Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

絵画鑑賞雑記「第55回光陽展・広島展」(4)

2007-06-19 15:45:25 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽展広島展出展作品『プラタナスの風』
番 号: 45
資 格: 会 員
氏 名: 木村順子
題 名: 『プラタナスの風』
受賞名: 会員秀作賞
住 所: 広 島



 木村順子さんこと「Kさん」の作品は、昨年第54回出展作品を拝見した時すでに、記憶に留まって脳裡に焼き付き離れなかった「印象深い絵画」であったこと、何度も述べた。 もちろん、そのような作品であったからこそ『デジカメ画像』に記録しておいた訳も、前回記事に記した。

 印象として、
 A) 微細な違いある各種青色と全キャンバスを包み込む白色のバランスよく、
 B) ほのかな薄緑色と、やや枯葉にならんとする薄茶色は、上記色彩バランスに程よく溶け込み、キャンバス全体に広がる色調に違和感なく、
 C) これらの色彩の絶妙なバランスの好さは、
 D)『ブルー色調』の好きな我輩にとって一服の清涼感を漂わせて頂けるから気分爽快になった。

 しかし、感想文書きたくても書けなかった理由あり、以下、一年前を回想しながら思い着くままに書き連ねてみる。

 1) この絵画は一見したところ平面的に見えるけれど、そうでもない、
 2) 遠近感抜群にて、絵の中のほぼ中心に位置するところに、何か得体の知れぬ未確認物体の存在を感じ、
 3) その未確認物体の存在あればこそ、この絵画の深遠さを感じつつ、
 4) この絵画の秘める『深遠さ』を感じればこそ、鑑賞者に訴えているであろう『深遠さ』の意味するところが見えなくなって来て、
 5) 違った発想や異なる角度から観た場合、そのような裏側的判断をすれば、伝わってくるものは『不気味さ』すら内蔵され、
 6) 以って、結構難解な絵画であるか?

 ならば、一見して清涼感に満ち溢れた安易な解釈によって「直線的な感想文」は、書かない方が宜しいか?

 等々、当時の我輩の脳裡によぎった印象を、今此処で改めて吐露しておく。

 さて、
 今年も「Kさん作品」を観た。 実際にKさんともお会いできた。 Kさんから直接に、Kさんの絵画創作に対するアイデンティティーもお聞きできたこと、たいへん光栄の至りであります。

 なんと、昨年に続く今年の出展作品『プラタナスの風』の心象的イメージは、時代遡る事60数年前の「原爆投下」時点にあり。 原爆投下の爆心地からわずか2~3kmも離れていない至近距離に、天満小学校あり。 その小学校の校庭に植えられて、わずか10数年になる(資料によると昭和6年植樹とある)若いプラタナスの樹木あり。 被爆当時の広島に於いて、
 「向う100年間は草木も生えないであろう・・・」と、
揶揄されていたこと、あらためて思い出す。
 しかししかし、戦後まもなく復活した現在の広島は、今尚活きており、ほぼ直撃されたといってもおかしくない天満小学校校庭のプラタナスの樹は生き残り、樹齢70年を越える古木として、今も尚、四季折々に姿を変えつつこの世に生き続けている。

 そして、
 Kさん作品「プラタナスの風」は、上述「天満小学校」にて被爆し、今尚活きているプラタナスの樹木をイメージされて描き続けられている。と、お聞きした、、、。

 (ム、ム、・・・)

 上述云々、Kさんから直接お聞きした我輩、無言にて、唸った、、、。


 原爆投下からすでに60数年たった今、やたら被爆地広島をバックグラウンドにして平和都市宣言なり平和運動なり原水爆実験禁止運動なり、やたら『平和を商品化』して活動運動する『不逞の輩殻』多く、煩くて面倒。 逆に、広島の発展を妨げる行為多くて腹立たしく、且つ、如何ともしがたい昨今である。

 そんな中、Kさんにして凛として淡々と、「命の大切さ」と未来に繋がる「命の尊さ」を後世と子弟に伝えんがため、一枚のキャンバスに「Kさんの思いの丈」をぶつけられておられるに違いない、と観る。 昨年第54回作品に続き、本年第55回作品も「同じテーマ」を堅持され、さらに「同じテーマ」を深遠に追求される芸術家の姿勢に感服する。

 少しずつ「作品の意味するところ」、解りかけてきた、、、。

 プラタナスの葉っぱに取り囲まれた画面周囲、遠近感ある手前の位置は、どうやら「プラタナスの樹木」の幹の内部に思われて仕方ない。 樹木の根幹である「幹」から、樹木の外側を見ているような気がしてならない。 樹木の外側には「未来」なるもの見えてきて仕方ない。 絵画の中の未来とは、遠近法的に描かれている中心部の遠い位置にあるか、、、。 たぶん、遠近法的手法によって描かれた遠方は、予測できない未来を描いておられるはず。 見えるようで見えない未来は、絵画の中心にあり、手前の外郭は、たぶん被爆して今尚生き残って活き続けているプラタナスの古木の「虚・洞(uro)」に違いない。 伝え聞くところ、被爆当時の高熱爆風で裂けた樹木の幹は、今も尚大きな洞(うろ)となって残り、痛々しくも被爆植物の今の有体をまざまざと、我々人間に訴え且つ見せ付けている。

 原爆の被害、その悲惨さを伝えるは常套手段にて聞き飽きた。 むごたらしさを絵画にて表現するは見飽きた。 醜くく惨たらしい焼け爛れた死体や火傷を負った半死半生の人間を描いた地獄絵巻は、一度観ればもう二度と観たくない。 こんなものを何百回何千回観ても見厭きない、もっと観てみたい、毎日鑑賞したい人間なんて存在しっこない。
 それよりも、Kさんの「アイデンティティー」をもって、歴史を記し表わし現在と将来に伝承する手法は、より伝え易い「正当真っ当なる手段」であり、この手法こそ美術芸術の持つ真骨頂か、、、。

 ありがとうございます! Kさんに、敬意!敬愛!憧憬!尊敬!あるいは崇拝!をすべて包括し、感謝致します。



PS:一度、天満小学校のプラタナス、見学に行ってまいります、、、。 

<参考資料>: 「天満小学校のプラタナス」、現在の姿の画像は、こちらから入れます。


     <・続く・・


最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。