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絵画鑑賞記「第55回光陽展・広島展」(8)

2007-06-29 12:05:10 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽会出展作品、『タンゴ』より・・


<作品の紹介>

 作品番号: 72
 作者氏名: 山 本 泰 子 (会員)
 作品題名: 『タンゴ』
 受賞名: 損保ジャパン美術財団奨励賞
 住  所: 広  島



 題して、「タンゴ」・・・

 作品名をタンゴと題されているからには、白単色にて描かれている1対の物体は、たぶんタンゴを踊る、ペアーの男女であろう。

 鮮やかにしてシックな「ブルー」は、女性ダンサーの衣裳か。 背景は、限りなく黒に近い「濃紺」にて、抽象画風に描かれている作風のなか、色彩配置のバランスはみごとである。
 もって無駄な表現を一切削除し、且つ本来情熱的色彩である赤色や橙色を排除し、本来は冷静沈着をイメージさせる青と白と紺色を使用しつつも、激しく小気味よいリズムのタンゴの舞踊表現は完璧であり、もって相対的絵画構図バランス、みごとである。

 しかし、タンゴと題されたこの絵画から漂う画家の感性に、多大なる疑問点あり、、、。

 一組の男女により成り立つ社交ダンスジャンルとしての「タンゴ舞踊」表現には、不良中年エセ男爵の個人的感性として「眉を顰めたくなるほどに」下種な雰囲気漂って異臭を撒き散らし、本作品を鑑賞すればするほどに、ある意味、目を伏せ且つ鼻をつまみたくなる。

 さて、
 数ある社交ダンスジャンルの中、ラテン系統ダンスの一つ「タンゴ」を、先ずは音楽として理解しておきたい。 先ずは音楽あって、その後その曲のリズムとメロディーの醸し出す雰囲気を、身体で表現したくなった時に初めて、人間によるダンスが発生したのではないのか。
 社交ダンスとしてのタンゴ発祥の地は、たぶんアルゼンチンに違いなく、その根幹を成すタンゴのリズムは、17世紀頃大航海時代、コロンブスの新大陸発見を発端に、怒涛の如く新大陸中南米になだれ込んだヨーロッパ人からもたらされたもの。 すなわち、遥かイベリア半島スペインなりポルトガルから?彼の地アルゼンチンに移り住んだスペイン人ポルトガル人及びジプシーの血を引く欧羅巴人からもたらされたジプシー音楽から派生し、南米アルゼンチンの気候風土原住民の風俗習慣文化とあいまって花開いた「新しいラテン系ミュージック」のはず。 かのバンドネオン特有の音色と歯切れ良きリズムこそ、まずは音楽としてのタンゴを生み出す切っ掛けとなったはず。 さらには欧羅巴大陸に逆輸出され、20世紀初頭の欧羅巴上流社会には、一躍タンゴブームなるもの巻き起こり、フルオーケストラによる複数ヴァイオリンの澄み切った高音域にて表現される「コンチネンタルタンゴ」なるもの、大流行した。
 欧羅巴大陸に再上陸したタンゴミュージックは、ここに至って最盛期を迎え、社交ダンスとしてのタンゴは、南米大陸独特のファナティックな情熱や湿気を振り切り、格調高きヨーロッパ上流社会風に洗練され且つ乾燥した歯切れの良さを表現するコンチネンタルタンゴの至宝『青空』に代表されるか、、、。

 しかし、近年再びアルゼンチンタンゴの持つ泥臭さなり土臭い雰囲気がもてはやされるようになったのは確かである。
 そんななか、我国社交ダンスブームの狂い咲きは、我輩の尺度をあてはめると、お洒落のつもりで社交ダンスを学習する中高年の存在は、いかにも滑稽にてバカバカしくも面白おかしく幼児的幼稚さを感じつつ、あらためて議論非難中傷するエネルギーは持ち合わせていない。

 どうであろう? いつも思い切った突飛な表現をなさる作者は、音楽としてのタンゴに対し十分な造詣をお持ちであろうか? とまではいかなくとも、一通り伝統的なコンチネンタルタンゴの領域に好奇心を持たれておられるか。 すくなくともアルゼンチンタンゴのみならずコンチネンタルタンゴのジャンルに於いて、ある一定のレベルまで音楽鑑賞されておられるのであろうか?
 ならば、タンゴリズムによる、ダンスのご経験は?
 タンゴを踊ったご経験は、如何か?(ご自身にて十二分に)踊り捲くられたご経験をお持ちであろうか? 実際のダンスを踊った体験皆無と仮定し、ならば鑑賞は如何か? 国内はもとより外国の世界的レベル社交ダンス競技会を観察なさっておられるであろうか?
 タンゴをテーマに絵画表現なさる以上、上述の「音楽&ダンス」として、ある一定レベルのご経験無ければ、音楽的「音」や、ダンス的「動き」を、絵画表現に置き換えられるは、これを無為無策無謀といっても言い過ぎではない。

 しかし百歩譲って、上述のご経験は作者に於かれては未知の世界、且つ不十分なり。と、仮定しよう。 であるならば、TV等にて垣間見た男女一対のタンゴダンスを舞う姿から、かくなる作品創作に挑まれたとしておこう。
 そもそも男女ペアーによる社交ダンスの中、男女の情熱的愛情表現甚だしきは近年のラテン系ダンスの多くに見受けられる「悪しき傾向」にて、なかでもタンゴダンスの表現方法は、先ずは男女ダンサーの衣裳からして露出度高く「前時代的ストリップ劇場三流ダンサー」を上回る卑猥さあり。 もって最近際立って性行為的描写に近い舞踊表現は、多用される。 特に、ダンス競技コンクールのために、センス乏しき知恵を縛り無理強いし創作した「特殊な振り付け」は、審査員の注目を惹かんがため、、、。 このようなプロセスをもっての昨今の振り付け表現は、何故か、ますます下種卑猥なものになっていくような気がしてならない。 これは時代の潮流、今流の常識である!と、付け焼刃的民主主義のマジョリティーを代表するシロモノなり。と、マジョリティーから断言されれば、それまでか、、、。 それでも我輩は、上述の今流卑猥的尺度に物申したく、自論を曲げる気持ち、これ、一切ない。
 どうやらこの作者、そのあたりの「卑猥さの極み」を切り取り、タンゴと題して作品創作にあたられたもの。と、勝手に判断する。
 くわえて、ダンスの経験なき御仁、タンゴを踊ったご経験なき若き女性と、勝手に想像する。
 願わくば、手前の踊り手の背中から腰もと、さらには大腿あたりの体の線を、もっと男性的に描いてほしかった。 手前背中の人物が男性ならば、もっと骨盤らしき想像できる部分を、小さく引き締め描いて欲しかった。さらには、丸い頭をもった対面の人物を女性と想定するならば、舞っている時の両足共、瞬間的に中に浮くことあれども、足の両膝を同時に折り曲げるポーズは、タンゴを踊っていては不可能な体形であり、少なくとも両足を伸ばしているか、少なくとも片足(この絵画の場合は向って左足首)はシャキッと伸ばし、しっかりと男女のペアーの体重バランス崩さず、タンゴ音曲のリズムを崩さず、情熱的なタンゴミュージックを舞っている姿、鑑賞者に「見えるよう、解釈できるよう」、描いて欲しかった。

 「・・・?」

 そう、卑猥な表現は避けたい一心で書き連ねてきたけれど、此処でどうしても一言申上げておく!

 あまり好まないけれど、文学や絵画における芸術作品表現方法にて、エロティシズムは理解できる。 場合により表現方法により、エロティシズム表現をもちいるは、一服の清涼剤的感覚在り、ある程度受け入れ理解するは可能である。
しかし、タンゴダンスから、エロティシズムを感じ且つ性行為の表現をモロに臭わすは、いかにも洒落っ気なく、センス及び清涼感は皆無である。 エログロを通り越し、ナンセンスを通り越し、怒りを覚える。
何故に怒りか? すなわち、これではまるで犬や猫、はたまた獣の世界の生殖行動的表現である。 加えて、巷の人間の「立位そのもの」に見え、性行為的表現を以って「タンゴダンス」を解釈し絵画表現するは、天意無垢な幼児の心得から生じた素直な表現の失態失策として許されるはずはなく、絵画芸術世界を愚弄する暴挙としか、言いようがない。

  類い稀なる感性と、天性の色彩感覚、そんな山本泰子さんだからこそ、求めたくなる自己流儀的「お願いの世界」あり。 加えて「作品題目」にして『タンゴ』となったからこそその求める要求は厳しいものになってしまったこと、お許しいただきたい、、、。


・続く・・

<付記>:
 A)連載中、前回記事はこちらから入れます・・
 B)「光陽会」公式ホームページは、こちらから・・


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