ヴィンス・ギリガン『ブレイキング・バッド』(2008~2013年、AMC)

(注意)物語の結末に触れています。
深い感動とともにファイナルシーズンを見終える。
ウォルター・ホワイトはかつて描かれた最兇の極悪人だ。アンチヒーローということばははじめてその実質をともなうことになった。
家族という神聖な絆をまもるためならすべてがゆるされるのか。もっともおぞましい仕業に手を染めても? ファースト・シーズンで視聴者のなかによびおこされたこの疑問にたいしてシリーズがくだす結論には、シリーズの演出が一貫してそうであるように、一片のごまかしもない。奇跡的なハッピーエンドなど待っていようはずがない。家族愛というアメリカ映画を根底から支えてきた信仰が否定されたのだろうか。
しかしウォルターのそもそもの動機は敗北者のルサンチマンである。家族愛はあったとしてもあとづけの動機にすぎない。かれがさいごに最愛の家族を失うのは必然すぎるほどの必然なのだ。しまいにだれもがかれの死を願い、呪いの言葉をなげつける。かれにたいする留保のない尊敬をおしまなかったジュニアもさいごには電話口で「死んじまえ」とののしる(かれはすでにファースト・シーズンで弱音を吐く父親に「死ねばいい」と言い放っている)。いうまでもなくジュニアのネガでありいわば分身でもある義理の「息子」ジェシー・ピンクマンもこの例にもれない。
敗北者の運命にひきずられるようにして、余命すくない病人という立場を逆手にとって(それによって不死身化して、あるいは隠れ蓑にして)ウォルター・「ホワイト」は悪に染まっていく。あるいは内なる悪(それがちっぽけな欠点のよせ集めであるとしても)を解き放つ。すべての登場人物がこの悪のために滅ぼされる。これほどペシミスティックな結末はない。この運命を免れるのはとりあえず娘のホリーだけだ。とはいえ、かのじょの人生もさいしょから暗すぎる影を背負っている。『ブレイキング・バッド』はフィルム・ノワールというジャンルのひとつの頂点をきわめた。
物語のはじまりでいわば死刑宣告を受ける主人公にすべての視聴者は同情する。ファーストシーズンのユーモラスな家族会議の場面ではだれもがなみだするだろう。しかしやがてかれにたいする興味は、かれの行動の不可解さや動機の曖昧さによって維持されることになる。
同じくファーストシーズンで監禁したディーラーにとどめをさす場面の演出は見事である(この「殺人」によってウォルターのなかで決定的なスイッチが入ってしまう)。ウォルターの行動はあいまいなままであり、かれのこころのうちはまったくわからない。ピンクマンの恋人の死を傍観している場面で、主人公にたいするわれわれの疑念はさらにふかまる。
メス製造に手を染めることで、エブリマンW.W.のなかに眠っていたあらゆる悪の芽が一気に開花する。W.W.の悪に感染されるように、かれの周囲もその潜在的な暗部をさらけだしていく(ピンクマンを半殺しにするハンク、『スカーフェイス』に熱狂するジュニア、etc.)。
さいごに満足げに死んで行くいい気なかれをわれわれはつめたく見守る。だれもかれを罰することができなかった。
ホモソーシャルな本シリーズがひけらかすあからさまなミゾジニーは、フィルム・ノワールの伝統につらなるものだろう。性的な場面は物語が進むにつれて皆無になる。高齢出産の妻はシリーズ前半ずっと突き出た腹をもてあますスラップスティック的な役どころだが、出産後は急速にふけこみ、黒装束をまとって経理の腕を悪事に活用する。女優の演技力は高いが、ベッド・ミドラーをLiLicoふうにした面相に岩のような巨体は被写体としての魅力をいちじるしく欠く。ほかの女性キャラクターも例外なくステロタイプ。シリーズのクリエーターは、巨大な女と小柄でスキンヘッドの男たちがたいそうお好みらしい。ウォルターはジェシーをめぐる嫉妬から相棒の愛する者たちを死に追いやっていく。
忘れがたいエピソードはドラマが走り出す後半よりも、前半に多い。ピンクマンとその弟、半身不随の元マフィアのからむサスペンスフルな一幕など。
雲ひとつない蒼穹と黄砂のコントラストがどぎついアルバカーキの砂漠(西部劇へのオマージュ)、時間がとまったようながらんとした街頭。アメリカーナ感ゆたかなロングショットがきまっている。『ビリー・ザ・キッド/二十一歳の生涯』ディレクターズ・カット版のスリム・ピケンズさながらにマイクが静かに死んで行く夕暮れの川辺のロングショット、終盤でウォルターがつかの間の休息を得るニューハンプシャーの雪景色しかり。終盤のノワール色ゆたかな映像の切れもすばらしい。撮影のマイケル・スロヴィスの技量は相当なものとみた。
アバンタイトルも効果的につかわれている。[一度使われた映像への]フラッシュバックあり、[その後使われる映像への]フラッシュフォワードあり。セカンド・シーズンのさいしょの方のエピソードで、砂漠を這って聖地をめざす巡礼のメキシカンたちに高級車から降り立ったスーツ姿の眼光鋭いスキンヘッドのふたごが加わるというのがあった。聖地にはウォルター・ホワイトの似顔絵も飾られている……。
要のエピソードではクリエーターのヴィンス・ギリガンが演出にクレジットされていることが多い。シーズンの最初のエピソードはブライアン・クランストンが演出するのが慣例になっていた。『ツイン・ピークス』など多くのドラマを手がけた映画監督ティム・ハンターが最初のほうの一挿話を演出していた。

(注意)物語の結末に触れています。
深い感動とともにファイナルシーズンを見終える。
ウォルター・ホワイトはかつて描かれた最兇の極悪人だ。アンチヒーローということばははじめてその実質をともなうことになった。
家族という神聖な絆をまもるためならすべてがゆるされるのか。もっともおぞましい仕業に手を染めても? ファースト・シーズンで視聴者のなかによびおこされたこの疑問にたいしてシリーズがくだす結論には、シリーズの演出が一貫してそうであるように、一片のごまかしもない。奇跡的なハッピーエンドなど待っていようはずがない。家族愛というアメリカ映画を根底から支えてきた信仰が否定されたのだろうか。
しかしウォルターのそもそもの動機は敗北者のルサンチマンである。家族愛はあったとしてもあとづけの動機にすぎない。かれがさいごに最愛の家族を失うのは必然すぎるほどの必然なのだ。しまいにだれもがかれの死を願い、呪いの言葉をなげつける。かれにたいする留保のない尊敬をおしまなかったジュニアもさいごには電話口で「死んじまえ」とののしる(かれはすでにファースト・シーズンで弱音を吐く父親に「死ねばいい」と言い放っている)。いうまでもなくジュニアのネガでありいわば分身でもある義理の「息子」ジェシー・ピンクマンもこの例にもれない。
敗北者の運命にひきずられるようにして、余命すくない病人という立場を逆手にとって(それによって不死身化して、あるいは隠れ蓑にして)ウォルター・「ホワイト」は悪に染まっていく。あるいは内なる悪(それがちっぽけな欠点のよせ集めであるとしても)を解き放つ。すべての登場人物がこの悪のために滅ぼされる。これほどペシミスティックな結末はない。この運命を免れるのはとりあえず娘のホリーだけだ。とはいえ、かのじょの人生もさいしょから暗すぎる影を背負っている。『ブレイキング・バッド』はフィルム・ノワールというジャンルのひとつの頂点をきわめた。
物語のはじまりでいわば死刑宣告を受ける主人公にすべての視聴者は同情する。ファーストシーズンのユーモラスな家族会議の場面ではだれもがなみだするだろう。しかしやがてかれにたいする興味は、かれの行動の不可解さや動機の曖昧さによって維持されることになる。
同じくファーストシーズンで監禁したディーラーにとどめをさす場面の演出は見事である(この「殺人」によってウォルターのなかで決定的なスイッチが入ってしまう)。ウォルターの行動はあいまいなままであり、かれのこころのうちはまったくわからない。ピンクマンの恋人の死を傍観している場面で、主人公にたいするわれわれの疑念はさらにふかまる。
メス製造に手を染めることで、エブリマンW.W.のなかに眠っていたあらゆる悪の芽が一気に開花する。W.W.の悪に感染されるように、かれの周囲もその潜在的な暗部をさらけだしていく(ピンクマンを半殺しにするハンク、『スカーフェイス』に熱狂するジュニア、etc.)。
さいごに満足げに死んで行くいい気なかれをわれわれはつめたく見守る。だれもかれを罰することができなかった。
ホモソーシャルな本シリーズがひけらかすあからさまなミゾジニーは、フィルム・ノワールの伝統につらなるものだろう。性的な場面は物語が進むにつれて皆無になる。高齢出産の妻はシリーズ前半ずっと突き出た腹をもてあますスラップスティック的な役どころだが、出産後は急速にふけこみ、黒装束をまとって経理の腕を悪事に活用する。女優の演技力は高いが、ベッド・ミドラーをLiLicoふうにした面相に岩のような巨体は被写体としての魅力をいちじるしく欠く。ほかの女性キャラクターも例外なくステロタイプ。シリーズのクリエーターは、巨大な女と小柄でスキンヘッドの男たちがたいそうお好みらしい。ウォルターはジェシーをめぐる嫉妬から相棒の愛する者たちを死に追いやっていく。
忘れがたいエピソードはドラマが走り出す後半よりも、前半に多い。ピンクマンとその弟、半身不随の元マフィアのからむサスペンスフルな一幕など。
雲ひとつない蒼穹と黄砂のコントラストがどぎついアルバカーキの砂漠(西部劇へのオマージュ)、時間がとまったようながらんとした街頭。アメリカーナ感ゆたかなロングショットがきまっている。『ビリー・ザ・キッド/二十一歳の生涯』ディレクターズ・カット版のスリム・ピケンズさながらにマイクが静かに死んで行く夕暮れの川辺のロングショット、終盤でウォルターがつかの間の休息を得るニューハンプシャーの雪景色しかり。終盤のノワール色ゆたかな映像の切れもすばらしい。撮影のマイケル・スロヴィスの技量は相当なものとみた。
アバンタイトルも効果的につかわれている。[一度使われた映像への]フラッシュバックあり、[その後使われる映像への]フラッシュフォワードあり。セカンド・シーズンのさいしょの方のエピソードで、砂漠を這って聖地をめざす巡礼のメキシカンたちに高級車から降り立ったスーツ姿の眼光鋭いスキンヘッドのふたごが加わるというのがあった。聖地にはウォルター・ホワイトの似顔絵も飾られている……。
要のエピソードではクリエーターのヴィンス・ギリガンが演出にクレジットされていることが多い。シーズンの最初のエピソードはブライアン・クランストンが演出するのが慣例になっていた。『ツイン・ピークス』など多くのドラマを手がけた映画監督ティム・ハンターが最初のほうの一挿話を演出していた。