Negative Space

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父の面影:成瀬巳喜男の失敗作『舞姫』

2018-04-04 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男「舞姫」(1951年、東宝)


 川端康成の新聞小説を新藤兼人が脚本化。筆者は読んでいないが、原作は連載時から大いに話題になっていたもののようで、本作を見ているかぎりではまったく信じられないことながら、映画化権の奪い合いが展開されたという。

 たまたま朝日新聞に現在連載中の記事によると、本作でデビューを飾った岡田茉莉子もこの小説の愛読者で(岡田家は朝日を購読していたのか)、まもなくじっさいに演じることになるともしらず、品子のような役を演じてみたいと前々から母親と語らっていたという。

 人物関係も台詞も人工性の極みで、好感をもてるキャラクターがただのひとりもでてこない(それどころか、その大半が積極的な嫌悪感を抱かせる)。コメディーの要素が皆無で、作中で誰かが笑っている場面があった記憶さえない。岡田茉莉子も全篇おすまし顔というか、あるしゅの魚みたいな硬直した面相を通さざるを得ず、あるいみ気の毒なデビューである。

 ぎゃくにわれらが高峰三枝子はもちまえの能面顔にものを言わせる。おもえば筆者が女優・高峰三枝子(以下、タカミエ)の魅力に目覚め、同時に能面顔の女性(にょしょう)の強烈なセックスアピールに目覚めたのはむかしフィルムセンターでみた本作によってであった。筆者が“ダブル高峰”中のタカミエをデコこと秀子のはるか上位に位置づけるようになったのもそれからのことである。ちなみに、もともとデコを苦手とする筆者は、『浮雲』だの『流れる』だのを成瀬のベストであるとはまったくかんがえない。

 惜しむらくは本作のタカミエからその若き日のねばつくような癖のあるディクションが聞かれないことだろう。いわば発声時に口中でしばし言葉を転がし遊ばせるのをたのしむが如きディクションこそ女優のセックスアピールのいまひとつの要素である。若尾文子しかり。原節子という女優の筆者にとっては唯一の魅力もそこにある。

 川端ブランドにふひつようにこだわったせいで昭和の昼メロ的なナンセンスに徹しきれなかったところが本作の敗因だろう。ラストシーンでのまったく必然性のないクレーンショットが作品の中身のなさをマゾヒスティックにあばきたてている。長々とインサートされるバレエ・シーンも、死の床の大川平八郎も間抜けで笑える。父娘ほどに年の離れた大川への岡田の愛着(作中、唯一リアリティを伴った感情といえるかもしれない)には岡田じしんの父親時彦への関係が反映されているようにもとれる。岡田(そのすこしまえに偶然みた『滝の白糸』で画面上の父とはじめての邂逅を果たしていた)が品子のキャラクターに入れあげていたというのはそのせいであるらしい。


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