八栗寺から志度寺へ向かいます
志度寺で今日は打ち終わりですから、最後のひと踏ん張りです
遍路道の途中に、「源平屋島合戦跡」の石柱がありました
お遍路道には、こんな道もあります
もう少しで、志度寺の所で見かけた 「お遍路さん休憩所」
志度の町に入ると、沢山の文化財・史跡を見かけました
☆用心堀と石灯籠☆
高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つが此処にあって、面積5.5ヘクタールの敷地に9mに27.3mの蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に1万5千俵の米が収納され非常に賑わった。
志度町新町「平賀家」は、初代「喜左衛門良盛」が明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命じられて以来、世襲してきた。
平賀源内先生は父「茂左衛門良房」の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問を目指して退役したため、平賀家4代98年間のお蔵番に終わりをつげた。
この石灯籠は寛永4年(1851年)津田村の大庄屋「上野氏」と志度村庄屋の「岡田氏」の両氏がお蔵の用心のため建てたものである
用心堀
石灯籠
☆平賀源内先生旧邸☆
旧志度街道(俗称:源内通り)に北面する町家。桁行12m梁間10mの木造厨子2階建、東西棟の切妻造の北正面西寄りに、入母屋造妻入の店舗部分が突出している。本瓦葺で、外壁は漆喰仕上げ、大壁と真壁を使い分け、軒を塗り込めるなど、力強い外観となっている。
平賀源内 江戸中期の讃岐の才人
(蘭学事始 杉田玄白)
この男(源内)、業は本草家にて、生まれ得て理にさとく 敏才にして よく人気に叶ひし生まれなりき。
享保13年(1728年)現在のさぬき市志度で平賀源内は生まれました。独創性に富んだ多彩な能力を発揮し、本草家として、発明家として、またあるときは文芸家として、美術家、そして大山師(鉱山家)として活躍しました。
教科書で習った「平賀源内」がここの出身とは今回初めて知りました
町の中の案内板にも源内先生は登場してましたよ
☆志度寺 奥の院(地蔵寺)☆
名刹志度寺の奥の院で、如意山文殊院地蔵寺と称す。室町時代前期の創建とも伝えられる。真言宗御室派に属していたが、善通寺が本山になってより善通寺派となる。本尊は文殊菩薩である。開祖は志度寺本尊を開眼し同寺を創建した薗子尼(そのこあま)である
志度寺 到着
第86番札所 志度寺
志度寺の歴史・由来
開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています
<仁王門>
国重要文化財
志度寺山門は、世に三棟(みつむね)造りと云われる東大寺転害門(てがいもん)と同じ構造で、寛文建築の特徴を良く著している。円柱の本柱四本の前後にそれぞれ四本ずつの控柱があって、三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺で、本堂と同時期建立の木割りの太い八脚門である。 天正11年(1583年)讃岐に進攻した土佐の長宗我部元親が、山門を潜ろうとした時急に馬が動かなくなった。不思議に思って元親が両脇の仁王像を見ると、「後光」がさしていたので部下に命じ、志度寺を焼く事を禁じ、恭しく寺仏に礼拝して古高松に引き上げたと伝えられる
山門内の仁王像は、右に那羅延(ならえん)金剛(阿形)左に密迹(みつじゃく)金剛(吽形)の二体を奉祠しており、共に鎌倉時代運慶の作で、香川県指定の文化財である。
<本堂>
国 重要文化財
寛文10年(1670)12月20日上棟。高松藩初代藩主松平頼重公が建立。 桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)5間、入母屋(いりもや)造、本瓦葺。県下の近世建立の仏堂としては唯一の七間堂で、前面には軒唐破風(のきからはふ)をつけた3間にわたる向拝(こうはい)を設け、その規模、容姿はともに群を抜いている。
<大師堂>
<五重塔>
塔の高さ33㍍、塔屋の間口4.5㍍五層総檜造り、朱の色も鮮やかな木造五重の塔で、塔の中心の柱の真下に鎮瓶(ちんびん)、橛摩(かつま)、五宝、五薬、五香をはじめ、施主の願文、一般の般若心経の写経が仏のしきたりにならって納められている。少年時代から志度寺三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た東大阪市の竹野二郎氏が、報恩と仏法興隆のため、私財3億余円を寄進し、3年3ヶ月の歳月をかけて、昭和50年5月18日落慶したものである。
<琰魔堂>
琰魔堂は、弥阿尼がいったん冥途に赴いたものの、琰魔大王の依頼で琰魔像を刻むため蘇生したという言い伝えをもつ堂である。 桁行3間、梁間3間、向拝1間の本瓦葺宝形造(ほうぎょうづくり)である。垂木に反り増しがあり蟇股なども古式で、彫刻類はすべて極彩色で、本堂に通じる手法が用いられている。寺伝では寛文11年(1671)の建立といわれている。中には冠に十尊を飾った琰魔王像が安置されている。
奥に「あまのお墓が有りますから、そちらも立ち寄ってくださいね」と言われたので、立ち寄ることに・・・・
お寺ですから、「尼さん」だと思ってましたが、「あまちゃん」(海女さん)の方でした
<海女の墓 五輪塔群>
天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の皇祖妃から送られた面向不背の珠が、志度沖で竜神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海に潜り竜神と戦い珠を取り返したが、竜神の為に傷付き真珠島で命を果てた。
房前はのちに藤原家を継ぎ、大臣となった。ある日父より母である海女のことを聞かされ、行基を連れて志度を訪れ、志度寺の西北一丁あまりの所に千基の石塔を建立し、法華八講を修して亡き母の菩提を弔った。
中央の大きな五輪塔が海女の墓と言われ、左右の円柱形の二基の石塔は内部を空洞にして経典を収める経塔である。
毎年海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養が今もなお続けられている。また、謡曲「海士(アマ)」、浄瑠璃「大織冠」、歌舞伎「面光不背の玉」などで今に伝えられている
海女さんへのお参りを終わりました
<平賀源内の墓所>
今回は、ここで打ち終わりです やったぁ
良く歩いたなぁ~
後は、87番・88番の二つのお寺で結願だぁと言いたいところですが、まだ 60番 横峰寺から
本山寺までの険しい道のりが残っています
ここは、次のゴールデンウィークの時に歩きます
ここでも、何人かの歩きお遍路の方とお話をする事ができました
皆さん、翌日は結願を言われ、何となく清々しい顔をされていました
私達も、そんな風になれるのかなぁ?????
後は帰るだけです
高松からの夜行バスに乗るまで、ゆっくりと時間が有るので、志度駅から前回訪れた一宮駅へコトデンで向かい、お風呂に入ってさっぱりと。何となく疲れも取れた気分になり、北九州へ戻りました
コトデンの車体のラッピング <弓の名手 那須与一>
那須与一は「屋島の戦い」の時に、「揺れる舟の上の扇の的を射よ」との平家の挑発に源氏の代表として、この難しい的を射ることに成功しました。矢が的を射たことで、源氏の武運が勝ると見られ、平家が没落していきます。さらに、「壇ノ浦の戦い」で平家が決定的な滅亡を迎えます。その「大事な転換点」になったのが、平家物語の「那須与一の扇の矢」です。
生没年から考えると、屋島の戦い(1185年)の際には15~6歳前後、亡くなったのは20歳前後と、実は早く活躍して早逝した方のようです。
お風呂に入って、美しくなれたかも(笑)
さあ、いよいよ次は 横峰寺・雲辺寺に挑戦です