ぼくちゃん & 相棒 の ひ・と・り・ご・と

旅行したこと、近場のお出かけ、美味しいものを食べたこと etc… 

『四国八十八ヶ所巡りへ』 第41番札所から第43番札所まで(今回は打ち終わり)

2014-11-16 14:22:11 | 四国八十八か所巡り

 昨日で徳島を打ち終わり、今日は愛媛県の第41番札所から第43番札所までを巡りながら

八幡浜から別府へフェリーで帰ります

  

 

 第41番札所 龍光寺

          

龍光寺の歴史・由来

地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。
縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる

今日も階段を登ります(笑)

 

 青空が広がり、ポカポカ陽気  沢山の方が参拝に来られていました

 

 

第42番札所 仏木寺

 

         

仏木寺の歴史・由来

牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。
大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる

  

    

 

鐘楼堂

四国霊場では珍しい茅葺の屋根。
元禄時代(1688〜1704)に再建されたそうです

 

  

地元の檀徒の方のお接待があり、私たちもお接待のお相伴に預かりました

 

             

 

お餅をつくときにミカンを丸ごと(ヘタはは取るそうですが)入れるのだそうです

ミカンの味と香りがぷ~~~~ん

熱いお茶も準備されていて、とても美味しく頂く事ができました

感謝 ☆ 感謝 です

 

紅葉も色づき始めていました

青空を背景に一枚 パチリ

 

 

 

今回のお遍路の旅、最後のお参りです 

 

第43番札所 明石寺

 

         

明石寺の歴史・由来

明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。
まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。

弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた

 

 

 

  

 

夫婦杉

 

 

 

  

歩き遍路の方も・・・・・

 

 

 

気持の良い秋の一日のお参りをすることが出来ました

 

これで打ち終わりです 

 

帰りのフェリー

お天気はは良かったのですが、白波が立つ強風で・・・・

佐多岬<船室から>

 

 10月31日の夜から11月3日まで、車での巡礼も無事打ち終わり

二人の旅、いやいや、弘法大師さまと同行三人のお遍路の旅は、まだまだ先は長い

 

 

 


『四国八十八ヶ所巡りへ』 第24番札所から第34番札所まで<第二弾>

2014-11-15 14:35:21 | 四国八十八か所巡り

<第一弾> 第26番札所 金剛頂寺(西寺)から続く 

 

 

第27番札所 神峯寺

 

 

神峯寺の歴史・由来

神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。
縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている 

 

        

  

 

神峯の水

鐘楼の裏手に湧く石清水は急坂で疲れた参拝者の喉を潤してくれます。

この水は病気平癒に霊験あらたかであるという言い伝えがあり、数多くの伝説が残されており、

土佐の名水に選定されています   もちろん、一口ゴクリ

 

 

 

 

 

 

第28番札所 大日寺

 

        

大日寺の歴史・由来

縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、堂宇に安置して開創されたと伝えられる。その後、寺は荒廃したが弘法大師が四国を巡教された弘仁6年(815)、末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。
以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間(1596〜1615)からは土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。しかし、明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。

  

 

  

第29番札所 国分寺

  

 国分寺の歴史・由来

土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之(868〜945頃)が浮かんでくる。とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることはあまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国府は、国分寺から北東1kmほどの近くで「土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・文化の中心であった。
聖武天皇(在位724〜49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。
縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年(815)のころで、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている

         

  

こんな地蔵尊もありました

   

酒断(さけだち)地蔵尊

もとは国分寺の末寺、香美市穴内地区の佐比谷寺に祀られ、篤く地元の人々の信仰を集めていたお地蔵様。

参勤交代の道中は、藩主が必ず立ち寄り安全祈願をしたという。

昭和35年頃国分寺へ移され一言地蔵として親しまれていたが、

断酒を願いご利益を得たという話が広がり、酒好きな県民性も手伝ってか今も多くの参拝者が訪れているそうです

誰の事を思い出したかは秘密です(自分の事では無いよ!!!)

 

第30番札所 善楽寺

       

善楽寺の歴史・由来

高知城へは約6km、JR高知駅まで約4kmというこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、土佐では最も古くから栄えた地方である。 縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。
以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。

 

 

ここでは、別府からの歩きお遍路の男性と、しばしおしゃべり

今回は高知を公共の交通機関も使いながら歩かれているそうです

「前は全部歩いていたんだけどね」・・・・との事

でも、お年を訪ねると「80才以上」  驚き!驚き!でした

 

おまけ  土佐神社

   善楽寺とお隣さんでした 

 

 

第31番札所 竹林寺

 竹林寺の歴史・由来

♪土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」の舞台であるほか、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師(1275〜1351)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めた。また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士(1862〜1957)の記念館と県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。
縁起では、神亀元年ころ、聖武天皇(在位724〜49)が中国・五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見た。天皇は、行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。行基菩薩はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り、山上に本堂を建てて安置した。その後、大同年間(806〜10)に弘法大師がここに滞在して瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。

 

この時は、特別の拝観があり、この竹林寺はほかのお寺に比べても人手がすごかった気がしました 

 

      

 

五重塔

昭和55年の建立。高さ31.2mメートル、総檜造り、鎌倉時代初期の様式。県内唯一の五重塔。

 紅葉はまだまだ先でした。でもこのもみじが赤く染まると、さぞかし美しい風景なんだろうなぁ

庭園を見るだけでも、訪れる価値が有るところでした

 

第32番札所 禅師峰寺

 

禅師峰寺の歴史・由来

縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同2年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。

ここのお寺は、何よりも本堂に向かう階段の横にあった「奇岩」が印象的でした 

 

 

 

 境内からの眺め・・・土佐湾の爽快な景色が一望できます。東に手結岬、西に桂浜になります

 

ここも、階段を良く歩いたなぁ~~~ (と思いながら、立ってたかも 笑)

 

 

第33番札所 雪蹊寺

 

雪蹊寺の歴史・由来

土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。雪蹊寺の縁起は、まず3つの特色から挙げておく。
1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている

 

 

 

もう、徳島市の街中に入ってきています

お寺の境内の中は静かですが、一歩外に出ると車の通りも多いのです

そして、今日の最後のお寺へ、向かいました 

 

 第34番札所 種間寺

   

種間寺の歴史・由来

種間寺も、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。
6世紀のころである。敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。彼らが渡来したのは用明天皇(在位585〜87)の時代、大阪・四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中であった。土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。

その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁年間である。大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。

 

 

高知の弘法大使の像は、どれも結構恰幅が良かった気が

これも、若々しい雰囲気を漂わせてるように思いました

 

えびすさまにしっかりと抱き付いて、なでなでしてきたよ

 

 

これで、徳島の札所は打ち終える事ができました

高知は車での巡礼で、あわただしくも有りましたが、

そんな中でもお会いした方とお話したりなど、楽しい時間を過ごせた気がしています

 

自分達、家族、ウォーキングで知り合った友人、周りの方々の健康を祈願しての

二人のお遍路珍道中はまだまだ続きます

 

 

そして、この夜は徳島市内に宿泊

ホテルの宿泊サービスのウェルカムドリンク  美味しい~~~♪

 

夜も街中へ・・・・・ 

 

  

 

 

ひろめ市場を覗いてから(人が多くて座れなかった  残念)

居酒屋で夕ご飯

   鰹のタタキサラダ

鰹キョウザ  

 金目鯛の煮つけ

 

どれも美味しく頂きました

 

 

明日は、再び愛媛の八幡浜へ。途中で、愛媛県のお寺をお参りします

 

 


『四国八十八ヶ所巡りへ』 第24番札所から第34番札所まで<第一弾>

2014-11-15 13:44:23 | 四国八十八か所巡り

 

 

 

 

 室戸岬の朝

 日の出を期待しながら、灯台へ向かいましたが、残念ながらまだ雲が広がっていました

室戸市は太平洋に突き出た地形から、東にだるま朝日・西にだるま夕日を臨むことができる珍しい場所だそうです

だるま朝日・西にだるま夕日秋は分の日ごろから春分の日ごろにかけて海面の海水温と大気の温度差により

水蒸気に光が屈折して太陽がだるまのように見える現象です

こんなのだそうです ↑ 昨日もお天気が悪かったので、夕日も朝日も拝むことはできなかった   残念

 

室戸岬灯台

室戸岬のシンボルは、青い空と海のはざまに立つ白亜の灯台。
明治32年以来、 航海者たちの安全を照らす水先案内人として活躍しています。

レンズの大きさは直径2m60cmと日本最大級。

 

 

第24番札所 最御崎寺(東寺)

 

      

最御崎寺の歴史・由来

「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。黒潮のしぶきにあらわれて鋭角になった黒い岩礁。そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」

大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。
当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。

早朝なので、ほとんど人もいません。静かな、静かな空気が流れていました 

 

鐘楼堂

NHKの「行く年来る年」で除夜の鐘の中継もあったようです 

 

 

空海の七不思議   いくつか見かけるものがありました

<くわずいも>

 

 昔土地の者がいもを洗っていると、一人の遍路(弘法大師の事)が通りがかり、そのいもを 乞うたけれど、その者はこれを惜しんで「これは食えない芋だ」と言って遍路に与えなかった 所、それが本当に食べられなくなったと伝えられている。(最御崎寺本堂右に自生)

 

<鐘石>

 

石質安山岩で叩くと鐘のように音を発し、この響きは冥土まで届くと言われ、俗に鐘石を呼ばれ 現在、最御崎寺境内にあります。   「仮初のいしにてあれど且つ打てば、金かとまがふ音の高くも」        国沢新兵衛

 

奥に見えるのは、霊宝 殿。国指定重要文化財の薬師如来坐像、月光菩薩立像、如意輪観音半枷 像が安置され、中でも如意輪観音半枷像は日本で唯一大理石で作られていることで有名となっています

昨晩、特別拝観の時に当たっていたので、拝んできましたよ

 

この後、朝ごはんをしっかり食べて、出発

お世話になりました

  

番外札所 最御崎寺

 

 

 御厨人窟は平安時代初期、当時青年であった弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられている。

この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされる

 

 

 

向かって左が 「御厨人窟」  右が 「神明窟

 

空海は、神明窟で難行を積んだと伝えられ、

難行の最中に明星が口に飛び込み、この時に悟りが開けたと伝えられている。

<神明窟は2012年秋より、落石のため立入禁止となっているそうです>

 

 

 

御厨人窟の中に入ってみました

中は思ったよりも広いのですが、怖いくらいの真っ暗闇です

聞こえるのは、風と波の音だけ   見えるのは洞窟の入り口の大きさだけの空と海

 

この風景を空海も見ていたのかな????  

洞窟の中で聞こえる豪快な波の音は「室戸岬・御厨人窟の波音」として環境省の残したい

「日本の音風景100選」に選定されているそうです

 

 

<室戸岬> 

 海岸周辺は遊歩道になっていました

 

  

 

 

中岡慎太郎銅像

中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。
慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。

 

 

 

第25番札所 津照寺

 

津照寺の歴史・由来

室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。 

高台にある本堂まで、長い長い階段を登りました

 

本堂に向う石段は真直ぐと天に続くかのような趣、かなりの急勾配で皆、真ん中の手摺りを利用して上がります。そして石段の途中には竜宮城を思わせるような鐘楼門兼仁王門。

石段を昇りつめた所、本堂の正面には太平洋が広がります

  

 

降りるときも、階段を伝わってゆっくり降りて行かないと、転げそうです!!!

 

 大師堂 

 

 

 

 

第26番札所 金剛頂寺(西寺)

金剛頂寺の歴史・由来

室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺であり、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。朱印も「西寺」と捺される。当寺から4kmのところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。縁起によると、大師が平城天皇(在位806〜9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられている。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという

 ここも、長い階段を上ります

  

向かいに、 室戸岬・最御崎寺「東寺」が見えるのです

 

 

 

 

             一粒万倍の釜    

 大師が焚いたお米が1万倍に増え、人々を飢えから救ったという言い伝えがあるそうです 

 

ここでは、ひとやすみ  アイスクリームで休憩 

 

 

次の 第27番札所 神峯寺へ  約31キロ先になります

歩き遍路だと、この間だけで一日かかりますよね

☆ 続く ☆


『四国八十八ヶ所巡りへ』 第40番札所から第35番札所まで(逆回りで)

2014-11-11 23:53:05 | 四国八十八か所巡り

 

11月の三連休  四国八十八か所巡りに再び出発

本当は、10月の連休にも行くはずだったのですが、台風で断念・・・

前回で、徳島は打ち終わりましたので、今回は、高知県へ

 

 

しかし、高知は広く、日程上、徳島のように歩いて巡ることはどう考えても無理です

なので、今回は別府からフェリーで八幡浜へ・・・・  自家用車での巡礼です

 

 

船の中も、綺麗で快適

 

出港そして・・・・ZZZZZ

いよいよ、八幡浜からスタート(フェリーから出発)

 

 

雨の朝   最初に訪れたのは、

第40番札所 観自在寺

 

この40番は、愛媛県になります

別府から到着した八幡浜から出発時間が、AM5:00

八幡浜から車で2時間位のこのお寺に最初にお参りすることにしたのです

 

 

観自在寺の歴史・由来

愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端にある。縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。

平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809〜23)とともに親しく行幸され、御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。
寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かっている。このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。

 

 

 

朝 7:00位にお参りしたので、まだ人も少なくゆっくりとお寺の方ともお話しすることが出来ました

歩いても車でも、自分たちのペースで進んで行く事が大切ですね 

  

 第39番札所 延光寺

 

延光寺の歴史・由来

土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。
現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。

縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である

 

書かれているように、心静かに色々なことを祈りました

  

大赤亀の石像 

竜宮城伝説を象徴しており、赤い大きな亀が背中に鐘を乗せた姿をしています

私でも乗れそうなくらい大きかった

 

 

 

 

 

第38番札所 金剛福寺

 

 

足摺岬へ向かって長い時間走り、ようやく到着

 

金剛福寺の歴史・由来

四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は120,000平方メートルを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。
岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの浄土を連想させ、自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。

縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに三面千手観音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、別名、金剛杵ともいう。また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。歴代天皇の勅願所となっていたが、武将からも尊崇された。とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。
戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。
大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在している。

 

 

雨は上がることは無く、だんだんひどくなってきたかも・・・

でも、沢山の方がお参りに来られていました

 

大師亀

お大師さんが亀を呼び眼前に浮かぶ不動岩に渡り修行したと伝えられています。

(足摺7不思議の一つ)いろんな願いを叶えてくれるそうです。

背中の上には、お賽銭や子亀も乗っていました

 

境内は広く3万6千坪在ると言われ庭も綺麗に整備されていました

 

六角堂

 

仁王門

 

  

 足摺岬もすぐ近くです。

歩き遍路をされている方もいらっしゃいました

この雨の中、本当に大変だろうなぁ・・・・  その中の一人の方と記念写真です

若いお兄さんでした。 この軽装で歩かれているそうです  すごい

車で移動している間も、何人もの、歩き遍路の方をお見かけしましたよ

お天気が良ければ、足摺岬を散策して見たかったのですが、先へ進む事に

 

  

第37番札所 岩本寺

 

岩本寺の歴史・由来

清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。

 

 

 

本堂内陣の格天井画

昭和53年に新築の際、全国から公募した花鳥風月から人間曼荼羅まで、575枚の絵が天井を彩る。

 

 

 まだまだ、傘をさしてのお参りは続きます

 

 

次の35番に向かう途中で、土佐くろしお鉄道 窪川駅に「あんぱんまん列車」発見

 

 

 車を降りて、ホームに入れて貰って パチリ 

 

 

第35番札所 清滝寺

 

清滝寺の歴史・由来

土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。
縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ。本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。

 

 

厄除け薬師如来立像

本堂前、台座を含めると高さ15m。

昭和8年、製紙業者による寄贈。台座の中で88段の戒壇巡りができるそうです

 

 

 

第36番札所 青龍寺

 

青龍寺の歴史・由来

青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。
弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。

帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。
明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されている。

 

 仁王門から本堂までは170段の急な石段が続きます

ひえーーーーっと思いますよね  しかし、これも修行なんですよね  

 

 

 

 

 

今日は、この36番 青龍寺で巡礼は終わり

しかし、この後は、高知の反対の端の「室戸岬」までの長い長い車の旅が続きます

ぼくちゃん、お疲れ様・・・・

 

余談ですが、この青龍寺のすぐ近くに「明徳義塾高校」がありました

 

 

この日の宿泊は、室戸岬の所にある、第24番札所の最御崎寺にある、宿坊です

 

11/1 この日は丁度色々なイベントが行われていました

夕方 18:00くらいに宿坊に到着し、荷物を置いてから、

歩いてすぐの最御崎寺と室戸岬燈台へ行ってみました

 

 

夜のお寺の雰囲気を味わおうと思いましたが、イベントで思った以上に賑やか

本堂では、バンド演奏!!

弘法大師さまもビックリだったと思います

 バンド演奏

 

 

 

 夜の室戸岬灯台へ・・・

 

中では、海上保安庁の方の説明もありました

灯りの所まで、階段で上がってみることもできたんですよ 

 

室戸岬のシンボルは、青い空と海のはざまに立つ白亜の灯台
 航海者たちの安全を照らす水先案内人として活躍しています

室戸岬灯台(一等級レンズ直径2m60cm)は、室戸岬沖の重要航路を守るため、
明治32年4月1日の初点灯以来100年余り航行する船の安全を支えて来たそうです

このお祭りの時は、普段は見る事の出来ない内部の一般公開がされています 

太平洋戦争の時の機関銃の後も

 ぼくちゃんは、ここに来て 「喜びも悲しみも幾年月」の映画の事を思い出したそうです

 

 

最御崎寺 へんろセンター  の夕食

土佐らしい 「皿鉢料理」「かつおのたたき」も並びます

宿坊とは思えないでしょ

 

HPから、大浴場   「願い掛け大師風呂」

 

 浴槽の中央には願い掛け大師の像が安置され流湯を柄杓で、3回掛け合掌し、

お大師様の御宝号「南無大師遍照金剛」と 3回唱えると願いが叶うといわれています

 私は、3回と言わず、じゃぶじゃぶお湯をかけてしまった

 

一日目も無事終わりました

明日は、ここ 最御崎寺から始まります