(6)慶応三年11月15日 近江屋事件の真実とは
-その1-
近江屋事件に関しては現場に駆けつけた多くの人たちによって様々なことが語られている。それらは基本的に信用できない。瀕死の重傷を負った中岡慎太郎がどれほど明瞭な意識があったのかどうかさえ定かでない。実行犯、今井信郎の証言とてしかり、今井は生涯、外部の人に対しては本当のことを話していない。その理由は、明治3年の刑部省口書(検事調書)で検察側と同意の上、御差図した人物はけっして口外しないという約束を守ったからであると思われる。
しかし、時が流れ、近江屋事件も遠い昔物語となったとき、生涯一度真実に近いことを身内に語っている。そのことが『坂本龍馬を斬った男』(今井幸彦著)に紹介されている。それは今井信郎の実弟、今井省三が大正10年頃、真下菊五郎という人に宛てた書簡である。その重要部分を抜き書きすると
「或日、永井玄蕃ヨリ密会ヲ求メラレ土佐浪人阪本龍馬ヲ討取ルベキ内命ヲ拝セリ、早々同志三、四名ト手筈ヲ協議シ、兄ノ策ヲ用ヒ、兄ハ阪本ノ旅宿ニ至リ面会ヲ求メ、座敷ニテ問答中、阪本目早ク覚リ、同座ノモノニ合図スルト同時ニ、兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ、返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ、旅館ヲ出デ・・・又老生省三ハ姉上ノ所持セシ永井氏ヨリ金五十両慰労ノタメ送リシ書附ヲ見タルコトアリ・・」
この手紙で今井省三は龍馬殺害を命じたのは大目付・永井尚志であることを明確に述べている。そして、永井からもらった慰労金50両の書き付けを姉(信郎の妻イワ)が持っているのを見たと言っているのである。
この手紙は非常に重要な証言である。50両の慰労金の真偽はともかく、実行犯でなければ知りえない秘密を吐露している。それは何か・・・。
今井信郎は明治3年の口書で、自分は階下で見張りをしていたと供述している。2階に上がった3人は、いずれも鳥羽・伏見の戦いで戦死している。ところが、後年、新聞や雑誌の取材を受けた折、その供述を翻し、自分一人で斬ったと言っている。
その内容の大筋は、近江屋の1階で下僕藤吉に信州松代藩の者だと言って取次ぎを頼み、藤吉が階段を上がるあとを追って背後から一刀のもとに斬り倒し、そのまま奥の八畳の間に踏み込んで、まず龍馬の頭を横に払い、返す刀で中岡を斬り倒した。そのあとを2番手、3番手が部屋に飛び込んできた。
しかし、この供述は根本的におかしい。物音ひとつしない静まりかえった夜8時ごろ、2階で人を斬れば当然悲鳴が上がるだろうし、相撲取りであった藤吉が倒れればかなりの大きな音がするであろう。ここで龍馬が 「ほたえな」 という有名な声を発するのであるが、一体、だれがこの龍馬の声を聞いたのだろうか。中岡慎太郎しかいない。本当に中岡は瀕死の重傷の中で冷静に現場の状況を説明できたのであろうか。 はなはだ疑問である。「不覚をとった」「無念だ」ぐらいのことは言ったかも知れないが、中岡から聞いたという人の証言は、すべて後世の創作ではないのか。
龍馬が短銃を所持している可能性は見廻組も十分承知していたはずなのに、なぜ、相手に悟られるような行動をとったのか。短銃はなくても、異変に気付いた龍馬と中岡が刀を引き寄せて身構えていたら今井信郎はどうするのか。狭い八畳の間で大乱闘を演じるつもりだったのだろうか。今井は嘘を言っている。
この幕末には桜田門外の変をはじめ、数多くの暗殺事件が発生している。そのどれを取ってみても、不意討ちもしくは闇討ちである。相手を倒して自分は傷つきたくない。これが武士の真実の姿である。では、今井信郎が実弟に語った真実とは・・。
-その2-
今井省三の書簡の中に 「座敷ニテ問答中」 との一文がある。これこそ、今井信郎が長い人生の中で唯一語った真実だと思う。実の弟だからこそ本当のことを話しておきたかったのであろう。(孫の幸彦氏は有り得ないと否定しているが・・)
今年、民放のあるテレビ局が元鑑識課員や剣道の師範を招いて、近江屋事件の現場検証の番組をやった。それによると、現場にあった掛け軸の血痕の位置から、龍馬は座位のままいきなり額を横に払われ、ふり向いて横の床の間の刀を取ったが、抜くひまもなく賊から上段に斬りこまれ、鞘のままそれを受けた。その時、鞘に大きな裂け目ができ、その鞘が天井に穴を開けた。そして背をむけて逃げようとして今度は背後から一撃を受け動けなくなったのであろうとのことだった。
つまり、賊も龍馬と同じく座って対面していたというのがその結論であった。いきなり部屋におどり込んで上段から斬り付ければこのような血痕の飛沫はできないとのこと。この検証が正しいとすれば、省三書簡の 「兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ」 とはまさにその状況を正直に言ったことになる。
その番組では、賊が連続で龍馬に三太刀あびせたと言っていたが、私の考えでは、連続では龍馬は床の間の刀を取って立ち上がる時間的余裕がないはずであり、一刀目は龍馬、返す刀でニ刀目は隣の中岡、その間に龍馬は刀を手に取り立ち上がったが、すでに賊の三刀目が振り下ろされてきており、やむなく鞘のままそれを受けざるをえなかった。これだと省三書簡の 「返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ」 にぴったり合う。現場検証から見えてくることは、今井信郎が実弟に真実を語ったという事実である。
今井信郎の斜めうしろに控えていたもう一人の賊は、今井の一刀目を合図に中岡に斬りかかったと思われる。その時、異変に気付いて奥の八畳の間に入ろうとした下僕藤吉は2階の階段前で待機していたもう一人の賊に背中から斬られた。これが事件の現場の真相ではないか。もう一人の賊は今井の斜めうしろに居ないと、自分自身が今井の抜き討ちに斬られかねないからである。(斜めうしろの位置はこの事件のキーポイントでもある)
あと一つ、省三書簡の重要な記事は 「兄ノ策ヲ用ヒ・・・面会ヲ求メ座敷ニテ問答中」 である。夜、初対面の相手、それが松代藩士であれ、十津川郷士二名であれ(これは谷干城が瀕死の中岡から聞いたと言っている)、座敷に招き入れ、それも抜き討ちのできる距離 (それは約2メートルぐらい、それより近すぎても遠すぎても不可能)にまで接近させることはまず常識的に考えても有り得ない。来客はふすまを開けて敷居の所でまず挨拶するのが常識であり、龍馬も部屋の中央で来客と一定の距離を置いて用件を聞くのが普通の作法であろう。
この位置関係では抜き討ちは出来ない。今井信郎も当然それは分かっていた。そこで、究極の奥の手を使ったのではないか。それこそ、龍馬に抜き討ちできる距離に接近できる唯一の策である。それは・・・。
「永井玄蕃様の急ぎの用で参りました」 と言うことである。龍馬は前日も永井に会い、自身の新国家構想(これは徳川慶喜を新政府の首班とすること)を熱心に永井に説いている。このことは福井藩士、中根雪江の日記で明らかである。
藤吉の取次ぎでこれを聞いた龍馬は、何事かと、むしろ進んでその使いの者を室内に招き入れたことであろう。大目付様のお使いともなれば自分よりも上位に遇さなければならない。刀も床の間に置き、正座してうやうやしく迎えた。その間隔もわずか2メートルほど、当然、中岡も刀は後方に置いたまま着座したと思われる。まんまと室内に入った今井信郎は斜めうしろに従者だと言ってもう一人を座わらせ、おもむろに用件を切り出す。
二言、三言話したところで、龍馬にこれは怪しいと感ずかれた。それが省三書簡の 「阪本目早ク覚リ」 であり、その瞬間 「同座ノモノニ合図スルト同時ニ、兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ、返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ」 となる。すべてが終わるまでほんの数十秒ぐらいの間だったと思われる。斜めうしろに従者を置ける人物、それは大目付様の使いであれば当然のことである。先に、これがキーポイントと言った所以である。兄が用いた「策」とはこのことではなかったのか。龍馬は北辰一刀流の免許皆伝、中岡は禁門の変や第二次長州戦争に参加し、白刃の下をくぐり抜けてきた尊攘志士である。このような二人が相手に反撃もできず、いとも易々と斬殺された事実はやはりこれしか考えられない。とくに、中岡が後頭部に受けた一撃が致命傷になったことが現場に駈け付けた人たちによって証言されている。中岡はとっさに後方に置いた刀を取ろうとして賊に背を向けたのであろう。
私のこの考えはこれまでなかった新説であるが、省三書簡が真実を伝えているとすれば、現場の状況との整合性にもっとも適う説だと思っている。
(7)近江屋事件のその後
-その1-
前述したように、この事件には土佐藩上層部が関与している。その中心人物は京都藩邸の責任者、福岡藤次であろう。中岡慎太郎個人に恨みがあっただけでなく、尊王倒幕集団の土佐陸援隊に対する嫌悪感もあったのであろう。(中岡に対する恨みは、吉田東洋暗殺事件探索のため上方に派遣されていた下横目・広田章次が伏見で殺害されたこと)。
土佐藩は大政奉還の建白書は出したが、藩内は武力倒幕派と幕府擁護派に分かれ、藩内分裂したまま鳥羽・伏見の戦いへと突入してゆく。事実、土佐藩が薩長側につくと旗幟を鮮明にしたのは開戦正月3日の夜になってからであった。
土佐藩上士でありながら、土佐勤王党に名を連ねていた宮川助五郎が15日に奉行所から土佐藩邸に渡されるので、陸援隊で預かってほしいと福岡藤次が中岡慎太郎に通知していたらしいことはすでに述べた。福岡は幕府が龍馬を狙っていることを何んらかの理由で知った。そこで、中岡を近江屋におびき出す策として宮川を利用したのであろう。そして、事件当日、そのもっともな適役として岡本健三郎を使ったと考えられる。福岡は17日の龍馬と中岡の葬儀にも参列していない。
私にとって、近江屋事件の最大の謎は、なぜ龍馬が見廻組に襲われたのかではなく、その時、近江屋の2階に二人しかいないことを見廻組はどうして知りえたのか、この一点に尽きる。
事件後の土佐藩の行動には首をかしげる。何の証拠もないのにいち早く新選組の犯行と断定し、世間にもそれを意図的に流布させている。当時の公家や在京諸藩の重役の記録や日記類にはほとんどすべて新選組の仕業らしいと書かれている。土佐藩の作戦は成功している。
そして、土佐藩は永井尚志に新選組の取り調べを強硬に申し入れしている。永井は二条城に近藤勇を呼び、形ばかりの取り調べをしたが、近藤は当然否認した。この件はこれでうやむやとなった。
事実、新選組犯行説を信じた陸援隊と海援隊の同志たちは、新選組屯所(その時は不動堂村にあった)に斬り込みを主張したが、田中光顕に止められている。そこで、彼らの怒りの矛先は、「いろは丸沈没事件」の交渉で紀州藩の代表を務めた三浦休太郎に向かい、(三浦が沈没事件の恨みから新選組を使って龍馬を襲わせたとの根拠のない噂を流したのも土佐藩であろう)、京都の三浦の宿舎を襲撃する。この動きを土佐藩から知らされていた三浦は新選組に警護を依頼していたので、両者は死者を出すほどの乱闘を繰り広げている。やはり、土佐勤王党以来の上士と下士(郷士)との確執が尾を引いていたのであろう。
-その2-
明治の世になっても、土佐閥を代表する子爵・谷干城は生涯、近江屋事件は新選組の仕業だと言い続けた。谷はこの事件に土佐藩が関与していたことを当初から知っていたのであろう。 そのため終生、新選組説を主張せざるをえず、その秘密を墓場まで持って行き、土佐藩の名誉を守ったと思われる。
その後、龍馬暗殺の黒幕は誰かとの説が繰り返し出されてきた。黒幕など誰もいないし、政治的背景もない。龍馬は伏見寺田屋での同心射殺事件の懲罰を受けたにすぎない。奉行所同心は幕府の役人であり、所司代(桑名藩)も守護職(会津藩)も部外者にすぎない。まして、永井尚志の前職は京都町奉行であり、伏見奉行所もその管轄下にあった。
もし、ある藩の武士が平和な江戸時代に奉行所同心を殺害したのなら、その藩の重役は、藩に迷惑がかからないように自分で始末をつけよと、その藩士に命ずるであろう。いかに幕藩体制の秩序が崩壊していた幕末とはいえ、奉行所同心殺しの下手人を幕府がそのままにしておくことは常識的に考えても有り得ない。実行犯、今井信郎も、後年、あれは公務(警察活動)であったと繰り返し述べている。これが真実であろう。
龍馬はたしかに武力倒幕に反対であった。その切り札として大政奉還に大きな期待をかけていたのは事実である。その前日にも、後藤象二郎に激励の手紙を送り、慶喜が拒否すれば海援隊を率いて慶喜を討ち取るとまで言っている。そこまで龍馬は精神的に高揚していたことがうかがえる。しかし、時代の現実は龍馬の思惑をはるかに超えていた。
大政奉還の10月14日、まさにその日に薩摩、長州に倒幕の密勅が出ている。薩長にとっては、慶喜が将軍職を朝廷に返上しようがすまいが徳川政権を武力で打倒することは既定の方針であり、一遍のゆらぎもない。この密勅のことは龍馬には知らされていない。それは1ヵ月後の11月14日、暗殺の前日にも自身の新国家構想を熱っぽく永井尚志に語っていることからも分かる(中根雪江『丁卯日記』)。
事実、大政奉還の2日後の10月16日、小松帯刀と広島藩の辻将曹は土佐藩の招きにより京の料亭で後藤象二郎や福岡藤次などと会食している。そこに龍馬もやって来て再会している(『神山左多衛雑記』)。だが、小松は倒幕の密勅については龍馬どころか土佐藩重役にも話していない。小松帯刀と龍馬は親しい友人同士ではあったが、これが現実であった。龍馬は完全に蚊帳の外だったのである。
小松帯刀や西郷隆盛、桂小五郎も個人的には龍馬と親しかった、(小松と西郷は大坂の薩摩藩邸で、龍馬とお龍の結婚の立会人になっている)。しかしそれはそれ、現実の政治の世界は別次元のものであった。龍馬がいかに新国家構想を説こうとも、それはあくまで在野の人間のたわごととまでは言わないまでも、小松や西郷、大久保にとってはなんら拘束を受けるものではないし、それらはすでに幕藩体制を否定する多くの人士によって語り尽くされてきたものである。熊本藩士・横井小楠は龍馬の「船中八策」の下書きといえるものをすでに公表している。龍馬は小楠を3度訪問して話を聞いている。
これを龍馬の天才的なひらめき、オリジナルな発想であり、明治維新のプログラムは坂本龍馬によって創られたとの設定で小説にしたのは他ならぬ司馬遼太郎である。「明治維新は龍馬なくしてはなかった」 これも司馬氏の言葉である。この言葉が一人歩きし、坂本龍馬は国民的ヒーローに祭り上げられた。泉下の龍馬も苦笑しているのではないか・・。
<追記>
ある作家が坂本龍馬について、西郷や大久保と比べれば三流の志士だと言っていた。しかし、この比較は根本的に間違っている。西郷や大久保は組織(藩)の人であるが、龍馬は在野(脱藩浪士)の人である。組織の人はその組織(藩)の実権を握れば巨大な権力を行使できる。高杉晋作がその良い例である。藩内クーデターにより実権を握った高杉は長州藩を武力倒幕に持ってゆくことが出来た。薩摩藩の場合は家老・小松帯刀が島津久光の信任を得ていたがゆえ、西郷、大久保も薩摩藩を動かすことが出来た。「小松帯刀なくして明治維新はなかった」 というのが歴史の真実であろう。小説『竜馬がゆく』では小松帯刀は脇役でしかない。 実際、薩長同盟締結の場所は京の小松屋敷であり、薩摩藩のトップは小松帯刀であったはずなのに、西郷と木戸二人が主役である。
しかし、在野の人、坂本龍馬は数多い幕末の志士の中ではずば抜けた存在といえる。当代一流の人士と幅広く交流し、男女を問わず会った人からは好感を持たれ、その行動力は群を抜いている。その人間的魅力こそが坂本龍馬がいまだに日本人を惹きつける最大の理由であろう。 しかし、在野の人である以上、政治的には無力であった。龍馬が日本を分裂させかねない倒幕戦争をなんとか回避させようとした情熱は高く評価されるべきであるが、この龍馬の思いはその師である勝海舟が常々口にしていた言葉でもあった、「日本が内戦状態になると、そこに西洋列強の介入を招き、日本が植民地になってしまう」。それでも、内戦は避けられなかった。
しかし、龍馬も人間であった。伏見寺田屋でのただ一度のミスが龍馬の命を奪った。明治の世に龍馬が生きておれば、権謀術策の政治の世界とは縁を切り、本人も言う世界の海援隊を率いて実業の道で大成したであろうに。かえす返す残念である。