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Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

D.O.A. : 『ブレイキング・バッド』

2015-05-03 | ドラマ
ヴィンス・ギリガン『ブレイキング・バッド』(2008~2013年、AMC)





 (注意)物語の結末に触れています。

 深い感動とともにファイナルシーズンを見終える。

 ウォルター・ホワイトはかつて描かれた最兇の極悪人だ。アンチヒーローということばははじめてその実質をともなうことになった。

 家族という神聖な絆をまもるためならすべてがゆるされるのか。もっともおぞましい仕業に手を染めても? ファースト・シーズンで視聴者のなかによびおこされたこの疑問にたいしてシリーズがくだす結論には、シリーズの演出が一貫してそうであるように、一片のごまかしもない。奇跡的なハッピーエンドなど待っていようはずがない。家族愛というアメリカ映画を根底から支えてきた信仰が否定されたのだろうか。

 しかしウォルターのそもそもの動機は敗北者のルサンチマンである。家族愛はあったとしてもあとづけの動機にすぎない。かれがさいごに最愛の家族を失うのは必然すぎるほどの必然なのだ。しまいにだれもがかれの死を願い、呪いの言葉をなげつける。かれにたいする留保のない尊敬をおしまなかったジュニアもさいごには電話口で「死んじまえ」とののしる(かれはすでにファースト・シーズンで弱音を吐く父親に「死ねばいい」と言い放っている)。いうまでもなくジュニアのネガでありいわば分身でもある義理の「息子」ジェシー・ピンクマンもこの例にもれない。

 敗北者の運命にひきずられるようにして、余命すくない病人という立場を逆手にとって(それによって不死身化して、あるいは隠れ蓑にして)ウォルター・「ホワイト」は悪に染まっていく。あるいは内なる悪(それがちっぽけな欠点のよせ集めであるとしても)を解き放つ。すべての登場人物がこの悪のために滅ぼされる。これほどペシミスティックな結末はない。この運命を免れるのはとりあえず娘のホリーだけだ。とはいえ、かのじょの人生もさいしょから暗すぎる影を背負っている。『ブレイキング・バッド』はフィルム・ノワールというジャンルのひとつの頂点をきわめた。

 物語のはじまりでいわば死刑宣告を受ける主人公にすべての視聴者は同情する。ファーストシーズンのユーモラスな家族会議の場面ではだれもがなみだするだろう。しかしやがてかれにたいする興味は、かれの行動の不可解さや動機の曖昧さによって維持されることになる。

 同じくファーストシーズンで監禁したディーラーにとどめをさす場面の演出は見事である(この「殺人」によってウォルターのなかで決定的なスイッチが入ってしまう)。ウォルターの行動はあいまいなままであり、かれのこころのうちはまったくわからない。ピンクマンの恋人の死を傍観している場面で、主人公にたいするわれわれの疑念はさらにふかまる。

 メス製造に手を染めることで、エブリマンW.W.のなかに眠っていたあらゆる悪の芽が一気に開花する。W.W.の悪に感染されるように、かれの周囲もその潜在的な暗部をさらけだしていく(ピンクマンを半殺しにするハンク、『スカーフェイス』に熱狂するジュニア、etc.)。

 さいごに満足げに死んで行くいい気なかれをわれわれはつめたく見守る。だれもかれを罰することができなかった。

 ホモソーシャルな本シリーズがひけらかすあからさまなミゾジニーは、フィルム・ノワールの伝統につらなるものだろう。性的な場面は物語が進むにつれて皆無になる。高齢出産の妻はシリーズ前半ずっと突き出た腹をもてあますスラップスティック的な役どころだが、出産後は急速にふけこみ、黒装束をまとって経理の腕を悪事に活用する。女優の演技力は高いが、ベッド・ミドラーをLiLicoふうにした面相に岩のような巨体は被写体としての魅力をいちじるしく欠く。ほかの女性キャラクターも例外なくステロタイプ。シリーズのクリエーターは、巨大な女と小柄でスキンヘッドの男たちがたいそうお好みらしい。ウォルターはジェシーをめぐる嫉妬から相棒の愛する者たちを死に追いやっていく。

 忘れがたいエピソードはドラマが走り出す後半よりも、前半に多い。ピンクマンとその弟、半身不随の元マフィアのからむサスペンスフルな一幕など。

 雲ひとつない蒼穹と黄砂のコントラストがどぎついアルバカーキの砂漠(西部劇へのオマージュ)、時間がとまったようながらんとした街頭。アメリカーナ感ゆたかなロングショットがきまっている。『ビリー・ザ・キッド/二十一歳の生涯』ディレクターズ・カット版のスリム・ピケンズさながらにマイクが静かに死んで行く夕暮れの川辺のロングショット、終盤でウォルターがつかの間の休息を得るニューハンプシャーの雪景色しかり。終盤のノワール色ゆたかな映像の切れもすばらしい。撮影のマイケル・スロヴィスの技量は相当なものとみた。

 アバンタイトルも効果的につかわれている。[一度使われた映像への]フラッシュバックあり、[その後使われる映像への]フラッシュフォワードあり。セカンド・シーズンのさいしょの方のエピソードで、砂漠を這って聖地をめざす巡礼のメキシカンたちに高級車から降り立ったスーツ姿の眼光鋭いスキンヘッドのふたごが加わるというのがあった。聖地にはウォルター・ホワイトの似顔絵も飾られている……。

 要のエピソードではクリエーターのヴィンス・ギリガンが演出にクレジットされていることが多い。シーズンの最初のエピソードはブライアン・クランストンが演出するのが慣例になっていた。『ツイン・ピークス』など多くのドラマを手がけた映画監督ティム・ハンターが最初のほうの一挿話を演出していた。



『The Wire ザ・ワイヤー』は本当に傑作か?(続き)

2014-08-06 | ドラマ
 シーズン1の3話まではきわめて退屈であった。つづく4話の実況見分の名場面(「Fuck, fuck,fuck…」――放送禁止用語ものともしないHBO)あたりからゲームの規則を理解できるようになり、味わい方がわかってくる。こせこせと「つかみ」に心を砕いたりしないのは余裕のあらわれなのか?

 アクションも恋愛もない。盗聴をめぐるサスペンスも一切ない。スーパーヒーローは出てこない。登場人物は類型。かれらの関係だけがかれらについて何ごとかを教える。一都市をひとつながりの複雑なネットワークとして描き出そうとするのがこのドラマの野心。台詞がよくわからんが、人物関係や各自のキャラが見えてくると、なんとなく展開についていけるようになる。もともと、リアリズムを信条とするこの英語を聞き取るのは骨が折れるようだ。

 シーズン1を通してみて、ドラマに敬意は抱くことができたが、禁欲的すぎて大いに疲れた。シーズン2に入ると、シーズン1の閉所恐怖症的な雰囲気(地下室、路地裏、団地、闇)とはうって変わり、海と港湾地帯の開けた眺めが気持ちを潤す。第一楽章とは対照的な楽調。シーズン1が昔の殺人事件の裁判から始まっていたのとは対照的に、シーズン2では視聴者の目の前で13人の美女の遺体が発見される。発見者の女性警官ベアトリスも、シーズン1のキーマ(レズビアンの黒人警官)と比べると、ずっとハリウッドふうのなじみやすいキャラ。シーズン1の黒人キャストの多さには圧倒されたが、シーズン2は白人メイン。2話のラストは暗黒映画ふうのバイオレンスシーン。わかりやすく、サービス精神旺盛。とはいえ、あくまで楽章ごとの個性を出そうというねらいであろう。

 シーズン1のチームは解散し、メンバーはほとんど左遷。ムショに入っているエイヴォン・バックスデイルは財力にものを言わせ、独房でケンタッキーを頬張ってごきげん。「超ウマ!」。懲りない。スキンヘッドだったディアンジェロはムショで髪が伸びていたが、世界の不幸を一身に背負っているかのようなメランコリックな童顔はあいかわらず。港湾警察の制服のジャンパー姿が滑稽なマクノルティ。ダナ・アンドリュース(ミニマリズム)にコーネル・ワイルド(野性味)まぜたような面相だが、シーズン1のあとのほうでキーマを矢面に立たせたことを涙ぐみながら詫びる臭い芝居からもわかるように、ドミニク・ウェストの演技はギャグとしてたのしむのが基本だろう。元いた部署の面会室でバンクと蟹むさぼる場面はわるくない。ロンダはマクノルティに不満。「あたしはあんたのなんなの?」一方、ダニエルズ夫婦の仲はますます冷えきっている。「今夜は冷えるわね」……「きみの言うことはいつでも正しいさ」。ロンダとダニエルズがこのあとくっつく展開になるらしい。主題歌がトム・ウェイツのヴァージョン(ワンコードで押し通す)に変わっていた。

『ザ・ワイアー』は本当に傑作か?

2014-07-06 | ドラマ
 The Wire シーズン1/1~3話

 本国(およびヨーロッパ)での評価の高さばかりが話題になったものの、わが国ではついにドラマの内容そのものが語られないままに終わった観のあるHBO作品。

 おしゃれで高尚なだけで、けっきょくつまらないので敬遠されたということなのか?

 この甚大なる問題意識を検証すべく、シーズン1から見直してみることにした。まずはさいしょの3挿話。

 イエローのネオンサインに照らし出されたアスファルトを伝う鮮血をなめるパン。画面奥でマクノルティと目撃者らしき男が石段に腰掛けて話している。「ここはアメリカだ……」

 ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマなるバンドによるハープをフィーチャーしたテーマ曲。各挿話ごとに台詞の一節が格言みたいに掲げられる。いわく、’’When it’s not your turn…’’(お前の出る幕じゃない)、’’You cannot lose if you do not play’’(出ない試合は負けない)[スーパー!ドラマTVホームページ]

 キャストの顔ぶれがアフリカ系中心なのはよい。ボルチモアのスラム街でのロケもそれなりの雰囲気。陽当たりだけはいい団地の真ん中のぽかんとした空き地にソファーが置いてあるなんていうディティールはいい。そこで年若いディーラーたちがナゲットなんぞをつまみつつ、やばい取引の話をしていたりする。

 ストリップバー(客は黒人だけ)とかボクシングジムとかの舞台装置のさりげない使い方。

 だが、警察署内に一歩足を踏み入れるや、そこで展開している人間ドラマはあまりにもオーソドックス。ワイルドなはみ出しデカにスクエアな上司。問題児が集まる吹きだまりみたいな部署……。

  はみ出しデカ、マクノルティはタフだがバツイチで少々センチ。起き抜けにパンツ一丁で廊下に新聞をとりに行くと(女性とゲイの視聴者へのサービスショット)、階段で通学途中の小学生らとすれ違う。「ハイ、ガールズ」かなんか気のないあいさつするも、無視される。3話で検事みたいな女(乳首出している)とかったるいベッドシーンをはじめたりして少々先が思いやられた。この主人公に感情移入できる日がくるのだろうか。

 ディーラーもディーラーで古色ゆかしい行動パターン。ひまをもてあました若造が空き地でチェスをしながらありふれた比喩をつかって権力論ぶっていたりするざま(’’ The king stays the king…’’)。
 死体置き場や刑事たちが会議室がわりにする工事中の物置は、まあそれなりにいい味を出してはいる。

 しかし、なんとももったいぶったスロースタートぶりである。盗聴のモチーフはまだ本格的に出てこない。ドラマが走り出すのはいつなのだろうか。あるいははたして走り出す日がくるのだろうか。しばらくつづけてウォッチしてみることにする。