坂本龍馬暗殺についてはいまだに真犯人は誰かとの如き説が出されているが、この事件については京都見廻組の今井信郎と渡辺篤が認めているし、新選組の幹部の一人、永倉新八が否定しているのでこれは動かない。この三人は大正時代まで生き、多くの聞き書きを残している。永倉は自伝『浪士文久報国記事』も書いている。
ここではこの事件の背景について再考してみる。
1)見廻組とは
万延元年(1860年)の井伊大老暗殺事件に衝撃を受けた幕府は、元治元年(1864年)腕の立つ旗本子弟よりなる見廻組を新たに創設した。あまりにも応募者が少なかったので御家人にまで拡大してやっと人数を揃えるほどの体たらくであった。もはや将軍親衛隊である旗本は刀さえ抜く気力も失せていたのである。その役割は将軍や老中などの身辺警護するためであり、本来その役を担っていた世襲の旗本がまったくあてにならなかったからである。
「見廻り」との文字を使用したため、新選組と同様、市中見廻りがその任務のように誤解されがちであるが、実際は要人警護、つまり今日で言えば警視庁SPにあたる。幕府組織内では大目付直属である。従って、見廻組が出動するとすれば、それを命じたのは大目付となる。丁度、警視庁SPが出動すれば、その命令者は警視総監以外ありえないように。つまり、龍馬襲撃を命じたのは、当時京都二条城にいた大目付・永井尚志であると言うことになる。永井の前職は京都町奉行であった。
2)なぜ、大目付・永井尚志はそれを命じたのか。
龍馬ファンには真に気の毒であるが、実は、坂本龍馬は生涯一度、二人の人間を殺害している。近江屋で暗殺される前の年、伏見の寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われたとき短銃を放ち脱出している。そのとき銃弾を受けた奉行所の同心が2名死んでいる。別の同心が龍馬に斬り付け、それを短銃で受け止めたとき両手に負傷した。龍馬からすれば正当防衛と言えないこともないが、殺された幕府側からすれば赦しがたい下手人ということになる。(この傷を癒すため、薩摩藩家老・小松帯刀の計らいで薩摩に赴き、妻、お龍と霧島温泉に新婚旅行に行ったことは有名な話)
当時の京都の治安機関として、京都守護職、所司代、町奉行所の三つがあるが、守護職と所司代は共に大名(藩主)であり、命令権は幕府(徳川将軍)にしかない。町奉行所は幕府の官僚機構の一つであり、本来、京都では所司代の支配下にあるが、幕末京都では幕府大目付や老中が出張って来ており、その直接指揮下にあった。つまり、大目付・永井尚志にとっては伏見奉行所の同心は直属の部下なのである。まして、数年前まで京都町奉行であったことも大きく影響しているであろう。このことが近江屋事件の悲劇を生んだと考えられる。
3)見廻組はなぜ近江屋の2階に二人しかいないことを知りえたのか。
この事件の最大の謎は見廻組が近江屋の2階に3人で上がり、その内の二人が部屋に入り、坂本龍馬と中岡慎太郎にいきなり斬り付けたことである。この種の事件では、襲う側は事前に相手の状況を的確に把握することが常識である。有名な荒木又右衛門の鍵屋ノ辻の仇討ちも、相手の状況を物見で十分把握した上で、不意打ちしている。36人斬りなどは講談の世界の話である。また、佐々木只三郎が江戸で幕閣の命により清河八郎を暗殺したときも、相手に酒をしこたま飲ませた後、闇討ちしている。有名な新選組局長、芹沢鴨の暗殺も、近藤、土方、沖田らは、酒を飲んで熟睡している芹沢の寝込みを襲っている。
近江屋の場合も相手を十分把握せず踏み込むと、そこに何人かの土佐陸援隊土が居るかも知れないし、当然、乱闘となって双方に死傷者が出るであろう。見廻組は明らかにそこに二人しかいないことを事前に知った上で綿密な作戦を立てている。この情報を見廻組に教えた者がいる。そうとしか考えられない。そこに土佐藩の関与が浮上してくる。この事件の謎を解く最大の鍵でもある。
4)近江屋事件に至るまでの龍馬の行動。
事件の3週間ほど前、龍馬は後藤象二郎の使いで福井に行っている。松平春嶽に後藤から託された容堂公の手紙を渡している。春嶽には直接会えなかったようであるが、そのブレーン三岡八郎(由利公正)に会っている。この時、同行したのが後藤の腹心の部下である下横目・岡本健三郎である。この人物こそ近江屋事件のキーパーソンである。
11月5日、福井から戻った龍馬はなんと11日、二条城に大目付・永井尚志を訪ねている。どのような用向きで永井に会ったのかは不明であるが、混沌とした時局に対する自身の考えを披露したのであろう。龍馬は倒幕派にも、幕府側にも顔の利く周旋屋のような立場であったが、幕府の要人にも面会できるほどの人物になっていたことは紛れもない事実であった。
しかし、龍馬は忘れてしまっていたであろうが、永井にとって龍馬は前年の伏見での同心殺しの下手人であったことはこれまた事実であった。丁度、警官殺しの犯人がひょっこり警視庁に警視総監を訪ねて来たようなものである。永井は決断した、龍馬に制裁を加えることを・・。
後年、今井信郎の妻「いわ」の証言によると、事件の数日前から、夕刻、見廻組の同僚が迎えにきて二人連れだって出かけた。事件の当日15日も同じように出かけ、その夜は帰宅しなかったという。毎晩、京都先斗町のお茶屋で待機していたのであろう。それを指図したのは、当然、永井しかいない。実は、龍馬は事件前日にも永井の元を訪ねている。いよいよ運命の時が近つ"いてきた。
5)事件当日は偶然か。
事件の当日、その場になぜ中岡慎太郎が居たのか。たまたま偶然居合わせてそのとばっちりを受けたのか。いや、そうではないであろう。二人が揃うのを待っていたかの如く事件は起きている。通説では、少し前「高札引き抜き事件」というのがあり、そこで新選組に捕縛され京都町奉行所の牢に入れられていた宮川助五郎を釈放するとの通告が奉行所から土佐藩にあり、その相談に近江屋の龍馬を訪れていたと言われている。事実、宮川は事件の当日、15日に釈放され土佐藩邸で奉行所から引き渡されている。(土佐藩重役の『神山左多衛雑記』)。
このことは、中岡をおびき出す為に仕組まれた罠であった可能性を示唆している。宮川は上士ではあったが尊王倒幕派であり、土佐勤王党に加盟していた。土佐陸援隊の仲間とも言えた。それに、土佐藩邸の重役、福岡藤次(孝悌)は宮川を陸援隊で預かって欲しいとの手紙を中岡慎太郎に送っていたとの話もある。土佐藩邸と近江屋は目と鼻の先である。そのことで中岡が近江屋を訪れていたと考えれば自然である。これを仕組んだのは、永井尚志と土佐藩上層部をおいては不可能である。京都町奉行所は永井の指揮下にある。
では、中岡慎太郎はなぜ土佐藩上層部にその命を狙われたのか。それには十分な理由がある。ここで誤解してはいけないのは、龍馬や中岡は脱藩浪士であったが、これより少し前、山内容堂より脱藩の罪を赦され、元の土佐藩士の身分に戻っている。容堂は過去のことは水に流し(土佐勤王党領袖・武市半平太の切腹など)、土佐藩士は上下の別なく一丸となってこの難局に当たるようにとの配慮からであった。
がしかし、人間は簡単には過去の恨みを忘れることは出来ないものである。土佐藩上層部には中岡慎太郎に対する深い恨みがあった。それは、土佐藩参政、吉田東洋暗殺事件である。
この事件に中岡は直接関与していないが、逃亡した下手人、岡田以蔵などを陰に陽に支援した。事実、犯人探索のため上方に派遣された下横目・広田章次が京都伏見で何者かにより殺害されている。この殺害事件に中岡が直接関わっていたことは、土佐藩上層部にとっては明々白々なことであった。この時、中岡は京都におり、事件当日は仲間と3人で伏見に行って1泊している(宮地佐一郎著『中岡慎太郎』)。この時、同じく探索方として上方に派遣されていた後の三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎は危ういところで土佐に逃げ帰っている。他にも、大坂での土佐藩監察、井上佐一郎暗殺事件の下手人、岡田以蔵が拷問により自供し、この背後に中岡がいることは疑いの余地がない。少なくとも、藩上層部はそう思っていた。いよいよ刺客が近江屋に近つ"いてきた。
6)近江屋事件の真実
それはかくの如く推測される。11月11日、龍馬が永井尚志の元を訪れる、(資料にはないがおそらく二条城そばの永井の役宅であろう)。永井はそのとき龍馬に制裁を加えることを決意する。そこで、永井は人を土佐藩邸にやり、龍馬の宿所を尋ねさせる。それを知った土佐側は、この機会をうまく利用して憎き中岡慎太郎も一緒に葬り去ろうとの策をたてる。そうして、永井に刺客を先斗町の茶屋で待機させるように頼む。踏み込むタイミングはこちら(土佐側)が案内すると言う。さらに、奉行所から牢にいる宮川助五郎を15日に釈放する通告があったから、陸援隊長の中岡慎太郎に宮川を16日に藩邸まで引き取りにくるように通知する。
いよいよ事件当日11月15日を迎える。ここで、近江屋の数軒先にあった貸本屋菊屋の息子、峰吉の証言が重要性を帯びてくる。後年、峰吉が語ったことによると、夕刻いつものように近江屋の龍馬のもとに遊びに行った。そこにはすでに中岡が来ていた。ほどなく岡本健三郎がやってきた。龍馬に同行して福井に行った下横目である。 龍馬が軍鶏(しゃも)鍋が食いたいと言って、峰吉を買いにやる。そのとき、あい前後して岡本も近江屋を出る。ほどなく、近江屋に戻ってきた時 (夜9時頃) すべては終わったあとであった。事件を知った峰吉は陸援隊の本部(今の京大農学部のある所)に走って知らせた。急を聞いて多くの関係者が近江屋に駆けつけた。陸援隊からも中岡の部下、田中光顕(後の宮内大臣)らが駆けつけた。
後年、渡辺篤の手記によると、あの日、お指図により先斗町のお茶屋で待機していた。夜になって、ある人物(渡辺は諜吏の「増次郎」と言っているが真偽のほどは不明)により現場の近江屋に案内された。あとは組頭・佐々木只三郎の指示どおり動いた。このタイミングを見計らって見廻組を近江屋に案内したのは誰か、岡本健三郎以外には考えられない。勿論、岡本自身でなく、配下の中間・小者であったとしても同じ事である。今、近江屋の2階に二人しかいないとの情報なくして佐々木只三郎も作戦を立てられない。それと偶然とは思えない事実もある。龍馬は最初、近江屋の奥の土蔵の中二階に居た。この日(15日)、風邪気味とのことで母屋の2階の奥の八畳間に移ったばかりであった。まさにその日に事件が起きている。岡本健三郎は毎日夕刻には近江屋の龍馬の元に来ていた。土佐藩の関与は疑いの余地がない。
7)事件のその後
通説では事件の報を近江屋から受けた土佐藩邸から、谷干城らがおっとり刀で駆け付けたことになっているが、実際は、谷はすぐに救援に向かわず、当時、京都藩邸の責任者であった福岡藤次(そのとき祇園の茶屋にいた、後藤象二郎は土佐に帰っていて不在であった)に連絡し、福岡が藩邸に戻った後、その指示でおもむろに近江屋に出向いている。まるで、二人が死ぬのを待っているかのような行動である。
その後の土佐藩の取った行動には疑念を抱かせる。土佐藩は何の証拠もないのに、いち早くこれは新選組の仕業だと断定し、現場に残された刀の鞘は新選組の原田左之助のものだとか、新選組がよく行く料亭の下駄があったなど、しかし、これらはすべて土佐側が言っていることであり、実際にあったかどうかさえ定かでない。事実、鞘があったとしても、それが原田佐之助のものだと断定できる根拠もない。それと、賊が「こなくそ」と伊予弁を使って斬りつけてきたとの証言も、谷が瀕死の中岡から聞いたと言っているだけである。本当だろうか・・(原田左之助は伊予松山出身)。
そうして、土佐藩は新選組を取り調べて欲しいと大目付・永井尚志に強硬に申し入れしている。これを受けて永井は直接、局長・近藤勇を二条城に呼び、形ばかりの尋問をしているが、近藤は当然否認した。この件はこれでうやむやとなった。土佐藩と永井との出来レースである。
谷干城は西南戦争時の熊本鎮台司令官であり、後に商務大臣にまで出世した。引退後もあちこちの講演会に招かれ、近江屋事件について話している。しかし、見廻組の今井信郎の証言があるにもかかわらず、終生、事件は新選組の犯行だと言い続けた。ことの真相を墓場まで持ってゆき、土佐藩の名誉を守ったと言うべきか・・。
岡本健三郎は明治政府の役人となっていたが、征韓論で後藤象二郎と共に下野した。その後、かっての同僚(下横目)、岩崎弥太郎の招きで三菱に入り、のちに三菱財閥の大番頭となり生涯を終えた。近江屋事件については何も語っていない。
<追記>
司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のあとがきで、近江屋事件の真相については、様々な俗説を羅列するだけで、実行犯の詮索はしたくないようである。もし、この問題を追求すると、見廻組の今井信郎、渡辺篤の証言を取り上げざるえず、それは大目付・永井尚志のお指図。そこから、伏見寺田屋での同心殺しに対する報復へと発展して行かざるを得ない。それでは、国民的ヒーロー、坂本龍馬像がもろくも崩れてしまう。そこで、司馬は意図的にそれを避けたのではないか。私はそう思っている。勿論、この土佐藩関与説は以前からあったが、私なりに再考してみた。