小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(30) 国文法はどこでボタンの掛け違いをしたのか

2014年01月14日 | Weblog

 我々日本人が日本語の文法として義務教育で学ぶのは唯一、「国文法」である。それなのに何故、これを日本語を学ぶ外国人に教えられないのか。その理由についてはこれまで、「日本語は世界一難しい言語だから」とか、「日本語に文法はない」などという俗説、盲説がまことしやかに語られてきた。その原因は実に単純なところにある。

 ー「活用」と「語幹」の用い方に根本原因があるー

「活用」は英語では  conjugate  であり、動詞や形容詞の語形変化のことである。ドイツ語やロシア語の動詞は人称により語形変化する。「語形変化」は「語尾変化」とも言い代えられる。英語は動詞の活用をほぼ失っているが、 He go-es  のように第三人称単数にのみ残っている。この場合  go-es  の go  が  stem (語幹)である。 明治時代の国語学者がこの印欧語の活用を日本語に適用しようとした。そこに無理があった。

 たとえば、動詞「書く」の場合、「書か-ない、 書き-ます、書く、書く-とき、書け-ば、書け」のように 「か、き、く、く、け、け」と活用(語尾変化)する。これは一見、印欧語の語形変化と同じようにみえる。たしかに、日本語のすべての動詞がこの「書く」や「読む」のように語尾変化してくれれば一応問題はなかった。しかし、語幹の「か(書)」や「よ(読)」は印欧語の語幹  stem  とは全く違うものである。とても外国人には説明できない。

 ところが、上一段活用とされている「見る」の場合、語幹は「見(み)」で、「み(未然)、み(連用)、みる(終止)、みる(連体)、みれ(仮定)、みろ(命令)」と活用して、語尾変化していると言えるのは仮定と命令の二つだけであるが、実は、語幹「み」に付く接尾語「る」が活用しているだけである。これを印欧語を母語としている人たちにどう説明するのか。いや、未然形も連用形も古語は「見ら・ない」とか「見り・ます」と活用していたが、英語のように活用を失ったとでも言うのだろうか。ここに根本的な矛盾がある。

 ー「捨てる」を「す」と「て」、「上げる」を「あ」と「げ」に切り離したことに最大の問題があるー

 下一段活用とされている「捨てる」の場合、語幹は「す(捨)」で、「て、て、てる、てる、てれ、てろ」と活用することになっている。これは「語幹」という言葉自体、矛盾というよりも無茶苦茶といった方が適切であろう。上一段活用の「見る」や「着る」の場合は語幹の「見(み)」も「着(き)」は語幹 stem  としての機能を持っている、(「花見」「晴れ着」のように名詞語幹)。

 この「捨て」の「す」を語幹と決め、「す-てる」の「てる」の部分が活用(語尾変化)すると言っているのである。我々日本人でも「すて-る」と理解しているはずである。「すて(捨)」は日常、「捨て猫」「世捨て人」として使っているからである。しかし、国文法では「す(捨)」が語幹 stem  であると強制しているのである。同じく、「疲れる」の語幹は「つか」で「れ」の部分が活用(語尾変化)する。また「答える」の語幹は「こた」で「え」の部分が活用するのが国文法である。「疲れ」も「答え」も独立した名詞であることは誰でも知っている。しかるに、これらはすべて動詞の連用形が名詞化したものであるというのが文科省認定の日本語文法(国文法)である。

 こんな文法を外国人に説明できるわけがないし、英語にも訳せない。国文法動詞の「語幹」は決して英語の stem  ではない。 国文法は他の外国語には訳せない世界に類を見ない奇妙な言語ということになる。たしかに、世界のどの民族も外国語にうまく訳せない伝統や習俗に由来する言葉を持っている。日本語の「けがれ」や「みそぎ」などがそうであろう。しかし、言語は違うものである。なぜ、明治の国語学者は名詞語幹「疲れ」「答え」に動詞と連体形形成の二つの機能を持つ接尾語「る」が付いたものとしなかったのか。これなら、日本人も外国人もスンナリ理解できる。(たしかに、この現代語「答え」は古語の「答ふ」が起源ではあるが、そんなことは大学の専門教育で学ぶことであり、義務教育で教える必要はない)

 <追記>

 あるテレビ番組で、ロシア人留学生が「日本語はやさしい言語です」と言っていた。ロシアの教育機関で日本語がどのように教えられているのか私は知らないが、彼らはかれら流に日本語の構造を把握しているのであろう。また、ドイツのある大学の日本学科の教授が、「日本人には日本語の文法の説明はしてもらわない」と言っていたのをテレビで見たことがある。幕末の国学者は日本は神の国であり、日本語(大和ことば)は世界に隔絶した美しい言葉であると認識していた。それが尊皇攘夷運動とも結びついていたのも事実であろう。それを受けて、明治の国語学者が国文法を作り上げた。それが現在も地球の自転のように学校教育で繰り返されている。もはや限界にきていると思うのは私だけだろうか・・。

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