小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

北政所の本名は「ねね」か「おね」か ? -再論-

2014年04月01日 | Weblog

 近年、北政所(高台院)の本名「ねい(寧)」説を主張している日本史研究者がいる(藤田達生『秀吉と海賊大名』中公新書)。この説は北政所が甥たち(実兄、木下家定の子、豊後・日出藩と備中・足守藩の二藩が明治まで存続した)に書き送った手紙に、「寧」もしくは「祢」と署名していることから、「寧」の漢字音が「ねい」であるので出てきた説である。たしかに、「ねい」は二音節なので十分ありうる。もう一つの署名「 祢(ね)」は「ねい」の最初の音「ね」を「祢」で表したとすれば理屈上は筋が通る。しかし、問題」が残る。秀吉が北政所に送った手紙には「 お禰へ 」となっており、「 お寧へ 」とはなっていないことである。

 ー漢字にとらわれすぎているー

 たしかに、「寧」は「ねい」と読む。だから本名は「ねい」と言うのはあまりにも短絡的すぎないか。高台院が大阪夏の陣の後、元号も「元和」となり、元和偃武(戦が終わり平和になること)が実現したことに安堵し、自分の手紙の署名に「安寧」の「寧(ね)」を使ったと考えるのが一番妥当ではないか。「寧」は「やすらか」の意味でもある。 それと「寧(ねい)」説の人は秀吉の手紙「 お禰へ 」について十分納得ゆく説明をしていない。他の日本史学者らの唱える「おね」説の方がまだ説得力がある。事実、夫が妻を「おね」と呼んでいるのであるから。だからと言って、この「おね」が本名とは限らない。自説にとって都合の悪いことは無視して触れない。これでは考古学の三角縁神獣鏡=魏鏡説となんら変わるところがない。

 ー『太閤素生記』をなぜ無視するのかー

 前に述べたように『太閤素生記』には北政所の本名は「 禰々(ねね)」と二カ所も書かれている。この書物は江戸時代に数多く出版された「軍記物」とは違い、土屋知貞という徳川秀忠の馬廻りの武士が書き残したもので、まさに同時代の貴重な資料である。後世の日本人によく見られる「メモ魔」の元祖的人物でもある。その時代の多くの人に聞き書きしたものである以上、当然、その中には誤伝も混じっているであろう。しかし、真実も多い。この『太閤素生記』は他の多くの「軍記物」のように江戸時代に市中に流布した読み物ではなく、水戸徳川家の学問所、彰考館に所蔵されてきたものである。明治の世となって活字化され一般の人の目に触れるようになった。ちなみに、幕末京都で出版された『絵本太閤記』には北政所の名前は「八重(やえ)」となっている。この本の作者だけでなく、当時の日本では北政所の名前は一般的に知られていなかったのである。

『太閤素生記』 には土屋知貞の生きた戦国末期の超有名人の4女性 ( ねね、ちゃちゃ、はつ、ごう )についてその名前と生涯の経歴が詳細に書かれている。我々が一般的に知っている事実とほぼ同じである。これを紹介すると相当長くなるので割愛するが、興味のある人は図書館で見てほしい(『史籍集覧』13)。これを読むと北政所の本名は「 禰々(ねね)」がやっぱり正しいと思うはずである。秀吉の手紙の「 お禰へ 」は愛称として、日常、夫が妻をそう呼んでいたにすぎないと考えるのが一番無理がない。この秀吉の手紙は武将に対する書状などとは違い、会話体の今でいうメールである。古今東西、夫が妻に手紙を出すとき必ず本名を使うなどという法則があるわけではない。(パスポートとは違う)

 あえてもう一度言うが、土屋知貞は徳川秀忠の馬廻りとして大阪夏の陣にも参加した教養ある武士である。自身の経歴もこの本の中に詳しく書いている(「土屋」姓から分かるように、先祖は甲州・武田武士である)。無論、上記4人の女性と直接会ったことはないであろうが、まさにその時代の渦中にいた人物であり、そのすべてを目撃した人でもある。そういう人が書き残した記録を、400年後の人がいとも簡単に間違いだと否定することに何か釈然としないものを感じるのは私だけだろうか・・。

 <追記>

 戦国時代を研究している多くの学者がなぜ『太閤素生記』を無視するのか。それには理由がある。かって日本史の大御所的存在であった東大の桑田忠親が『太閤素生記』には史料的価値はないと否定したからである。(桑田氏は「おね」が正しく、「ねね」は誤伝としている)。国語学でも言えることであるが、著名な権威ある学者が言うと日本ではそれが真実となり、だれも批判も反論もできない。日本社会の大きな病根であると私は思っている。

 なお、木下家に伝わる系図には北政所を「子為(ねい)」とか「禰居(ねい)」とあるらしいが、この系図がいつ書かれたかが問題であり、本当に江戸時代に書かれたものであれば女性の名前が書き込まれることはまずない。おそらく明治以後に「寧」の文字から類推して「ねい」であろうと書き加えたものであろう。土佐藩祖・山内一豊の妻の名「千代」も同時代の資料にはない。だが、現在の山内家の系図にはおそらく「千代」とあるであろう。阿波徳島藩の藩祖・蜂須賀小六の妻も史料から「益田氏」とのみ伝わり、本名は分かっていない。

 今年(2016年)のNHK大河ドラマ「真田丸」では北政所を「寧(ねい)」と呼ばせている。このドラマの脚本を書いた人が最近の新説を採用した結果と思うが、あえて言いたい。今一度、『太閤素性記』に目を通してほしい。北政所の本名は「 ねね 」が正しいと思うはずである。

 

 

 

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