小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

なぜ 「 日清 (にっしん) 戦争)」 なのか

2007年05月28日 | 歴史

 我々は中国の清王朝を「 しんこく(清国)」と読んでいる。しかし、「清」の日本語漢字音は「せい」であり「清国」は「せいこく」となる筈である。普通、日本では中国の歴代王朝は 秦(しん)、漢(かん)、隋(ずい)、唐(とう)、宋(そう)、元(げん)と日本語漢字音で読み、明国だけは「みんこく」と中国漢字音を使っている。「明」の中国音は「 ming ミング 」であり、「明」の日本語漢字音は「めい」(明治)と「みょう」(灯明)である。室町時代以来「明国(みんこく)」を使っている。
 しかるに、「清」の現代中国音は「 qing  チング  」なので、清国は日本では「ちんこく」又は「せいこく」となってしかるべきである。なぜ「 しんこく 」なのか。

 -清国は満州族の王朝ー
 
 ここで、「清国」の成り立ちが重要なヒントを与えてくれる。「清」は漢民族の王朝ではなく、満州族の征服王朝である。北京の故宮(紫禁城)へ行かれた方はご存知と思うが、宮殿の額にはすべて漢字と満州文字が並べて書かれている。清朝初期(17世紀)には漢語と満州語は並立して使用されていたのである。清朝の前身は満州にあった「金王朝」である。「金」は満州語で  aisin (アイシン)である。「清国」は満州語で  aisin gurun  ( アイシングルン ) と言う (  gurun は 国  )。江戸初期に新王朝「清」が成立したと幕府に通知があったとき、おそらく、長崎に来ていた中国商人によりもたらされた情報と思われる。清国と日本は江戸時代には正式の国交は無かったが、長崎奉行所には80人もの唐通事が置かれ、入港した唐船から様々な情報を聞き出して、「唐船風説書」として、幕府に提出していた。
 清国は「アイシン 国」とそのときの中国商人が説明したのではないか。 ai-sin の  ai   は日本人には「エ」のように聞こえ、「エシン国」となるが、歴代中国王朝名はほぼ二音節なので(魏は一音節)、それならば「清(しん)」と呼ぶことにしようと、「清国(しんこく)」が定着したのではないのか。
 

 幕末にアメリカを「エメリケン」と聞いた当時の日本人は語頭の「エ」がよく聞き取れず、「メリケン国」と表記していることからもこの説を支持していると思う(今でも神戸にメリケン波止場がある)。有名なラストエンペラー 愛新覚羅・溥儀の「愛新覚羅」こそ満州語の「 金 aisin 」を漢字表記したものに他ならない。(「覚羅」は一族、部族を意味する満州語 の漢字表記)
 
 <追記>
「漢和辞典」には「清」の読みとして「しん」が呉音として出ている。たしかに、唐時代には長安音の漢音と南朝系の呉音があった。呉音には「しん」の音があったが、日本語の漢字語彙にはこの「清(しん)」は17世紀に清国が成立するまで定着していなかった。「清」を「しん」と読むのは国名の「清国」だけ。なぜ突然出現したのか謎である。そこに  aisin  gurun  (アイシン  グルン)説の成り立つ余地がある。
 

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「ヤマタイ国」はなかった

2007年05月23日 | 歴史

 40年ほど前、古田武彦によって提唱された「邪馬台国はなかった」をいまだ信奉している人が沢山いるようである。「魏志倭人伝」にはたしかに「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」とあるが、現存している『魏志』は後の南宋代(12世紀)の版木本であり、三世紀末に陳寿の書いた原本は残っていないし、古い写本も無い。『後漢書』(5世紀)にはちゃんと「邪馬台国」とあり、中国の歴史書には「邪馬台国」の文字は出ているのである。古田氏の言うように、後世の日本人が勝手に「壱」を「台」に置き換えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の倭人の部分は明らかに「魏志倭人伝」をそっくり書き写している。

 問題はこの「邪馬台国」の読みである。「邪馬」は万葉仮名で「やま」と読み、「台」はそのまま漢字音で「タイ」と読むのはどうみてもおかしい。漢字音で統一するなら「ジャバタイ国」であり、万葉仮名で統一するなら「ヤマト国」とすべきである。漢字「台」は万葉仮名では乙類の「ト」である。(古代日本語の「ト」は甲乙二種類あったが、現代語では「ト」ひとつしかない)。どちらかに統一すべきである。そのことを主張している人はこれまでにも沢山いた。

「邪馬台(ヤマト)国論争」だからと言って邪馬台国が奈良の大和とはかぎらない。「魏志倭人伝」に書かれている多くの産物(鉄類や絹片など)はそのほとんどが北部九州から出土している。また、中国の学者は卑弥呼がもらった銅鏡百枚はすべて後漢の鏡だと主張しているし、そのほとんどは北部九州から出土している。魏は後漢から禅譲された王朝で、その都城も官僚組織にも何の変化もなかった。このことから見て、私は「邪馬台国」は九州の筑後川流域にあったと思っている。その邪馬台(ヤマト)国が4世紀に畿内に移動して大和(ヤマト)朝廷になったという安本美典氏の説が正しいと思う。(古くは和辻哲郎も同じ説を唱えている)。大和朝廷の創始者は九州から来たとの伝承は7~8世紀の朝廷にも残っていたのであろう、「記紀」編者はそのことを神武東征神話として書いている。ただし、「ヤマタイ国」はなかったのである。

  <追記>

 2023年6月、佐賀県、吉野ケ里遺跡の小高い丘から重要な墳墓が発掘調査された。それは石棺墓であり、平たい石板で長方形に四方上下を囲んだものであった。「倭人伝」のいう倭人の墓は「棺あり郭なし」と完全に一致する。京大系の大和説の場合、纏向遺跡周辺で発掘されたほぼすべての古墳には石組みの郭がある。倭人伝の記事など完全に無視である。邪馬台国と卑弥呼の存在は認めているのに・・!?

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「豊臣」姓の謎

2007年05月19日 | 歴史

 ーそれは聖徳太子の名前だったー

  『日本書紀』に次のようにある。 「故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子」
 現代訳では、「其の名を称えて、上宮廐戸豐聰耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと)」 つまり、「とよとみみ」が聖徳太子の名前である。
 この名前の根拠は奈良の元興寺に残る露盤銘の万葉仮名表記「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等」(ウマヤトトヨトミミノミコト)にある。
 
 正親町天皇を頂点とする朝廷は、すでに前関白・近衛前久の猶子(養子)となって、関白・藤原秀吉と名乗っていた秀吉が、自ら天皇になる野望(皇位簒奪)を防ぐため、藤原よりも高貴な皇族・聖徳太子の名前、「豊臣(とよとみ)」を下賜した。
 この頃、秀吉は正親町天皇の孫の八条宮を猶子(養子)としており、朝廷の危機感は相当なものだったと思われる。なぜなら、天皇には必ず皇太子が必要であり、八条宮を猶子としたことで豊臣秀吉はこの条件を満たしている。秀吉にはその気はなかったと思うが・・。(八条宮は今に残る国宝、桂離宮の創建者である)

 結論として、聖徳太子は用明天皇の皇太子であったにもかかわらず蘇我氏を警戒して、叔母の推古天皇( 蘇我稲目の孫であり、実力者、蘇我馬子の姪 )を天皇に立て、自身は摂政として実際の政治に携わった。しかし、この聖徳太子の不安は息子の山背大兄皇子の代に現実のものとなり、皇子は蘇我氏に滅ぼされる。朝廷はこの「豊臣」姓を秀吉に与えることで納得させたのではないか。つまり、「トヨトミ」(聖徳太子)は天皇にはなれないのだと・・。
 
 最後に興味ある事実がある。 聖徳太子と蘇我馬子が日本の仏教の中心にしようと飛鳥に建立したのが「法興寺」(ほうこうじ)・・現在の飛鳥寺。秀吉が日本の仏教の総本山にしようと京都の東山に巨大な仏像を建立した寺の名前が同じく「方広寺」(ほうこうじ)。これは全くの偶然の一致だろうか・・・。

コメント (1)
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