今、全国の書店で小学生向けの「国語辞典」がよく売れているらしい。日本の子供たちも意外と日本語に関心が高く、いいことである。漢字検定にも多くの小学生が参加していることからもうなずける。「国語辞典」でその言葉の意味を調べているのであろう。ところがである、それら国語辞典には必ず単語の下に [名][動][形][形動]などと品詞名が書かれている。勿論、[名]は名詞、[動]は動詞、[形]は形容詞のことであり、これらは国語辞典を買い与えた親たちもごく普通に子供たちに説明できる。
では、[形動]つまり形容動詞とは何かと子供に聞かれたら、即座に説明できる親は全国に皆無であろう。学校や塾で国語を教えている親だったら、その単語が「な」で終わるのが形容動詞だと答えるであろう。つまり、「静かな」とか「明らかな」がそうであると。これでは文法の説明にはなっていない。ただ中間テストでいい点を取るための便法にすぎない。なぜ、「美しい」「明るい」のように「い」で終わるのが形容詞で、「静かな」「明らかな」のように「「な」で終わるのが形容動詞なのかまったく分からず、それは中学で国文法を学んでも理解できず、国語教師に聞いても明確な答えは無理であろう。国語の先生自身よく分かっていないのだから。
極め付けは、漢字「誠実」「正直」「明確」「確実」などが[形動]とあることである。これらは「な」をとる。一方、「戦争」「誠意」「確認」「承認」などは[名]とある。「平和」にいたっては[名]と[形動]の二つが書かれている。もうこうなると子供たちの頭は混乱し、日本語に対する嫌悪感を抱いてしまいかねない。国文法の罪は深い。
ー漢語は品詞に分類できないー
漢語を無理やり国文法の品詞に分類する必要はない。お隣の韓国の「韓日辞典」では「誠意」も「誠実」も共に「漢語」とされており、その使われ方は日本語と同じである。では、国語辞典で「フレンドリーな人」の「フレンドリー」は形容動詞に分類されているかというと、そうではない。たんなる借用語とされている。漢語も英語も日本語に流入してきた時代が違うだけであるのに・・。
この意味不明の国文法がなぜ生まれたのか。その根本原因はこれまで何度も繰り返してきたように、世界のどの言語にもある「語幹 stem 」の取り扱いを誤ったからである。たしかに、中学国文法教科書には「語幹」は設定されてはいる。がしかし、「読む」の語幹は「よ」、「書く」の語幹は「か」とした時点で根本的なミスを犯したと言える。「読む」や「書く」には語幹はないのである。たしかに、同じ二音節動詞の「見る」「着る」「似る」「寝る」には語幹がある。「み(見)」「き(着)」「に(似)」「ね(寝)」がそれである。これらは名詞語幹である。(例、 花見、見方、着物、晴れ着、母親似、昼寝 )。日本語動詞には語幹のある動詞とない動詞の二種類あるのである。それを無理やりすべての動詞に語幹を設定し、「未然、連用、終止・・」などと活用するとしたことにボタンの掛け違いが生じたのである。
-形容詞と形容動詞には語幹があるー
国文法教科書にはせっかく形容詞も語幹として「たか(高)」「ふか(深)」「なが(長)」などを設定しているのに、これにアルタイ系言語(膠着語)特有の様々な接尾語がくっ付いて多用な言葉を作っていく日本語に着目せずに、「未然、、連用・・」などと活用するとしたことから訳が分からなくなったしまったのである。(例、高い、高く、高さ、高見、高まる、高める)。また、形容動詞もしかり、語幹はちゃんと「静か」「明らか」「遥か」と設定はされている。しかし、形容動詞の活用表など一体全体だれが憶えているだろうか。国文法教科書を執筆した大学の先生方も諳(そら)んじることが出来ないであろう。こんな文法書が堂々とまかり通っていることさえ不思議である。形容動詞も語幹に様々な接尾語が付いて造語してゆく。(静かな、静かに、静かだ、静かなる)。
この文語表現「静かなる」は先の漢語「誠実」にも適用される。「誠実」は助動詞「なる」(ある状態にある)を取る。「誠実なる人」の「る」が脱落して、現代語「誠実な人」となった。一方、「誠意」は動詞「ある」を取る。「誠意ある回答」のように、また漢語「堂々」は助動詞「たる」(そうある)を取る。「堂々たる人生」のごとく。同じような意味の漢語(誠意と誠実)に付く接尾語が違うから品詞も違う。これが国文法なのである。これら漢語をしいて分類するとすれば抽象名詞でいいのではないか。
同様に、小学生用「国語辞典」には「舌ざわり」は「名」で、「目ざわり」は「形動」と出ている。(「さわり」は動詞「さわる」の名詞形、国文法では連用形)、この違いを子供たちにどう説明するのか。「な」を取るから形容動詞では何の説明にもならない。これらもすべて名詞形で、用法、つまり言葉の使い方が違うのだと説明する方がずっと分かりやすいのではないか。つまり、「目ざわりな奴」と「舌ざわりのいい味」のように・・。これなら、子供たちも日本語の持つ多様性に触れ、さらに日本語に魅力を感じるのではないかと思う。このような文法なら、日本でも小学校の高学年なら理解できる。一般的に日本人は外国語に弱いとされているが、これは事実だと思う。その原因の一端は国文法にあると断言できる。
<追記>
我々日本人が日本語文法として義務教育で学ぶのは唯一「国文法」である。ところが、外国人には別の日本語文法が教えられている。このことに、国文法教科書を執筆した大学の先生方は全員沈黙している。おかしなことである。外国人には間違った偽りの日本語文法が教えられているのに、なぜ抗議の声をあげないのか。日本語を学ぶ外国人に対しても失礼である。文科省もなぜか見て見ぬふりである。こんな国は日本をおいて他にない。つまり、一つの言語に二種類の文法を持つ国。現在、日本語も国際化して世界各国で学習されている。今こそ、日本の子供たちも外国人も共に学習できる新しい日本語文法を創出するときが来ているのではないか。