Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

追憶のオープン・レンジ:『星のない男』

2018-10-27 | その他





 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.60


 キング・ヴィダー『星のない男』(1955年、ユニヴァーサル)


 ワイオミング。貨物車を無銭で乗り継いでさすらうホーボー(カーク・ダグラス)が、同じ境遇の若者(ウィリアム・キャンベル)を鉄道会社の警備員の手から救って弟分にする。

 ホーボーはかつて同じくらいの年代の弟の命を有刺鉄線によって奪われていたことが事後的に明らかにされる。

 女性大牧場主(ジーン・クレイン)に雇われたホーボー(契約金はかのじょの肉体)は、モラルを無視して所有地を広げようとする牧場主のあくどさに愛想がつき、彼女に土地を狙われる小牧場主たちの側に寝返って有刺鉄線での防戦をたきつける。

 勝利した小牧場主たちから土地の提供を申し出られたホーボーは一言のもとに固辞、追ってくる弟分を地元のおぼこ娘に押し付け、逃げるように一人去っていく……。

 地味ながら、現代的な西部劇の先駆けとなった無視し得ない作品。

 脚本はボーデン・チェイス。いわずとしれたアンソニー・マンの西部劇のクリエイターのひとりだ(製作も同じくアンソニー・マンじるしのアーロン・ローゼンバーグ)。本作はなによりもチェイスの世界観が色濃く刻印された作品に仕上がっている。

 とはいえそれ以上に、底抜けの陽気さのなかに一抹のメランコリーと狂気をまとわせた主人公を息づかせているのは演じているカーク・ダグラス本人の個性にほかなるまい。

 ヴィダー自身は本作にいささかも執着をもっていなかったらしいが、大地という主題と個人主義というそれはヴィダー映画の王道であり、ダグラスとジーン・クレインとのあいだに交わされるダイレクトなセンシュアリティーとアンビヴァレントな愛憎関係はたとえば『白昼の決闘』をおもわせ、ダグラスと弟分の師匠関係はたとえば『チャンプ』をおもわせる。

 チェイスの脚本の巧妙さはすぐれて西部劇的な二つのオブジェの象徴的利用に集約される。

 ひとつは有刺鉄線であり、いまひとつはバンジョーである。

 オープン・レンジ(大西部)の終焉を象徴するオブジェである有刺鉄線(1874年に特許化)は、主人公のトラウマの原因であるとともに最後にはみずからの武器にもなる。

 すでに『群衆』『麦の秋』でも重要な小道具として登場したバンジョーは、本作では主人公の秘めた怒りが爆発し修羅場と化すかとおもわれたその瞬間、絶妙のタイミングで酒場の情深い女クレア・トレヴァーが主人公に投げ渡す。と一転してその場が作品中随一の愉快な場面に変貌を遂げるのだ。『リオ・ブラヴォー』で窮地にあるジョン・ウェインにリッキー・ネルソンが投げ渡すライフルもかくや。

 これに付け加えるべき三つめのオブジェは文明と官能とをともども象徴するバスタブだろう。

 主人公が農園主の家をさいしょに訪れる場面では、あるドアを開けたダグラスのおどけたリアクションだけが示され、浴室内のショットはない。もっと後の場面でつぎにダグラスが同じドアを開けると、カメラに背を向けて入浴中のジーン・クレインがバスタブから美脚を突き上げてダグラスを誘惑している。

 いまひとつの名場面。ダグラスから銃の手ほどきを受けた弟分がその技を自慢するために酒場でゴロツキを始末する。すかさずダグラスに殴られた弟分が師に挑発の言葉を投げると、ダグラスは拳銃を抜いて弟分に突きつけるが、すぐさま激しい自己嫌悪にかられて苦悩に顔をしかめる。

 本作のいまひとりの主役はラッセル・メティのキャメラだろう。とくに屋外場面での逆光を活用した味わいゆたかなテクニカラーを堪能したい。

 キャストはほかにリチャード・ブーン、ジェイ・C・フリッペン、etc。

自発的隷従:『人生は四十二から』

2018-10-21 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.59 


 レオ・マッケリー「人生は四十二から」(1935年、パラマウント)


 パリ。堅物のイギリス人執事(チャールズ・ロートン)がポーカーの抵当としてアメリカ人夫婦に売り渡され、かれらの故郷であるワシントン州の片田舎に連れていかれる。

 威厳のあるその物腰からセレブと勘違いされ、ちょっとした騒動が巻き起こる。

 独立して食堂経営に乗り出した執事はみずから“奴隷根性”を抛ち、コミュニティの面々に For He’s a Jolly Good Fellow の大合唱で迎えられる。


 キャプラと並び称されるアメリカン・コメディーの巨匠が手がけた本作は、わが国では西部劇とみなされていないようだが、欧米の西部劇事典のたぐいにはかならず載っている。

 なるほどヴィジュアル的には西部劇的なイコノロジーに乏しく、前半のパリのシーンはおよそ西部劇的な展開を予想させるものではない。

 とはいえ、その主題およびアメリカ的な精神のおおいなる顕揚によって、本作は西部劇の王道を行くものであるというべきだろう。

 “奴隷”解放というドラマが執事の精神的な自己解放をつうじて物語られる。

 料理の趣味の違いから口論がはじまると、ロートンはザス・ピッツ(ラストで結ばれる)に「国際紛争はよしましょう」という。

 まさに文明の衝突が本作のテーマであり、ヨーロッパ的“洗練”とアメリカ的“野蛮”の誇張された対照がギャグのシチュエーションとして利用される。

 とはいえマッケリーはそのいずれにも肩入れしない。

 粗野なアメリカ人がこれでもかとおちょくられるとどうじに、しゃちほこばったヨーロッパ人と対比されることで、ぎゃくにかれらの精神的な開放性と飾りけのなさが魅力的に映るという仕掛け。

 マッケリーの笑いはいつもパセティックな要素と不可分に結びついている。たんなるギャグで終わらない。

 隠れた主役はグルーチョ・マルクスさながらの自由人であり、主人公の魂の導き手となる主人を演じるチャールズ・ラグルスだ。いっぽうで、アメリカ人たることに劣等感をもちつづけ、ヨーロッパ人になりたいと願ってばかりいる妻(メアリー・ボランド)がいちばん損な役回りを演じる。

 マッケリーこそ人間というものをいちばん理解している映画監督だ、とジャン・ルノワールがたしかその自伝でのべている。

 ルノワールはアメリカで撮った『自由への闘い』(ダドリー・ニコルスとの共同脚本)で、同じく精神的な脱皮を遂げる主人公をロートンに演じさせているが、残念ながら駄作である。

 酒場でロートンがゲティスバーグ演説の一節を滔々と暗唱してみせる有名な場面がある。

 「リンカーンもゲティスバーグで言っているように……」と主人がいつもながらの知ったかぶりをすると、妻が「何を言ったの」とツッコミを入れる。しどろもどろの主人が常連客に助けを求めると、尋ねられた客はその隣の客に同じ問いをフり、その客がまたその隣の客に、というふうに“無知”の暴露がつぎつぎと連鎖していくさまをキャメラが流麗な移動撮影で追っていく。

 そこで何事かをしきりに呟き続ける斜め後ろからのロートンのアップが続く……。

 クライマックスでの「演説」がアメリカン・デモクラシーへのオマージュを捧げるという状況はキャプラ(あるいはチャップリン?)の映画をおもわせるにじゅうぶんだ。

 本作で編集を手がけているエドワード・ドミトリクの回想によれば、この場面でのロートンの百面相が試写で不評を買ったため、ロートンのショットを減らし、“聴衆”のショットを増やしたという。正解だろう。

 大げさなこの“名場面”の陰に本作は数々の小さな楽しみを隠している。そのひとつとして元主人役ローランド・ヤングと歌手役レイラ・ハイアムズ(『フリークス』)のあいだで演じられるほのぼのとしたドラムのギャグを挙げておきたい。

 本作はチャールズ・ロートンの最初のコメディーになる。監督にマッケリーを指名したのはロートンのほうであるらしい。

 原作はこれ以前に二度映画化されており、ジェームズ・クルーズが監督した二度目の映画化(1923年)で執事を演じたのはあのエドワード・エヴェレット・ホーントンである。



フランク・キャプラもまた西部劇をつくる:『女群西部へ!』

2018-10-20 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.58


 ウィリアム・ウェルマン「女群西部へ!」(1951年、MGM)


 西部劇はアメリカの映画監督にとっての通行手形ともいうべきものである。

 エリア・カザンやジョージ・キューカーさえもが撮っているこのもっともアメリカ的なジャンルにあのフランク・キャプラが無関心であったはずがない。

 キャプラがじぶんで撮ろうとしたがコロンビアから撮影許可が下りなかったオリジナルストーリーを友人のウィリアム・ウェルマンに語ったことでMGMでの映画化が実現した。

 群像劇がすきなウェルマンがこのストーリーに食いついたことには納得がいく。

 1851年。カリフォルニアに渡ってコミューンを形成した男たちの許へ、遥か三千キロを隔てたシカゴから150人の花嫁候補が苦難のトレイルを敢行する。

 ロバート・テイラーがその護送役を任される。

 150名という人数は道中で三分の一の者が命を落とすことを前提して割り出された数字。

 決死のトレイルに志願した女たちは、いうまでもなく訳ありの者ばかり。

 15人の男たちがこれに付き添う。ある者らは早々に女に手を出してテイラーに射殺され、別の者らはまんまと女を連れて逃げおおせ、また別の者らは先住民の襲撃によって命を落とす。

 最後まで生き残る男はテイラーと狂言回しにしてコメディーリリーフ役の日本人(大好演のヘンリー・ナカムラ)だけ。

 人物間の葛藤は簡潔に描写されるだけで、厳しい自然との戦いがこのジャンルにおなじみのかずかずのピトレスクなエピソードの淡々とした連鎖によって綴られていく。

 本作にあって人間関係はあくまで自然とのマテリアルな戦いを媒介として形成され、育まれるのだ。言い換えれば、登場人物の精神的な成長がもっとも映画的な表現方法によって描かれるということだ。

 英語いがいにフランス語、日本語、イタリア語が飛び交うポリグロットな映画であり、コミュニケーションの困難そのものが主題化されているともいえるが、そもそも全篇に亘って科白そのものが大胆なまでに削られている。

 おそらくキャプラが監督していたら、はるかに饒舌な映画になっていただろう。

 サイレント映画あるいはトーキー初期の映画かと見紛う瞬間に何度も出くわす。ぎゃくにいうとそれだけヴィジュアルとサウンドそれぞれのインパクトがつよい。

 たとえば出発直前、花婿候補の写真を各々品定めする女たちをよそに、テイラーに熱いまなざしを送るデニーズ・ダーセル(ラストでテイラーと結ばれる)のアップへのゆっくりとしたフェイドアウト。

 女らを乗せた幌馬車の列を盛装して迎える男たちを包む静寂。

 先住民の襲撃で命を落とした女らの名前がひとりひとり呼ばれる場面はもっともエモーショナルな場面のひとつだ。

 女らが三々五々、親しかった者の名前を告げる度に、キャメラがパンしてその傍の無残な亡骸を映し出していく。

 絵画的な構図に収められた亡骸のいちいちに哀悼の意を捧げるかのようにキャメラが一瞬フィックスになる。

 かつてクリント・イーストウッドはウェルマンの西部劇を「絵のように美しい」と形容したことがあったっけ。

 省略的なのは科白だけではない。これもウェルマン一流の“見せない”演出が冴え渡る。

 男の一人が手出しをして抵抗された女性を殺す場面は完全に省略に委ねられる。

 イタリア人女性の息子の命を奪う銃の暴発事故もフレームの外で起こり、事態はわれわれ観者に一瞬遅れて伝えられる。

 ジョン・マッキンタイアが命を落とす先住民の襲撃も、遅れてその場に到着したテイラーの視点によって事後的に、不意打ち的に報告される。

 いうまでもなく出産の場面も、テイラー(=観客)の目を遮る幌馬車の覆いの向こう側で進行する。

 音楽の使用もきわめて禁欲的。

 スター女優は一人も出ていない。女優がこれほどむき出しの自然光に容赦もなくさらされているハリウッド映画もめずらしい。女優たちは役柄どうように過酷きわまるロケーションに耐え、サバイバルの術を学んでいった。そのようすを伝えるメイキング短編映画(Challenge The Wilderness)が撮られている。

 女性をフィーチャーしたウェスタンは数あれど、これほど反フェミニズム的な作品はない。テイラーは兎を撃とうとして馬のスタンピードを引き起こしかけたダーセルを鞭で打擲する。逃げ出したダーセルを猛スピードで追撃するチェイスシーンでは同じダーセルに強烈な往復ビンタを喰らわせる(その直後に無言の抱擁シーンがくる)。“男性映画”の代表的な撮り手であるウェルマンの面目躍如というべきか?それにもかかわらず、女性たちのたくましさに捧げられたこれほど篤いオマージュがかつてハリウッドで撮られたことはないだろう。

 脚本は『赤い河』のチャールズ・シュニー、撮影は『裸の拍車』のウィリアム・C・メラー。製作ドア・シャリー。





結果オーライの英雄:『ペンタゴン・ペーパーズ』

2018-04-21 | その他



 スティーヴン・スピルバーグ「ペンタゴン・ペーパーズ」(2017年)

 ときあたかも「森加計」「日報」問題で公文書のステータスの問い直しが焦眉の急と化している今日この頃であるが、先週見た『ペンタゴン・ペーパーズ』の上映会場はほぼ無人状態であった。

 スピルバーグの主人公はすぐれて結果オーライの英雄だ。シンドラーしかり、リンカーンしかり(奴隷解放は憲法停止状態において宣言された)。かれらの決断や行為は理性的なものでも確信に基づいたものでもない。ケイもまた電話口の側近の上から目線の助言にたいし反射的にその逆を命じてしまう。意に反して英雄に祭り上げられるというコメディ映画の特権的な(実存主義的?)シチュエーションがスピルバーグ映画の基調になっている。

 かれらの決断を導くものは「運命」と呼ばれるほかないなにかであるが、もちろん、その「運命」なるものが招び出されるのはつねに事後的に、つまりいっさいが済んでしまってからのことであり、その内実は「偶然」である。スピルバーグの「理想主義」を支えているのはこうしたアイロニーだ。

 映画が『プライベート・ライアン』をおもわせる戦場のシーンで幕を開けるのはぐうぜんではない(雨の森を横断する兵士らをとらえる発色を抑えた移動撮影からしてはやくもフィルム媒体での撮影が伊達ではないとおもわせる)。本作のメッセージを一言で要約すれば、さしずめクラウゼヴィッツをもじって「政治は戦争の継続である」ということにでもなるであろうから。

 くだんの文書はヒッチコック的な「マクガフィン」にすぎない。靴箱に入れた文書が編集部にもちこまれるシーンのサスペンスはおおきな見せ場だ。「ヒッピーふうの女性」が胸のまえで抱えた靴箱のアップ(とゆうかおっぱいのアップ?)、編集部を横切るかのじょの後ろ姿をとらえた前進移動、暇そうなデブのヒラ編集者をお偉いと勘違いした女性がデブのデスクに靴箱を無造作に置く。デブが靴箱を開ける瞬間、中身が問題の文書であることがわかっていながら、爆発が起きやしないかと観る誰もが肝をひやす(じっさいにこの文書は「爆弾」である!)。靴箱を抱え、編集部をあたふたと横切るデブをとらえたロングの移動撮影。デスクは会議中で重役室をたらいまわしされるデブ。

 文書の重要性はそれを手にした者がよぎなくされる迂回の大きさそのものによって表現される。本作において文字はそれが伝えるメッセージによってではなく、爆弾としてであれ黄金としてであれそれが社会的にもつ物質的な力として扱われている。兵士の操るタイプライターやメッセンジャーボーイの往復や輪転機の回転やの運動として文字がすべからく視覚的に(身体的にもしくは技術的に)表現される。本作はフェイクでない真実を謳いあげる(反トランプ的な?)映画ではない。真実などという信仰(フェイクニュースなる観念はこうした信仰にもとづいている)には本作は鼻も引っ掛けない。

 暖色基調の色彩設計が目を惹きつけ、トレードマークのスポットライティングの効果が随所で冴え渡る。本作はおそらくフィルムで撮影された最後の傑作の一本となるだろう。『マディソン郡の橋』のストリープに失笑しかできなかった者も本作のかのじょには感動に近いものを覚えることだろう。もちろんわたしもそのひとりである。

平成の映画を総括する!(その1):『舟を編む』

2018-04-09 | その他




 石井裕也「舟を編む」(2013年)

 映画は下宿と編集室を規則的に往復する主人公を追う。「舟」とは畢竟このふたつの閉鎖空間を繋ぐ媒体(vehicle)の謂いであろう。

 主人公の嫁となるかぐやという女性は月夜の晩に謎めいた登場の仕方をする。かのじょはなかば主人公のつくりだした幻想である。べたっとした照明を施されたこぎれいな料理屋では背景の一部と化しているかのじょは、主人公の内面が全開になる下宿の暗い照明のなかでこそ強烈な存在感を放つ。かのじょは縁側に咲いた一輪の夜顔であり、夜のいきものである。

 下宿の暗い台所で夜ごと無言で包丁を研ぐかのじょはホラー映画のモンスター役である。物置じみた編集室と対置される下宿は漆のような光沢をともなう艶かしい照明で照らされ、さながらゴシックホラーのセットである。

 この女性が板前見習いであることは偶然ではない。主人公がかぎりなくフェミニンであるぶん、ぎゃくにかのじょは男性的である(宮﨑のメイクや装い、台詞廻しに注目しよう)。こうした男女の逆転というコメディー的な道具立てが本作のベースになる。

 そしてすぐれて包丁のつかいてであるかのじょはすなわち主人公の去勢者である。目の前に立ち現れた「女の謎」(フロイト)を解明すべく主人公が辞書をいくら繙いてもむなしいだけである(吸血鬼にたいする十字架やニンニクほどの効果ももたない)。「右」そのものを定義できないように、ひっきょう女性器とは男性器の不在としてしか言いあらわすことのできないなにものかである。さらにつづけてフロイトを引くならば、知識欲とはすぐれて「生の事実」(R・D・レイン)に向けられたそれである。

 主人公の情熱の源泉がここにある。定義できないものを定義しようとして、主人公は辞書づくりにいやがうえにものめり込む。

 こうした主人公の“去勢不安”はいわば国民的な感情である。辞書づくりとはいわば震災後の指針の模索の隠喩である(主人公は国民的な事業にたいする使命感をはっきりと自覚している。「明日から改訂作業のスタートですね」とのセリフは感動的である)。欠点のおおい本作がそれでも国民的な支持を得、平成映画を代表する一本たりえた理由はそこにある。

 ラストで映画は閉鎖空間をついに抜け出し、夫婦は大いなる海を目の前にする。海とは解放と同時に不安の源泉である。ここで主人公の悪夢がいまいちど想起される。ついでに『EUREKA ユリイカ』冒頭での宮崎のセリフ(「津波が来る」)が想起されるかもしれない。

 いきなり場面が12年飛んだりする繋ぎはわるくない。ところで麻生久美子ってどこに出ていたっけ?とおもいきや、「ポスターの女性」であったとは。