小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

阿波徳島藩にあった豊国神社 -江戸時代最大の謎ー

2013年07月03日 | Weblog

                                 現在の豊国神社  小松島市、中田

 私の郷里、徳島は豊臣秀吉の参謀であった蜂須賀小六の子、家政を藩祖とする城下町である。「阿波踊り」で有名である。ところが、阿波徳島藩には常識では理解できない、江戸時代を通じての最大の謎がある。それは、豊臣秀吉を祭る 「豊国神社」 が豊臣家滅亡(元和元年・・1615)以来、紆余曲折はあるものも、幕末まで存在し続けたことである。豊臣秀吉を祀るとは、徳川幕府に対する反逆行為であり、幕末ならいざ知らず、幕府権力の絶頂期に蜂須賀家は取り潰されもせず明治まで存続した。このことについてこれまで誰も明確な解答を出していないし、今後も出ないであろう。

 ー豊国神社とはー

 豊臣秀吉の死(慶長3年・・1598)の翌年、京都・東山に壮大な豊国神社が完成し、秀吉は「正一位豊国大明神」として祀られた。(神社の地は現在の京都国立博物館の東側の山麓)。秀吉は生前から、豊臣系の大名たちに自分の木像100体を配り、自分の死後 「豊国神社」を各藩に建立してこれをご神体として祀れと命じていた。蜂須賀家政も慶長6年、徳島城下から南へ数キロほどの中田(ちゅうでん)村に豊国神社を立て、秀吉の木像を祀ってきた。 さらに驚くべきことに、いよいよ豊臣と徳川の最終決戦が間近となった慶長19年に同じ地に壮麗な豊国神社を建立している。(今でもその礎石が移転され残っている)。翌、元和元年、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡した。その直後から家康の命により京都・東山の豊国神社は徹底的に破壊され、江戸時代は狐狸の棲む草地と化していた、(現在の豊国神社は明治の再建)。当然、豊臣系の各大名も自藩にあった豊国神社を破却し、ご神体の木像も焼却した。ある一藩を除いては、それこそ阿波徳島藩・蜂須賀家であった。

 ー徳島藩の豊国神社のその後ー

 慶長19年(1614)、家政の建立した豊国神社はなんとその後30年間は存続した。徳川家に憚ったのか、この壮麗な社殿は承応年間(1652-1654年)に撤去されたが、ご神体の木像は焼却処分されず、中田村の庄屋の蔵に隠され祀られ続けた。豊臣滅亡後30年間もその壮麗な社殿が存在し続けたこと自体驚きである。この30年間に取り潰された豊臣系の大名は数多い。福島正則(安芸広島)、田中忠政(筑後柳川)は秀忠時代に、蒲生忠郷(会津若松)、加藤忠広(肥後熊本)、堀尾忠晴(出雲松江)、生駒高俊(讃岐高松)などは家光時代に、いずれも些細な理由で改易されている。蜂須賀家は堂々と秀吉を豊国神社で祀っている。これこそ改易どころか藩主に切腹の沙汰が下りても不思議ではない。これこそ江戸時代の最大の謎である。

 その後、宝永4年(1707)、ご神体は近くの宝蔵寺(現・堀越寺)に移され、名称も変え、寺の境内の小さな祠(ほこら)に偽装して秀吉を祀ってきた。 そうして、寛政6年(1794)に現在の地に秀吉を祀る神社が建てられた。明治となって豊国神社は現在の姿となって復活し、ご神体の木像は社殿に安置されているが一般公開はされていない。ただ一度だけ、大阪城博物館が神社の氏子に頼み込んで写真撮影させてもらっている。日本で秀吉の配った100体の木像でただ一つだけ残った貴重なものである。

 そこでどうしても疑問が残る。徳川幕府は将軍・秀忠、家光の最盛期に、阿波徳島藩に豊国神社があることを本当に知らなかったのだろうか。城内の蔵にしまって置けるような小さなものではなく、残された礎石から判断してもかなりの規模の建造物である。その所在地も徳島城下に近く、阿波から土佐に向かう土佐街道沿いにある。蜂須賀家はお家取り潰しの不安はなかったのだろうか。これだけは日本史の謎として永遠に残るであろう。

 -阿波踊りのルーツー

 阿波踊りのルーツは戦国末頃、京都を中心に大流行した風流(ふりゅう)踊りであることはだいたい分かっている。京の町衆や近在の農民が思い思いの衣装に身を飾り、鉦、太鼓などの音に合わせ、一つの型にはまらない自由な踊りに興じたことがこの踊りの特徴である。戦国の争乱に京に上ってきた西国の武士やその従者たちにより地元に持ち帰られたものであろうと言われている。阿波踊りも江戸時代に描かれた踊り絵を見ると、思い思いの衣装で自由な踊り方である。「阿波踊り」という名称も戦後のもので、戦前は徳島の盆踊りであり、江戸時代は城下の盆踊りであった。

 ところが、江戸初期に主に西日本の各藩で行われていた城下の盆踊りは治安上の理由から各藩によって次々と禁止されていった。土佐藩は早くも寛永2年(1625)に高知城下での盆踊りを禁止している。その後、岡山藩、鳥取藩、松江藩でも禁止された。最終的に貞享2年(1685) 幕府が江戸市中での盆踊りを禁止したことにより諸藩もこれにならい禁止した。ある一藩を除いては、その藩こそ阿波徳島藩であった。なぜ禁止しなかったのか。徳島でも様々な説が述べられているが、定説はない。私は豊国神社の存在と深い関係があったのではないかと思っている。

 -徳島城下の盆踊りは秀吉への供養ー

 豊臣秀吉は8月18日に死んでいる。偶然、お盆と重なっている。秀吉の7回忌(慶長9年)に蜂須賀家政は遺子、秀頼の名代として京都・東山の豊国神社に参拝している。そのとき、東山一帯を数万の群集が風流踊りに興じている姿を目の当たりにしている。後に、この光景を絵師に描かせ、明治まで蜂須賀家で保存してきた、(「豊国祭図屏風」、大正時代に尾張徳川家に時価3億円で売却され、現在は名古屋の徳川美術館にある)。つまり、家政にとっては徳島城下で風流踊りをお盆にやることは、城下近くの豊国神社に祀られている秀吉に対する供養と思ったのではないか。そうとしか考えられない。だからこそ豊国神社は破却してはならないし、城下の盆踊りを絶対に止めてはならぬと遺訓として残したのではないか。その遺訓が幕末まで守られてきた。勿論、それを証明する資料はないが・・。 ただ言えることは蜂須賀家政の秀吉に対する特別な思い入れの深さを感じざるをえない。おそらく、若い頃から親父の小六と行動を共にしてきた家政は、親父と一緒に秀吉のプライベートな宴席に呼ばれ、尾張の農民言葉丸出しで話のできる間柄であったのではないか。そうとしか考えられない。

 <追記>

 蜂須賀家の名誉のために言っておくが、蜂須賀小六は山賊でも盗賊でもない。たしかに武士ではなく身分としては農民階級であるが、その本業は物流商人であった、(史料に「川並衆」とある)。中世期以降、瀬戸内海を中心に海の物流が盛んとなり、それに従事する海の民は当時の文献資料でも「海賊衆」と呼ばれている。かれらは、日常は漁業や海運に従事し、いざ合戦となると水軍として活躍した。伊予の村上水軍、淡路島の安宅水軍、阿波水軍などが有名。海の物流があれば、当然、陸の物流もある。この「海賊衆」という言葉の影響からか、陸の物流商人であった蜂須賀小六はいつしか山賊の頭目扱いされてきた、(史料に「山賊衆」という言葉はない)。まったくの誤解である。秀吉はこの蜂須賀小六に目を付けた。秀吉ほど合戦において兵站(補給)を重視してきた武将はいないであろう。(昭和の帝国軍人は補給を軽視し、多くの兵士を餓死させた)。小六はそれに十分応え、秀吉の天下取りを支えた。まさに蜂須賀小六なくして太閤秀吉はなかったと言える。

 

 

 

コメント (3)
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