小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

桶狭間合戦の真実 -見落とされてきた戦国合戦の常識ー

2011年09月03日 | Weblog

 永禄3年(1560)5月の織田信長と今川義元が戦った桶狭間合戦はいまだに多くの謎がある。これまでの通説は、旧陸軍参謀本部が主張してきた迂回奇襲作戦であり、これがあたかも真実の如く流布してきた。ところが、近年、太田牛一著『信長公記』を元に藤本正行により正面攻撃説が提唱され、これが多くの文献史学者の支持を得て、あたかも真実の如く一人歩きしている。しかし、これとておかしい、なぜなら『信長公記』には正面攻撃したなどとはどこにも書かれていないからである。 たしかに『信長公記』は信頼できる一級史料であることには間違いないが、こと桶狭間合戦の記述では一番重要なポイントが抜け落ちている。つまり、信長率いる2千の織田軍がどのようにして今川義元本陣真近にまで接近できたのか、この一点である。これまで見過ごされてきた重要な事実がある。ここにそれを明らかにする。

 -『信長公記』の記述ー
『信長公記』「首巻」の記事をもとに合戦を復元してみる。
 信長は有名な「敦盛」を舞ったあと清洲城を飛び出し熱田神宮で2千の兵を整える。さらに東に向かい、鳴海城の北に位置する善照寺砦に入る。この時、すでに織田方であった鳴海城の山口父子が今川方に寝返り、鳴海城には今川軍が入っていた。この鳴海こそ桶狭間合戦の重要地点である。鳴海は江戸時代の東海道の40番目の宿場であり、ここから、義元が本陣を置く桶狭間山(実際は小高い丘、「首巻」は「おけはざま山」と書いている)にまで街道が続いている。

 この時点で、鳴海城の南に位置する大高城には松平元康(後の徳川家康)が入り、大高城の北にあった織田方の鷲津・丸根の二つの砦も陥落し、すでに付近一帯には今川軍が充満していた。 つまり、織田軍の最前線は善照寺砦であったのである。私は鳴海城に行ったことがあるが、小丘陵で本丸あとは公園となっていて、そこから四方を見渡すことができる。そこにあった案内板には、北の善照寺砦、東の桶狭間山、南の大高城などが図で示されていた。 周辺一帯はなだらかな丘陵地で、桶狭間合戦の全体が数キロ四方に見渡せる近さであった。

 善照寺砦に入った信長は佐々隼人正と千秋四郎を大将に兵300を今川軍に繰り出す。ところが、この部隊は大将二人と50騎が討ち取られあっさり敗退してしまう。この報に接した今川義元は「首巻」によると 「心地はよしと悦(よろこん)で、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候」 とある。つまり、信長なにするものぞと悠々と舞をまったのである。
 

 この直後、信長は意外な行動に出る。鳴海城の東、善照寺砦の東南に当たる中島砦に向かおうとする。これを家老衆が馬の轡(くつわ)を取って止めようとするが、信長は振り切って中島砦に移動する。この間の事情を「首巻」は 「脇は深田の足入、一騎打ちの道なり、無勢(兵の少なきこと)の様体(さま)敵方よりさだかに相見え候」と書いている。
 この一文は重要である。中島砦より先は旧東海道の狭い一本道で、脇は深田であり、さらに敵からは丸見えだと言っているのである。つまり、中島砦の前面にはかなりの今川軍が布陣していたことになる。その上、後方には今川方に寝返った山口父子の鳴海城があり、信長軍は完全に袋のねずみ状態になる。だからこそ家老衆が必死になって止めようとしたのである。信長は自暴自棄となったのであろうか。そうではあるまい。ある一つの策があったと思われる。それこそ鳴海城の前に出る。この合戦の重要ポイントである。

 -正面攻撃をうかがわせる記述ー
 信長は中島砦より再度兵を繰り出している。このことを「首巻」は 「今度は無理にすがり付き、止め申され候へども・・」 と家老衆の止めるのも全く聞く耳もたぬ様を書いている。さらに続けて「小軍ニシテ大敵ヲ怖ルルコト莫(な)カレ、運ハ天ニ在リ・・・追崩すべき事案の内なり、分捕をなすべからず、打捨てたるべし・・」。 
 かなり省略したが、要するにこれから今川軍を攻撃をするに当ってその心構えを演説した信長の言葉を長々と引用しているのである。このとき、前田又左衛門(利家)ほか8人が敵の首を取ってきたが、先の趣旨を聞かせたとも書いている。つまり、敵の首など捨てよということ。
 
 この一文を読むかぎり、正面攻撃したのではないかと思えるが、これでは先の家老の言葉 「脇は深田、一騎打ちの道なり」 との整合性が取れない。狭い街道を一人また一人と討ち取って前進したことになる。どうみてもおかしい。先に繰り出した300人は50騎討ち取られ敗退している。信長直率の精鋭とはいえ、4万5千の大軍(「首巻」はそう書いているがこれは誇張であろう、2万ぐらいか)の今川軍に勝てるはずがない。所詮、数の多い方が勝つのは戦国の合戦の常識である。ただし、奇襲攻撃すれば少数でも勝利するチャンスはある。

 ー『信長公記』「首巻」は明らかに奇襲攻撃を書いているー 
 「首巻」によると、中島砦での信長の大演説のあと、いきなり場面は義元本陣真近にまで接近した織田軍が出てくる。それには 「山際まで御人数寄せられ候の処」 とある。この「山際(やまぎわ)」とは間違いなく今川義元が本陣を置く桶狭間山のことであろう。それは、その次の場面で信長がみずから槍を取って、大音声で 「すはかかれ」 と下知したことから分かる。
 突然の織田軍の出現に今川軍は大混乱している。そのことを「首巻」は 「水をまくるがごとく後ろへくはっと崩れたり」 と書いている。つまり、まるでバケツの水をひっくり返したように崩れたと言っているのである。これは奇襲というより、まるで不意討ちである。この乱戦の中で今川義元は討ち取られる。もし正面攻撃で織田軍が迫ってきたのなら、その位置を今川軍は最初から把握しており、なにも慌てる必要はない。大軍でゆっくり包み込んで討ち取ればいいのである。

 織田軍はなぜこんな近くにまで接近できたのか。しかも、義元本陣は気付いていない。「首巻」もこの点には全く触れていない。太田牛一が意図的に書かなかったとしか思えない。 もし、藤本氏の言うように正面攻撃なら中島砦を出たところから、次々と繰り出される今川軍の前にしだいに消耗し、結果的に全滅したであろう。織田信長の首を取ることは今川軍にとって大手柄であり、恩賞は望みしだいであろうから。それがまるで神隠しのように忽然と消え、義元本陣の目と鼻の先に出現するなど起こり得るはずがない。
 
 通説では急に降りだした大雨にまぎれて、義元本陣に接近したと言われているが、「首巻」ではまったく違う。信長が御人数(部隊)を山際に寄せた時、にわかに大雨となり、信長は 「熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申候なり」 とある。つまり、義元本陣の桶狭間山の麓まで来たとき、突然、暴風雨になったのである。当然、今川軍は雨を避けようとして多少の混乱は起きる。なによりも、義元自身が山から下って街道筋にある農家に避難しようとしたと思われる。このスキを突いて信長は全軍突撃を命じた。
 合戦においては下から上にいる敵を攻めることは絶対的に不利だからである。このことを「神軍」と表現したのであろう。事実、義元が討ち取られたのは桶狭間山を下った田楽狭間と言われている所である。今はそこも小公園となっており、今川義元の慰霊碑が建てられている。

 ー信長がとった戦術とはー
 いよいよ桶狭間合戦の真実が明らかになる。それも意外な文献資料にちゃんと書かれている。近年、黒田日出男が主張した『甲陽軍鑑』に書かれている今川軍が乱捕り(略奪行為)に夢中であったのがその原因なのか。いや違う。これはまったくの作り話しであろう。
 それは儒学者、小瀬甫庵著『信長記』にある。この甫庵の『信長記』は嘘、偽りが多く、史料的価値はないとされている。しかし、後に旗本、大久保彦左衛門が自著『三河物語』の中で、甫庵の『信長記』は偽りが多く、真実は三に一つもないと書いている。この記述は重要である。逆に考えれば記事の四、五のうち一つぐらいは本当のことであると、つまり、すべてが嘘、偽りではないと大久保彦左衛門自身が認めたことでもある。
 

 この甫庵の『信長記』に興味ある記事がある。それは 「山際までは旗をまき忍びより」 との一文である。甫庵は自序、『信長起起』の中で、「戦場のことなどは人々の説々まちまちにして定めがたし」 と書いている。甫庵4歳のとき桶狭間合戦が起きている。成人してのち、多くの人たちにこの合戦の模様を聞いてみたが、答えは人によって違うと嘆息しているのである。
 がしかし、ポロッと本音を漏らした人がいた。その答えが 「旗をまいて忍びよった」 であったと思われる。正面攻撃説をとる藤本氏はこれは甫庵の創作だと一蹴しているが、この策以外に義元本陣の真近にまで接近できる方法はない。

 -旗を掲げることは戦国合戦の作法ー
 「旗幟を鮮明にする」という言葉があるように、日本では源平合戦以来、敵と味方を識別するため旗や幟(のぼり)を掲げることは武士としての当然のルール、作法であった。 そうでなければ、戦場は当然、敵、味方入り乱れるので識別できない。「関ケ原合戦図屏風」や「長篠合戦図屏風」を見ても旗、幟が林立している。信長はこの慣行、作法を破った。父親(織田信秀)の葬儀で位牌に沫香を投げつけたほどの人物だからそれぐらいのことはやりかねない。しかし、相手の今川義元は足利一門の守護大名として格式にこだわり、誇りに満ちた武将だった。そこに油断があった。
 
 「首巻」によると、信長は家老の制止を振り切って中島砦から兵の一部を街道正面に向かわせる。これには織田家の旗を持たせ、あたかも織田本隊であるかの如く装う。いわゆる陽動作戦である。当然、今川軍は殺到して来るが、狭い一本道のこと、戦線は膠着状態となる。この間に信長自身は残る千数百の精鋭部隊を率いて丘陵地帯にわけ入る。
 どのコースを取ったのかは「首巻」は何も書いていないので不明であるが、旗を巻いて移動すれば、丘陵地帯のあちこちに布陣する今川軍は戦闘を終えて後方に移動する味方だと思い込む。事実、これより少し前、丸根砦と鷲津砦で戦闘があったし、織田軍50騎を討ち取っている。
 つまり、この両砦周辺には今川軍が充満していたはずである。またこの時代、武器や糧食は武士たちは自前で用意しなければならない。その荷駄隊は当然、後方にいるのが普通であろうから、戦闘部隊が後方に動くことはなんの不思議もない。
 これから合戦に臨もうとする織田軍なら当然、旗を掲げるのが戦国時代の作法であり、旗印は武門の誇りなのだから。現代人の感覚でその時代を判断してはいけない。

 <追記>
『信長公記』「首巻」をどう読んでも正面攻撃説など出てこない。中島砦からは一騎打ちの狭い道であると家老が出撃を止めていることからも分かる。そこを一人また一人討ち取って義元本陣まで約2キロの道を前進したことが本当なら、今川軍は余程の弱兵だったことになる。ところが、その前に織田軍300人のうち50騎が討ち取られ、大将首二つ取られている。さらにその前に織田方の丸根、鷲津の二つの砦も今川軍に陥されている。今川軍は決して弱兵ではなく、むしろ強兵であった証拠である。 やはり、これまでの通説どおり、ひそかに義元本陣に近つ”いたというのが正しいと思う。
 ただ、問題はその方法である。『信長公記』は何も書いていない。これまでの通説のように今川軍に悟られぬように迂回してしのび寄ったのではなく、旗を巻き、まるで今川軍の一部隊の如く堂々と近つ”いたのではないか。これは武士として恥ずべき行為である。だからこそ、太田牛一はあえて書かなかった。これが桶狭間合戦の真実ではなかったのか・・。
 
 

コメント (4)
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