Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

サイドウェイ:『15時17分、パリ行き』

2018-03-16 | その他






 クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』(2017)


 冒頭、バックパックを背負った男が駅のエスカレーターを上がる後ろ姿を映し出すドリーショット。顔は映らずとも髪と髭の毛質の硬さでアラブ人=テロリストであることが即座に示される(このへんの描写は反動的なイーストウッドらしい)。手すりをつかむ手、歩く歩道を進むスニーカーのアップなどがスピーディーにモンタージュされる。

 車輌にのりこむ乗客らのすがたにまじって、丸太のような毛深い腕でカートを引っ張るむくつけき若者らの姿がそれとなく映り込み、これが正義の味方のアメリカ人トリオであることが観客にはすぐわかる。

 画面が暗転し、朗らかな日差しのなかをドライブする三人組の映像に繋がる。アフリカ系のアンソニーのナレーションによって、トリオ誕生の馴れ初めを物語るフラッシュバックが導入される。

 舞台はサクラメントのミッションスクールへ。なるほど、ご丁寧にここから語りはじめるわけなのね、とクライマックスまでの遠いみちのりが早くも予想されて軽い嘆息が漏れる。

 コーカサス系のスペンサーとアレクの母親(そのすくなくともいっぽうはシングルマザー)は狂信的なクリスチャンながら、バカすぎて公立を追い出されたらしきことも息子らじしんの会話からほのめかされる。

 というわけで、『ミスティック・リヴァー』や『ジャージー・ボーイズ』みたいな悪ガキらの友情をえがく既視感たっぷりのシークエンスがしばしつづく。

 なにげない教室の場面で一瞬だけテロのショットがフラッシュ的にインサートされる。フラッシュバックとリアルタイムの列車内のシーンをカットバックで語っていくとはいかにもイーストウッドだな。とおもいきや、こうしたフラッシュは(たしか)あとにもさきにもこの一度だけで、おおいに肩すかしをくう。

 軍隊オタクのスペンサー(アレクだったか?)の部屋には『フルメタル・ジャケット』や、ちゃっかり『父親たちの星条旗』(『硫黄島からの手紙』だったか?)のポスターが飾られている。

 念願叶って軍隊入りしたスペンサー(うすのろ顔のほう)の母親は、旅立つ息子に尋常ならざる出来事がかれを待ち受けているとお告げを受けたと狂信的な顔つきで言い、息子を涙で送り出す。

 アフガンに派遣されたスペンサーだったが、いまや世界の目はもっぱらシリアとISに注がれており、暇をもてあます。スカイプで欧州勤務のアレクとヴァカンスの相談。

 このあと、垢抜けない南部の三人組がヨーロッパ各地で物見遊山にふけりひたすら浮かれさわぐようすがなんと延々30分いじょうにわたって映し出される。

 とりあえずローマで合流したアンソニーとスペンサー。高台からローマの市街を一望しつつ、スペンサーはじぶんが運命に向かって運ばれていくような気がしていると呟く。傍らのアンソニーは「いま吸ってるそれはマリファナか?」と茶化す。

 その頃アレクはドイツで昔のガールフレンドと旧交を温めている。なんでもかれの祖父が第二次大戦中にドイツのその街で戦ったという。で、アレクのほうもいっしゅの運命を悟って感慨にふけっている。

 というわけで、いつになく説明的な台詞によっていつものイーストウッド流運命論哲学が披瀝される。

 アムステルダムでついに三人が揃い踏み、ことのほかはちゃめちゃな一夜を過ごした翌朝、運命の列車に乗り込む。

 映画の前半ですでに映し出されていたテロ発生の瞬間がここでさらに念入りにくりかえされる(テロリストがトイレの鏡でじぶんの顔をみつめる、という主観ショットまで出てくる)。

 で、肝心の捕物の場面は意外にもあっけなく、短い。サスペンスたっぷりに描かれるだろうという大方の観客(筆者もおなじ)の期待は見事なまでにはぐらかされる。

 ラストはエリゼ宮にてのオランド大統領によるレジオン・ドヌール授与の一幕がアーカイブ映像と再現映像の巧妙なモンタージュによって見せられる。

 エンディングクレジットの途中で、サクラメントでの凱旋パレードのドキュメンタリー映像が流れる。『父親たちの星条旗』における写真のモンタージュみたいだ。

 というわけで、だれもが“その時”に至るのを待ち望んでいる運命のラストに向かってもじどおり猛スピードで疾走する黒澤リスペクトの手に汗握る鉄道サスペンスアクション、みたいなものを期待していたが、ただの一度も途中停車することなくしかもあの手この手を尽くして目的地までの道のりをおもいっきり遠回りしてみせるというもじどおりの“サイドウェイ”みたいな極限までスローな映画なのだった(いわばこれ以上速度を緩めると自転車ごと倒れてしまいそうなほどに)。

 なんとも人を食った映画であるが、“運命”への道はノンストップでまっすぐでありながらもこういうふうに長くて曲がりくねっているんだよ、とゆうのが御大のたどりついた境地なんだろう。齢九十になんなんとする老人にないものねだりをしてもしかたがない。

 世界的に批評家の受けが芳しくないらしいが、かの国のモラリスト、モンテーニュもまっさおのこの大胆きわまりない脱線と迂回の離れ業に喝采するかイラつくだけかが評価の分かれ目だろう。

 『ハドソン河の奇跡』どうよう実際の事件に取材して市民のヒロイズムをうたいあげている。『父親たちの星条旗』どうようスターはひとりもでてこない。主役のトリオはとても素人俳優とはおもえないほど堂に入っている。全篇キャメラが軽快によく動く。暗い画面のスペシャリストであるトム・スターン(「AFC、FSC」とのダブルクレジット)は燦々たる南欧の光をもてあましているようす。本作が西部劇の徴の下にあることは『決断の3時10分』(3:10 to Yuma)をいただいたタイトルからもあきらかだろう。



40歳の童貞男×2:『俺たちステップ・ブラザース -義兄弟-』

2018-02-01 | その他




 アダム・マッケイ『俺たちステップ・ブラザース -義兄弟-』(2008)

 それぞれ39歳と40歳のニートの息子をもつ片親どうしが一目惚れして即ファック、再婚へ。同じ屋根の下に暮らすことになった息子たちが自宅前でライバル意識むき出しでにらみ合うショットにタイトルの文字がかぶさる。

 プロデュースはジャド・アパトー。40歳の童貞男を二人登場させれば二倍おもしろくなると考えたわけでもなかろうが、アダム・マッケイ(名前からしてアイリッシュ系か?)が演出するとユダヤ流の晦冥さとナンセンスをとくちょうとするアパトーの世界もひたすら天真爛漫で単純明快なコメディーにおさまってしまうようで、むくつけきメタボ義兄弟のウィル・フェレルとジョン・C・ライリーがもじどおりの「子供」を演じるというおかしさ(可笑しさ)あるいはキモさによっていまのアメリカであればじゅうぶんにありうる設定じたいのおかしさ(異常さ)あるいはキモさを覆い隠す結果に終わってしまっている。たとえばの話、アパトーが監督していたら、むしろリアリズムによってキモさを表現したのではないか。

 義兄弟らは父親の宝であるヨットを壊した科で家を追い出され、自立してそれぞれプランナー、料理人としての才能を発揮するようになるが、社会に順応することでゾンビ化したかれらを哀れんだ親たちはかれらの「子供」の心をとりもどしてやるべく家に呼び戻す。めでたしめでたし。

 社会的な成功者であるイヤミな弟が落伍者の主人公に対置されるという図式はアパトーじしんの『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』や『ファニー・ピープル』(aka『素敵な人生の終り方』)とおなじだが、義兄弟がとつぜん職業的に成功する必然性はまったく説明されず、子供の純真さに人間の理想をみるというルソーふうのロマン主義は如何ともしがたく、社会批判にも何にもなっていない。

 同じウィル・フェレルが出演しているベン・スティーラー(いまひとりの偉大なユダヤ人コメディアン)の『ズーランダー』は、歴史上のいくたの暗殺事件に職業的なファッションモデルが関与してきたという偽史に説得力をもたせることに成功している。あるいみでモデルにひつようとされるのは主体性ではなくカメラマンの指示に正確にしたがうことのできる能力だ。そのかぎりでモデルとは究極のイエスマンであり、ゾンビである。ズーランダーがトップモデルでありえたのはかれがそうしたいみでの“おバカ”の権化であったからだ。ズーランダーはフェレル演じるファッション界の黒幕による洗脳を脱し、テロを防ぐが、それはかれがトップモデルの座をオーウェン・ウィルソン演じるライバルに奪われたという事実に呼応している。

 ファッション業界の搾取体質へのダイレクトな批判をふくめて『ズーランダー』は現代の資本主義社会と正面から切り結んでいる。コメディーの良し悪しを分ける分岐点がそこにある。

 『俺たちステップ・ブラザース –義兄弟–』の最大のみどころはたまらなくチャーミングなメアリー・スティーンバーゲンの母親役だ。若い頃はばかに老けていた女優だが、年齢を重ねて逆に若々しくセクシーになった。

アパトー・タッチ:『スーパーバッド 童貞ウォーズ』

2018-01-31 | その他





 グレッグ・モットーラ「スーパーバッド 童貞ウォーズ」(2007年)


 デブでユダヤ系まるだしのチリチリ頭をしたセス(われらがジョナ・ヒル)と心やさしいイケメンのエヴァンは童貞のマブダチ同士。あこがれの女子(エマ・ストーン)から高校生活さいごのパーティーに誘われる。体良く酒の調達を押し付けられただけとも気づかず、性欲をもてあました童貞らは体を張って任務をまっとうせんとする。
 
 友達のいない老け顔の“マクラヴィン”ことフォーゲルがかれらに同行する。フォーゲルが身分証明書を偽造して酒店に乗り込むが、ちょうどそこへ強盗が押し入り、駆けつけた警官ら(セス・ローゲン、ビル・ヘイダー)の取り調べを受けるはめに。ところがこれがとんでもない不良警官で、フォーゲルと意気投合し、パトカーで夜の街をドライブしながらワルのかぎりをつくす。一方、指名手配中のチンピラの運転する車にはねられたセスはエヴァンともどもチンピラが向かおうとしていた不良どものパーティーに誘われる。宴もたけなわとなった頃、くだんの不良警官が会場に踏み込むが、なんとか大量の酒を盗み出すことに成功する。セスは逃走中にふたたびこんどは不良警官らのパトカーにはねられる。セスとエヴァンはパトカーに同乗していたフォーゲルとともに脱兎のごとく逃げ出し、追っ手をまく……。

 パーティー会場につくとエヴァンは泥酔したガールフレンドにベッドに連れ込まれる。しっかりコンドームとゼリーを持参していたエヴァンであったが、いざとなると事に及べない。タイミングよくガールフレンドが嘔吐し、ことはうやむやになる。セスはストーン演じるジュールズとのベッドインを体良く断られたうえ、泣き顔を見られてさらに落ち込む。フォーゲルはナイスバディな同級生とのベッドインにありつくが、挿入した瞬間にくだんの不良警官コンビがまた踏み込みんできて、童貞完全喪失はやはりおあずけとなる。酔ったガールフレンドの処女を奪うのはフェアではないと飲めない酒を無理に煽って泥酔したいつもながら生真面目なエヴァンをかれよりも小柄なセスがお姫さまだっこして必死に逃げ出し、無事家に連れ帰る。すでに大学の寮に荷物を運び込んでがらんとした部屋で二人は毛布にくるまってしみじみと友情をたしかめあう。名門ダートマス大に入学がきまっているエヴァンは、寮でフォーゲルと同室になることを同じ大学に落ちたセスに隠していたことを詫び、知らないルームメイトとの生活が不安でたまらないのでフォーゲルをルームメイトにしたのだと言い訳して涙にくれる。セスのほうはすでにそのことを知っており、友を許し慰める。「いまなら大声で言える。愛してるぜ」「おれもだよ。愛してるぜ」……。

 翌日、エヴァンの新生活に備えて二人して寝具を買いにショッピングモールに出かけると、ジュールズとエヴァンのガールフレンドが同じく連れ立ってやってくるのに出くわす。エヴァンのガールフレンドは嘔吐で台無しにした寝具をジュールズに弁償しようと同じ売り場をおとずれていたのだった。エヴァンはガールフレンドを、セスはジュールズをそれぞれ送っていくこととなり、親友たちはその場で別れを告げる。ジュールスの肩を抱いてエスカレーターを降りて行きながら、セスは親友のすがたが見えなくなるまで何度も振り向く……。

 エンディング・クレジットのバックにブーツィー・コリンズの粋なファンクが流れるあいだ、あなたの頰が涙に濡れていることは請け合いだ。幼年時代の終わりを描いたもっとも感動的なラストシーンのひとつとして記憶されるべきシーンであろう。下品でアナーキーな笑い一辺倒に終わらす、メランコリックであったり叙情的であったりするタッチを隠し味のように交えた作風にはいかにもプロデューサーのジャド・アパトーの署名が読み取れる。

 「これはクレイジーなコメディーであるが、同時に大学進学で別れ別れにならねばならないことに身を引き裂かれるような思いをしている二人の少年のストーリーでもある。かれらのきちがいじみたふるまいはこうした不安にたいする反応なのだ。友情こそが本作のテーマだ」(アパトー)。ジェームズ・ブルックスは息子とその親友を本作を見に連れて行ったという。アパトーはそれを本作に対する最高の賛辞と受け取った。

 脚本はアパトーの分身ともいうべきセス・ローゲンほかで、ローゲンの自伝的な性格の濃いストーリーであることが主人公の役名からもあきらかだ。DVDのボーナスには2002年に行われた本読みの映像が収録されているから、もともとローゲンじしんがみずからの分身的なセス役をやるはずだったようだ。ただしカナダの大泉洋こと(?)セス・ローゲンのナルシスティックな演技が筆者は苦手だ。演技者の資質としてはあきらかに格上のジョナ・ヒル(当時すでに23歳)が演じたからこそ本作は名作になった。ヒルはその後、スコセッシに起用されることになるが、アナーキーでシュールな彷徨の一夜を描いた本作にはすでにスコセッシ的(もしくはフェリーニ的。あるいはジム・ジャームッシュ的?)なところが多分にある。

 いまをときめくエマ・ストーン嬢はこれがデビュー作となるが、すでに演技スタイルが完成されていることに驚かされる。アメリカ本国では名作の名をほしいままにしているらしい本作がなんとわが国では劇場未公開。エヴァンの母親役の胸の谷間には童貞のセスならずともドキッ :)



ドナルド・トランプ/ザ・ムーヴィー!:『エージェント・ゾーハン』

2018-01-30 | その他




 デニス・デューガン「エージェント・ゾーハン」(2008年)

 イスラエルの超有能な対テロ兵士ゾーハン(アダム・サンドラー)は戦争に嫌気がさしている。宿敵であるパレスチナのテロリスト・ファントム(ジョン・タートゥロ)との対決の際、殺されたふりをしてヘアドレッサーになる夢を叶えるべく密かに渡米。流行の先端を行く美容院の門を叩くも追い払われ、やむなくイスラエル人としての出自を隠してパレスチナ人コミュニティの小さな美容院で修行をすることに。色仕掛けの客あしらい(ファックのサービス付き)が高齢の女性らのあいだで大評判を呼び、一躍人気者に。ついでに店主のパレスチナ女性のハートも射止める。一方、ゾーハンに勝利して英雄となったファントムも渡米し、パレスチナ料理のケータリング業を成功させて財を築いていた。ふたたび対決する日が訪れるが、成金デベロッパーがイスラエル・コミュニティとパレスティナ・コミュニティの対立を煽って土地をせしめようとしていたことが露見し、タッグを組んでデベロッパー一味を蹴散らす。

 下ネタ、レイシズム、女性差別、同性愛者差別、動物虐待ネタ満載で平和への願いを熱く訴えるナンセンス・アクション・コメディー。本作は9・11テロへのリアクションとして撮られた。ユダヤ人街の家電屋やアラブ人街の美容院の描写は人種の坩堝としてのアメリカの(それなりに)リアルなすがたを活写する。

 サンドラー、ジャド・アパトー、ロバート・スミゲルの共同脚本。同じサンドラー=アパトーのユダヤ人コンビには忘れがたい『素敵な人生の終り方』という野心作があるが、その対極にあるような本作とて一歩も譲らない。ひょっとしたら今世紀のコメディーのベストのうちのひとつではないか。

 アパトーは本作が『ペイル・ライダー』のクレイジーなリメイクであるとするユニークな定義を披瀝している。いわく、イーストウッド作品どうよう謎のストレンジャーがコミュニティを救済する話であるのだと。

 あからさまな白人至上主義者で市民の分断を煽る不動産王がドナルド・トランプをモデルにしていることは一目瞭然。れいの下品な奥方自慢もしっかりギャグのネタにされている。

 絶倫のゾーハンがいつものような元気のないおのが持ち物を眺めてじぶんが恋をしていることにはじめて気づくというエピソードは可笑しくもロマンティックだ。ニューヨークのパレスチナ人とイスラエル人が熱くたたかわせる“政治論争”の中身は、ヒラリーとチェルシーとミシェル・オバマとブッシュ夫人とマケイン夫人のだれといちばんハメたいかというもの。

 特殊効果を駆使したばかばかしいアクションのキレも抜群。敵の関節をはずして玉虫状に畳んでしまうという必殺技はちょっとトッド・ブラウニングふうで不気味。ユダヤ流の“ヘアー”ネタももちろんある。ゾーハンの美容師としての腕前のほどは最後まで不明。

トランプ時代のアメリカン・コメディー:『俺たちニュースキャスター 史上最低!?の視聴率バトル in ニューヨーク』

2018-01-14 | その他





 アダム・マッケイ「俺たちニュースキャスター 史上最低!?の視聴率バトル in ニューヨーク」(2013年)


 原題は Anchorman 2 : The Legend Continues 。ウィル・フェレル=アダム・マッケイの「サタデーナイト・ライブ」コンビによる『俺たちニュースキャスター』の続編であるが、日本ではどちらも劇場未公開。製作にジャド・アパトー。

 筆者は一作目を見ていない。どうやら一作目で主人公とそのキャスター仲間が局をクビになったらしい。「2」はそのご、ふらふらしていた主人公ロン・バーガンディ(フェレル)のもとに、24時間ニュースチャンネルを開局する別の局から声がかかるところからはじまる。バーガンディはそれぞれ毛色のちがう職業に従事しているむかしの仲間を呼び出す。スポーツキャスター(ガンドルフィーニ似のデヴィッド・ケックナー)はいまやダイナーを経営し、自慢の「チキン」で儲けているとおもいきや、厨房から飛び立ったのはコウモリで、客らを仰天させる。娯楽キャスター(?ポール・ラッド)は写真家となり、モデルにセクシーなポーズの注文をつけている。とおもいきやモデルはペットの猫でかれは動物写真家であった。お天気キャスター(スティーヴ・カレル)は墓地での葬儀で弔辞を述べている。とおもいきや悼んでいるのはかれじしんである。じぶんが死んでいるとおもいこむ、精神医学でいうコタール症候群にかかっているらしい。

 舞台は24時間ニュースチャンネルがまだなかった1980年代。同じチャンネルに引き抜かれてきた人気キャスター(ジェームズ・マースデン)とバーガンディは出会った瞬間から犬猿の仲。ゴールデン枠の人気キャスターに深夜枠のバーガンディが視聴率競争を挑む。バーガンディが負けたら即時業界から足を洗う、そのかわり相手が負けたら「間抜け」と改名しろと。

 バーガンディとその仲間がひねりだした策は、ニュースが真実かどうかは二の次で、とにかく視聴者がよろこびそうな内容を放送するというもの。つまりアメリカの偉大さを喧伝することだ。本作はオバマ時代のコメディーであるが、トランプ時代をすでに予見している。O・J・シンプソン事件(1994年)以来ニュース局のよびものとなったカーチェイスの同時中継もじつはバーガンディらの発明になるものであったという偽史が楽しい。

 人気キャスターとの視聴率競争は本作のほんのひとつのエピソードでしかない(負けた人気キャスターが律儀に約束を守って夜毎「間抜け」と名乗っているのが微笑ましい)。吹き溜まりのチームがエリートチームを蹴散らすといった笑いと涙の青春サクセスストーリーのたぐいでは本作はない。

 クライマックスはセントラル・パークかどこぞでくりひろげられる各局ニュース・クルーどうしの壮絶な「バトル」である。新興ニュース局が群雄割拠するとうじのようすがもじどおりの「戦国時代」として描かれるのだ。このばめんではウィル・スミス、リーアム・ニーソン,キルスティン・ダンスト、ジム・キャリー、マリオン・コティヤール、サッシャ・バロン・コーエン、カニエ・ウェスト、ジョン・C・ライリーといったカメオ出演の豪華な顔ぶれがたのしめる。冒頭近くには上司役でハリソン・フォードもちらっと出てくる。

 さいごはよくおぼえていないが、いろいろあって盲目となり人里離れた海辺に引きこもったバーガンディが破局直前の妻(クリスティナ・アップルゲイト)と和解する。スティーヴ・カレルとその恋人が婚礼の場で笑顔でカメラのほうをのぞきこみ、幕となる。スターのスティーヴ・カレルを立てるひつようもあったのかもしれないが、主人公のショットで終わらせないのが『リオ・ブラボー』みたいで洒落ているではないか。

  けっさくなギャグ(かならずしもベストといういみではない)を二つだけ挙げておこう。(1)妻と愛人がベッドインしているととつぜん寝室をくだんのコウモリが飛んで横切り、二人は悲鳴をあげる。(2)天気予報を収録中のスタジオで、キャスターの白いスラックスが背景の白い壁と保護色の効果を生み、あるしゅの心霊写真みたいに下半身が消えたようにカメラに写ってカレルが例のコタール症候群の発作を再発させる。