Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

絵画鑑賞雑記「第55回光陽展・広島展」(5):「光陰」

2007-06-21 23:55:15 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽展・広島展作品より「光陰」


番 号: 101
資 格: 会 員
氏 名: 木上英子
題 名: 『光陰』
広島支部出展作品


 
 そもそも小説家たるべき本質心得の「第一歩」とは、
 大嘘をまことしやかにつきまくり、爪の垢にもならぬ「些細な事」を大袈裟に書き殴り、「あらぬ想像」をまくし立てつつ時に文学的美文且つ美辞麗句を書き連らね、「おおうそ」を然も(samo)ホンモノの事象の如く煙に巻きつつ読者の想像力を懐かせ掻き立てつつ、めくるめく幻想と創造の世界に陥れる技を駆使することなり。 おお嘘をホンモノの如く遣り繰りし創作せんがため、日夜葛藤し自己嫌悪に陥りつつも時々再々奮起し、書き続ける執念とエネルギーを維持し、以って体力と精神力を消耗する「生産性低き苦行」の連続なり。 と、某出版社の大将から、我輩の非小説家的優柔不断さ(正直さ加減か?)に対し、非難誹謗中傷!?はたまた檄文的気合?!を入れられつつ、拝聴したこと思い出す、、、。

 これを思い出すたびに、

 「ブログ書くのは、もうをやめようかぁ~・・・」

 等々、あらぬ妄想をめぐらしつつ試行錯誤的迷走するのであります。

 「・・・?」

 ハハ! 適確なるご指摘は仰せのとおり? 「なぜ、ブログ書くのはいけないのか!」ですって?

 ブログ書き続ける作業と、小説を書く作業の思考回路は全く以って異質だという事実。 はっきりと自覚症状なるもの認識できるのです。 すなわち、ブログ文章は、(私の場合に関してのみ)それが長かろうと短かろうとエッセイ乃至評論文章作成の連続であり、評論文章を書く作業なるものは一切合財ことごとく、創造的文章作成作業に対比してみれば二律背反的作業に他ならないからです。 

 まずは上述のこと、本日記事をご一読いただく大前提として読者諸兄姉にお伝えしておきたく思います。

 (要は、評論文書いてばかりいたら、肝心の小説はかけないということ、自分自身の肝に銘じている次第なり!!!)

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さて本日の本論、「絵画鑑賞雑記」に入ります。


 恥ずかしながら残念ながら、はっきり申上げ、基本的には、絵画としての「この作品」に何の興味も湧かない擁かない、、、。

 といえば、本心から出た「本音」であり、且つ、大嘘ならずとも「小嘘」になるか、、、。

 「・・・!?」

 何故か?

 実はこのところ、「宮島探訪記」なるものを、舎弟ブログ「Cafe&Magazine旅遊亭」にて連載しており、そのような経緯あって、ついつい宮島的絵画に我が眼をそらしつつも、チラリズム風?斜視的まなこを注いだのであります。

 この作品「光陰」!

 どうやら厳島神社祭事の一環(舞楽(bugaku)をイメージされて描かれたと思われます。 舞楽から連想するは、さらにさらに数ある宮島の各種行事に奏でられる雅楽の音曲に合わせ、厳島神社の海に浮かぶ神社内舞台で繰り広げられる「伝統的舞踊」のひとこまに違いない、、、。

 宮島探訪を始めた二重人格者エセ男爵の別称<ア「執事のトーマス」君による昨今の熱心な「宮島研究」の努力に鑑み、第55回広島支部出展作品『光陰』を記事にし、以って「宮島の伝統文化」に敬意を表し奉るものであります・・・

 その実、一度も「宮島の管弦際」を観察したことなく、今年は是非管弦祭なるもの見届けたく、この歳になるまで宮島的超有名祭事に参加しようと思ったことのない「日本の伝統文化」に目を向けようとせず、興味も好奇心も持てなく且つ持たなかった横着者且つけしからぬ日本人、こと、エセ男爵メ、、、。 夏のメチャ暑い湿気多き時期に、一般庶民大衆の集い騒ぐ場所付近には一切立ち入りたくなく、以って孤高の真似事を良しと決め付け、すなわち「出不精の典型」エセ男爵メをして、かくなる一般庶民大衆の集う場所に(今年こそは)イザ出向かんとの動機を与えてくださった、その引き金になった「この絵画」。 かくなる重要な決定の動機付けを抽出してくださった「作品」をご出展された木上英子氏に、あらためて敬意を表します。

 まずは、御礼申し上げます。

 「たいへんありがとうございます・・・」

 そして、今年の管弦際には是非とも参加し、かくなるご出展作品をあらためて思い浮かべ、我が瞼に再現したく存じます・・・


    <・続く・・


 (絵画鑑賞雑記の過去記事は、こちらから入れます・・・)


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<付記>:宮島・管弦際のこと・・


1)宮島 Miyajima 社団法人宮島観光協会にて、宮島の祭事、詳細参照可能。


2)管弦際のこと(上述HPより一部引用):
 古くから都では、池や河川に船を浮かべ、優雅な「管絃の遊び」をしておりました。厳島神社を造営した平清盛はこの風習を厳島神社に移し、遊びではなく神様をお慰めする神事として執り行うようになりました。従って河川でなく瀬戸の海を舞台に雄大に繰り広げられるダイナミックな平安絵巻を思わせる海に囲まれた宮島ならではの優雅な祭りとなりました。

 ※ 管絃とは三管(笛、笙、笳)、三鼓(太鼓、鞨鼓、鉦鼓)、三絃(和琴、琵琶、琴)を用いて合奏する音楽。

 平安時代の宮島は、島全体が神様とあがめられ、島内に人が住むことができなかった為、清盛公は厳島神社の姫神様がお乗りになる御座船を造り、舳先の左右に篝火を焚き、御鳳輦前の雪洞(ぼんぼり)や艫(とも)に上げた4個の高張提灯、二十数個の飾り提灯に明かりをともし、その灯火を暗い海に映しながら夕刻から深夜に掛けて瀬戸の海を渡っていきます。

 管絃祭の日時を旧暦の6月17日としたのは、海上の神事であるから潮の干満を考慮したからです。上げ潮の高い季節は旧暦の7月・8月頃ですがそのころは台風の季節に当たるためにこれをさけ、しかも大潮ということになると旧歴の6月になります。夕方日が傾く頃に出御して夜半に還御となると17日ということになり、このころは夜になってほぼ満月に近い月が昇り瀬戸の海を明るく照らします。絶好の条件が整うわけです。 (詳しくは「宮島管絃祭」へ、こちらから入れます・・・


3)『舞楽(ぶがく)』
 舞楽とは、「舞」を伴う古楽の総称で平清盛によって京の都から宮島に伝えられた舞楽は、その後800年の間、厳島神社で守り伝えられ、現在では大変貴重な文化遺産となっております。

 インド、中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきたものですが、発祥の地インドはもとより中国、朝鮮半島にも現在は残っていません。
(詳しくは、こちらから入れます・・・)