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夜は、郡上おどりを楽しんで、昼間はゆっくりと街の散策を楽しみました。
水・街並み とても風情があり、時間もゆっくりと流れているようでした
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デジブック 『郡上八幡を訪れて』
郡上八幡博覧館
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大正9年に建てられた旧税務署を、当時の外観はそのままに利用した、現代とレトロが融合したミュージアムです。
博覧館の名称は「博物館」と「博覧会」との合成語だそうですよ
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博覧館では、郡上おどりを浴衣姿のスタッフが楽しく紹介してくれていましたよ ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
館内は、郡上おとりの雰囲気満喫
郡上八幡旧庁舎記念館
昭和11年に建てられた洋風建築で、木造2階建て、床面積は約800㎡。外壁は板張りに縦長の端正な窓、屋根組みは当時最新の技術であったトラス工法が用いられています。
平成6年まで八幡町役場として使われていたこの建物は、平成10年国の登録文化財に指定されています
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長敬寺
1601年(慶長6年)に郡上八幡城主遠藤慶隆により東常縁の玄孫にあたる正勧坊正欽を招請し当寺を創建して遠藤家の菩提所としたのが開基とされ、境内には遠藤慶隆の墓所があります
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安養寺
1256年(康元元年)親鸞聖人の直弟である西信が近江の蒲生郡に堂を建て安要寺とし、後に美濃に転じてから蓮如の命により安養寺と改められました
郡上八幡へは城主井上氏の入部とともに移転。浄土真宗の布教の展開により「郡上御坊」の呼び名で隆盛を誇っていたそうです
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郡上八幡の家並みの中にひときわ目を引くのが間口、奥行きともに16間という壮大な本堂。木造の建造物としては岐阜県下で最大のものといわれます
郡上おどりの碑もありました
慈恩禅寺
1606年(慶長11年)、時の郡上八幡城主遠藤慶隆が開基となり、妙心寺円明国師の高弟半山和尚を迎え、釈迦如来を本尊として創建された古刹です。
遠藤氏と金森氏等の遺跡や重文を多く保存し、山内一豊の妻である千代の出生についても不明とされていた部分がこの寺にあった家系図によって明解にされたいきさつがあります
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勅旨岩
明治26年に大水害により裏山が崩壊した時来られた、明治天皇の勅旨が被害状況を把握する為に立たれたと岩と言われています
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烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祭られているお堂
この神は、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏だそうです。
信心すると、下の世話をして貰うような長患いをしなくて済むと書いてあったので、二人でしっかりお参りしてきました ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_en.gif)
莖草園(てっそうえん)
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名勝の庭園である莖草園(てっそうえん)は東殿山麓の巨岩をそのまま生かした室町様式の禅宗庭園
つつじの刈りこみや池をおおう楓の大樹が美しく、静寂の中を滝の水音が響き幽玄な雰囲気が漂います(中での写真撮影はダメだったので、インターネットで写真を探してみました)
丁度、訪れたときは二人だけだったので、外界の暑さを忘れて、静かな時をしばし過ごしました
郡上八幡城へ・・・・
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NHK大河ドラマ「巧名が辻」の山内一豊夫人 千代は、司馬遼太郎さんの原作では近江の国出身になっていますが、近年では郡上出身説が有力になっています。又城山公園には郡上市有志による「山内一豊夫人顕彰会」が建立した山内一豊の妻 千代の銅像があります
この銅像です
山道をテクテク(いや、ゼイゼイだったかも
)登りました
海抜353.95メートル 市街地から129.75メートル
いよいよお城へ
郡上八幡城 (積翠城)
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郡上八幡城の天守閣は再建80周年を迎える日本最古の木造再建城であり、戦後の築城ブームで再建された多くのコンクリート製の城とは一線を画した美しさは、作家・司馬遼太郎をして日本で最も美しい山城と言わしめた白亜の天守閣、郡上八幡城!見晴台からの眺望も抜群です。
郡上八幡城 (積翠城)の沿革 ![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/76/7deeef3fa5afbe5354587dafd9f88e7f.jpg)
郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大 垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。
郡上八幡城で見かけた見どころをご紹介
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力石(ちからいし)伝説
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遠藤慶隆が八幡城復帰後に八幡城を改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたという。その中で剣村(現大和町)の通称赤髭作兵衛なる者が1m×75cm、約350kgの大石をひとりで背負い上げたという。普請奉行がその力量を深くほめたたえたとたんに彼はその場で倒れて息たえたという。普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたという。昭和8年に模擬城の建設にあたり放置されていたこの石を現在地(八幡城庭園内)に安置している。
およし物語
およしが祀られているお堂
青山藩士羽生某の三女として生まれた羽生(後に山川) 某女の伝えとして次のような話がある。「私の母は郡上藩士青山家の分家青山某の二女で羽生家へ嫁いだものである。この母から子供時代の話に大和村牧(妙見)の羽生家に、当時一等の美人といわれたおよしという娘がおった。この娘が選ばれて八幡城を築く際に人柱として生き埋めにされたという話が残っている。 八幡城本丸跡の石段の下でオヨシオヨシと言って手を叩くと泣くような声がするといわれ、私たちも子供の時、手を叩いたことがある」。こんな話がもとで「およし物語」が作られた。現在でも八幡城天守閣前には「およし観音」があり、およしの霊が祀られている。
戦国時代の荒々しさを偲ばせる石垣
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天守台の石垣のほとんどの部分は、天正16年(1588)ごろに稲葉貞通の大改修の際に築かれたもので、戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積(のづらづみ)と呼ばれる工法によるものです。一部に打ち込みハギの手法も見られますが、碁盤の目のように並べられた切石積とは対照的な石垣となっています。
昭和30年(1955)に天守台すべての石垣が岐阜県の史跡文化財の指定をうけました。
町全体が鮎の形に見える天守閣からの眺望
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天守閣に上れば重なり合うような奥美濃の山々のうねりと狭い盆地にびっしりと軒を連ねる城下の家並みが見事な眺めを見せ、町の中央を洗う吉田川の瀬音が山頂までとどいてきます。
そしてその流れをたどれば長良川の波光が城下町の向うにきらめいて見えます。
郡上鮎の本場として知られるこの町が天守閣から眺めると町全体が鮎のかたちに見えるというのも偶然の産物だと言われているようです
郡上八幡城を見守る一豊と千代
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有名なエピソードに一豊が「馬揃え」を目前にひかえて困っていたとき、千代は鏡台から10両をさし出して駿馬を買わせ、それが信長の目にとまって一豊の出世の糸口となった逸話があります。
この千代が諸説ある中で初代郡上八幡城の城主遠藤盛数の娘であったという説が有力であり、現存する遠藤家の系図には「盛数の娘山内対馬守室」(妻の意味)と記されています。
「功名が辻」原作者司馬遼太郎氏が日本で一番美しい山城と評した郡上八幡城や旧本丸屋敷跡に、城下町を見守るように立つ一豊と千代の銅像。
凌霜の森
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今、大河ドラマでも有名になっている 会津藩白虎隊と縁が深い郡上藩凌霜隊の慰霊碑がありました。
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郡上藩凌霜隊
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幕末。戊辰戦争が始まると、郡上藩もその去就に迷いました。
国元、郡上の藩論は、朝廷への恭順を決定しましたが、江戸藩邸ではその決定に異論を唱え、あくまでも幕府軍につくことを唱える一派がありました。
江戸家老、朝比奈藤兵衛は、幕府軍の勝利したことも考え、息子、朝日奈茂吉(当時17歳)を隊長とする47名を脱藩させ、幕府側の一隊として「凌霜隊」を組織しました。
凌霜隊は北関東を転戦。前橋、小山、宇都宮。那須塩原から大内峠をこえて、会津若松へ入城。鶴ヶ城の篭城戦を会津藩士とともに戦いました。
会津開城後は、罪人として郡上八幡に護送され、禁錮の処分を受け入牢。明治3年釈放されました。
日本一 の 文字の入ったご神体 (積翠神社)
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”日本一” ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_t.gif)
郡上八幡城のふもとにある積翠神社の御神体です。安政3(1856)年江戸下屋敷にある槇の木が倒れ、その中から『日本一』の文字が現れました。それを見た藩主青山幸哉は吉兆の知らせだと言う事で、積翠神社に祭りました
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