小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「薩長同盟」条文、龍馬の裏書きは明治以後のねつ造 ! -続編ー

2016年10月13日 | Weblog

 前回、龍馬の裏書きの時系列上の不自然さについて書いたが、それ以外、その内容についてもおかしい点が多い。明治、大正、昭和の匂いがプンプンする。龍馬の手紙と併せて書く。

(1)「新聞」の用語を最初に使ったのは坂本龍馬 ?

 慶応二年8月16日付と慶応三年2月22日付、三吉慎蔵あての手紙に、「近時新聞」(最新のニュース)なる言葉が出てくる。この「新聞」との言葉は古漢籍では「風説、説話、物語」などの意味であった。清朝末期、上海などの西洋人の居住地で発行されていた News Paper の訳語として「新聞紙」が使われており、日本でも慶応三年(1867)1月、イギリス人により日本語で「万国新聞紙」が横浜で発刊されている。これが日本初の「新聞」の出現である。明治になって「新聞」も日本全国に広まり一般化した。現代中国ではニュースの意味で「新聞」を使う。龍馬はすでに「万国新聞紙」より4カ月も早くニュースの意味で「新聞」を使ったことになる。私はこの三吉あての2通の手紙は明治以後のニセモノだと思っている。その理由を書く。

 慶応二年8月16日付の手紙には、「八月朔日小倉合戦終ニ落城と承り候・・・早々下の関へ出かけ候も、もふ敵がなけれバ何とか力なく奉存候・・」とあり、この年6月の下関海戦には龍馬は参加していなかったことになる。これでは、慶応二年12月4日付の兄、権平・家族あての手紙との整合性が取れない。この手紙は非常に長文で、この年正月、伏見・寺田屋で奉行所に襲われたことの顛末と、同年6月の幕府と長州との下関海戦に龍馬自身が船(ユニオン号)に乗り、戦闘に参加したことなどを絵図入りで詳しく書き送っている。また海戦後、対岸門司に上陸して目撃した戦場の生々しい惨状も描写している。当然、どちらかの手紙がニセモノである。無論、慶応二年8月16日付、三吉慎蔵あての手紙であることは言うまでもない。

 この三吉あての手紙にはあと一つ決定的なミスがある。それは西郷の話として、「彼仏国ニて薩生両人周旋仕候ニ付て・・」(薩摩のフランス留学生二人の奔走により・・)とあることである。この「薩生両人」とは慶応元年3月に薩摩藩が密航させた19名のイギリス留学生のことであるが、その内二人が翌慶応二年フランスに留学先を変えている。このような情報をどうして西郷が知りえようか。夏目漱石が英国留学した明治33年には国際郵便制度ができており、外国との手紙のやりとりは可能であったが、幕末にあるわけがない、(万国郵便連合の成立は明治9年、日本は翌年に加盟)。これはこのフランス留学生二名が帰国(明治元年)して復命した後の知識を元にしている。それと、「彼(かれ)」は明治になって英語の He  を日本語に翻訳したものである (「彼女」は She の訳 )。「近時新聞」の出てくる龍馬からの三吉あての2通の手紙は間違いなくニセモノと断言できる。

 京都国立博物館の宮川禎一氏は近著『坂本龍馬からの手紙』の中で、龍馬から三吉慎蔵あての手紙について次のように書いている、「三吉家は龍馬から来た手紙を大切に保管し現代に伝えています・・・、三吉家の手紙は龍馬が出した当時の便箋と封紙のままの姿をとどめており大変に貴重です」と、では、この「新聞」の文字のある慶応二年8月16日付の龍馬からの手紙は三吉家所蔵の中にあったのか。いや、他者の所有となっている。これは、今でも地方の旧家の蔵からときたま出てくる忠臣蔵グッズと呼ばれるニセモノの類と同一のものであろう。忠臣蔵と幕末ものにはニセモノが多いので研究者は十分注意してかかる必要がある。

(2)「皇国」と「皇威」

 日露戦争、日本海海戦の連合艦隊司令長官・東郷平八郎の訓示、「皇国の興廃、この一戦にあり・・」、この「皇国」は幕末の尊王攘夷志士たちが使い始めた言葉であるが、問題は「皇威」である。幕末に「皇威」との言葉が書かれた確実な資料はあるのだろうか?(後世のニセモノにはあるかも知れないが・・)。私は寡聞にして知らない。薩長同盟の条文が最初ではないのか。その六番目に「皇国の御為皇威あいかがやき・・・」とある。まるで、尊王攘夷の過激思想の持ち主がしたためた文書のようである。ちょっと待ってほしい。薩摩の幹部たち、小松、、西郷、大久保も、それと長州の幹部、高杉や木戸も尊王攘夷の過激派とは一線を画していた。たしかに、若いころは一時そのような過激思想に染まっていたときもあったが、高杉も木戸も禁門の変には参加していないし、むしろ反対していた。(中岡慎太郎はそのとき長州軍の中にいた)

 薩摩藩にいたっては薩英戦争のあとイギリスと手を結び、明らかに開国を志向している。天皇はあくまでも象徴にすぎない。つまり、このときの両藩の首脳たちは徳川幕府を倒し、新政権では開国して西洋の技術を導入し、日本を近代国家にしようとの意図を持っていた。そのような人たちが、まるで、長州の久坂玄瑞や土佐の武市半平太の如く、天皇絶対主義を主張するような文言に合意するわけがない。この第六条はかって土佐勤王党の一員であり、中岡慎太郎の腰巾着(司馬遼太郎の言葉)と言われた宮内大臣・田中光顕の意向が大きく働いているのではないか。この「皇威」との言葉は明らかに昭和の天皇神格化の時代の発想である(田中光顕が死んだのは昭和14年)。なお、「朝廷の威信」の略語として「朝威」との言葉は幕末、小松帯刀が大久保一蔵あての手紙(元治元年7月9日付)で使っている。

(3)「船中八策」もねつ造

 慶応三年6月、薩土盟約締結のため、長崎から後藤象二郎と大坂に向かう土佐藩の夕顔丸の船中で龍馬が後藤に提示し、海援隊土の長岡謙吉が書き留めたものと言われているが原本はない。これはねつ造というより横井小楠がすでに文久2年(1862)に発表していた「国是七条」の焼き直しである、(いわゆる、パクリである)。横井小楠は安政5年(1858)には福井藩主、松平春嶽の招聘を受け、幕藩体制に代わる新国家構想を春嶽と由利公正などそのブレーンに講義している。6月22日、京で薩摩、土佐両藩の幹部が会談し、そのとき龍馬と中岡慎太郎も立ち会った。土佐藩は将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を出すことを提案して薩摩藩の了承をえた。つまり、龍馬の「船中八策」を後藤象二郎が取り上げたからこそ出てきた建白書であったとの神話を創ったのである。

 幕末の大事件「大政奉還」も龍馬の発案ということにするため、「船中八策」をねつ造した。その一条に「天下ノ政権ヲ朝廷に奉還セシメ政令宜シク朝廷ヨリ出ズベキ事」とある。しかし、このような構想はすでに幕府、諸藩を問わず多くの人士によって語り尽くされていたものであり、当然、後藤も知っていたはずである。特別、龍馬のオリジナルではない。勝海舟、大久保一翁、佐久間象山、横井小楠などなど、龍馬はこれらの人士とすべて会っている。だが、田中光顕を中心とする龍馬プロジェクトの人たちはこれら先人をすべて無視し、龍馬ひとりの功績に置き換えた。そのため「船中八策」をねつ造したのであろう。これを受けて司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で念を押してくれた。高校日本史教科書にも出ている「薩長同盟」と「大政奉還」、これは龍馬の力で成ったものであり、土佐の坂本龍馬なくして明治維新はなかったとの神話の成立である。

<追記>

 坂本龍馬の関係資料には後世の多くのニセモノが混じっていると私は思っている。前に書いた高知の龍馬記念館が購入した伏見奉行所から所司代あての報告書の写しがまさにそうである。また、大坂町奉行所の与力が、龍馬を追尾していた密偵から聞き書きした口上書などもその最たるものである。厳格な身分社会であった江戸時代に、れっきとした武士がそのような者の名前や報告を書き残すわけがない。たしかに、江戸時代は密告社会で密偵などを使っていたが、そういう連中は町のならず者でもあった。

 日本の歴史学者は自分の目を絶対視する傾向が強いのではないか、(三角縁神獣鏡=魏鏡説もそうである)。幕末史の多くの研究者は龍馬の手紙を筆跡鑑定で本物と見なしているようであるが、これはあぶない。現代の裁判制度でも筆跡は証拠採用されない。他人の筆跡を真似て同じように書ける人がいるからである。やはり、先に述べたヒトラーの日記同様、科学鑑定がすべてを決定する。同じ和紙といっても江戸時代の和紙と明治以後の大量生産されるようになった和紙は違う。明治以降の和紙には光沢を出すための漂白剤や防腐剤などが含まれている。私の住む徳島県でも伝統的和紙作りをやっている人はいるが、勿論、県無形文化財である。和紙の科学鑑定も当然やる必要があるのではないか、歴史の真実を知るためにも・・。

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