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Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

西鶴のサンプリングネタ(その3):『隅田川』

2018-08-06 | 文語文




 世之介二十三歳、先立つ物もない旅の空で、かつて贔屓にしていた役者にばったり再会。事情を打ち明けられた役者は「定めなき世のならひ、今歎き給ふ事なかれ」とたのもしい返事。

 『隅田川』の一節を踏まえる。
 
 「定めなき世の慣らひ 人間愁ひの花盛り 無常の嵐音添ひ 生死長夜の月の影 不定の雲覆へり げに目の前の憂き世かな」「今はなにとおん歎き候ひてもかひなきこと」

 このくだり、「一読名文、熟読難解と評されている」(伊藤正義)というのも宜なるかな。


 『隅田川』は元雅作。いっさいの「母もの」のルーツで、女物狂い能の定番。
 
 とはいえ、ハッピーエンドで終わらないこと、登場人物の数が限られていることなどにおいて、じゅうらいの物狂い能の定石をやぶっているという。

 さらわれた息子を探してあずまくだりする母親が、『伊勢』の業平にオーバーラップさせられる。


 サンプリングネタとして使えそうなフレーズを拾ってみた。

 「今日は(コンニッタ)」

 「思ひしらゆき」

 「上の空なる風だにも」

 「面白う狂うて見せ候へ」

 「妻を偲び 子を尋ぬるも 思ひは同じ 恋路なれば」

 「これは夢かや あらあさましや」

 「死の縁」

 「あれはわが子か」「母にてましますか」

 「いよいよ思ひはますかがみ」


 名句とされる「あるはかひなきははき木の……」は取らない。野暮ったすぎる。

 「雲霞 跡遠山に越えなして」は『朗詠集』からのいただき。


西鶴のサンプリングネタ(その2):『井筒』

2018-08-05 | 文語文




 『一代男』の開巻劈頭、世之介七歳のみぎりの挿話は、かれがこのあと四十余年の半生において交わることになるにょしょうに野郎の数を詳らかにしたあとでこう結ばれる。

 「井筒によりてうなゐこより已来、腎水をかへほして、さても命はある物か」

 いうまでもなく謡曲『井筒』のフラッシュバックの劈頭、「宿を並べて門の前 井筒によりてうなゐ子の 友達語らひて 互ひに影をみづかがみ」に依る。

 
 『井筒』は前号でとりあげた『松風』どうよう世阿弥流複式夢幻能の名作。

 『松風』どうよう女の亡霊が男の形見の衣を身につけて踊り狂う。

 男に一体化する女を男であるシテ方が演じるというバロック的倒錯図。

 衣服フェチのモチーフは元ネタ『伊勢』にはなく、世阿弥の独創である、と土屋恵一郎はのべる。

 地名ないし人名が題名化されていることがほとんどの謡曲にあって、『砧』と並んで例外的に「物」が題名になっていることもこれとむかんけいではないらしい。

 そしてここでの物の名は『伊勢』をとおして(「砧」は『朗詠集』をとおして)ほとんど固有名詞化されていると、これも土屋。

 
 閑話休題。


 以下、サンプリングネタとして使えそうなフレーズ集。


 「遠くなりひら」「ここにいそのかみ」「いさしらなみのたつたやま」

 JK語。

 
 「知る人ありて」

 愛人の意。


 「うたかたのあはれ」

 掛詞。


 「かのまめ男」

 なりひらくんのニックネーム。


 「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ」「振り分け髪も肩過ぎぬ」「君ならずして 誰か上ぐべき」

 ぜんぶ『伊勢』。


 「昔を返す衣手に 夢待ち添へて仮枕 苔の筵に臥しにけり」

 ここで後場となる。


 シテ「今は亡き世になりひらの 形見の直衣身に触れて」「恥づかしや 昔男に移り舞」 地謡「雪を廻らす花の袖」

 ここで序の舞。


 「松風や芭蕉葉の 夢も破れて」

 風、芭蕉、夢とつなぐ幕切れ。



西鶴のサンプリングネタ:『松風』

2018-08-04 | 文語文


 

 たとえば、『好色一代男』につぎのフレーズあり。

 「谷中の東七面の明神の辺、心もすむべき武蔵野の、月より外に友もなき呉竹の奥ふかく、すひかずら・昼顔の花踏みそめて道を付け」

 「月より外に友もなき」は、

 「浦曲の波のよるよるは げに音近き海士の家 里離れなる通い路の 月より外は友もなし」

 という『松風』の一節をふまえているとされる。

 謡曲は西鶴の代表的なサンプリングネタのひとつ。西鶴が謡曲に通じていたとはよくいわれるところ。

 談林派の俳諧では謡曲の一節を本家取りして幽玄を滑稽味に換骨奪胎するみたいな遊びが流行り、西鶴も芭蕉もこの試みに手を染めている。

 そもそも当時、謡曲は寺子屋でも教えられ、町人の嗜むべき教養のひとつであった。西鶴の雅俗混淆体の源流が謡曲にある。

 知られるとおり、謡曲作者たちのもっぱらのバイブルであったのは『和漢朗詠集』である。たいていのレパートリーには「朗詠集』からの引用がひとつふたつあったりする。

 『朗詠集』は『声に出して読みたいナントカ』のルーツみたいな本だ。

 じじつ、いちじきの「声に出して読みたい」ブームにあやかって、あの石原慎太郎が『声に出して詠もう和漢朗詠集』なる本をちゃっかり出したりしている。

 朗詠という目的の下に和歌と漢詩をちゃんぽんに並べたこのアンソロジー(大胆なメディアミックス!)が、やがては『平家』や『太平記』の和漢混淆文を生み出すにいたるというのが文学史のもっぱらおしえるところだ。

 そして謡曲もまたその後塵を拝する。謡曲の『古今集』ごのみは『朗詠集』経由である。

 ちなみに謡曲のいまひとつの元ネタが『源氏』であることはぐうぜんではない。

 『源氏』と『朗詠集』とはまったくの同時代の産物であり、同じ趣味を分け合う。

 たとえば和文脈の極北みたいに言われる『源氏』が白楽天の漢文を最大のレフェランスにしていたのとおなじく、『朗詠集』がその『文集』を特権視していることはその見やすい証拠。

 『松風』はその源氏もの謡曲の筆頭。完成までに亀阿弥、観阿弥、世阿弥三大巨匠の手を経ている。

 「痛はしやその身は土中に埋づもれぬれども、名は残る世のしるしとて」なる序盤のワキのセリフで、早くも『朗詠集』経由の白楽天オマージュがくりだされる。

 「海士の呼び声幽かにて」。これは『万葉』から。

 「うらやましくもすむ月の」。『拾遺集』の藤原高光の名歌が「出潮を汲」むへとつながれる。


 以下、キラーフレーズ集。

 「よせては返るかたをなみ、寄せては返る片男波」

 「更け行く月こそさやかなれ」

 「月はひとつ 影はふたつ みつしほの よるの車に月を載せて」
 
 「なほ執心の閻浮の涙」
 
 「後より恋の責め来れば」(西鶴も引いている)


 ツレ「あさましやそのおん心ゆゑにこそ」

 「執心の罪にも沈み給へ 娑婆にての妄執をなほ忘れ給はぬぞや あれは松にてこそ候へ」とつづく。

 シテが応じる。

 「うたての人の言ひ事や」

 「あの松こそは行平よ たとひ暫しは別かるるとも まつとし聞かば帰り来んと 連らね給ひし言の葉はいかに」とつづく。

 
 幕切れの地謡。 

 「関路の鳥も声ごゑに 夢も跡なく夜も明けて」

 「村雨と聞きしも今朝見れば 松風ばかりや残るらん 松風ばかりや残るらん」

 
 西鶴の常套句「残るものとて‥‥ばかり」がここに由来する。







日本のいちばん長い日:『世間胸算用』

2018-08-03 | 文語文





 「松の風静かに、初曙の若恵比壽/\、諸商人買うての幸ひ売つての仕合せ。さて帳綴、棚おろし、納め銀の蔵びらき、春のはじめの天秤、大黒の打出の小槌、何なりともほしき物、それ/\の知恵袋より取出す事ぞ。元日より胸算用油断なく、一日千金の大晦日をしるべし」

 森銑三は西鶴の正筆になるこの序文を「一読胸の透くような名文」と絶賛し、「『胸算用』の本文を西鶴の文として見る時、やや平板で、分別臭くて、冗長に失しようとしている」としながら、辛うじて数章に西鶴らしさが見て取れるとする。

 とはいえ、さいしょの章「問屋の寛闊女(「バブリー妻」と読む)」の冒頭も序文に一歩も譲らない、これが西鶴でなくて何なのだと、浅学の筆者などはついおもってしまう。

 「世の定めとて大晦日は闇なる事、天の岩戸の神代このかたしれたる事なるに」

  暦の太陰に掛けている。


 「銭銀なくては越されざる冬と春の峠、これ、借銭の山高うしてのぼり兼ねたるほだし」

 こうゆう「山」の比喩は『永代蔵』にもけっこうあった。

 子供への出費も山と積まれる。

 「はきだめの中へすたり行く破魔弓、手まりの糸屑、この外雛の擂鉢われて、菖蒲刀の箔の色替り、踊だいこをうちやぶり、八朔の雀は数珠玉につなぎ捨てられ、中の玄猪を祝ふ餅の米、氏神のおはらひ団子、弟子朔日、厄払ひの包銭、夢違ひの御札を買ふなど、宝舟にも車にも積余るほどの物入り」。

 ヴィジュアルアピールたっぷりのガラクタの列挙。滲む一抹の侘しさ。

 以下は巻一の二より、質草の列挙。

「古き傘一本に綿繰ひとつ、茶釜ひとつ」、その隣家からは「嬶が不断帯観世紙縒に仕かへて一筋、男の木綿頭巾ひとつ、蓋なしの小重箱一組、七ツ半の筬一丁、五合桝・一合桝二ツ、湊焼の石皿五枚、釣御前に仏の道具添へて、取集めて二十三色にて、一匁六分借りて年を取りける」

 プレヴェールの「財産目録」もかくや。

 爆笑篇「鼠の文づかい」から以下、鼠の引っ越し道具のいちいち。

 「穴をくろめし古綿、鳶にかくるる紙ぶすま、猫の見付けぬ守り袋、鼬の道切るとがり杭、桝おとしのかいづめ、油火を消す板ぎれ、鰹節引くてこまくら、その外娌入りの時の熨斗、ごまめのかしら、熊野参りの小米づとまで、二日路ある所をくはへてはこびければ」

 「桝おとしのかいづめ」というのにくっすん大黒。
 
 森銑三が西鶴の手が認められるとする「訛言も只はきかぬ宿」より。

 「取りみだしたる書出千束のごとし」

 「あそび所の気さんじは、大晦日の色三絃、誰はばからぬなげぶし、なげきながらも月日を送り、けふ一日にながい事、心におもふゆゑなり」


 以下、ランダムに。

 「頰さきの握り出したる丸顔」

 「さるほどに今時の女、見るを見まねに、よき色姿に風俗をうつしける」とあって、京都の呉服屋の奥さんは遊女に、奉公人あがりの人妻は「風呂屋もの」に、下町の仕立物屋や仕立て直し屋の女将は「茶屋者」にみえるなど、身分相応にめかしこんでいるとする観察眼。

 かくしてみかけでは判別できない商売女と堅気の女の見分け方が列挙される。たとえば「床で味噌・塩の事をいい出」すのは後者である。

 「大晦日のかづき物」にされて「茶屋は取りつく嶋もなく、夢見のわるい宝舟、尻に帆かけてにげ帰り」

 「善はいそげと、大晦日の掛乞手ばしこくまはらせける。けふの一日、鉄のわんらぢを破り、世界をゐだてんのかけ回るごとく、商人は勢ひひとつの物ぞかし」

 「わけざとは、皆うそとさへおもへば、やむもの」

 「世の月日の暮るる事、流るる水のごとし。程なく年波打ちよせて、極月の末にぞなりける」

 「年の波、伏見の浜にうちよせて」

 「台碓の赤米を栴の秋と詠め」

 「銭は水のごとく流れ、白銀は雪のごとし」


 お約束の元禄おめかし事情。

 「ぐんない嶋の小袖」

 「ぎんすすたけの羽織」

 「葉付きのぼたんと四つ銀杏の丸」

 「柳すすたけに、みだれ桐の中形」

 「千本松の裾形もふるし。当年の仕出しは夕日笹のもやうとぞ」



しはいせんさく:『日本永代蔵』

2018-08-01 | 文語文



 
 西鶴の町人ものの一作目。西鶴といえば町人もの、みたいなイメージが多少ともあるが、西鶴のキャリアのなかではすでに晩年の作品に位置づけられる。

 各話とも、教訓じみた枕があって、そのあと実在のモデルのいる主人公たちが紹介されるというスタイルをとる(かれらひとりひとりが出していた暖簾のイラストが各巻の目次にあしらわれていておしゃれ)。

 あきんどが「身代」を過ごすことなく「悋い穿鑿」をめぐらせては日夜「始末」に励み(その延々たる列挙!)、「せはしき内証」を凌ぎつつ、「秤竿」「天秤」の音高らかに「すぎはい」に「身過ぎ」し、あるいは「才覚」「工夫」の「仕出し」によって、あるいは「天性の仕合せ」によって、「一代分限」「俄分限」となり仰せ、あまたの「手代」抱え「金銀呻」く「内蔵」「棟高く」立てるにいたる「世に例なき」サクセスストーリーが、その反行形(「分散」の憂き目)、逆行形をふくめて、エピソードのかずだけ変奏される。

 森銑三によれば、本作のうち西鶴が書いた章はひとつかふたつで、のこりは門下の北条団水の筆になる。そのうち、西鶴があとから手をくわえた文章がひとつかふたつある。

 さいしょのエピソードは「天道もの言はずして、国土に恵み深し。人は実あって、偽り多し」云々のもっとらしく教条的な説教ではじまる。『一代男』の華麗さとは似ても似つかぬ味気なさである。

 森が西鶴の真筆とみなす章のひとつがさいしょから二つめのエピソードとなる「二代目に破る扇の風」である。

 到富譚が大多数を占める本作にあって、このエピソードは例外的に破産譚である。

 「人の家に有りたきは梅・桜・松・楓、それよりは金銀米銭ぞかし」という書き出しを森は「水際立っている」とするが、いかがか?

 「時なる哉、都の末社四天王、願西・神楽・鸚鵡・乱酒に育てられ、まんまと此道に賢くなつて、後には色作る男の仕出しも是れがまねして、扇屋の恋風様といはれて吹揚げ、人は知れぬものかな、見及びて四五年この方に弐千貫目塵も灰もなく、火吹く力もなく、家名の古扇残りて、ひと度は栄え、ひと度は衰ふると身の程を謡うたひて、一日暮しにせしを、見る時、聞く時、今時儲けにくい銀(かね)をと、身を持ちかためし鎌田屋の何がし、子供に是れを語りぬ」という末尾の文章には「一瀉千里の勢い」があるとおなじく森。

 なるほど言葉に力がある。こうゆう奔放さ、心地よいわかり難さは本作ではあまりお目にかかれない。

 『國文學』別冊の「西鶴必携」に「西鶴名言集」なるコーナーがあって、いかにもそれっぽい人生訓的なフレーズが本作からもいくつか採られているが、わかりやすいだけで味気ないものがおおい。

 たしかに西鶴はバルタザール・グラシアンやラ・ロシュフーコーの同時代人ではあるわけだけど、本作の教訓的な部分を西鶴が本気で信じていたわけではないだろう。

 以下、私家版裏名言集として、琴線に「響いた」くだりを自動筆記的に抜粋する。

 「自分商ひを仕掛け、利徳は黙りて、損は親方に被け」

 「兎角に人は習はせ、公家の落し子、作り花して売るまじき物にもあらず」

 「すぎはひは草箒の種なるべし。この浜に西国米水揚げの折ふし、こぼれ廃れる筒落米を掃き集めて、その日を暮らせる老女有りけるが」

 「ぐわらぐわらと空定めなや」

 「下帯には気を付けずして逃げ延び、今日旅立つにも尻からげ気の毒」

 「行くも帰るもの関越えて、知るも知らぬもに突付商い」

 「やがて心の花も咲き出づる桜山、色も香も有り若盛り」

 「手は平野仲庵に筆道を許され、……能は小畠の扇を請け」

 「只銀が銀を溜める世の中」

 「後はこの木切れ大木となりて、……河村・柏木・伏見屋にも劣るまじき木山を請け、心の海広く、身代真艫の風、帆柱の買置きに、願いのままなる利を得て」

 「傾城狂ひ、野郎遊び、尻も結ばぬ糸の如く、針を蔵に積みても、溜らぬ内証」

 「大釜に富士の煙の絶えず、水瓶に湖水を湛へ、朱椀龍田の紅葉を散らし、白箸武蔵野に立つ霜柱のごとく、朝の繁盛夕べに消えて」

 「仮の世の借り屋住居もうたてく」

 「残る物とて家蔵ばかり」

 「空定めなきは人の身代。我貧家となれば、庭も茂みの落葉に埋もれ、いつとなく葎の宿にして、万の夏虫野を内になし、諸声の哀れなり」

 「これ楠分限、根の揺るぐ事なし」

 「身過ぎ構はぬ唐人の風俗」

 「私ら[掛乞]は、盆の如く胸が踊りて松原越えて、門飾りの山草一葉、数の子一つ、今に調へもせず」

 「借銭の淵を渡り付けて、幾度か年の瀬越しをしたる人」

 「公事だくみなる女、薄き唇を動かし」

 「淵瀬に流るる恋の川上に、久米の更山新世帯より」

 「一代に延ばしたる銀の山、夜はこの精うめき渡れど」

 「この跡取り……手掛け者を聞き立て、旅子狂いを心ざしけるに、かの嫁、約束の如く悋気仕出し、声山立つれば」

 「謡ひは三百五十番覚え、碁二つと申す。鞠は紫腰を許され……」

 「おのづと、金が金儲けして」

 「不断の水車、客を待つやらくるくると、椀家具の音伏見まで響き、浜焼きの香り橋本・葛葉に通ひ、茶は宇治に人橋を掛け、酒の滴り松の尾まで流れ」

 「若き時より稼ぎて、分限のその名を世に残さぬは口惜し。俗姓・筋目にも構はず、只金銀が町人の氏系図になるぞかし」

 「金銀有る所には有る物語、聞き伝へて日本大福帳に記し、『末久しく、これを見る人の為にもなりぬべし』と、永代蔵に治まる時津御国、静かなり」


 おっと、また服装描写を忘れるところであった。

 「お娘御の正月小袖、紫の飛鹿子に紅裏」

 「新在家衆の衣装を移し、油屋絹の諸織を、憲法染の紋付、袖口薄綿にして三つ重ね、小褄高からず裾長く」

 「婬姒の平生清らを見するは渡世の為」「武士は綺羅を本として勤むる身なれば、たとへ無僕の侍までも、風儀常にして思はしからず」としたうえで バブリーな妻たちの「衣装法度」(ドレスコード、と読む)破りを諌めるくだりには、やんごとなき人にならった「京織羽二重」「黒き物に定まつての五所紋」ではあきたらず、「雛形に色を移し、浮世小紋の模様、御所の百色染、解き捨ての洗鹿子、物好き格別世界に至り穿鑿」などとあって、「白き紋羅の引つ返しに、緋縮緬を中に入れて、三枚重ねの袷、両袖・襟に引き綿」とつづけられる。なんとなく、クリスタル。


 『一代男』どうようのオブジェの列挙にもいいくだりがある。