文語文のあぢはひはコーヒーのたのしみに似てゐる。
同じコーヒーでも酸味の勝つたやつから苦味の勝つたやつ、だれにもこのまれるすつきりした飲み口のから独特なエグみのあるのまでさまざまである。
その日の気分に応じていろんな品種、いろんな産地、いろんなブレンドを淹れ分けるといふのがコーヒー好きの醍醐味だらう。
文語文も同じであつて、おなじ文語文といつてもその style はさまざまである。
まず、大雑把に漢文脈と和文脈といふちがひがある。純粋な漢文脈、純粋な和文脈といふものはおそらくないであらう。あらゆる文語文は漢文脈と和文脈のブレンドからなつてゐる。そのうちには前者が勝つてゐるものもあれば後者が勝つてゐるものもあり、あるいは両者が絶妙な配合を実現してゐるばあいもある(その極北が『平家』ではなからうか?)。
少々乱暴であるが、とりあへずこれをコーヒーにおける酸味と苦味の対立にあてはめることにしやう。
さらに、同じ漢文脈のなかにも漢文読み下し調のみてくれのゴツいのもあれば、簡素な清潔感ないし禁欲を旨とするものもある。
よつて二つめの座標軸として、バロック←→ミニマルといふそれを導入する。これはコーヒーにおけるコクとまろやかさとの対立軸に相当するとみなせよう。
どんな文語文も、(1)漢文脈と和文脈、(2)バロックとミニマルという二つの軸からなる座標のいづれかに位置づけられる。
そしてそのうえにさらに甘みや風味といつた個性が「加味」される。
たとえば鷗外の『即興詩人』は漢文脈と和文脈の絶妙な絡みに欧文翻訳調(ヨーロピアン・テイスト)の香りを一滴(もつとか?)垂らすことによつて濃厚にして貴族的とでもいふべき香り高いフレーバーを漂はせるにいたつてゐる。
あるひはある種の新体詩や漢詩のたたへるノスタルジーゆたかな甘酸つぱさ(『青春の文語体』の安野光雅の好むタイプ?)。
当店店主(またの名を文語文ソムリエ)の見立てによれば、和文脈の極北には一葉がゐる。一葉の文体がまろやか一辺倒でないことはいふまでもない。そのきりつとした後味には漢文脈の影響がまぎれもない。しかし、一葉が和文脈を極めた書き手であることに反論するひとはゐまい。究極の作品として『一葉日記』もしくは若き日の山本夏彦が飽かず筆写したといふ『通俗書簡文』を挙げておく。
そして漢文脈の極北にはいふまでもなく露伴がゐる。『運命』の露伴であり、あるひは『譯註水滸傳』の露伴である。その容赦ない漢文読み下し調は日本語のひとつのリミットを画してゐる。
そしてその中間点にあつて燦然と輝くのが文語文界のブルマンともいふべき『平家』である。
いつぱう、バロックの極点にゐるのもやはり露伴である。鷗外のバロックもそれに一歩も、とはいはないが二歩とはゆづるまい。
たいしてミニマルの極はなにかと問はれれば、正直のところ自信がないが、『断腸亭日乗』『日本外史』『米欧回覧実記』あたりをとりあへず挙げておく。(『戦艦大和の最期』といふチョイスもあるかもしれぬ)
そのほか漱石の書簡は漢文脈とバロックの交点のどこかにくる。
すでにお気づきのとほり、店主の好みは漢文脈に偏つてゐる。これは当店の個性として大目にみていただくほかない。もちろん和文脈にかんしてもおほいに勉強して豊富な品揃へをご提供してゆく所存であります。
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