっ 

 

 いただきまーーーーす 

   ぼくちゃんは、小盛りを

これは、お腹いっぱいになるね    

 

  うな丼定食

 みかん よく出来てる 

今までの分は、全部「食品サンプル」でした   

   ゴクゴク 飲んでます でも、サンプルなので大丈夫  

   これは、本物です  サンプルも良くできてるよね

 

ここからは、本物の美味しい食べ物ですよ

   途中でほっと一息 

  郡上牛乳  明治時代から続く郡上八幡のご当地銘柄 

 

 水の城下町として名高い郡上八幡の天然水で仕込んだ、郡上八幡のご当地サイダー 

 かき氷 夏はやっぱりこれね 

 

 夜も、居酒屋で楽しく一杯 

1日目の夜

 

 

2日目のお昼

 郡上のごはん 魚付き

 

 

郡上名物 ひっちゃく棒も食べました  カレー味のご飯を串につけ、その上に肉を巻き炭火で炙りカレーをかけて頂くスティックカレーです  美味   

 

二日目 夜

  

今回の旅行で、野菜サラダを頼むと キャベツの千切り(山盛り)が多かったなぁ 

 

飛騨牛も食べてみました。でも、どれも美味しい

 

最後に、教訓かな???  二日目の行った居酒屋さんの壁に貼ってありました

ぜひぜひ、ご一読下さい(笑   )

 

 

おまけ  さすが中部地方の思う「缶コーヒー」発見       派手っ   

 

 


連休は、岐阜へ GO =33333 (第三弾:郡上八幡の街を散策)

2013-07-27 07:31:22 | イベント

夜は、郡上おどりを楽しんで、昼間はゆっくりと街の散策を楽しみました。

水・街並み とても風情があり、時間もゆっくりと流れているようでした

 

デジブック 『郡上八幡を訪れて』

 

郡上八幡博覧館

大正9年に建てられた旧税務署を、当時の外観はそのままに利用した、現代とレトロが融合したミュージアムです。
博覧館の名称は「博物館」と「博覧会」との合成語だそうですよ

  

博覧館では、郡上おどりを浴衣姿のスタッフが楽しく紹介してくれていましたよ 

   館内は、郡上おとりの雰囲気満喫

 

郡上八幡旧庁舎記念館

 

昭和11年に建てられた洋風建築で、木造2階建て、床面積は約800㎡。外壁は板張りに縦長の端正な窓、屋根組みは当時最新の技術であったトラス工法が用いられています。
平成6年まで八幡町役場として使われていたこの建物は、平成10年国の登録文化財に指定されています

 

 

 

長敬寺

1601年(慶長6年)に郡上八幡城主遠藤慶隆により東常縁の玄孫にあたる正勧坊正欽を招請し当寺を創建して遠藤家の菩提所としたのが開基とされ、境内には遠藤慶隆の墓所があります

 

  

安養寺

1256年(康元元年)親鸞聖人の直弟である西信が近江の蒲生郡に堂を建て安要寺とし、後に美濃に転じてから蓮如の命により安養寺と改められました

郡上八幡へは城主井上氏の入部とともに移転。浄土真宗の布教の展開により「郡上御坊」の呼び名で隆盛を誇っていたそうです

 

郡上八幡の家並みの中にひときわ目を引くのが間口、奥行きともに16間という壮大な本堂。木造の建造物としては岐阜県下で最大のものといわれます

  郡上おどりの碑もありました

 

慈恩禅寺

1606年(慶長11年)、時の郡上八幡城主遠藤慶隆が開基となり、妙心寺円明国師の高弟半山和尚を迎え、釈迦如来を本尊として創建された古刹です。
遠藤氏と金森氏等の遺跡や重文を多く保存し、山内一豊の妻である千代の出生についても不明とされていた部分がこの寺にあった家系図によって明解にされたいきさつがあります

 

 勅旨岩

明治26年に大水害により裏山が崩壊した時来られた、明治天皇の勅旨が被害状況を把握する為に立たれたと岩と言われています

 

  

 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祭られているお堂

この神は、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏だそうです。

信心すると、下の世話をして貰うような長患いをしなくて済む書いてあったので、二人でしっかりお参りしてきました 

 

 莖草園(てっそうえん)

名勝の庭園である莖草園(てっそうえん)は東殿山麓の巨岩をそのまま生かした室町様式の禅宗庭園
つつじの刈りこみや池をおおう楓の大樹が美しく、静寂の中を滝の水音が響き幽玄な雰囲気が漂います(中での写真撮影はダメだったので、インターネットで写真を探してみました)

丁度、訪れたときは二人だけだったので、外界の暑さを忘れて、静かな時をしばし過ごしました

  

郡上八幡城へ・・・・  

 

 

 NHK大河ドラマ「巧名が辻」の山内一豊夫人 千代は、司馬遼太郎さんの原作では近江の国出身になっていますが、近年では郡上出身説が有力になっています。又城山公園には郡上市有志による「山内一豊夫人顕彰会」が建立した山内一豊の妻 千代の銅像があります     この銅像です

 

 山道をテクテク(いや、ゼイゼイだったかも   )登りました

  海抜353.95メートル  市街地から129.75メートル

  いよいよお城へ

 

郡上八幡城 (積翠城)

 

郡上八幡城の天守閣は再建80周年を迎える日本最古の木造再建城であり、戦後の築城ブームで再建された多くのコンクリート製の城とは一線を画した美しさは、作家・司馬遼太郎をして日本で最も美しい山城と言わしめた白亜の天守閣、郡上八幡城!見晴台からの眺望も抜群です。

 

郡上八幡城 (積翠城)の沿革    

 郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。

 その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。

 明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大 垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。

 

郡上八幡城で見かけた見どころをご紹介 

 力石(ちからいし)伝説

遠藤慶隆が八幡城復帰後に八幡城を改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたという。その中で剣村(現大和町)の通称赤髭作兵衛なる者が1m×75cm、約350kgの大石をひとりで背負い上げたという。普請奉行がその力量を深くほめたたえたとたんに彼はその場で倒れて息たえたという。普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたという。昭和8年に模擬城の建設にあたり放置されていたこの石を現在地(八幡城庭園内)に安置している。

 

 およし物語   

       およしが祀られているお堂

青山藩士羽生某の三女として生まれた羽生(後に山川) 某女の伝えとして次のような話がある。「私の母は郡上藩士青山家の分家青山某の二女で羽生家へ嫁いだものである。この母から子供時代の話に大和村牧(妙見)の羽生家に、当時一等の美人といわれたおよしという娘がおった。この娘が選ばれて八幡城を築く際に人柱として生き埋めにされたという話が残っている。 八幡城本丸跡の石段の下でオヨシオヨシと言って手を叩くと泣くような声がするといわれ、私たちも子供の時、手を叩いたことがある」。こんな話がもとで「およし物語」が作られた。現在でも八幡城天守閣前には「およし観音」があり、およしの霊が祀られている

 

 戦国時代の荒々しさを偲ばせる石垣

 

天守台の石垣のほとんどの部分は、天正16年(1588)ごろに稲葉貞通の大改修の際に築かれたもので、戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積(のづらづみ)と呼ばれる工法によるものです。一部に打ち込みハギの手法も見られますが、碁盤の目のように並べられた切石積とは対照的な石垣となっています。
昭和30年(1955)に天守台すべての石垣が岐阜県の史跡文化財の指定をうけました。

 

 町全体が鮎の形に見える天守閣からの眺望

天守閣に上れば重なり合うような奥美濃の山々のうねりと狭い盆地にびっしりと軒を連ねる城下の家並みが見事な眺めを見せ、町の中央を洗う吉田川の瀬音が山頂までとどいてきます。
そしてその流れをたどれば長良川の波光が城下町の向うにきらめいて見えます。

郡上鮎の本場として知られるこの町が天守閣から眺めると町全体が鮎のかたちに見えるというのも偶然の産物だと言われているようです

 

 郡上八幡城を見守る一豊と千代

 

有名なエピソードに一豊が「馬揃え」を目前にひかえて困っていたとき、千代は鏡台から10両をさし出して駿馬を買わせ、それが信長の目にとまって一豊の出世の糸口となった逸話があります。

この千代が諸説ある中で初代郡上八幡城の城主遠藤盛数の娘であったという説が有力であり、現存する遠藤家の系図には「盛数の娘山内対馬守室」(妻の意味)と記されています。

「功名が辻」原作者司馬遼太郎氏が日本で一番美しい山城と評した郡上八幡城や旧本丸屋敷跡に、城下町を見守るように立つ一豊と千代の銅像。

 

 凌霜の森

 

今、大河ドラマでも有名になっている 会津藩白虎隊と縁が深い郡上藩凌霜隊の慰霊碑がありました。

 郡上藩凌霜隊  

幕末。戊辰戦争が始まると、郡上藩もその去就に迷いました。
 国元、郡上の藩論は、朝廷への恭順を決定しましたが、江戸藩邸ではその決定に異論を唱え、あくまでも幕府軍につくことを唱える一派がありました。
 江戸家老、朝比奈藤兵衛は、幕府軍の勝利したことも考え、息子、朝日奈茂吉(当時17歳)を隊長とする47名を脱藩させ、幕府側の一隊として「凌霜隊」を組織しました。
 凌霜隊は北関東を転戦。前橋、小山、宇都宮。那須塩原から大内峠をこえて、会津若松へ入城。鶴ヶ城の篭城戦を会津藩士とともに戦いました。
 会津開城後は、罪人として郡上八幡に護送され、禁錮の処分を受け入牢。明治3年釈放されました。

 

  日本一 の 文字の入ったご神体 (積翠神社)

 

”日本一” 
 郡上八幡城のふもとにある積翠神社の御神体です。安政3(1856)年江戸下屋敷にある槇の木が倒れ、その中から『日本一』の文字が現れました。それを見た藩主青山幸哉は吉兆の知らせだと言う事で、積翠神社に祭りました

 

 


連休は、岐阜へ GO =33333 (第二弾:郡上八幡にて 郡上おどり)

2013-07-22 23:15:40 | イベント

 今回の岐阜旅行のもうひとつのお目当ては、7月13日から始まる郡上おどりを見ることでした

 

<郡上おどり> 

「郡上の八幡出てゆく時は、雨も降らぬに袖しぼる」 
の歌詞で知られる郡上おどりは400年にわたって城下町郡上八幡で歌い踊り続けられてきたもので、江戸時代に城主が士農工商の融和を図るために、藩内の村々で踊られていた盆踊りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい。」と奨励したため年ごとに盛んになったものです。

そんな歴史背景から郡上おどりは誰もが、つまり観光客も地元の人もひとつ輪になって踊るという楽しさがあるのです。 
ここに郡上おどりは「見るおどり」ではなく「踊るおどり」といわれる理由があ ります。

9月上旬にかけて33夜にわたって踊られます。 日本一のロングランの盆おどりで、郡上八幡の夏はおどりとともに始まり、おどりとともに終わるといわれるそうです。会場はひと晩に1カ所ずつ。
これは町内あちこちでの縁日祭りにちなんでおこなわれるもので、新旧入り交じった感じがしないでもないですが、そのうちの多くからこの町に残る伝統や風習を垣間見ることができます。

踊り会場はひと夏で市街地を一巡し、城下の町並みの中や辻の広場で踊る日もあ れば、昔ながらに神社の境内が会場になる日もあります。 
また山の中腹のホテルの駐車場までご足労ねがう日もあります。

開催時間は平日と日曜日が大体8時から10時半、土曜日は8時から11時までが基本ですが、特別な催しがある場合は変更される場合があります。

一番有名なクライマックスの徹夜おどりは、盂蘭盆会の8月13,14,15,16日の4日間です。

 

今日は、その郡上おどりの初日。「普段は、盆踊りのように、輪になって踊るんだけど、今日は、流していく様子が見れるので、ぜひ、それを見てきてくださいね」と旅館の女将さんが言われていました。

流していく????何だろうと思っていましたが、これは後から判りました)

 

平成25年7月13日 (土)- おどり発祥祭(神事)

しめやかに、神事が執り行われました

郡上おどりの継承と期間中の安全を祈願するものです

 

 

 

辺りがだんだん薄暗くなり始めてきたら、いよいよ!!!

 

鏡開きが行われて、まつりの開幕

 

お祝いですから、しっかりと、頂戴いたしました。ご利益あるかな(笑)

 

おどり発祥祭(神事)の後は、 おどり流しが始まる 

 

    

 

 郡上おどり流しのおどり屋台が踊り子に囲まれて、町のめぬき通りの今町、新町をゆったりと進んできました。

ここで、女将さんが言われていた ”流していく様子が見れますよ” と言われていたことが判りました 

普段は、郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り時計回りに周回しながら踊る踊るのですが、初日の「おどり流し」の時には、行列で会場まで踊って進むのです。その様子を「流す」と言うそうで、これは、普段は見られない様です。

  

傘の花が咲いています。実は土砂降りの雨・雨・雨  

でも、踊りの列はつづく・つづく

  

”旧庁舎記念館前”  今日の踊り会場へみんなが集まってきました

 

郡上おどりの際に演奏される囃子を総称して郡上節と言われています

  • 「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつざか」の10曲。
  • 踊る曲の順番は日によって違う。ただし、「まつざか」は必ず最後に踊る曲になっている。これは、「まつざか」は拍子木と歌のみを伴奏にして踊る曲で終わった後は拍子木を懐に入れて帰って行くことができ、片付けの手間がないために「まつざか」が最後に踊る曲となっている。なお、三味線等は「まつざか」の前の曲が終了した時点で片付けの準備に入る。
  • 囃子の構成は三味線・太鼓・笛の伴奏に唄囃子・返し言葉・掛け声。伴奏がない曲もある。

踊り子さんの様子を見て、お囃子の方が、その様子に合わせた演目を演奏して踊ると言うような説明もありました。

  • 郡上節が演奏される屋形は可動式の木造2層寺社風構造であり、永年使用される。開催日毎に会場に移動し、適所に設置される。開催期間以外は八幡町内の専用倉庫に保管されている。

     ↓  これです

  

  最初は「かわさき」が演奏されます

「郡上の八幡出てゆく時は、雨も降らぬに袖しぼる…」の歌詞でよく知られている「かわさき」。 
旅館の会席料理にたとえるなら情緒豊かな前菜盛り合わせというところでしょうか…。踊りの最初にふさわしい。

 

   

 雨が降っても、小雨程度でしたら踊りはおこなわれます。(でも、この日は結構本降りだったけどね)

「雨も降らぬに袖しぼる」ほどの郡上おどりですから、「雨が降ったらズブ濡れる」ぐらいは平気です。

見物の傘の列の中を濡れながら踊るおどり好きの人たちのことをこの町では「踊り助平」と呼んでいます。 ただし、台風や集中豪雨についてはこの限りではありません。その時は文字どおり水に流してあきらめてください  と、解説がありました(笑)

 

 

 雨の中、この日は、23時までそのお囃子は続いたそうです

(私達は、9時位で退散・・・・ご飯を食べに行きました)

 

(おまけ) 郡上八幡博覧館でみた、おどりのお人形

   

 

 

     良く見てね、ドラえもんもいるよ  

 

郡上八幡の街の散策は、次へ続く・・・・

                     


連休は、岐阜へ GO =33333 (第一弾:岐阜城と長良川の鵜飼)

2013-07-19 23:08:44 | イベント

三連休は、岐阜~郡上八幡へ旅行に行きました

 

     一日目の目玉は「長良川の鵜飼」 

でも、鵜飼は夕方からなので、昼前は、岐阜市内の観光を楽しみました

 

 ★岐阜駅前★

 

 

  キラキラ輝く「織田信長像」がまずは、出迎えてくれました(まぶしっ)  

 

★岐阜城へ★ 

岐阜公園と金華山(標高329m)の山頂を約3分で結ぶロープウェーで山頂の岐阜城へ・・・

山頂からは、眼下には自然林に覆われた金華山と長良川の自然美、岐阜市の街並みが一望できます。

     

 

山頂駅からは、徒歩で岐阜城へ登ります     

 

  

 木陰の下を歩くけど、汗ダクダク    

  

 

見えた!!  岐阜城だっ  

  

金華山(きんかざん)山頂に位置し、岩山の上にそびえる岐阜城は、難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。

戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三の居城でもありました。その後、織田信長がこの城を攻略、城主となり、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。

現在の城は、昭和31年に復興され、鉄筋コンクリート造り3層4階構造で、岐阜市のシンボルとなっています。

城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれています。

 

天守閣から、眼下に岐阜の街を見下ろします

 

 

夜に乗る鵜飼の屋形船も見えました

 

 岐阜公園を散策 

岐阜市の中央、金華山のふもとに広がる岐阜公園は、戦国時代の岐阜城主であった斎藤道三や織田信長の居館があったとされる場所。
 

金華山の大自然に包まれた園内には、信長庭園をはじめ信長居館跡、冠木門、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、立礼茶室華松軒、名和昆虫博物館等多くの施設が並び、金華山山頂駅までを約3分で結ぶ金華山ロープウェー山麓駅や金華山登山道の登り口もあります。

 

板垣退助の像が有りました。暗殺未遂事件のあった場所がここだったそうです。

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件が起きました。当時、自由党の総理であった板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行いました。その後、午後6時頃、会場から宿舎に向かおうとしたところ、入口を出た瞬間に短刀を持った刺客に襲われ格闘となり、板垣は胸や手などを負傷しました。。負傷した直後に、板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と発言したと言われています。

  

★岐阜大仏(正法寺)★

 

  

 

 1832年に、実に38年の歳月を費やして完成した岐阜大仏は、高さ13.7m日本三大仏の一つに数えられ、乾漆仏としては日本一の大きさだそうです。

大イチョウを直柱として、骨格は木材で組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたもので、胎内には薬師如来がまつられています。そのやさしい表情と荘厳さ、そして静寂な大仏殿の中はまさに癒しの空間です。

 

さっき登って来た金華山  かすかに岐阜城が見えました

 

★川原町を散策★

格子のある町家、赤くて丸いポスト、蔵の高い黒壁には挟まれた路地。織田信長の時代から商人の行き交う川湊だった川原町。

間口が狭く奥行きのある昔ながらの日本家屋が続く町並には、古きよき趣はそのままに、町家や蔵を改装したお店が多く点在します。

年々その数は増え続け、イタリアンから中華料理、カフェやスイーツ、雑貨と実に多彩。

鮎の塩焼きや鮎菓子、岐阜うちわなど、岐阜ならではの伝統的なお土産がそろうのも魅力です。

鵜観覧船のりばからすぐなので、鵜観覧前の散策におすすめのスポットだそうです

 

 

散策中に パチリ  パチリ 

 

ハートの水鉢がありました    

 

 

 

    

 

   

手湯。お湯が結構熱くて、指湯になりました。そうですね、ここは長良川温泉だった 

 

★ 長良川の鵜飼★

 

戦国のロマンを感じさせる金華山と山頂にそびえる岐阜城を背景に、漆黒の闇の中、赤々と燃える篝火を川面に映し、鵜匠と鵜が一体となって繰り広げる古典漁法「鵜飼」は、現在を忘れ千古の昔にタイムスリップしたような幽玄の世界へと誘います。
多くの文化人にも愛され、松尾芭蕉は「おもうしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という句を残したほか、名優チャールズ・チャップリンは2度鵜飼見物に訪れ、すばらしいと絶賛したと言われています。毎年5月11日~10月15日までの期間中、中秋の名月と増水時を除いて毎夜行われます。

 

 

鵜飼いはこんなスケジュールで行われます

  • 1.受付
  • 2.鵜飼説明 - 鵜飼観覧船のりばにて鵜匠による鵜飼の説明。
  • 3.乗船
  • 4.出船
  • 5.停泊 - 川岸に停泊し鵜飼が始まるまで食事等。
  • 6.鵜飼 - 鵜飼を開始する合図の花火が上がり鵜飼開始。
  • 7.狩り下り - 観覧船と鵜舟が併走し川を下る。
  • 8.総がらみ - 6隻の鵜舟が横隊になり、浅瀬に鮎を追い込んで巻き狩りする漁法。
  • 9.下船

 

鵜匠の方から説明がありました

     

 

岐阜市ならびに関市の長良川における鵜飼は、日本で唯一宮内庁式部鵜匠によって行われている(したがって身分は国家公務員である)。この鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人おり、これらは全て代々世襲制である。この鵜匠たちにより期間中に宮内庁の御料場で行われる8回の鵜飼を「御料鵜飼」という。御料鵜飼で獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮伊勢神宮へも奉納される。

全国的には鵜飼漁をする人は「鵜使い」と呼ばれるのだが、長良川鵜飼では世襲制のため古くから「鵜匠」と呼ばれている。

 

いよいよ、乗船!

 

 

打ち上げ花火が鵜飼の始まりの合図です

 

 

総がらみが始まりました

 

鵜たちも今日の仕事を終え(笑)、濡れた体を火のそばで乾かします

船頭さん曰く、火のそばにいるのは古参の鵜だそうです。火の近くの方が早く渇くからなんだそうです。ちゃんと年功序列なんですね

 

 

★おまけ*岐阜で食べた美味しいもの★

  コメダ珈琲 

 

名古屋で有名なお店ですよね  岐阜の街でも見つけたので迷わず入りました

 

鵜飼い時に船の上で食べたお弁当  鮎の塩焼きと甘露煮が入っていました

 

★おまけ*織田信長バスもありました★

バスの車体には岐阜市ゆかりの戦国武将「織田信長公」のイラストが大きくプリントされ、内装も戦国時代風にデザインされています。8台の「信長バス」があるそうで、全部イラスト」が違うそうですよ

専用の吊皮は、織田家の家紋

織田信長の家紋の中ではこれが一番有名みたいです。The Best of 織田家といいますか、まさに織田家を象徴する家紋です。今でも残されている伝信長の甲冑や、秀吉に下賜した陣羽織にはドーンとこの家紋がついてます。ちなみにこの家紋、元々は尾張守護の斯波氏より拝領したものだそうです。

 

そして、岐阜のマンホールの蓋は鮎を捕っている「鵜」でした

 

 

で、これは、ゆるきゃら その名も うーたん

 

岐阜編はここで終わり、翌日は、長良川鉄道で郡上八幡へ向かいました 

( つ・づ・く  )