ぼくちゃん & 相棒 の ひ・と・り・ご・と

旅行したこと、近場のお出かけ、美味しいものを食べたこと etc… 

『四国八十八ヶ所巡りへ』第84番札所から第86番札所まで(今回はこれで打ち終わり)

2015-04-28 23:35:38 | 四国八十八か所巡り

八栗寺から志度寺へ向かいます  

志度寺で今日は打ち終わりですから、最後のひと踏ん張りです 

  遍路道の途中に、「源平屋島合戦跡」の石柱がありました

 

 

お遍路道には、こんな道もあります

 

 

もう少しで、志度寺の所で見かけた  「お遍路さん休憩所」

 

 

志度の町に入ると、沢山の文化財・史跡を見かけました

 

 ☆用心堀と石灯籠☆

 高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つが此処にあって、面積5.5ヘクタールの敷地に9mに27.3mの蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に1万5千俵の米が収納され非常に賑わった。
 志度町新町「平賀家」は、初代「喜左衛門良盛」が明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命じられて以来、世襲してきた。
 平賀源内先生は父「茂左衛門良房」の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問を目指して退役したため、平賀家4代98年間のお蔵番に終わりをつげた。
 この石灯籠は寛永4年(1851年)津田村の大庄屋「上野氏」と志度村庄屋の「岡田氏」の両氏がお蔵の用心のため建てたものである 

      用心堀

           石灯籠

 

 

 

☆平賀源内先生旧邸☆

 旧志度街道(俗称:源内通り)に北面する町家。桁行12m梁間10mの木造厨子2階建、東西棟の切妻造の北正面西寄りに、入母屋造妻入の店舗部分が突出している。本瓦葺で、外壁は漆喰仕上げ、大壁と真壁を使い分け、軒を塗り込めるなど、力強い外観となっている。

 

平賀源内  江戸中期の讃岐の才人

(蘭学事始 杉田玄白)

この男(源内)、業は本草家にて、生まれ得て理にさとく 敏才にして よく人気に叶ひし生まれなりき。

享保13年(1728年)現在のさぬき市志度で平賀源内は生まれました。独創性に富んだ多彩な能力を発揮し、本草家として、発明家として、またあるときは文芸家として、美術家、そして大山師(鉱山家)として活躍しました。

教科書で習った「平賀源内」がここの出身とは今回初めて知りました

町の中の案内板にも源内先生は登場してましたよ 

 

☆志度寺 奥の院(地蔵寺)☆

 名刹志度寺の奥の院で、如意山文殊院地蔵寺と称す。室町時代前期の創建とも伝えられる。真言宗御室派に属していたが、善通寺が本山になってより善通寺派となる。本尊は文殊菩薩である。開祖は志度寺本尊を開眼し同寺を創建した薗子尼(そのこあま)である

 

 志度寺 到着 

 

 

 

 

第86番札所 志度寺

志度寺の歴史・由来

開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています

 

<仁王門>

国重要文化財

志度寺山門は、世に三棟(みつむね)造りと云われる東大寺転害門(てがいもん)と同じ構造で、寛文建築の特徴を良く著している。円柱の本柱四本の前後にそれぞれ四本ずつの控柱があって、三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺で、本堂と同時期建立の木割りの太い八脚門である。 天正11年(1583年)讃岐に進攻した土佐の長宗我部元親が、山門を潜ろうとした時急に馬が動かなくなった。不思議に思って元親が両脇の仁王像を見ると、「後光」がさしていたので部下に命じ、志度寺を焼く事を禁じ、恭しく寺仏に礼拝して古高松に引き上げたと伝えられる

 

 

  

 

 

山門内の仁王像は、右に那羅延(ならえん)金剛(阿形)左に密迹(みつじゃく)金剛(吽形)の二体を奉祠しており、共に鎌倉時代運慶の作で、香川県指定の文化財である。

 

 

 

 

<本堂>

国 重要文化財

寛文10年(1670)12月20日上棟。高松藩初代藩主松平頼重公が建立。  桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)5間、入母屋(いりもや)造、本瓦葺。県下の近世建立の仏堂としては唯一の七間堂で、前面には軒唐破風(のきからはふ)をつけた3間にわたる向拝(こうはい)を設け、その規模、容姿はともに群を抜いている。

 

 

<大師堂>

 

<五重塔>

塔の高さ33㍍、塔屋の間口4.5㍍五層総檜造り、朱の色も鮮やかな木造五重の塔で、塔の中心の柱の真下に鎮瓶(ちんびん)、橛摩(かつま)、五宝、五薬、五香をはじめ、施主の願文、一般の般若心経の写経が仏のしきたりにならって納められている。少年時代から志度寺三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た東大阪市の竹野二郎氏が、報恩と仏法興隆のため、私財3億余円を寄進し、3年3ヶ月の歳月をかけて、昭和50年5月18日落慶したものである。

 

 

 

 <琰魔堂>

 

琰魔堂は、弥阿尼がいったん冥途に赴いたものの、琰魔大王の依頼で琰魔像を刻むため蘇生したという言い伝えをもつ堂である。  桁行3間、梁間3間、向拝1間の本瓦葺宝形造(ほうぎょうづくり)である。垂木に反り増しがあり蟇股なども古式で、彫刻類はすべて極彩色で、本堂に通じる手法が用いられている。寺伝では寛文11年(1671)の建立といわれている。中には冠に十尊を飾った琰魔王像が安置されている。

 

 

奥に「あまのお墓が有りますから、そちらも立ち寄ってくださいね」と言われたので、立ち寄ることに・・・・

お寺ですから、「尼さん」だと思ってましたが、「あまちゃん」(海女さん)の方でした 

<海女の墓 五輪塔群>

    

 

天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の皇祖妃から送られた面向不背の珠が、志度沖で竜神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海に潜り竜神と戦い珠を取り返したが、竜神の為に傷付き真珠島で命を果てた。

房前はのちに藤原家を継ぎ、大臣となった。ある日父より母である海女のことを聞かされ、行基を連れて志度を訪れ、志度寺の西北一丁あまりの所に千基の石塔を建立し、法華八講を修して亡き母の菩提を弔った。

中央の大きな五輪塔が海女の墓と言われ、左右の円柱形の二基の石塔は内部を空洞にして経典を収める経塔である。

毎年海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養が今もなお続けられている。また、謡曲「海士(アマ)」、浄瑠璃「大織冠」、歌舞伎「面光不背の玉」などで今に伝えられている

 

海女さんへのお参りを終わりました

 

<平賀源内の墓所>

 

今回は、ここで打ち終わりです    やったぁ  

良く歩いたなぁ~  

後は、87番・88番の二つのお寺で結願だぁと言いたいところですが、まだ 60番 横峰寺から 

本山寺までの険しい道のりが残っています

ここは、次のゴールデンウィークの時に歩きます

ここでも、何人かの歩きお遍路の方とお話をする事ができました

皆さん、翌日は結願を言われ、何となく清々しい顔をされていました

私達も、そんな風になれるのかなぁ?????

 

後は帰るだけです

高松からの夜行バスに乗るまで、ゆっくりと時間が有るので、志度駅から前回訪れた一宮駅へコトデンで向かい、お風呂に入ってさっぱりと。何となく疲れも取れた気分になり、北九州へ戻りました 

コトデンの車体のラッピング  <弓の名手 那須与一>   

那須与一は「屋島の戦い」の時に、「揺れる舟の上の扇の的を射よ」との平家の挑発に源氏の代表として、この難しい的を射ることに成功しました。矢が的を射たことで、源氏の武運が勝ると見られ、平家が没落していきます。さらに、「壇ノ浦の戦い」で平家が決定的な滅亡を迎えます。その「大事な転換点」になったのが、平家物語の「那須与一の扇の矢」です。
 生没年から考えると、屋島の戦い(1185年)の際には15~6歳前後、亡くなったのは20歳前後と、実は早く活躍して早逝した方のようです。

          

                       お風呂に入って、美しくなれたかも(笑)

 

 

 さあ、いよいよ次は 横峰寺・雲辺寺に挑戦です 


『四国八十八ヶ所巡りへ』第84番札所から第86番札所まで(第2弾)

2015-04-27 22:46:03 | 四国八十八か所巡り

 

 

屋島寺をお参りの後、八栗寺へのお遍路道を歩きます

屋島の下り坂は大変でしたが、何とか転げ落ちる事無く降りてくることができました

ほっと一安心    

振り向くと随分遠くから降りてきたんだなぁと実感・・・・・・

 

八栗寺までの道のりには、源平屋島合戦の史跡が数多く点在していました

 

☆洲崎寺(すさきじ)☆

寺伝によれば、大同年間(806年 - 810年)により弘法大師により創建されたといわれる。

源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると戦災により当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり毎年3月19日には慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている。

 

江戸時代初期の僧で四国八十八箇所を一般に広め巡拝路を整備し、「遍路の父」と呼ばれた真念の墓がありました。もともと、この墓は牟礼町塩屋南三昧の共同墓地にあったが昭和55年この地に移設されたそうです

 四国八十八カ所を特定し、現在の「発願の寺」・1番札所(徳島県の霊山寺)から「結願所」(けち〈つ〉がんしょ)・88番札所(香川県の大窪寺)までの巡礼の札所番号を定めたのは、大阪の宥辡真念(ゆうべんしんねん。生没年不詳)といわれている。

真念の詳細 ⇒ http://tamutamu2011.kuronowish.com/shinnnenn.htm

私達も、真念さんが歩いた同じ道を歩いているのだなぁと思うと感慨ひとしお・・・・・かも(笑)

 

☆佐藤継信の墓☆

佐藤継信は義経四天王1人
平家きっての強者・教経は源氏の大将源義経を射落とさんとするが、武蔵坊弁慶、佐藤継信・忠信の兄弟、江田源三らの勇士たちが駒をずらりと並べて義経の前に立ちはだかる。
教経が「九郎判官義経はずこにあるや・・」と放った矢は、先頭を切って立ち向かってきた継信の左の肩から右の脇腹を射抜いた。
継信は義経の身代わりとなって討ち死にしたのである。

この継信の忠死を広く世人に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁重に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続く遍路道の傍らに建立したものだそうです。
(墓は牟礼町王墓に残っています)

 

 

☆安徳天皇社☆

寿永2年(1183)、平の宗盛は、安徳天皇を奉じて、一の谷から屋島に来ました。ここは、壇の浦の入り江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれているそうです

横には、公民館(?)があり、この日は地域の子供さんが沢山集まっていてワイワイ賑やかでした

  

 ☆菊王丸の墓☆

源平合戦(1185)のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして、能登守平教経の強弓に倒れました。
そのとき、教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆け寄り首を切り落とそうとしましたが、そうさせまいとする継信の弟忠信の弓により倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。
教経は、菊王丸を哀れんでこの地に葬ったと伝えれています。

 

☆義経弓流し☆

「源平合戦の際、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさんでいた弓を海中に落として、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ、危うく海中に落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい、左手のムチで弓をかき寄せ、引揚げたということです。
平家方に拾われて、「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのを恐れたものだといわれていたそうです。

 

歩いている牟礼町は「石と源平の町」

色々な石のオブジェも沢山ありました

私達が見た以外にも沢山の源平の多くの史跡が残っているそうです

今回は、見て回る事が出来ませんでしたが、ゆっくりと散策しても楽しいだろうなぁ

牟礼町HPから   http://www.genpei.org/shiseki/shiseki.html

 

そろそろお昼時、お腹も空いて来ました

今日は、「うどん本陣山田家本店」

約800坪の広大な敷地に建てられた屋敷は、国の重要文化財にも指定されているそうです

 

 

釜ぶっかけと焼鯖寿司  「ざるぶっかけ」と二分する人気メニュー

茹で釜から上がったばかりの熱々のうどんを豪快に“ぶっかけ”で!!!   

 美味しく頂きまし 力も付いたよ~~~~  

 

これで、またまた元気に歩く事ができます

 

 

八栗山登山口に到着

 

    

   ロープウェイも有りますが、登山口から登ります 

  

  

よもぎ餅購入   さっきご飯を食べたばかりなので、これは後からおやつにします

 

坂道を少し登ると、「寄って行ってください」とお声を掛けて頂きました 

お遍路休憩所 仁庵 にて

温かなお接待を受け、しばしご夫妻とお話し・・・・  本当にありがとうございました 

 

 記念撮影 

 

 

 

いよいよ、八栗寺へ・・・・  歩き始めます  お腹も一杯  頑張るよ 

 

 

こんな看板も  

 

 疲れたよ~~~~~   いばし、休憩

 

八栗寺手前までようやく到着

八栗寺のお迎え大師がある、展望台のような、見晴らしの良い場所に来ました。

「お迎え大師の由来」を読めば、「弘法大師が、修行でこの五剣山にたどり着いた折、岩間よりあふれる清水でのどをうるおしたという

里人はその水辺に大師像をまつり、いつしか水大師と呼ぶようになった。このたび大師堂の弘法大師木像を石像で作り、讃岐平野をのぞむこの地にまつる

水大師にちなみ、参詣者を迎えるお迎え大師と名付けた

 

お天気も良かったので、、ここからの眺望は素晴らしかったです     

ぼくちゃんが指差しているのは・・・・・・・

さっき降りてきた屋島の辺りです

下って登って、大変だったなぁ 

 

 お迎え大師さんの所でしばし休憩の後は、本堂へお参りに向かいます

 

 

 

第85番札所 八栗寺

八栗寺の歴史・由来

屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗山はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登られます。 天長6年、大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけらました

五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名でした。 延暦年中、大師は唐へ留学する前に、再度この山に登りました。そして仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていました。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です

 

五剣山は、宝永3年(1706)に、大地震を遭い、昔は五つの嶺のうち、東の一嶺が中腹より崩壊し、現在の姿になりました。 

 

<本堂>

 

 

 

 

<大師堂>

 

 

  

<聖天堂>

 

延宝五年九月十六日建立。本尊は木食以空上人が後水尾天皇の皇后東福門院より賜った歓喜天(弘法大師作、丈15cmの黄金像)で災いを除き、和合と福徳財宝をさずける商売繁盛の天尊として有名で「聖天様」と称されています。

 

二股大根 と 巾着

   

 

<多宝塔>

 

お参りも終わりました

今日の最後のお参りの志度寺へ向かいます

 新緑が美しい道を歩きます

 

今度も、車も通る舗装された道ですが、結構長い坂道を下って行きました

 

  続く・・・・・・ 


『四国八十八ヶ所巡りへ』 第84番札所から第86番札所まで(第1弾)

2015-04-25 18:15:56 | 四国八十八か所巡り

 

今回は、夜行バス の往復で、北九州⇔高松へ  84番 屋島寺 ・ 85番 八栗寺 ・ 86番 志度寺 を一日で回りました

しかし、行く時から若干トラブル有り  夜行バスが途中で故障の為 広島県三原市の高坂(たかさか)パーキングエリアで、2時間ばかり停車

一旦、修理して走行開始しましたが、結局は 瀬戸大橋手前の与島PAで後続車に乗換。坂出には、予定より約1時間ばかり遅れての到着でした

色々な所に旅行にも行きましたが、こんなトラブルは初めてでした    まあ、色々な事が有るものです

 

でも、7時半前の坂出発の快速マリンライナーで無事に乗ることが出来、高松に到着

あんまり遅くならなかった。良かったと一安心

 

高松駅では、坂出駅で見かけた「サンライズ瀬戸」が停車中でした   

これも、一度は乗って見たい列車ですね    記念撮影です (到着が遅れたねぇと言いつつ、結構余裕

  

高松駅で、朝食を食べていざ出発です    まずは、腹ごしらえからね

 

 

 

高松駅からコトデンに乗り換えて 潟元駅へ 

    

ここから屋島へ登ります(下の地図の赤いところが登ったルートです)

 

  

登山口手前で見かけた≪ブタ≫  まだ住宅地の中ですが、まるで飼い犬の様に敷地をウロウロ  これにもビックリ 

 

そして、いよいよ上りが始まる  舗装はしてありましたが、なかなか急な坂道で、上り始めてすぐ、汗ダクダクに



☆屋島御加持水☆


弘法大師が屋島寺に向かう途中の上り坂で休憩したが、喉の渇きを潤す水が辺りになく、不便をかこつ衆生のためにと加持祈祷したところ、岩の間から清水が湧き出たという
伝説がある。干ばつで各地の池や井戸が枯れても、この水は枯れることがないそうです。また、路傍の石碑の「加持水」の文字は大師の筆跡と伝えられています。

  

 ぼくちゃん ポーズ  

 

 坂道をゆっくり登ります  ハイキングコースなのか、お遍路さん以外にも 沢山の方が登られてます

 

     出会いを通して自分に出会う   登ってる時は無心かな 

 

☆喰わずの梨☆ 

この屋島寺へ行こうと弘法大師は,屋島の山麓までたどり着かれた。破れた衣のみすぼらしいお坊さまは,喉がかわいてしょうがない。どこかに水でもないかとさがしてみるのだが,見あたらない。ふと,むこうを見ると一本の梨の木がある。たわわに実った梨を,おばあさんがもいでいる。

 「もし,おばあさんや。その梨,ひとついただけんもんかいの。喉が乾いてからからじゃ。」喉ばかりか,朝から何も食べてないお坊さんは腹もペコペコ。

このみすぼらしいお坊さんを,じろりと見たおばあさんは, 「この梨はのう,水気がのうて食えたしろものではないのじゃ。どこぞ他所でもろうてくだされや。」 と,梨一つ恵むのをものおしみした。

「食えんのならしょうがないわ。じゃましたのう。」 お坊さまは,余計に疲れが増したようにひょろひょろと山を登りはじめた。

山を降りたおばあさんは,町へ梨を売りに行った。ところが,どの梨もこの梨も固くて食べることができない。思い切り歯を入れてみても水気もなく,食べることができない。

屋島寺の方へ行かれた破れ衣のお坊さまは,弘法大師だったのだ。それから,この梨の木は,どんなに実がなっても食べることのできない,食わずの梨になってしまった

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここには、「やすみところ」の石柱もあり、ほっと一息つきます 

 

随分登って来ました 

 

☆畳石☆

畳を何枚も重ねたような形をした奇岩。讃岐岩質安山岩が水平方向に発達したものです。

名前の由来は、西行法師の「宿りしてここにかりねの畳石、月は今宵の主ならん」という歌からと伝えられています。

 

 

 

    

        しばし、休憩    登山道にはこんな休憩場所もあります

 

 

  あと 200メートル  頑張るよ

 

屋島登山の番付表が掲示されていました。

遍路道を歩く人を登録、何回登ったかを自己申告してもらって 番付表にし、心身の健康づくりをしているそうです。千回以上の大横綱が、五百回以上の横綱等々・・・・

ここまでフウフウ言いながら私たちは登って来ましたが、みなさんすごいなぁ~~と思いながらこの看板を見ていましたけどね(笑)

 

 

そして、ようやく ようやく   屋島寺の仁王門前に到着    やったぁ~~~(まだ、予定の1つ目何だけどね)

 

  

 

 

<仁王門> 

   

 

 

内門をくぐると、本堂にお参りする事が出来ますが、せっかく屋島まで来たので周辺を散策して見ました

 

屋島寺周辺には色々な見どころがあります。源平の屋島の古戦場であるので、その遺跡も色々な所で見る事が出来ました

 

 

☆源平屋島合戦800年祭供養碑☆

寿永4年(1185年)、早春の屋島に繰り広げられた源氏・平家の合戦は滅びるものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵巻物として現代も語り伝えられ数多くの史跡が点在しています。源平屋島合戦800年にあたり寿永の昔を偲び、合戦戦没者の供養を弔う碑である。

 

お土産店の通りの先には、「獅子の霊巌」というとても見晴しの良い展望台です

  

☆獅子の霊巌☆


屋島寺の西150米の所、高松港に面した断崖に大きい岩が突き出ている。その形が獅子の頭に似ているので、こう呼ばれている。弘法大師が屋島寺を建てたとき、未だ完成しない内に日が没りかかったので大師はここに立って日を招いた所、日が高く舞い上がったので一日の内に完成することができたという伝説がある。

 目の前には、高松の街、瀬戸内海、桃太郎伝説のある高松市の沖合わずか約4㎞の距離にある女木島(桃太郎伝説の鬼が住んでいたとの言い伝えから、別名「鬼ヶ島」と呼ばれる小さな島) 前回登った五色台、瀬戸大橋などが広がっていました

こんな風景が見えます

 

☆かわらけ投げ☆


合戦に勝った源氏の将兵が陣笠を山上から投げて勝どきをあげた古事にならい、小さな素焼きのカワラケを投げ飛距離を競うもので、屋島名物の一つ。一見、せんべいのような小さい皿状の土器を投げて開運や厄除けを祈願するします

 

ということで、私も挑戦しました!

 遠投力ではなく風にうまく乗せるのがコツ。戦勝にちなみ、受験の合格祈願にも霊験があるとか。 

 

 結果・・・・・ 見事、すべて穴から外れました     まあ、良いとしましょう 

 

記念写真  ピース 

 

 

☆可正桜 (かしょうざくら)☆


可正桜は、高松藩士松平半左衛門可正が老後の楽しみとして寛文5年(1665)に、屋島寺石段の左右に7株を植えました。 そのうち6株は枯れ、残った1株を現在の地に移植したものです。 可正は次のような歌も残しています。   「花の時 人きてもしも問うならば 可正桜と名を知らせてよ」

 

 

散策も終わり、今度こそ、屋島寺へお参りです

 

 

第84番札所 屋島寺

屋島寺の歴史・由来

屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。

弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている

 

<本堂>

 

 

 

<大師堂>

 

 

 <蓑山大明神(屋島太三郎狸)>

日本各地の民話に登場する化け狸の中でも、特に有名な三匹の狸。佐渡・淡路そして屋島に住むと言われる日本三名狸です。ジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」でも大活躍をしたのを覚えて見える方もあるのではないでしょうか?

その三匹の中でも屋島に住む太三郎(たさぶろう)狸は一夫一妻で知られ、家庭円満・夫婦円満・子宝授けの神として信仰されています。

                

鳥居の入り口に立つ夫婦の狸は本当に幸せそうな様子! これぞ夫婦円満そして家庭円満の姿を現わしているそうです。

◎四国新聞の記事から   

 http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/densetsu/3/

前に立って是非その狸パワーを頂いて来ました。素敵な笑顔を持ち帰る事の出来るお勧めのパワースポットだそうです

 

 

 

 

 

 屋島寺のお参りを終わり、八栗寺へのお遍路道に足を進めます

 

 

   

 

屋島寺の入り口の所で、ボランティアガイドさんが途中まで観光案内をして下さいながら、同行して下さいました

色々な興味深いお話を聞く事が出来ました   有難うございました 

 

☆血の池 別名 「瑠璃宝池」☆

弘法大師が屋島寺伽藍を南嶺に移す際、「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」とお経を書き、宝珠とともに納めて池にした、との伝説が残るスポット。竜神が宝珠を奪いに来るという言い伝えもあります。源平合戦のとき、檀ノ浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、「血の池」と呼ばれるようになりました

 

 

 

☆源平古戦場展望台から☆

 

 標高375mの五剣山が目の前に見えます  その8合目あたりに 次の札所 八栗寺があります

 山上に5つの大きな峰が存在するため「五剣山」名前がついたそうですが、(地元では八栗山(やくりさん)とも呼ばれる)、5つの峰のうち1つは1707年(宝永4年)の宝永地震で割れてしまったそうです。なので、ガイドさん曰く、「4.5剣山なんだよ」と・・・・・    今で言う、南海トラフ地震だそうです。その時に、富士山の大噴火も有ったと話されていました

 

 

下りのお遍路道に入ります。ガイドさんとは、ここでお別れ 

歩きにくい、石ゴロゴロの急な下り坂が続きます

 

 

後から、来られたお遍路さんお二人   抜かされますが、マイペースで

 

  

 

 

  

 

 

 檻の中に入ったわけでは有りません  

 

 いのしし侵入防止柵が設置して有り、お遍路さんはこの扉を開け閉めして進んでいくのです  

 

舗装して有る坂にようやく到着したけれども、急な下り坂  張ってあるロープを持って慎重に下ります

 

ようやく、平な道に出て来ました   ここから、八栗寺を目指してまだまだしばらく歩き続けます   

 

 奮闘ぶり、デジブックにしてみました   大変だったなぁ  

デジブック 『弘法大師も歩いた道』

 

第二弾に続く  


新幹線鉄道開業50周年記念百円貨幣を購入したよ

2015-04-23 22:54:54 | イベント

4月22日に「新幹線鉄道開業50周年記念百円貨幣」と知って、

今日 23日に銀行に行って早速購入 

 

今回発行される百円玉は、「東海道新幹線(N700A)」と「山陽新幹線(500系)」、「東北新幹線(E5系)」、「上越新幹線(E4系)」、「北陸新幹線(E7系・W7系)」の5種類。各線で現在運用されている車両が表面にデザインされるが、裏面は0系が共通で描かれる。計1156万8000枚が発行される予定で、内訳は東海道が232万4000枚、山陽が229万2000枚、東北が230万4000枚、上越が228万8000枚、北陸が236万枚になる。

 

 

      中々、可愛らしい       

今日は少し鉄分UPしたかな(笑)

 


ぼくちゃん スペースワールドへ行って来た

2015-04-22 21:47:50 | 日記

 

北九州市八幡東区のテーマパーク「スペースワールド」は

開園25周年となる22日を「北九州市民感謝デイ」とし、同市民に限って入園料を25円にする

  通常の入園料は中学生以上が1570円、小学生が780円、4歳以上の未就学児が490円
22日は市民であることを示す保険証や運転免許証などを持参すれば、25円で入園できる

     

と、なれば行くしかない   

ぼくちゃんは、スペースワールドへ一直線  

 

本当に 25円でした 

 

 

 

アトラクション  色々 激写  

   

 叫び声が聞こえそう  

 

 

   

ずぶぬれになっても楽しい(らしい・・・・) 

 

 

テレビの取材もあっていましたよ 

 

 

そして、JR九州ウォーキング友の Mさんにもお会いしたそうです

きっと来られてるだろうな・・・と思っていましたよ 

 

 

    

 

  私は、仕事でしたので、この恩恵は享受できなかった  残念