小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「六波羅幕府」や「安土幕府」は成立するのか

2014年09月26日 | Weblog

 2014年8月20日の読売新聞におもしろい記事が出た。見出しは、 ー「幕府」の呼称、揺らぐ概念ー というものだった。私はこれを読んだとき思ったことは、現代の日本史の学会もついに研究テーマがここまで枯渇したのかとの感慨であった。この「幕府」という言葉は現代日本史で取り決められた約束事にすぎない。なんの問題もない。その記事の後半には次のようにある

<もともと中国で出征中の将軍の陣営を指した「幕府」という言葉が、現在のように武家政権を指して使われるようになったのは、幕末から明治にかけてのことだ。鎌倉・室町・江戸の政体を「幕府」という概念でくくる考え方自体、近代化の過程で生まれたものだ>

 つまり、この記事の言わんとするところは、鎌倉時代に「鎌倉幕府」、室町時代に「室町幕府」、江戸時代に「江戸幕府」とか「徳川幕府」などの言葉はなかった。これらは幕末・明治以降の近代に生まれたものなので、同じ武家政権である織田信長にも「安土幕府」、平清盛の平氏政権にも「六波羅幕府」との用語を使うべきだとの主張なのである。これは歴史論争というものではない。

 ー「幕府」は歴史用語として明治時代に決められたものー

 我々日本人は中学や高校で日本史を学ぶが、その用語はほとんど明治時代に決められた歴史用語を学ぶのである。「飛鳥」とか「明日香」という言葉を元に「飛鳥時代」、「奈良の都(みやこ)」から「奈良時代」、「平安京」から「平安時代」という歴史用語が生まれている。その他、古代律令制度から「律令国家」、鎌倉武家政権の成立から「鎌倉時代」とか「鎌倉幕府」との歴史用語が作られた。

 この鎌倉武家政権は全国に守護と地頭を置き、武土による全国支配を目論むという、これまで日本になかった新しい政策を実行したことから、その前の平家の武家政権との違いを明確に表わすため明治時代に「幕府」との用語を決めたにすぎない。同じ武家政権と言っても、平家はその一門の多くが朝廷の官職を得て、各国の国司に任命されている。平清盛は太政大臣、長男の重盛は内大臣であり「小松の内府」と呼ばれていた。つまり古代律令国家を継承しているのである。武家政権イコール幕府ではないのである。従って、「六波羅幕府」とか「福原幕府」などの用語はないのである。この点では明治の日本史学者の考え方は正しい。ちなみに、「文禄・慶長の役」も後世の歴史用語であり、当時の武将の書状などでは「高麗の陣」となっている。

 たしかに、「幕府」という言葉自体は『吾妻鏡』に出ている。「文応元年(1260年) 将軍家御居所者称幕府」とあり、中国・唐代に近衞大将の居館を「幕府」と称していたことから引用したのであろう。しかし、この時代の「幕府」はあくまで将軍の居場所(政庁)の意味であり、明治以降の「政治体制」「政治制度」の意味ではなかった。

 では、徳川幕府には守護、地頭は無いではないかとの反論が出そうであるが、名称は違うが各国の藩主が守護にあたる。全国300藩あったと言われるが、守護の領地が細分化されたにすぎない。阿波徳島藩・蜂須賀家は阿波一国を領する守護とも言える。律令制度の「阿波守」を名乗ってはいるが、この名称は京の天皇から授けられたものではない。単なる自称である。阿波一国支配は徳川将軍家から任命されたものである。幕府の旗本は地頭に当たるものであろう。このような政治体制を「幕府」と決めただけである。従って、織田信長は安土城を築いた段階ではまだ日本全土を支配下に置いていない。尾張、美濃、伊勢、近江と畿内だけである。武家政権だからといって、これに安土幕府などの名称は無理である。なぜこのようなこと、「幕府」の概念などが日本史の問題になるのか理解に苦しむ。

 <追記>

 最近の日本史論文は重箱の隅をほじくり返すような瑣末な事象を取り扱っているものが目立つ。この新聞記事も日本史の歴史用語である「幕府」という言葉をあたかも重大な錯誤であるかの如く主張している。この「幕府」という言葉は現代日本史で取り決められた約束事であり、「幕府」という漢語本来の意味とは直接関係はない。例えば、平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が鎮守府を胆沢城に進めたからと言って、それを「胆沢幕府」という名称では呼ばない。後世の「幕府」と混同してしまうからである。しかし、漢語本来の意味では正しい表記なのである。「幕府」とは中国の皇帝(日本では天皇)の命により、政治・軍事の全権を委任され、派遣された夷狄討伐軍の本営(将軍府)のことなのだから。日本史ではこの「幕府」という漢語を日本式に変容させて使っているのである。一つの政治体制・制度の意味として。つまり、古代律令制度に代わる武家による全国一円支配体制、その端緒を切り開いたのが他ならぬ、源頼朝の鎌倉武家政権であった。

 では、豊臣秀吉の場合はどうか。豊臣政権も武家による全国一円支配体制ではあるが、秀吉は征夷大将軍にはならず、臣下としての最高職、関白の地位を選んだ。源氏でないからなどというのは俗説で、(徳川家康が源氏の名門、新田氏の庶流などというのも怪しいものである)。室町最後の将軍・足利義昭か、それが無理なら足利一門の古河公方や阿波公方の猶子ということにすればなれた筈である。事実、前関白・近衛前久の猶子となって尾張の一農民が関白になっているのだから。なぜそうしなかったのか、それは秀吉本人に聞いてみるほかない。

  武家の棟梁が征夷大将軍になって幕府を開くという歴史用語を決めた以上、秀吉政権はそれに適わない。従って、大坂幕府とか豊臣幕府などの用語はないのである。その点では平氏政権と似ている。ちなみに、秀吉の弟、秀長は大納言であり、「大和大納言」と呼ばれていた。「幕府」という言葉は鎌倉・室町・江戸時代にのみふさわしい歴史用語である。

 なお、司馬遼太郎も鎌倉幕府の成立を日本史の一大革命であったと言っている。もっともである。もし、お隣りの朝鮮と同じく、地域差はあるが、日本も古代律令制度が19世紀まで続いていたら確実に欧米列強の植民地になっていたであろう。それ以前に、13世紀の蒙古襲来を撃退できず、今、我々日本人はモンゴル語か江南系中国語を話しているであろう。世界史上、このような例はいくらでもある。ごく近年でも、アメリカが圧倒的な軍事力でハワイ王国を併合したのは1898年(明治31年)、日本の朝鮮併合(明治43年)のわずか12年前のことである。ハワイ語はホノルルとかワイキキなどの地名に残っているだけである。日本でも琉球語とアイヌ語は消滅した。

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