小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(10) 助詞「の」と「が」と「は」について

2008年12月22日 | 言語

 額田王の有名な歌 「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

 実は、「君が袖振る」の原文は「君之袖流布」と「之(の)」となっている。これは、後世の人が「君が」と変えた方が語感、語調ともに良いとの考えからそう読んだのであろう。この万葉仮名の「之」は音読みで「し」にも使われており、「君し袖ふる」との訳語もある。(この場合「し」は強調の意味)。他にも同じような例がある、「君が行く道の長手を・・・」の場合、原文は「君我由久・・・」とあり「君が行く」である。また、別の歌「妹之當吾袖・・・」を「妹があたりわが袖」と読み下している。(岩波版「万葉集」)。原文を見る限り、「君」や「妹」は必ずしも助詞「が」を取っていない。一定性はないようである。
 上記のことから、助詞「の」と「が」は同じ機能を持っていたと言える。これらの歌は属格助詞「が」と主格助詞「が」の由来について重要な示唆を与えてくれる。
 

 現代日本語でも 「私の書いた本」と「私が書いた本」はほぼ同じ意味である。「私が」は国文法では主語とされ、「書いた本」は述語と決められている。なぜ、この主格助詞「が」が生まれたのか。「私が書いた本」を単語に分類すると 「私-が-書い-た-本」 となる。国文法の連用形とは名詞であることは先に述べた。もっと分かり易く文語で言い換えると、この文は「我が書きたる本」となる。すでに前述の(8)と(9)を読まれた賢明な読者はお分かりのことと思うが、これは「我が子」「君が代」の「が」と同じものである。「我が-書き」とは、まさしく、「書き」という名詞(連用形)につながって行く語法である。「たる」は断定・完了の助動詞、現代語は「た」。かくして、属格助詞「が」の精神を持った主格助詞「が」が生まれたとするのが私の考えである。そのため、この「が」は常に主語を強く意識した方向性を持っているのは理の当然である。
 

 厳密に分析すると「私の書いた本」と「私が書いた本」では微妙な違いがある。前者は語感としてやわらかい表現であり、「私の書いた」は「本」を修飾する。後者は「私が」と自分を強く主張して、「書いた本」にかかってゆく。つまり、自己に所属し、自分の方に向かわせる強い意志がそこにある。これこそ、「我が子」「我が背」「君が代」と同じ感性がある。
 前述の「梅が枝」も梅に付属する枝との意味が強いが、「梅の枝(えだ)」となると、たまたま、これは梅という木の枝であると、意味がやわらかくなる。勿論、語感とか語調なども重要な要素ではあるが・・・。先の大野説のようにウチとソトを区別したものでは決してない。このように、自己を強く主張する主格助詞「が」は朝鮮語にもある。 ちなみに、チュルク語の一つウズベク語には日本語の助詞「に、へ」に当たる「 ga 」がある。
 Men-ga bering. (私にください)、Men-ga 私に、 bering ください 
 これは、偶然かもしれないが興味あることである。

 では、主格助詞「は」はどうか。これと同じものがウズベク語にある。 
 Men esa kinoga bormayman.(私は映画に行かない) e-sa の  e は存在の動詞(日本語の「居る」に当たる、 sa は日本語の仮定の「ば」に同じ、kino-ga  映画に、bormayman  行かない。つまり、e-sa は直訳すれば「あれば」であるが、分かり易く言い換えると「私としては、私の場合は、私については」との意味になる。
 主格助詞「は」が仮定の「ば」と何らかの関係があるのかどうかは分からないが、ウズベク語の  esa  と意味上は完全に一致する。(万葉集では主格の「は」は「波」で書き表わされ、仮定の「ば」は「婆」で表記されている)。
 

「私は行きます」も「私の場合は行きます」との意味であり、「私が行きます」は「我が行き・あり」(助動詞「ます」は古語の「ます(坐)」の概念を引き継いでいるからこそ不自然でないといえる)。つまり、「行くのは私である」と強く言っているのである。勿論、この両者の区別は国語学で従来から言われてきたことではあるが、主格の「が」と属格の「が」本来、同じ起源の言葉であるとの論考は私が最初であると思うが、そうでもないかも知れない。膨大な過去のすべての資料に目を通すわけにはいかないので・・・。

 <追記>
 大分前になるが、「僕はうなぎ(鰻)だ」と「象は鼻が長い」という文で、国語学者の間で大論争が起きたことを記憶している。これも私の理論では簡単である。「僕は」は「僕の場合は」という意味で、英語の  as for me  にあたる。つまり、「私の場合はうなぎ(料理)だ」と言っているのであり、「象は」は「象について言えば」となり、「鼻が長い」は象の鼻に付随する情報はこうです、と言っていることになる。もし「象の鼻は長い」であれば、「象の鼻について言えば、長い」との意味になる。なぜ、こんなことで論争になるのか不思議である。


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1 コメント

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名詞とは何か、活用とは何か (大橋行雄)
2018-07-11 00:28:46
初めてコメントさせていただきます。
文法論に興味を持ちました。
疑問思う点を記させていただきます。

<「読みが深い」では助詞の「が」に付く。>と記されていますが、この「読み」は連用形名詞なので「が」が続いています。

名詞が基本とされるのですが、まず名詞とは何か、動詞とは何か、助詞とは、助動詞とはの定義を明確にしないと恣意的な議論になるのでは。

名詞にも「こと」「もの」「わけ」「の」などの形式名詞もあります。

又、活用についても活用とは何か、屈折と何が事なるのか、この点を明確にしないと混乱します。実際、活用と意味を結び付け、議論が混乱しています。

未然形は、「行く」の場合、
行か-ない
行か(こ)-う
行か-まい

連用形は、
行き-ます

終止形は、
行く

で、活用により語形は変化しますが意味(意義)は変化しません。

つまり、活用とは語の繋がりによる単なる形の変化に過ぎません。これが、膠着語の活用です。■
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