小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

龍馬暗殺に残された謎 ・ 最終章 その2

2010年11月20日 | Weblog

(6)慶応三年11月15日 近江屋事件の真実とは
 -その1-
 近江屋事件に関しては現場に駆けつけた多くの人たちによって様々なことが語られている。それらは基本的に信用できない。瀕死の重傷を負った中岡慎太郎がどれほど明瞭な意識があったのかどうかさえ定かでない。実行犯、今井信郎の証言とてしかり、今井は生涯、外部の人に対しては本当のことを話していない。その理由は、明治3年の刑部省口書(検事調書)で検察側と同意の上、御差図した人物はけっして口外しないという約束を守ったからであると思われる。
 しかし、時が流れ、近江屋事件も遠い昔物語となったとき、生涯一度真実に近いことを身内に語っている。そのことが『坂本龍馬を斬った男』(今井幸彦著)に紹介されている。それは今井信郎の実弟、今井省三が大正10年頃、真下菊五郎という人に宛てた書簡である。その重要部分を抜き書きすると

「或日、永井玄蕃ヨリ密会ヲ求メラレ土佐浪人阪本龍馬ヲ討取ルベキ内命ヲ拝セリ、早々同志三、四名ト手筈ヲ協議シ、兄ノ策ヲ用ヒ、兄ハ阪本ノ旅宿ニ至リ面会ヲ求メ、座敷ニテ問答中、阪本目早ク覚リ、同座ノモノニ合図スルト同時ニ、兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ、返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ、旅館ヲ出デ・・・又老生省三ハ姉上ノ所持セシ永井氏ヨリ金五十両慰労ノタメ送リシ書附ヲ見タルコトアリ・・」

 この手紙で今井省三は龍馬殺害を命じたのは大目付・永井尚志であることを明確に述べている。そして、永井からもらった慰労金50両の書き付けを姉(信郎の妻イワ)が持っているのを見たと言っているのである。
 この手紙は非常に重要な証言である。50両の慰労金の真偽はともかく、実行犯でなければ知りえない秘密を吐露している。それは何か・・・。

 今井信郎は明治3年の口書で、自分は階下で見張りをしていたと供述している。2階に上がった3人は、いずれも鳥羽・伏見の戦いで戦死している。ところが、後年、新聞や雑誌の取材を受けた折、その供述を翻し、自分一人で斬ったと言っている。
 
 その内容の大筋は、近江屋の1階で下僕藤吉に信州松代藩の者だと言って取次ぎを頼み、藤吉が階段を上がるあとを追って背後から一刀のもとに斬り倒し、そのまま奥の八畳の間に踏み込んで、まず龍馬の頭を横に払い、返す刀で中岡を斬り倒した。そのあとを2番手、3番手が部屋に飛び込んできた。
 しかし、この供述は根本的におかしい。物音ひとつしない静まりかえった夜8時ごろ、2階で人を斬れば当然悲鳴が上がるだろうし、相撲取りであった藤吉が倒れればかなりの大きな音がするであろう。ここで龍馬が 「ほたえな」 という有名な声を発するのであるが、一体、だれがこの龍馬の声を聞いたのだろうか。中岡慎太郎しかいない。本当に中岡は瀕死の重傷の中で冷静に現場の状況を説明できたのであろうか。 はなはだ疑問である。「不覚をとった」「無念だ」ぐらいのことは言ったかも知れないが、中岡から聞いたという人の証言は、すべて後世の創作ではないのか。
 
 龍馬が短銃を所持している可能性は見廻組も十分承知していたはずなのに、なぜ、相手に悟られるような行動をとったのか。短銃はなくても、異変に気付いた龍馬と中岡が刀を引き寄せて身構えていたら今井信郎はどうするのか。狭い八畳の間で大乱闘を演じるつもりだったのだろうか。今井は嘘を言っている。
 この幕末には桜田門外の変をはじめ、数多くの暗殺事件が発生している。そのどれを取ってみても、不意討ちもしくは闇討ちである。相手を倒して自分は傷つきたくない。これが武士の真実の姿である。では、今井信郎が実弟に語った真実とは・・。
 
 -その2-
 今井省三の書簡の中に 「座敷ニテ問答中」 との一文がある。これこそ、今井信郎が長い人生の中で唯一語った真実だと思う。実の弟だからこそ本当のことを話しておきたかったのであろう。(孫の幸彦氏は有り得ないと否定しているが・・) 

 今年、民放のあるテレビ局が元鑑識課員や剣道の師範を招いて、近江屋事件の現場検証の番組をやった。それによると、現場にあった掛け軸の血痕の位置から、龍馬は座位のままいきなり額を横に払われ、ふり向いて横の床の間の刀を取ったが、抜くひまもなく賊から上段に斬りこまれ、鞘のままそれを受けた。その時、鞘に大きな裂け目ができ、その鞘が天井に穴を開けた。そして背をむけて逃げようとして今度は背後から一撃を受け動けなくなったのであろうとのことだった。
 つまり、賊も龍馬と同じく座って対面していたというのがその結論であった。いきなり部屋におどり込んで上段から斬り付ければこのような血痕の飛沫はできないとのこと。この検証が正しいとすれば、省三書簡の 「兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ」 とはまさにその状況を正直に言ったことになる。
 
 その番組では、賊が連続で龍馬に三太刀あびせたと言っていたが、私の考えでは、連続では龍馬は床の間の刀を取って立ち上がる時間的余裕がないはずであり、一刀目は龍馬、返す刀でニ刀目は隣の中岡、その間に龍馬は刀を手に取り立ち上がったが、すでに賊の三刀目が振り下ろされてきており、やむなく鞘のままそれを受けざるをえなかった。これだと省三書簡の 「返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ」 にぴったり合う。現場検証から見えてくることは、今井信郎が実弟に真実を語ったという事実である。
 今井信郎の斜めうしろに控えていたもう一人の賊は、今井の一刀目を合図に中岡に斬りかかったと思われる。その時、異変に気付いて奥の八畳の間に入ろうとした下僕藤吉は2階の階段前で待機していたもう一人の賊に背中から斬られた。これが事件の現場の真相ではないか。もう一人の賊は今井の斜めうしろに居ないと、自分自身が今井の抜き討ちに斬られかねないからである。(斜めうしろの位置はこの事件のキーポイントでもある)

 あと一つ、省三書簡の重要な記事は 「兄ノ策ヲ用ヒ・・・面会ヲ求メ座敷ニテ問答中」 である。夜、初対面の相手、それが松代藩士であれ、十津川郷士二名であれ(これは谷干城が瀕死の中岡から聞いたと言っている)、座敷に招き入れ、それも抜き討ちのできる距離 (それは約2メートルぐらい、それより近すぎても遠すぎても不可能)にまで接近させることはまず常識的に考えても有り得ない。来客はふすまを開けて敷居の所でまず挨拶するのが常識であり、龍馬も部屋の中央で来客と一定の距離を置いて用件を聞くのが普通の作法であろう。
 この位置関係では抜き討ちは出来ない。今井信郎も当然それは分かっていた。そこで、究極の奥の手を使ったのではないか。それこそ、龍馬に抜き討ちできる距離に接近できる唯一の策である。それは・・・。

 「永井玄蕃様の急ぎの用で参りました」 と言うことである。龍馬は前日も永井に会い、自身の新国家構想(これは徳川慶喜を新政府の首班とすること)を熱心に永井に説いている。このことは福井藩士、中根雪江の日記で明らかである。
 藤吉の取次ぎでこれを聞いた龍馬は、何事かと、むしろ進んでその使いの者を室内に招き入れたことであろう。大目付様のお使いともなれば自分よりも上位に遇さなければならない。刀も床の間に置き、正座してうやうやしく迎えた。その間隔もわずか2メートルほど、当然、中岡も刀は後方に置いたまま着座したと思われる。まんまと室内に入った今井信郎は斜めうしろに従者だと言ってもう一人を座わらせ、おもむろに用件を切り出す。
 

 二言、三言話したところで、龍馬にこれは怪しいと感ずかれた。それが省三書簡の 「阪本目早ク覚リ」 であり、その瞬間 「同座ノモノニ合図スルト同時ニ、兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ、返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ」 となる。すべてが終わるまでほんの数十秒ぐらいの間だったと思われる。斜めうしろに従者を置ける人物、それは大目付様の使いであれば当然のことである。先に、これがキーポイントと言った所以である。兄が用いた「策」とはこのことではなかったのか。龍馬は北辰一刀流の免許皆伝、中岡は禁門の変や第二次長州戦争に参加し、白刃の下をくぐり抜けてきた尊攘志士である。このような二人が相手に反撃もできず、いとも易々と斬殺された事実はやはりこれしか考えられない。とくに、中岡が後頭部に受けた一撃が致命傷になったことが現場に駈け付けた人たちによって証言されている。中岡はとっさに後方に置いた刀を取ろうとして賊に背を向けたのであろう。
 私のこの考えはこれまでなかった新説であるが、省三書簡が真実を伝えているとすれば、現場の状況との整合性にもっとも適う説だと思っている。

(7)近江屋事件のその後

 -その1-
 前述したように、この事件には土佐藩上層部が関与している。その中心人物は京都藩邸の責任者、福岡藤次であろう。中岡慎太郎個人に恨みがあっただけでなく、尊王倒幕集団の土佐陸援隊に対する嫌悪感もあったのであろう。(中岡に対する恨みは、吉田東洋暗殺事件探索のため上方に派遣されていた下横目・広田章次が伏見で殺害されたこと)。
 土佐藩は大政奉還の建白書は出したが、藩内は武力倒幕派と幕府擁護派に分かれ、藩内分裂したまま鳥羽・伏見の戦いへと突入してゆく。事実、土佐藩が薩長側につくと旗幟を鮮明にしたのは開戦正月3日の夜になってからであった。

 土佐藩上士でありながら、土佐勤王党に名を連ねていた宮川助五郎が15日に奉行所から土佐藩邸に渡されるので、陸援隊で預かってほしいと福岡藤次が中岡慎太郎に通知していたらしいことはすでに述べた。福岡は幕府が龍馬を狙っていることを何んらかの理由で知った。そこで、中岡を近江屋におびき出す策として宮川を利用したのであろう。そして、事件当日、そのもっともな適役として岡本健三郎を使ったと考えられる。福岡は17日の龍馬と中岡の葬儀にも参列していない。
 私にとって、近江屋事件の最大の謎は、なぜ龍馬が見廻組に襲われたのかではなく、その時、近江屋の2階に二人しかいないことを見廻組はどうして知りえたのか、この一点に尽きる。
 

 事件後の土佐藩の行動には首をかしげる。何の証拠もないのにいち早く新選組の犯行と断定し、世間にもそれを意図的に流布させている。当時の公家や在京諸藩の重役の記録や日記類にはほとんどすべて新選組の仕業らしいと書かれている。土佐藩の作戦は成功している。
 そして、土佐藩は永井尚志に新選組の取り調べを強硬に申し入れしている。永井は二条城に近藤勇を呼び、形ばかりの取り調べをしたが、近藤は当然否認した。この件はこれでうやむやとなった。
 
 事実、新選組犯行説を信じた陸援隊と海援隊の同志たちは、新選組屯所(その時は不動堂村にあった)に斬り込みを主張したが、田中光顕に止められている。そこで、彼らの怒りの矛先は、「いろは丸沈没事件」の交渉で紀州藩の代表を務めた三浦休太郎に向かい、(三浦が沈没事件の恨みから新選組を使って龍馬を襲わせたとの根拠のない噂を流したのも土佐藩であろう)、京都の三浦の宿舎を襲撃する。この動きを土佐藩から知らされていた三浦は新選組に警護を依頼していたので、両者は死者を出すほどの乱闘を繰り広げている。やはり、土佐勤王党以来の上士と下士(郷士)との確執が尾を引いていたのであろう。

 -その2- 

 明治の世になっても、土佐閥を代表する子爵・谷干城は生涯、近江屋事件は新選組の仕業だと言い続けた。谷はこの事件に土佐藩が関与していたことを当初から知っていたのであろう。 そのため終生、新選組説を主張せざるをえず、その秘密を墓場まで持って行って土佐藩の名誉を守ったと思われる。
 その後、龍馬暗殺の黒幕は誰かとの説が繰り返し出されてきた。黒幕など誰もいないし、政治的背景もない。龍馬は伏見寺田屋での同心射殺事件の懲罰を受けたにすぎない。奉行所同心は幕府の役人であり、所司代(桑名藩)も守護職(会津藩)も部外者にすぎない。まして、永井尚志の前職は京都町奉行であり、伏見奉行所もその管轄下にあった。
 もし、ある藩の武士が平和な江戸時代に奉行所同心を殺害したのなら、その藩の重役は、藩に迷惑がかからないように自分で始末をつけよと、その藩士に命ずるであろう。いかに幕藩体制の秩序が崩壊していた幕末とはいえ、奉行所同心殺しの下手人を幕府がそのままにしておくことは常識的に考えても有り得ない。実行犯、今井信郎も、後年、あれは公務(警察活動)であったと繰り返し述べている。これは真実であろう。
 

                                                                                                                    龍馬はたしかに武力倒幕に反対であった。その切り札として大政奉還に大きな期待をかけていたのは事実である。その前日にも、後藤象二郎に激励の手紙を送り、慶喜が拒否すれば海援隊を率いて慶喜を討ち取るとまで言っている。そこまで龍馬は精神的に高揚していたことがうかがえる。しかし、時代の現実は龍馬の思惑をはるかに超えていた。
 大政奉還の10月14日、まさにその日に薩摩、長州に倒幕の密勅が出ている。薩長にとっては、慶喜が将軍職を朝廷に返上しようがすまいが徳川政権を武力で打倒することは既定の方針であり、一遍のゆらぎもない。この密勅のことは龍馬には知らされていない。それは1ヵ月後の11月14日、暗殺の前日にも自身の新国家構想を熱っぽく永井尚志に語っていることからも分かる(中根雪江『丁卯日記』)。

 事実、大政奉還の2日後の10月16日、小松帯刀と広島藩の辻将曹は土佐藩の招きにより京の料亭で後藤象二郎や福岡藤次などと会食している。そこに龍馬もやって来て再会している(『神山左多衛雑記』)。だが、小松は倒幕の密勅については龍馬どころか土佐藩重役にも話していない。小松帯刀と龍馬は親しい友人同士ではあったが、これが現実であった。龍馬は完全に蚊帳の外だったのである。
 
 小松帯刀や西郷隆盛、桂小五郎も個人的には龍馬と親しかった、(小松と西郷は大坂の薩摩藩邸で、龍馬とお龍の結婚の立会人になっている)。しかしそれはそれ、現実の政治の世界は別次元のものであった。龍馬がいかに新国家構想を説こうとも、それはあくまで在野の人間のたわごととまでは言わないまでも、小松や西郷、大久保にとってはなんら拘束を受けるものではないし、それらはすでに幕藩体制を否定する多くの人士によって語り尽くされてきたものである。熊本藩士・横井小楠は龍馬の「船中八策」の下書きといえるものをすでに公表している。龍馬は小楠を3度訪問して話を聞いている。
 これを龍馬の天才的なひらめき、オリジナルな発想であり、明治維新のプログラムは坂本龍馬によって創られたとの設定で小説にしたのは他ならぬ司馬遼太郎である。「明治維新は龍馬なくしてはなかった」 これも司馬氏の言葉である。この言葉が一人歩きし、坂本龍馬は国民的ヒーローに祭り上げられた。泉下の龍馬も苦笑しているのではないか・・。

 <追記>
 ある作家が坂本龍馬について、西郷や大久保と比べれば三流の志士だと言っていた。しかし、この比較は根本的に間違っている。西郷や大久保は組織(藩)の人であるが、龍馬は在野(脱藩浪士)の人である。組織の人はその組織(藩)の実権を握れば巨大な権力を行使できる。高杉晋作がその良い例である。藩内クーデターにより実権を握った高杉は長州藩を武力倒幕に持ってゆくことが出来た。薩摩藩の場合は家老・小松帯刀が島津久光の信任を得ていたがゆえ、西郷、大久保も薩摩藩を動かすことが出来た。「小松帯刀なくして明治維新はなかった」 というのが歴史の真実であろう。小説『竜馬がゆく』では小松帯刀は脇役でしかない。 実際、薩長同盟締結の場所は京の小松屋敷であり、薩摩藩のトップは小松帯刀であったはずなのに、西郷と木戸二人が主役である。
 

 しかし、在野の人、坂本龍馬は数多い幕末の志士の中ではずば抜けた存在といえる。当代一流の人士と幅広く交流し、男女を問わず会った人からは好感を持たれ、その行動力は群を抜いている。その人間的魅力こそが坂本龍馬がいまだに日本人を惹きつける最大の理由であろう。 しかし、在野の人である以上、政治的には無力であった。龍馬が日本を分裂させかねない倒幕戦争をなんとか回避させようとした情熱は高く評価されるべきであるが、この龍馬の思いはその師である勝海舟が常々口にしていた言葉でもあった、「日本が内戦状態になると、そこに西洋列強の介入を招き、日本が植民地になってしまう」。それでも、内戦は避けられなかった。
 しかし、龍馬も人間であった。伏見寺田屋でのただ一度のミスが龍馬の命を奪った。明治の世に龍馬が生きておれば、権謀術策の政治の世界とは縁を切り、本人も言う世界の海援隊を率いて実業の道で大成したであろうに。かえす返す残念である。
 

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龍馬暗殺に残された謎 ・ 最終章 その1

2010年11月11日 | Weblog

「(明治維新のため)天は竜馬を下し、そして天に召した」、これは『竜馬がゆく』の作者、司馬遼太郎の言葉である。今でも、これを信じて疑わない人が多い。ごく最近も、龍馬暗殺の黒幕として京都守護職・松平容保説が出された(礒田道史『龍馬史』)。
 容保説じたい別に新説でもなんでもなく、これまで出されてきた多くの黒幕説のうちの一人にすぎない。松平容保は尾張徳川家の支藩、美濃・高須藩の生まれであり、終生、身命を賭して徳川幕府を守ろうとした人であり、最後に徳川慶喜に裏切られ、悲劇の主人公となったことは周知のとおり。
 

 はたして、その容保が坂本龍馬という名前を知っていたのかどうかも疑わしい。また、会津藩が龍馬を殺してなんの益があるのか。たしかに、龍馬は大政奉還を強く後藤象二郎に説き、この案が土佐藩から慶応3年10月3日に将軍・徳川慶喜に「大政奉還の建白書」として提出されたことは事実であるが、この将軍職を朝廷に返上する案は、早くから越前の松平春嶽とそのブレーンたちによって主張されており、龍馬のオリジナルではない。龍馬はあくまでも在野の人であり、幕末の政局をどうこう出来る立場の人ではなかった。この基本的な観点から再度、龍馬暗殺事件を検証してみる。

(1)今井信郎の刑部省口書がすべてを語っている。
 函館・五稜郭で降伏した今井信郎は東京に護送され、同じく降伏した永井尚志、榎本武揚、大鳥圭介などと同じ牢に入った。その時、近江屋事件についての供述調書が残されている。
 その主要な部分を抜書きすると

「先年伏見捕縛ノ節 短筒ヲ放シ 捕手ノ内伏見奉行組同心二人打倒シ其機乗シ逃走候処 当節河原町三条下ル町土州邸向ヒ町家ニ旅宿罷在候ニ付 此度ハ不取逃様捕縛可致。万一 手ニ余リ候得ハ討取候様 御差図有之ニ付 一同召連出張可致。・・・」

 これを読むと、見廻組は前年の伏見寺田屋における龍馬の奉行所同心二名殺害の容疑で捕縛に向かい、抵抗されたら討ち取ってもよいとの命令を受けていたとのことである。つまり、龍馬暗殺の真犯人は?とか、黒幕は誰かなどの説が出る余地など、元々まったく無いのである。
 ここで、問題となるのは、御差図(命令)をしたのは誰かということである。このことについては口書の最後のところに、旧幕府では閣老重職の命令を御差図と言うとあり、また見廻組は京都守護職付属なので、松平肥後守(容保)の差図かもしれぬが、自分は知らぬと供述している。幕閣か守護職か、この二つに絞られた。

(2)京都見廻組の真の差配役は
 もともと見廻組は井伊大老暗殺事件に衝撃をうけた幕府が、幕臣から選抜して編成されたもので、要人警護が本来の任務である。それほど世襲の旗本はあてにならなかったのである。
 文久3年(1863)将軍・家茂が上洛する。その前年、幕末京都の治安維持のため新たに設置されていた京都守護職(会津藩)の配下という形で、京都見廻組が編成されたが、時代は将軍、老中、大目付などが京都に出張ってくるという異常事態となり、見廻組も幕臣である以上、その支配下に置かれるのが当然であった。
 
 つまり、今井信郎の言う「京都守護職付属」というのはたてまえ上のことであり、実際、京都見廻組は二条城を本拠として、要人警護の任に当たった。このことを単的に証明している事実は、会津藩の公用日誌である『京都守護職始末』には見廻組についてほとんどその記述がなく、唯一、元治元年の(1864)蛤御門の変に際して、各藩配置部署に 「伏見長州屋敷に蒔田相模守(見廻組の形式上の差配役)が入る」 とあるだけである。この日誌には会津藩預かりである新選組のことはこと細かく書かれているのにである。つまり、幕府が事実上、京都に移ってきている現状では、見廻組は会津藩の支配下から離れていたと会津藩自身が認識していたことに他ならない。
 
 もし、龍馬暗殺を松平容保が命じていたのなら、当然その詳しい経緯の記載があってしかるべきである。当時、会津藩の公用日誌に目を通すことのできるのは藩主・容保と重臣たちだけだったのだから。このことから今井信郎の孫、今井幸彦氏はその著『坂本龍馬を斬った男』の中で、京都守護職の線は消えると述べている。さらに同氏は、祖父の供述 「だれの御差図かは知らない」 について、これは取り調べる側と祖父との談合上の文面だとしている。真の命令者を検察と被告の合意のうえ隠した。つまり、これ以上追求しないことにしたのだと。さすが新聞記者をしていただけあって卓見であると思う。ただ、その理由については事実誤認がある。それは何か・・。

(3)今井信郎はなぜ処刑されなかったのか
 後年、今井は函館・五稜郭で龍馬殺害を自供したとき、近藤勇のように即刻、斬首されると思っていたと述懐している。これを助けたのは官軍の参謀であった薩摩の黒田清隆であり、東京での判決も禁固刑という甘い処分であった(明治5年には出獄)。これにも西郷隆盛の意向が働いていたと巷間言われている。おそらく事実であろう。

 薩摩藩は早くから近江屋事件は幕閣の御差図であろうことは十分承知していたふしがある。京都留守居役・吉井幸輔(その孫が鹿児島の小松帯刀邸で龍馬とお龍を見ている)が近江屋事件の直前にもそのことで龍馬に土佐藩邸に移るように忠告している。
 では、なぜ薩摩藩は今井信郎の命を救ったのか。そこで、龍馬暗殺には薩摩藩が背後で動いていた。西郷・大久保黒幕説がどれだけ出されてきたか枚挙にいとまがない。これらはすべて荒唐無稽の妄想である。武力倒幕に反対する龍馬が邪魔だったから消した。何度も言うが、龍馬には幕末の政局を左右する力などあるわけがない。坂本龍馬は最初から最後まで在野の人だったである。(それと、西郷と小松帯刀は龍馬とお龍の結婚の立会人でもあった)。

 では、真の理由はどこにあるのか。
 この答えは単純明快、勝海舟と西郷隆盛の間で交わされた江戸無血開城の取り決めにある。 徳川慶喜の首を刎ねると息巻いていた西郷も、あっさりと勝の要求を受け入れ、慶喜は水戸謹慎、幕臣はだれも処罰されないという世界の革命政権史上でも類をみないほどゆるやかなものであった。今井信郎も幕臣(旗本)であり、北関東や函館・五稜郭で官軍に抗戦したことは罪に問われたが、京都での龍馬と中岡殺害の件と併せてたった5年の禁固刑で済んだ。(実際は、3年で放免されている)。
 

 この判決を下したときの刑部省のトップ(刑部大輔)は土佐藩上士の佐々木高行であったので、今井を処刑しないのはおかしい。これは佐々木の背後に西郷の影がある証拠であり、龍馬暗殺の黒幕はやはり薩摩だとの妄説がいまだに繰り返されている。西郷が佐々木に圧力をかけたとすれば、勝との約束を守らせたことであろう。西郷は律儀に約束を守る「情」の人である。それがゆえに、城山の露と消えた。
 同ブログの「赤報隊はなぜ偽官軍にされたか」を読んでいただければ分かるが、西郷は自分が許可した赤報隊に一度は京に戻れと指示しているのである。それを無視した相楽総三にすべての責任がある。

 では、近藤勇と幕臣・小栗忠順の場合はどうか。この二人は斬首されたではないかとの反論が出そうであるが、近藤勇は幕臣と見なされなかったということに尽きる、(自身は、旗本・大久保大和を名乗ってはいたが)。江戸時代という差別的身分社会が生んだ悲劇と言える。 新選組は幕府と会津藩にただ利用されたにすぎない。
 

 小栗忠順の場合は主戦派ではあったが、江戸開城のあと自身の領地、上州(群馬県)権田村に帰った。その後、北関東での脱走幕兵による争乱を裏で指揮しているのは小栗だとの噂が流れ、また、小栗は江戸城の御金蔵から大量の千両箱を運び出したなどの話がまことしやかに囁かれていた。この噂を本当に信じ込んだかどうかは分からないが、当時、高崎まで来ていた東山道官軍参謀・伊地知正冶(薩摩)は小栗親子を官軍に抗する逆賊と決め付け、なんの弁明も許さず、即刻、首を刎ねた。たしかに、小栗は幕府財政の立て直しのため、関東一円の養蚕業を幕府の専売にしようとした、(おそらく、フランス公使ロッシュの入れ知恵と思われる)。それ故、この地の農民層から恨みを買っていたのは事実であり、このような流言飛語が生まれる下地はあった。だが、西郷や板垣であればこんなことは起こりえなかったであろう。小栗忠順の領地が上州・権田村であったことと、官軍参謀が伊地知正冶であったことがこの悲劇を生んだと言える。今、権田村の地に「罪なくして斬らる」との小栗忠順の追悼碑が立っている。

(4)寺田屋遭難と薩長同盟
 慶応二年1月23日夜半、龍馬が寺田屋で伏見奉行所の捕り手に襲われたのは幕府が薩長同盟の動きを察知していたからだと言われている。龍馬はすでに幕府にとって要注意人物としてマークされていた。その証拠はあるというのが通説である。本当だろうか。遠く下関や長崎での薩摩と長州とのやりとりを幕府はどうやって知りえるのか、はなはだ疑問である。その証拠の資料を検討してみる。

 その1. 肥後藩京都留守居役・上田久兵衛の手記(『京攝日録』)
 慶応元年12月3日 上田は老中・小笠原長行と板倉勝静に大坂城に呼ばれ、会津藩の小野権之丞と共に面談する。そのときの記録 「坂下良馬潜匿の一条、薩人の謀略等、密々下問」(坂下良馬は龍馬のこと)、薩人の謀略とは薩長同盟のことだというのが定説である。
 はたしてそうだろうか。桂小五郎が薩長同盟締結のため京都に向かったのは慶応元年12月27日、同じく龍馬と三吉慎蔵が下関を出立したのは翌慶応二年1月10日、そして16日に兵庫に着き、18日に大坂へ入る。「潜匿の一条」がこの龍馬の行動をさすものではないことは一目瞭然である。上田久兵衛が大坂城で老中に会ったのは一月半も前のことである。
 
 この「潜匿の一条」とはなにか。それは長崎での亀山社中の活動と思われる。亀山社中は龍馬が薩摩藩を利用して作った日本最初の商社だと思い込んでいる人が多いが、実際は薩摩藩の家老・小松帯刀が作った偽装組織であり、資金のすべては同藩が出していた。小松帯刀は神戸海軍操練所が廃止され、行き場のなくなった龍馬たちを勝海舟に頼まれ、(勝が直接会って頼んだのは西郷だが、家老・小松の承認がなければ、藩から公金が出るわけがない)。
 小松帯刀はかれらを利用してこの偽装商社を作った。目的は薩摩海軍の育成と長州との同盟であり、そのため龍馬を高杉晋作のもとに送りその意志を伝えたのである。龍馬はこれに十分応え、その後は自分自身が積極的にこの同盟の締結に奔走するようになる。
 
 この亀山社中の活動は当然、長崎奉行から幕閣に報告されていたはずである。浪士集団が巨額の金を使って、武器商人グラバーから銃器を購入し、薩摩の船(桜島丸)を使っていったいどこへ運んでいるのか。長崎港の船の出入りの監視は長崎奉行所の管轄であり、その船が長州・下関に行っていることはすぐ分かることである。対岸の小倉藩は下関の監視の任務を幕府から命じられていたのであるから。この一連の動きを老中から聞いた上田久兵衛は 「坂下良馬潜匿の一条、薩人の謀略」 と日誌に記したのであろう。
 
 幕府による第二次長州征伐発動の理由は、三人の家老の首を差し出して恭順した長州藩が、その後、武備を整え公然と幕府に反抗する姿勢を示したことにある。亀山社中の背後に薩摩藩がいることも長崎奉行からの報告で幕閣は知っていたはずである。そしてそのリーダー、坂本龍馬の名前も。だからと言って、まさか薩摩と長州が同盟して幕府に戦争を仕掛けてくるとはその時点では夢にも思わなかったであろう。なぜなら、長州再征で長州藩は取り潰す予定であったのだから。この肥後藩の上田久兵衛を大坂城に呼んだ老中・小笠原長行こそ、第二次長州戦争で小倉口の幕府軍総督を務めた唐津藩主にほかならない。

 その2.幕臣・大久保一翁の発言
 薩長同盟締結のため龍馬と三吉慎蔵は慶応二年1月10日下関を立ち、16日兵庫着、18日には大坂に入る。その日の夜、幕臣・大久保一翁(忠寛)に会っている(『三吉慎蔵日記』)。
 その時の大久保の発言として 「坂本等のことは探索厳密にて、目下長州人同行にて入京の旨あい知れ、その沙汰あり、手配りいたしたるに付き、早々立ち退き候ほうしかるべし」と日記にある。この記事こそ幕府が薩長同盟を察知していた証拠だと言われてきた。はたしてそうだろうか。
 日記といっても、旅先ではメモ程度しか書かないものである。後に、そのメモを元に一冊の読み物に仕上げるのが普通である。この一文は相当粉飾がある。16日に兵庫について18日に大坂に入っている。その日の夜には幕臣・大久保一翁の元に龍馬一行の情報が届いていた。そんな馬鹿な話があるわけがない。龍馬の顔も知らない幕府の密偵は365日、兵庫の港で見張っていたのだろうか。それとも、下関からすでに密偵は龍馬と同じ船に乗って兵庫まで来たのだろうか。小説ならそれは有り得るが・・。

 大久保一翁は勝海舟と同じ考えを持つ開明派の幕臣であった。すでに隠居の身であったが、長州再征にあまり乗り気でなかった将軍・家茂により、主戦派の慶喜や幕閣を抑えるために召し出された。その説得のかいなく幕府は長州戦争に突入してしまう。大久保一翁は慶喜にとってはけむたい存在であった。後に明冶新政府に仕え、東京府知事にまで栄達している。
 おそらく、大久保は長州再征が避けられないことを龍馬に告げ、すでに幕府の洋式歩兵隊が大坂に駐屯しており、長州人は密偵(探索方)として捕縛、殺害されるおそれがあることを話し、すみやかに退去された方がよいとの忠告したものと思われる。
 
 その後、歴史が逆転し薩長の時代となった。新政府の役人となっていた三吉慎蔵は、尊敬する龍馬は常に幕府に命さえ狙われる大物であったことにしたかったのであろう。それで、日記に大久保一翁の言葉としてあのように書いたと思う。明治の元勲の伝記類には粉飾が多いことはよく知られていることである。
 
 それと最近、寺田屋で龍馬を襲った伏見奉行所が京都所司代に送った報告書の一部の写しなどが発見され、新資料などとマスコミ報道されているが、私はこれらはすべて後世のニセモノであり、史料的価値はないと思っている。全文の写しならまだしも、なぜ一部だけ抜き書きする必然性があるのか。それに、龍馬一行を追っていた幕府の密偵の報告書の写しなるものまであるが、これらもすべてニセモノである。それには「神戸村の塾跡に居住せし誰々・・」とあり、「塾跡」とは神戸海軍操練所の跡地のことと思われるが、神戸海軍操練所は幕府の公的機関であり、個人や民間の塾ではない。完全にボロが出ている。今日でも忠臣蔵の偽グッズが出てくるように、国民的ヒーローとなると様々なニセモノが出回るものである。
 
 三吉慎蔵の日記のもう一つの矛盾点は、伏見へ向かう大坂天満の八軒茶屋の船着場で、長州浪士取締りのため出張ってきていた新選組に、薩人だと言ってすり抜けたと書いていることである。通説では龍馬一行は16日兵庫上陸後、幕府の密偵に追尾され、18日に大坂へ入ったその日の夜には将軍・家茂の側近、大久保一翁にまでその情報は達していたのに、なんと長州浪士取締りの最前線に立つ新選組には伝わっていなかったことになる。電話もFAXもない時代に、米CIA顔負けの諜報能力を持っていた幕府が、最後にポカをやらかしたと言ってしまえばそれまでだが・・。
 
 三吉慎蔵は龍馬のボディガードだったとされているが、実際は、高杉晋作の命で上方の幕府軍の動向を探るのが真の目的だったと思われる。そのような人物と同行した龍馬は大胆だったのか、はたまた軽率だったのかなんとも言いようがない。
 そうして、薩長同盟に立ち会った2日後の1月23日夜半、運命の日を迎える。だれかが長州浪土らしき者が寺田屋にいると奉行所に密告したのであろう。長州浪士取締りの高札は京・大坂に出ていた。そのため、新選組が大坂まで出張って来ていたのである。
 もし密偵によって龍馬の行動が逐一監視されていたのなら、寺田屋に着いた当日でも伏見奉行所は踏み込めたはずである。このとき被弾して死亡した二名の同心の報復が翌年の近江屋事件へと繋がってゆく。これまで龍馬の寺田屋遭難は薩長同盟と結び付けて考えられてきたが、幕府の長州再征の動きと関連させて理解するのがより常識的である。

(5)佐々木只三郎に御差図したのはだれか
 今井信郎は見廻組組頭・佐々木只三郎の御差図で近江屋に向かったと供述している。では、佐々木に御差図した人物とは誰か・・。
 ここで、佐々木只三郎の実兄で会津藩公用方・手代木直右衛門の証言が注目される。(佐々木只三郎はもと会津藩士で旗本、佐々木家に養子に入った)。それによると、直右衛門が明治36年死去する直前に、近江屋で坂本龍馬を殺害したのは実弟の佐々木只三郎であると語ったとのこと、それを命じたのは某諸侯であると肝心の命令者は明かさなかったという。この某諸侯こそ、自身の主君・松平容保のことではないかとされている。かっての主君・容保をかばったのだと。この証言の根拠には二つのルートが考えられる。
 
 (1)主君・容保が手代木直右衛門に差図し、手代木が直接見廻組に命じた。
 (2)京都守護職は近江屋事件と何の関係もなく、手代木が個人的に実弟から聞いた。 
 
 ここで、京都見廻組の実際の差配役は二条城の幕閣であったことは先に述べた。(1)の線は消える。おそらく、戦雲が迫ってきた慶応三年末、見廻組が二条城を退去する前に、今生の別れとして手代木は実弟・佐々木只三郎と京の料亭で一杯くみ交わした。そこで、龍馬と中岡殺害のことを弟から打ち明けられた。 当然、御差図した人物の名も明かされたと思う。しかし、手代木直右衛門も最後までその名を口にすることはなかった。武士の一分を守ったのであろう。事実、佐々木只三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死し、兄弟は今生の別れとなった。
 見廻組は鳥羽・伏見の戦いでは、大坂城に集結していた幕臣の遊撃隊に加わり、最後まで幕臣としてその使命をまっとうした。一方、新選組は伏見の奉行所を本陣としていた会津藩と行動を共にしている。このことからも、京都見廻組が会津藩の支配下にはなかったことを証明している。(2)のルートしか考えられない。守護職御差図説はやはり消える。

 もう一つ怪しげな文書がある。これは明治39年に世に出たものであるが、近江屋事件の前日、幕府側の不穏な動きを察知した寺田屋のお登勢が、龍馬に藩邸に移るように手紙で知らせた。その返事として、龍馬が幕閣永井玄蕃(尚志)と守護職松平肥後守(容保)に面会し、今では何も心配することなく安心するようにとお登勢に伝えたというものである。この文書を出してきたのはお登勢の娘婿の男であるが、肝心の龍馬の手紙そのものはない。
 これとて、先の幕府密偵の報告書同様、論評にも値しない偽文書である。船宿の一女将がどうしてそのような情報を手に入れたのか。明治も後半になってくると坂本龍馬は有名人となり、様々なニセモノが世に出回るようになる。最近の伏見奉行所の京都所司代への報告書の写しなどもそうであろう。明治から大正にかけては、まだまだ江戸の文化が残っており、このような文書を書くことの出来る人はどの町にもいたのである。

 やはり、佐々木只三郎に御差図したのは大目付・永井尚志しか考えられない。龍馬は事件の4日前の11月11日に二条城に永井を訪ねている。事件の前日、14日にも再度永井の元に行っている。このことは、翌15日、事件当日、永井の元を訪ねた越前藩士・中根雪江の日記(『丁卯日記』)に詳しい。龍馬が武力倒幕に反対である持論を永井に披露したことが書かれている。要約すると、兵力を用いるのは朝廷にあい済まないとか、兵力によらず事を成すのが道理にかなっているなど、これに対し永井は至極ごもっともと同意したことなど・・・。最後に中根は 「龍馬ノ秘策ハ、持論ハ、内府公関白職ノ事カ」 と結んでいる。 つまり、内府(徳川慶喜)を新政府の首班とする諸侯連合政権(所謂、列候会議、議長は慶喜)構想であったようである。

 しかし、龍馬は永井尚志を誤解している。永井を勝海舟や大久保一翁と同じ考えの持ち主と思っていたようだが、永井は頑迷な幕権論者であり、性格的にも陰険である。第一次長州征伐のとき、幕府軍総督・尾張藩主徳川慶勝が、三家老の首でもって終結とし、藩主親子は寛大な処分としていたのに、あとからやってきた永井が藩主親子を広島に呼び出し、首を刎ねてしまえと主張し慶勝を怒らせた。このため、第二次長州戦争には尾張徳川家は出兵を拒否した。しかし、永井は幕府軍を率いて最後の函館まで新政府軍に抗戦しており、幕臣としては立派であった。

 龍馬は11月11日付の広島藩士・林謙三あての手紙で、永井尚志を 「ヒタ同心」(同じ考えの人) と書いているほどである。龍馬のご高説を、「ごもっともごもっとも」と頷いて聞きながら、その裏で見廻組に龍馬殺害を命じていた。その理由は前年の寺田屋での同心殺害に対する報復であった。永井は大目付になる前は京都町奉行の職にあった。このことが強く影響していたであろうことは想像にかたくない。奉行所同心はかって自分の直属の部下でもあったのであるから・・。
 永井にとっては龍馬は所詮、在野の人間であり、薩長との戦争は避けられないと思っていたであろう。龍馬の説く新国家構想など絵に描いた餅ていどにしか思っていなかったはずである。そこに理想家、坂本龍馬の人間的弱点があるように思う。 (その2に続く)

 

 

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