ぼくちゃん & 相棒 の ひ・と・り・ご・と

旅行したこと、近場のお出かけ、美味しいものを食べたこと etc… 

第11回 北九州無法松ツーデーマーチ ☆二日目☆

2017-09-30 15:12:53 | ウォーキング

 9月24日(日) 二日目です

今日も、朝は空気はひんやりとして、日差しは雲に隠れて、ウォーキングにはぴったりです

(やはり、まだまだ、日差しが有ると暑いもんね ☀☀)

 

[ 24日() ] 伝統と浪漫の西コース   美術の森探索コース 20キロ  を歩きます

 

会場には、「九州マーチングリーグ」の旗が並んでいます

 

開会式です!

 体操もしっかりと!

  昨日と同じく小倉祇園太鼓のお見送り有り

 

スタート  昨日と同じく、行列・行列 

 スマッキーくんもお見送り

 そして、北九州のMさんのワンちゃん達も見送ってくれました

この子たちも立派な参加者ですね(ゼッケンつけてますね)

 

 

今回は勝山公園に中を通って進みます

昨日のスタート時よりも、歩く道が広いので歩きやすいです

 

アルモニーサンク(ホテル&ホール)前を通過します

 

原町緑道を通って、清水に入ります。ここは、旧長崎街道を歩く事になります

 

二日目は、前半は長崎街道を歩きます

◎長崎街道◎

江戸時代、徳川幕府は江戸中心の街道を幹線道路とし、全国に宿駅を整備しました。街道には五街道と脇街道がありました。豊前小倉と長崎を結ぶ長崎街道は、九州で唯一の脇街道です。57里(約228キロメートル)のこの街道には25ヶ所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎・木屋瀬(現在の八幡西区内)、飯塚・内野(飯塚市内)、山家・原田(筑紫野市内)の各宿は、筑前六宿と呼ばれ、大変なにぎわいをみせました。
 長崎街道は鎖国体制を敷いていた日本の中で、唯一外国との文化交流や通商の窓口にしていた長崎から西洋の文化や新しい技術などを伝える文明の道として、重要な役割を果たしていました。長崎奉行やオランダ商館長が江戸往来に利用し、また九州西半の大名が参勤交代のために通った他、多くの学者や文人、象やクジャクなどの動物も通っています。

  歩いている道に「長崎街道」の表示があります

  長崎街道のプレートが有ります

 

 

◎九州鉄道茶屋町橋梁◎  北九州市の指定遺跡

板櫃川の支流、槻田川に架かる赤煉瓦造りのアーチ橋は、明治24年4月に開通した九州鉄道大蔵線の橋梁として構築されたものである。橋梁の壁体は煉瓦の長手と小口を交互に積んだイギリス積で、アーチは煉瓦の小口を五段積にした弧型アーチ、アーチの載る迫台は花崗岩の石積みである。壁面は、北側の一部分だけ一段ごとに煉瓦を迫出して意匠としている。その後官営八幡製鐵所の開業などに伴い、明治35年戸畑線(現JR鹿児島本線)が開通、同44年9月に大蔵線は廃線となった。

 

途中の街道沿いに足の形の像が置かれていました

昭和6年と彫られているので比較的新しいもののようですが、不思議な像です

 

皿倉山も随分近くに見えてきました

 

◎荒生田の一里塚◎

 

 

 ◎国境石◎

この国境石は、建立された当時の位置にあるそうです  昔の人もこの石を同じ目線で見ていたかと思うと感慨深い・・・・

そして、チェックポイントの高見神社に到着しました

 

◎高見神社◎

 約10万平方㍍の広大な鎮守の森と桜の名所に囲まれた高見神社は、19柱の神様を祭る由緒深い神社です。
 神功皇后が、新羅・百済・高麗に守護軍を派遣した際、岡(旧遠賀郡)県主・熊鰐は山口県豊浦まで迎え、御船に三種の神器を奉り、洞海湾まで導き、湾岸の小山・大字尾倉字高見(現スペース・ワールド西側)に戦勝祈願のため、高祖神12柱を祀ったのが創始と伝えられます。以後、県主や歴代城主らに厚く庇護され、江戸時代には高見大神宮と称されました。
 明治29年(1896)、官営八幡製鐵所の建設に伴い一時、春の町の豊山八幡神社に遷移されましたが、昭和8年(1933)、平成天皇ご誕生と日本製鐵株式会社発足を慶機に10年がかりで現在地に社殿を建立、遷移されました。その後、若宮社など3社の7柱が相殿に祭られ、ご祭神は19柱となりました。
 毎年1月、新日鐵住金八幡製鐵所や関連会社が開く新年安全祈願祭は恒例行事となっており「ご安全に」の声が境内に響きます。氏子は八幡製鐵所並びに高見地区。

HP ↓ 

http://takamijinjya.com/index.html

 境内の中に、吸い込まれるようにみんな上がって行きます

 バナナと飴、ドリンクで一休止 

 

 

40キロとはここで分かれ、緑の20キロに進みます ==333

 ここからは、森の中の道を進みます

これまでの、街中の道とは全然違います。でも、ウォーキングだったら街中を歩くより、ここの方が楽しいかな??

そして、この辺りは、ぼくちゃんの最近の自主トレコースです

 

20キロコースは ”美術の森探索コース”

高見神社からは森の中を歩きます。そして、美術館近くを通るときには、屋外にいくつか彫像が置いてあるのです

  落葉の道

 

修繕工事のため、本館は平成27年9月から、休館中です。 

リニューアルオープンは、平成29年11月3日だそうです(もうすぐですね)

 

美術館は、高台にあるので、眺めが良いのです(その分、上って来たけど・・・・)

  全景はこの様な建物です。

この時歩いているコースは、美術館の屋根を見下ろす道になってますね

ここからは、また少し緩やかだけどしばらく上りになります

この辺は、八幡東区と戸畑区の区境になります

小倉北区(勝山公園)➡高見神社(八幡東区)➡戸畑区に入りました

 再び戸畑の街中に入ります  

 ゾウのぱん 🍞少し気になるけど、また今度にしよう

 

 

アイス休憩  今日は、ガリガリ君ではなくて、ミルクックにしました  これも美味しいんだよ

 

20キロコースには入っていませんが、この「なんじゃもんじゃ通り」には歩道になんじゃもんじゃの木が植えられています

4月下旬から5月上旬に純白の花をいっぱいに咲かせ、見ごろを迎えます。 

そして、夜宮公園にある夜宮池と日本庭園には、約7,000株の花菖蒲が植えられており、花の季節には菖蒲祭りも開催されています。

明治44年に建てられた国の重要文化財「旧松本家宅(西日本工業倶楽部」も有ります

 矢印の通りに歩きます

商店街を抜けると

ウェルとばた 二つ目のチェックポイントです

 バナナ、いただきます

コースは、ウェルとばたの中を通り抜けるようになっています。中には、戸畑祇園山笠が展示されています

 

◎戸畑祇園大山笠◎

戸畑祇園大山笠は国の重要無形民俗文化財に指定されており、博多祇園山笠、小倉祇園太鼓とともに福岡県の夏の三大祭りと称され、平成28年には、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
210年を越える歴史を誇り、昼は4基の大山笠が古式ゆかしく12本の大幟を立て、練り歩きます。

 HP ↓

http://tobatagion.jp/

昨年は、桟敷席で山笠を鑑賞しました(鑑賞券を頂いたので !(^^)!)

少し高いところから観る山笠は、提灯を組み上げるところも、競演会で大山・小山 の8基の山が走る様子もとても見応えが有りました

 ここからは、小倉のゴール 勝山公園へ向かって帰ります

 

行きは長崎街道、帰りは唐津街道を歩きました

唐津街道は江戸時代に整備された街道の一つ。長崎街道から分かれ博多等を経由して肥前国松浦郡唐津(現佐賀県唐津市)に至る。起点については大里(現北九州市門司区)、小倉(現北九州市小倉北区)、若松(現北九州市若松区)、木屋瀬(現北九州市八幡西区)など諸説あるそうです。長崎街道の脇街道としての役割のほか、沿線の福岡藩(黒田氏)、唐津藩(小笠原氏ほか)の参勤交代にも使用された

 ここが「唐津街道」 ちょっと寂しいかな

北九州はあちこち歩いたり、車で通っていますが、この道は初めてでした。1本外れた大通りは、バスで通ったり、歩いたりなど利用する道だったのですが、住宅地の細い道です。

 

 この橋の下は、「くろがね線」です

 

くろがね線は、新日鐵住金(旧・新日本製鐵)が北九州市戸畑区・八幡東区に設けている八幡製鐵所の、戸畑地区と八幡地区を結ぶために敷設した専用鉄道の通称である。

 

 

八幡製鐵所では、戸畑で操業していた東洋製鐵と1921年に合併した当時から、戸畑地区で生成する熔銑を船舶で八幡へと輸送していたが、海上輸送のリスクと不経済性が指摘されていた。一方八幡地区では、鉄の製錬過程で発生する鉱滓(こうさい)の処理が問題化していた。これらの打開策として建設されたのが、くろがね線である。1927年3月に起工し、1930年2月に開業した。開業当初は、戸畑から八幡へは銑鉄を輸送し、鉄の製錬工程の一端を担う一方、八幡から戸畑へは埋め立て用の鉱滓を輸送し、戸畑地区の拡張に寄与した。

開業時は炭滓線(たんさいせん)と命名されていたが、炭滓の輸送がほとんどなくなったことから1972年に社員公募を実施し、現在のくろがね線という通称が生まれているそうです

 かつては複線であったが現在片側の線路は撤去されています

 

 給水ポイント

 水分・糖分補給 (''◇'')ゞ

 

旧唐津街道のコース設定でしたが、面白い看板が有りました

きんたま坂  思わず、立ち止まって クスリ(笑 ( ´艸`))  そしてパチリ 📷

旧唐津街道の坂に「きんたま坂」と名前がついた坂があります。筑前國側(現在の戸畑区)から国境(境川)を超えて、豊前国に入り
坂を上り、頂上から眼下の小倉の城下町や遠くに長州を眺める事が出来た場所です

ここには「金玉坂」と彫られた石柱があったようですが、現在は不明となっています。
金玉坂と呼ばれる面白い名前の語源が諸説有るようです
①昔、この付近に木こりが住んでいて、囲炉裏のところで、寝ていたときに、囲炉裏の火が男の急所に燃え移り、その事によって名前が付けられた説。
②この付近でバレイショがとれていて、別名金玉イモと呼ばれた事から名前が付けられた説。
③ここで決闘が行われ、一人が木の根に足が引っ掛かり、そのはずみで木の根か石で急所を打って動けなくなり相手に討たれた事から、名前が付けられた説。昭和25年頃まで、地蔵様が祀って有ったと言う説

そのほかに「重い荷物を運ぶ馬がこの金玉坂を登る時に悲鳴をあげたから・・・」これが一番納得かも (#^.^#)

 

 

ここは、もう小倉北区です 。途中から、再び一緒に歩いている北九州のIさんから、小笠原藩の処刑者の供養塔が有ると教えて貰いました。

 

この平松地区には、処刑場が有りました。江戸時代には、八百屋町に「獄屋」がありました。死罪が確定した者は処刑のために八百屋町→室町筋→鋳物師町→平松へ出て、板櫃川の「地獄橋(今は極楽橋)」を渡り、首切地蔵の前を通り処刑場で処刑されました。 

◎日明濱處刑諸霊塔◎

この処刑場では多くの者が処刑されましたが、中でも有名なのは小笠原6代藩主忠固の時代の文化11年(1814)に、小倉で小笠原藩を二分する騒動(白黒騒動)があった時のリーダー格の儒学者上原余市は吉見陣(俗称砲台山)の烽火台に火をつけたので「火あぶりの刑」に処せられました。その、沢山の処刑者たちの供養塔は今でも残っています

真向かいに見えるあたりが「処刑場」だったそうです

ゴールに向かって、歩きます  新幹線の高架も見えてきました

 

再び、長崎街道に入ります 

 西小倉駅

 

西小倉駅の前には、「小倉城」の大門跡が有ります

誰でも見えるようにしてあるのですが、ガラスに水滴がついて、良く見えません

何度が見ているところなので、看板を確認してから先に進みます

 長崎街道を、常盤橋に向かって進みます

 

黒い郵便ポスト

ここには、室町郵便局が有り(現在、移転) 長崎街道のイメージに合わせて設置、局が移転後もそのまま残っています

 

常盤橋が見えました!

昨日は、この橋の反対側の道を歩いて、ゴールでした

 

 

 こちら側には、昔の常盤橋の橋脚が有ります

 

 

 さあ、後、少し

 リバーウォークを見ながら、紫川沿いを歩きます

 小倉城を横目に見ながら

ゴ~~~ル

 

今日は、くじ引き  当たりました

 

 下二けた 75番  お菓子GET

 本日の実績  お疲れさまでした

二日間、地元の道を歩き、ほぼ自主トレで歩くエリアでしたが、やっぱり 新発見も有り!!!

二日目、私たちは気づかなかったのですが、戸畑に入ったところの唐津街道で「戸畑の一里塚」があったと、歩友さんのブログに載っていました。後日、確認に行きましたが、注意深く見てないと見落とすところです。

 戸畑の一里塚  後日確認です  知らなかったなぁ~

  

お天気も良かったし、沢山のウォーキングのお友達にも会え、楽しい二日間でした

  次は、平戸に遠征だ~  秋はウォーキングシーズンですね

 

おしまい

 


第11回 北九州無法松ツーデーマーチ ☆一日目☆

2017-09-26 19:55:13 | ウォーキング

9月23日(土) 24日(日)の二日間  北九州無法松ツーデーマーチに参加しました

地元のツーデーですが、実は参加は2回目。二日間とも歩くのは初めてなんです

遠方からもウォーキングのお友達も参加されると聞いていますので、皆さんとお会いできるのも楽しみの一つですね

 

 

[ 23日(土) ] 文化と歴史の東コース  門司往還散策コース(20キロ)に参加です

 

 

スタートの勝山公園に到着です。いつものガンバル!ポーズでパチリ

 飛び跳ねてみましたが・・・・体が重いwwwww

 

開会式

九州マーチングリーグの方々 それぞれの旗を持っての登壇

小倉祇園太鼓の音が会場内に響きます    そろそろスタートです!(^^)!

 スタート!!!だけど、すごい人です。ぞろぞろとウォーカーさんの集団が進んで行きます

 

 北九州市健康イメージキャラクター"スマッキー"くんのお見送り

 

今日は、勝山公園から小倉の街中を通り、妙見神社経由で門司方面へ向かいます

紫川沿いを歩きますが、遠くから見ても人・人・人の列

 

 無法松の碑

 ここは、いつも綺麗に掃除されているんですよ

 小倉の作家岩下俊作が、小説「富島松五郎伝」の中に作り出した男、松五郎(無法松)は、北九州人の代表というより、情義に生きた、日本人のあこがれの庶民像として全国的に慕われています。
この碑は、無法松を愛する土地の人々によって、昭和34年、彼が住んでいたこの古船場の地に建てられました。
碑銘は岩下俊作の筆で、碑の下には昭和33年ベネチア映画祭でグランプリを受賞した稲垣浩監督の「無法松の一生」のシナリオが埋められています。毎年3月4日には碑前で供養が行われ、小倉祇園太鼓をたたき、無法松の好きだった酒をそそぎます。月命日の4日にも毎月行われています。

 

 小倉の街中を歩きますが、小倉城下の名残で、色々な門の跡の表示が有ります

この門の跡を回るだけでも、10キロ位のウォーキングコースになります

 

市街地を抜けて、妙見神社に向かう道  だんだん坂道になって来ました

 

 緩やかだけど、ずっと上る・・・・・

 

ようやく、妙見神社に到着    最初のチェックポイントになります

◎足立山妙見宮◎

宝亀元年(770年)和気清麿が創祀した全国唯一の神社で、全国妙見神社の総本宮となっています。また、和気清麿の足が立った御神徳が受け継がれ足の神様として厚く信仰されています。清麿は、宝亀元年四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地、足立山に送り、足立山妙見宮を創建。 772年、国司大伴百世の助けを得て、足立に下宮足立山平癒寺を建立。817年、清麿の三男参議真網卿が、宇佐の帰り、下宮に清麿公と祖先の神霊を祀る。853年、太政大 臣藤原良房(804~872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進。1520年頃、後柏原天皇より、全国神社の紋章としては妙見宮だけのものである「うら菊」を授かる。この紋は、和気氏の流れ、和気明親が後柏原天皇(1501~1526)から、和気氏の家紋として授かったものです。1601年、細川忠興が、眼病平癒を祈願し、この成就により妙見宮を下宮として現在地に移す。 その時、日向から取り寄せた松を植樹。1870年頃、平癒寺を御祖(みおや)神社と改称。1945年、足立山妙見宮を再称。

HPです → http://myouken.or.jp/page-62/  

階段の上がチェックポイントなので、大勢の人が上がっり下ったりです 

 

 

 飴と給水

 

 お参りもね  今日も楽しく完歩できます様に!

 

和気清麻呂伝説
奈良時代の神護景雲3年(769年)、太宰府の神司(かんづかさ)である中臣阿曽麻呂(あそまろ)は、女帝称徳天皇に「弓削道鏡を天皇にさせなかったら、天下は納まらない。」という宇佐神宮の神託があったことを報告しました。これを聞いた天皇は、後継者問題で頭を悩ましていたが、道鏡の間柄は都中に知れ渡っていたので、宮廷貴族達を納得させるには、父聖武天皇の信仰厚かった宇佐神宮の神託を再度確かめるいがいにないと考え、和気清麻呂を宇佐神宮へ派遣した。しかし、神託は、「道鏡を天皇の位につけてはなりません。」ということで、道鏡の天皇即位の望みを断たれた天皇は、清麻呂が嘘の報告をしたと言うことで、足の筋を切り、大隈(鹿児島県)へ島流しにした。大隈への途中、宇佐の海辺の村にたどり着いた清麻呂のもとに、200頭ばかりの猪が突然現れ、彼を宇佐神宮まで連れて行ったところ「企救郡(小倉南区)の山の下の温泉に入りなさい。」という神託があったので、その通りにすると足の傷は治りました。そして、近くの山に登り、造化神北辰尊星妙見に天皇の安泰と反逆者がいなくなることを祈ったところ、造化の天神が現れ『汝の願い聴きいる』という神託をうけた。 この後、この山を「足立山」と呼ぶようになったと伝えられています。また、この時入った温泉は、足立山の麓に、今も「湯川(小倉南区)」の呼び名で残っています。

 

和気清麻呂伝説にもある様に、弓削の道鏡の天皇就任を阻止のために宇佐神宮の託宣を確認した和気清麻呂は足の筋を切られ大隈国に流される途中、救出されて宇佐神宮のお告げで小倉の足立山に行って、足の治療をして、さらに足立山頂で天皇の安泰を願ったら、その通り叶えられたので神社を創建したそうです。

この為、ここは「健脚・健康の神様」としてもご利益が有るようです  ツーデーにはぴったりのチェックポイントですね!(^^)!

 沢山の健脚祈願が有りました

 

そして、ここは狛犬ならぬ「狛いのしし」です

 今にも走りそうだ~

 

和気清麻呂像

猪に乗っています (わかるかな???)

 

 

ここからは、足立山の中腹に通っている道を歩きます(足立山森林公園)

JR九州ウォーキングでも、この辺は歩いたことが有りますが、やはりアスファルトの道より土の道の方が歩いていて楽しいです

 

 

◎小文字焼き◎

北九州の盆行事の一つとして親しまれる暑い真夏の夜を彩る風物詩。 盆の迎え火として、8/13の夜に山頂に青竹300本で描かれた「小」の火文字が現れます

この辺りから、色々なルートで散策できるようですが、今回は、山には上がらずに若干のUP/DOWNは有りますが、門司方面に歩いて進みます

 どこかで行ってもまだまだ人が多い!

 

◎手向山公園入口◎

ここを過ぎると、門司区に入ります。今回はコースに入っていませんが、公園まで上がれば、関門海峡や巌流島が望めます

そして、宮本武蔵と佐々木小次郎の碑があります。低い山ですが、上がると意外と大変です。今回はその横を通過で良かった(笑)

 

門司区を歩きます。この道を真っ直ぐ下ると「JR門司駅」

 JR病院の先に見えるのは、「戸ノ上山(標高517.8m)」

上まで上ると、北九州空港など、新門司方面や周防灘まで眺めることが出来ます

40キロの人は、ここからさらに門司港まで歩き、関門トンネルの人道を歩いて、下関のみもすそ川で折り返しとなりますが、

私たちは20キロなので、左折して関門海峡に向かいます

 

安徳天皇 柳御所  御所神社  に着きます

今回は、裏から回ったので、「稲荷神社」の鳥居をくぐってから柳御所に出るようになっています

 金ぴかの狐が座ってる!  なんだか商売繁盛って思えますね

 

源平合戦で知られる平家一族が、合戦の間、海上生活を送っていた一時期、安徳帝の仮の御所があったと伝えられる神社。 御所のことを内裏(だいり)というので、この辺の地名はその名残りで大里(だいり)とよびます。場所:大里戸ノ上1丁目。 柳の御所ともいう。 平家ゆかりの地です。

 

 ここでもお参り

 

◎九月十三夜の歌読の事◎ 平家の公達が詠んだ歌の歌碑がありました

 

 表から出ます(笑)

 

 海岸沿いに向かって進みます

 

◎大里宿◎

 門司から現在の国道3号・国道199号を小倉方面へ向かうと、まもなく大里の町があります。
古くは、「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていましたが、寿永3年(1183年)都を追われた平家一門が、安徳天皇を擁してこの地に「柳の御所」を設けた事で「内裏」と呼ぶようになり、それが江戸時代に今の大里と改められました。
関門海峡に面したこの町は、関門橋が架かる早鞆の瀬戸に次いで下関側と接近しており、比較的に潮流も穏やかな事から古くから関門を渡る港として利用されていました。
江戸時代、譜代大名の小笠原家が寛永9年(1632年)に小倉藩主として転封し、やがて参勤交代の制度も始まった事で、大里は海峡を渡る大名や旅人の宿場町として賑わいます。
今も残る街道筋は、海側の国道199号と山側の国道3号、JR鹿児島本線とほぼ平行に通っており、道筋には当時を偲ばせる民家や街道の松が残っています。

 

歩くコースには、長崎街道に関するいくつかの石碑を見ることが出来ます

 

◆人馬継所跡◆

 参勤交代の大名に人足や馬を提供する人馬継所跡などの碑

 

◆一里塚跡◆

大里宿は江戸への玄関口であり長崎街道の始終着駅でした。藩政期街道要路には里程の目安として一里塚標石を設けていました

 

◆大里宿跡◆

大里宿は長崎街道に沿った直線五町五十二間(約646メートル)の町並みで、ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建ち並んでいました。また、この碑の西隣には長崎番所が設けられていました。

 

◆御番所跡◆
本土との渡海口に当たりここの在番役人は舟の出入り、人馬の切手改め、荷抜けの取り締まりを行っていました。当時、御番所はこの碑のある海側にありました

 

◎門司麦酒煉瓦館◎

サッポロビールの跡地

以前、工場の見学で中に入ったこともあります。現在は、サッポロビール工場は日田に移転しています

 冷たいのが飲みたいね ☆☆

 

 栄養補給も大切ね

 

イラストレーターのわたせせいぞうさんは、北九州市の出身です

壁画が門司駅裏にあります

 

関門海峡沿いを歩いて、小倉方面に向かいます

この辺では、ウォーカーさんはほとんどいません。 潮風を受けながら気持ちよく歩きます

海沿いでは、釣りを楽しんでいる方も沢山いましたよ

 鯛(だよね??)が釣れた!!

 お世話になります

 

ゴールまで、あとわずかです

 ◆岩松助左衛門生家跡◆

岩松助左衛門は、明治初頭、長浜(小倉北区)の、小倉沖の白洲(しらす)付近で船の遭難が相次ぐことを見て灯台を建てようと、私財を投じ義金を募って建設にかかったが、私設灯台禁止により政府の手ですすめられ、完成前に灯台を見ることなく亡くなりました。
北九州市が作成しているHPにも詳しいことが載っています

http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokurakita/file_0079.html

西顕寺の本堂前に灯篭型の助左衛門の墓があります(小倉駅前のコレットのすぐ近くです) 

この手前で、10キロとも合流してきて、周囲にウォーカーさんが増えてきました

 

この先は、ミクニワールドスタジアム北九州  ギラヴァンツ北九州のホームグラウンドです

 

四国の松山に行く時には良く利用します  小倉松山フェリー乗り場

 

小倉駅の裏を通り、紫川沿いに勝山公園へ戻ります

新幹線の高架と鹿児島本線の下を通ります

 ソニックだ

 

◎常盤橋◎

常盤橋は、長崎街道の起点、『常盤橋』は、細川忠興公が小倉城下町を建設する際、東曲輪(町人町)と西曲輪(武家屋敷)を結ぶ重要な橋として架けられました。

第8代将軍徳川吉宗のときには、将軍に献上するためにベトナムからやってきた象もこの橋を渡りました

象が渡っても壊れない橋だったんでしょうね~~

現在の常盤橋は、木の橋として江戸時代の姿を再現したもので、当時のくいの一部は、今も橋のたもとに残されています

北九州市のHPにも詳しいことが掲載されています

http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokurakita/file_0093.html

 ◎常盤橋の広告塔◎

明治23年頃に建てられたものであるが、平成15年に再建されました
当時は現在の約3倍の大きさあったといわれており、高さは約12.5メートル、総幅は約4.2メートルであったとされているそうです
森鴎外の小説「獨身」に広告塔は西洋から直接小倉に伝わり、「東京にないもの」のひとつとして、「常磐橋の袂(たもと)に圓(まる)い柱が立っている。これに広告をはりつけるのである。」と記されているとのことである

 

伊能忠敬もここに立ち寄っています。日本全国を測量した「測量日記」には、1810年(文化7年)1月12日に、「室町の三つ辻より、常盤橋を渡り、常盤門をとおり...」と、記録が残されています。

 

勝山公園に帰ってきました!これでゴール

 

 20キロ完歩です

 

 お疲れ様でした!

 

 

 

 この日の参加者

40キロコースの参加者が一番多い!ビックリです

10月に開催される、行橋~別府100キロウォークの参加者の丁度良いトレーニングのツーデーだからなのでしょうね~

 

ゴールの後は、神戸と加古川から参加のウォーキングお友達と小倉城をプチ観光

 

「迎え虎」と「送り虎」

小倉城が消失した慶応2年寅年(1866)に因んで描かれた雌雄一対の「迎え虎(雄虎)」(左)と「送り虎(雌虎)」(右)。各・高さ4.7×幅2.5m 昭和35,36年作  

迎え虎はいずれの位置より見るも真正面に見えるところから八方睨みの虎とも言われています

 う~~ん 睨まれてる!

 迫力あり!

 

迎え虎と送り虎をモチーフにして誕生したのが・・・・・

小倉城のオリジナルマスコットキャラクターは、カブトからはみ出すほどの大きな頭がチャームポイントの「とらっちゃ」

 こっちは可愛い ❤

 

 今日の実績です

 

一日目も、曇り空で、ウォーキングにはぴったりの天候でした。ゴール手前位からは、日差しも照りだして、やはりそうなるとまだまだ暑かった!

翌日も天気予報では、雨の心配なし  良かった良かった

ゴールでも、色々な方にお会いでき、楽しい一日でした

 

<二日目に続く>

 


佐賀県ウォーキング協会の例会でいで湯の里 嬉野を歩く

2017-09-10 20:27:07 | ウォーキング

 久しぶりに、佐賀県ウォーキング協会の例会に参加しました

開催場所は「嬉野温泉」  少しばかり遠出のウォーキングです

 

嬉野は、「お茶」「温泉」「焼き物」ので有名  マンホールの蓋もアピール(*^。^*)

 嬉野市役所 嬉野庁舎に集合

 

  

受付後は、元気に体操をしてから出発です!!! 

 

良いお天気です☀ 

 

 

 みゆき公園

この中を通過します

 少しだけ、上り

 

 

 池の周りは、木立ちが有り遊歩道になっていました

 球場もあります

 みゆき公園を出た後は、田んぼの間の道を歩きます

 

ウォーキングはお天気が良ければ、アスファルトの道より、こんな道の方が歩いていて楽しいですね~ 

 

 

 太寧山 瑞光寺

嬉野家の請により石室善玖大禅師が開基。嬉野が長崎街道の宿場町として栄えたころには、大名など高級武士の宿泊する本陣として使用されたこともある。本尊には運慶作といわれる薬師如来像が祀られており、旅の必見のひとつ。

江戸時代に大名の本陣としてしようされたお寺なので、建物も大きくて立派でした

また、寺内の道はまっすぐでは無くて、攻められても守りを固めるために曲がっているそうです

 山門も立派です 

 

 

 山門の所にあり、見上げると覆いかぶさる様です

 

 

 豊玉姫神社へ向かいます

 

 豊玉姫神社

豊玉姫とは、海の神(ワタツミ)の娘で、富と権力・子孫繁栄、また、水の恵みをつかさどる神でありその容姿は大変美しいといわれている。その豊玉姫の使いとされるのが嬉野に古くから住んでいるという大鯰で、境内には「なまず社」がたてられており美肌にご利益があるとされている。

 

 ここに、「美肌にご利益が有る(と言われている)」 なまず様がいます

私も含めて、女性はここに群がってます(笑)  ご利益いただかなくっちゃね~

 

 これです  つるつるしてる

 

二礼・二拍手・一礼   しっかりお願いしました(もう遅いか・・・・・ (>_<))

 

 

 

 

長崎街道の宿場町だったころの名残があちこちにありました

 

 

 

 

 これは、自刃の後の首塚です。住宅地の中にありますが、真っ暗な時だったら怖いだろうな~

 

 この辺りは、旧長崎街道の道です

 田んぼは、もうすぐ実りの秋! 斜面にはお茶畑も見えました

 

 

嬉野はお茶ところ

色々、有りますね

 マンホールの蓋

 休憩所

 

まだまだ、歩きますよ! 轟の滝へ向かいます

 

 さすがに熊は出ないかな?  でも蛇も怖い~

 

川沿いに下りて行きます

 

轟の滝

嬉野川の上流、塩田川と岩屋川内(いわやがわち)川との合流付近にあるのがこの轟(とどろき)の滝です。高さは11mで、三段の滝を形成しています。滝壺の面積は、約2500平方メートル。水が流れ落ちる音が、雷が轟くようであるところからこの名前が付いたそうです

 

 たきみ橋の所にオルレのマーク

 

ここからは、しばらく川沿いを歩きます

日陰になっているのと、風が心地よくて歩きやすかったです 

 

 

川沿いを歩いていくと、嬉野温泉の中心地まで戻ってきました

 

嬉野温泉

嬉野(うれしの)温泉の歴史は古く、肥前国風土記(712年)に「東の辺に湯の泉ありて能く、人の病を癒す」と記されています。地名の由来はユニークで、その昔神功皇后が戦いの帰りにこの地に立ち寄り、川中に温泉が湧いているのを発見。その湯が負傷した兵士の傷を癒したのを喜んで「あな、うれしの」といったことからこの地名がついたとか。 嬉野は江戸時代には長崎街道の宿場町として栄え、文政9(1826)年にはシーボルトも訪れたそうです

 

「シーボルトの湯」が見えます(裏側)

 

 昔と同じ姿で残ってます

 

嬉野温泉公衆浴場「シーボルトの湯」

 

 

 

 シーボルトの「あし湯」もありました

 

 靴を脱ぐ時間は無かったので、足湯ならぬ「指湯」です

 

ここから、ゴールの嬉野市役所までは残りわずかです

ここからの道々にも、長崎街道の表示がありました

 後少しだよ~

 

ゴールです!(^^)!

最後は、クールダウンの体操もしっかりとね  お疲れ様でした

 

 

 今回は、嬉野温泉には入らずに、帰路に着きました 

 川登SAで軽くのどを潤して、小腹を満たしました

 

  まだまだ日中は暑い! この日も楽しくしっかり歩きました

次は、もう少し涼しい時に嬉野温泉のオルレに行ってみたいですね

温泉も併せて楽しみたいなぁ~ ♨


下関ウォーキング協会例会で下関&門司港レトロを歩く

2017-09-07 20:36:15 | ウォーキング

 

9月2日(土) 下関ウオーキング協会9月例会に参加しました

 古城山・門司港レトロ散策 一般向、約11㎞
【日時・集合場所】2017年9月2日(土)  JR山陽本線・下関駅東口 人工地盤
【ゴール予定】14時20分ごろ、JR山陽本線・下関駅東口 人工地盤
【コース】スタート・JR下関駅東口・人工地盤~唐戸桟橋~(渡船)~門司港桟橋~古城山展望台~人道入口「昼食」~関門人道トンネル~みもすそ川公園~カラトピア~ゴール:JR下関駅東口・人工地盤

 久しぶりに下関駅に行きました

 

駅の構内には、「ふく提灯」がずらりと下がっていました

 下関は「ふく」で有名ですもんね~

 

 

駅前に集合、そして準備体操をしてから、出発です

 良いお天気です ☀

 

国際ターミナルからは、釜山や青島への航路が就航されています

 

下関も海峡の街です   こんなオブジェからもそれが判りますよね~~♬

 海峡交番

交番のイメージとは少し違う、大きな建物でした

 

関門海峡が目の前に見えました。

快晴で歩くと汗が出ますが、真夏と違い、風が吹くと思ったより涼しい!

 海響館前にて

ペンギンのオブジェ(夜になると光る☆ミ)

 

唐戸から渡船で門司港に渡ります

 渡船場で見つけた 思わず笑ってしまった!(^^)!

 

快調に波しぶきを上げて、船は進んで行きます

 門司港に到着

ここから少しレトロ地区を歩きます

 

「ブルーウィングもじ」。全国でもめずらしい歩行者専用のはね橋です

 

丁度、はね橋があがっていましたのでしばし待機。昼間、観光用に1時間に1回上がります

 

 

旧門司税関

官界建築の雄といわれた妻木頼黄(つまきよりなか)の指導で造られた建物は、レトロ事業によって大掛かりな復元工事が行われ、威厳性を持つ明治の港湾施設の面影を残す建築として、かつての雄姿を取り戻しました。近代的なデザインとモダンなネオルネッサンス調が交わる建物の1階には、吹き抜けのエントランスホールや喫茶店、展示室があり、2階には、ギャラリーと展望室があります。

 

 

 

 

 

国際友好記念図書館

大連市と昭和54(1979)年に友好都市として親交を深めた15周年を記念して、明治35(1902)年に帝政ロシアが大連市に建てたドイツ風の建物をそっくりに複製建築しています。1階には、レストラン、2階には、中国をはじめとする東アジアの文献を収蔵した図書館、3階には、資料展示室があります。

 

トロッコ列車の線路横を和布刈方面に歩いていきます

 

 

ノーフォーク広場手前まで来て、ここから 古城山方面へ登ります

これまでは、フラットな道ばかり歩いてきましたが、ここからは展望台までひたすら上り(>_<)

 

 木陰の所は、涼しいのでそこを選んでひたすら前に進みます

 展望台まで最後の階段!  ファイト(*^。^*)

 

古城山 

標高175.2メートルの山頂から周防灘や響灘、皿倉山などの遠景を望み、眼下には関門港が広がる。かつて平知盛が源氏との合戦に備えて築城されたと伝えられる門司城が築かれていました。
現在は「和布刈公園」として整備され、門司城跡の石碑とわずかに残る石垣が当時の面影を今に伝えています。
遊歩道が整備され、散策にも最適で、朝日や夕日、夜景など、どの時間帯も美しい景色が楽しめます。頂上付近には戦時中の砲台庫や弾薬庫の跡も残っています。

 

源平合戦の壁画です

 関門海峡を見下ろします  いい気分だぁ~

今回は、ここから古城山頂上までは登りませんでした。次回、個人的に来てみようと思ってます

 登れば下る・・・・・

 途中から、こんなところも通ります

和布刈神社につながっているらしい・・・・

 

和布刈神社に出てきました

【由緒】

和布刈神社は、九州の最北端に鎮座する神社で、関門海峡に面して社殿が立つ。社伝によると仲哀天皇九年(200年頃)神功皇后三韓より御凱旋され、御報賽の思召をもって御創建された。古くは「速戸社」や「隼人明神」「早鞆明神」と称され、文化6年(1809年)に和布刈神社となり、足利尊氏、大内義隆などにより社殿が建造されたといわれる。江戸時代に、細川忠興が豊前の大名として入国すると、和布刈神社など五社を祈願所として定めた。その後、小倉藩主となった小笠原氏からの崇拝も篤かった

 

今日の昼食場所です   「若松屋」さん

ここのおでん、久しぶりです    いただきます~

おでんを食べる予定にしていたので、おにぎりだけ準備してました

 

 

 和布刈(門司港)側から、関門海峡を眺める

 帰りは、人道を歩いて下関へ・・・・

国道2号線です

 

 

県境で  これもお決まりの儀式です(笑)

 下関側に出てきました

 

 みもすそ川公園

みもすそ川公園前に広がる海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれ、当時を偲ぶ石碑や歌碑があります。また、ここは幕末の攘夷戦で、外国船に砲撃した砲台跡でもあります。

 

公園内には源義経・平知盛両雄の像

 

ゴールの下関駅に向かって、関門海峡沿いを歩きます

 

赤間神宮

源平壇之浦の合戦に敗れ、わずか8歳で入水された安徳天皇を祀っています。境内には平家一門の墓や小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂などがあります。宝物殿には「長門本平家物語」や「源平合戦図」などの貴重な資料が所蔵されています。

 

春帆楼  ふく料理の料亭です。明治21年に伊藤博文公がここ春帆楼で食したのを契機に禁制が解かれた、下関を代表する「ふく料理」は、公許第1号となりました。

隣接して、「日清講和記念館」が有ります。無料で見学できるので、何度が入った事は有ります。記念館には明治28年(1895)、日清戦争の講和会議が下関の「春帆楼」で開かれ、下関条約が締結されました。その会議で使用された調度品や貴重な資料などを展示しています。

 

亀山八幡宮

貞観元年(859)創建の古社。「関の氏神」として親しまれています

おお~  この大きさだったら何人位のふく料理が出来るかな?

 

旧秋田商会ビル<右側のドーム型の屋根>

1915年に竣工した、日本近代建築史を代表する建物。屋根に突出した塔屋のほか、屋上には日本庭園と日本家屋を備えるなど、ユニークな和洋折衷の設計が特徴です。秋田商会とは日清戦争(1894〜1895年)以後の海外進出機運にのり創設された海運会社で、おもに海外貿易を行っていました。その当時、屋上の塔屋は灯台の役目を果たしていたそうです

 

 やまぎん資料館(旧山口銀行本店)

大正9年に三井銀行下関支店として、建築設計家長野宇平治の設計監督により建築され、昭和8年に山口銀行の前身である百十銀行の本店となり、昭和19年には、県下の6つの本店銀行(百十銀行、華浦(かほ)銀行、船城(せんじょう)銀行、大島銀行、宇部銀行、長周銀行)を統合して山口銀行が創立され、本店となりました

中は、無料で見学することが出来ます。今回は、前を通り過ぎるだけでしたが、以前に中に入って見学したことが有ります。昔の銀行の様子がよく判り、意外と見るところが沢山あります。

 

 日本銀行の下関支店も有りました! 昔は、門司・下関が貿易で賑わっていたので設置されたのでしょうか??

 

 このお寺が山陽道の起点らしいのですが???

実は、さっき通り過ぎた「亀山神社」にも山陽道の石碑が有り、このお寺より有名だそうです

 

 

 光明寺<階段の上です>

 

 ここからはゴールの下関駅まで残りわずかです

 高杉晋作です。写真とかのイメージ通りの像です

 

 お疲れ様でした!

 まあまあの距離ですね

 

何度も歩いた道ですが、楽しく歩けるルートです。 

渡船にも乗り、プチ旅行気分も味わえた一日だったなぁ~  

思ったより、涼しくて快調に歩けました  これからの季節、ウォーキングにはぴったりの時期だよね (*^。^*)