小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

本能寺の変 ーその真因はー

2014年11月18日 | Weblog

 最近、本能寺の変の原因として四国、長宗我部氏との関係が取り沙汰されている。しかし、この説自体目新しいものではない。すでに何人もの人によって主張されてきたものである。その内容は、四国をほぼ制圧した長宗我部元親に対して信長が土佐本国に撤収を命じ、占領した土地は信長が仕置きして国分けするとの命令に元親が応じず、抵抗の姿勢を示したため、織田信孝を総大将に四国征討軍を準備し、渡海直前に本能寺の変が起きたことから出てきた説である。

 この時、土佐・長宗我部氏との外交を担当してきたのが明智光秀であった。さらに光秀の参謀であった家老、斎藤利三は長宗我部氏とは姻戚関係にあったこともこの四国説を裏付ける要因ともなっている。(事実、利三の娘、お福、後の春日局は変のあと土佐に逃れている)。これまで、元親が信長に屈服して命に従う、つまり恭順すると光秀を通じて伝えたのを信長は了承していたのに、その約束を反故にして四国征討を信孝に命じ、その軍が大坂に集結していた。これを見た光秀は自分の面子が潰されたと信長を恨み、家老の利三の後押しもあって本能寺に信長を襲ったというものである。ごく最近、この説の証拠として恭順の意を伝えた斎藤利三宛ての長宗我部元親の書状が発見されたことから、あたかもこれが本能寺の変の証明のごとく喧伝されている。(石谷家文書ー岡山市・林原美術館蔵)

 ー戦国武将をあまりにも単純化しているー

 この四国説を主張する藤田達生氏の講演が徳島市であった。そのときもらった資料を見るかぎり、藤田氏は戦国武将に限らず、人間そのものをあまりにも単純化して見ている感を否めない。明智光秀は美濃守護・土岐氏の庶流で、斎藤道三に国を追われ流浪していた。同じく三好一党から逃れて越前・一乗谷に逗留していた足利義昭を伴って、当時岐阜城にいた織田信長に引き会わせ、これが縁で信長に仕えるようになり、近江・坂本城主まで出世したことは周知のとおり。信長にその力量を認められ、これほど信頼されていたからこその出世であった。

 このような光秀がなにゆえ恩のある信長を討ったのか。この点が最大の謎である。光秀は信長の命令を忠実に実行している。それは戦国武将にとっては当然のことであり、叡山焼き討ちのときもそうである。光秀が個人的に神仏を尊崇していたか否かなど、そんなことを詮索しても何の意味もない。土佐の長宗我部氏が滅ぼされようと、光秀にとって何の関係もないはずである。たとえ、腹心の部下の親類筋であったとしても。この程度の理由で主君を討つとは考えがたい。当然、他の家臣たちの反撃により自分が破滅することぐらい分かりきったことである。四国説は変の理由としてはあまりにも薄弱である。本能寺の変には他に理由がある。

 ー真の理由とはー

 明智光秀は源氏の名門・土岐氏の流れをくむ教養ある武士である(連歌をたしなむことからも分かる)。武士である以上、主君の命には従うが、名門武士としての誇り、伝統的な格式や流儀には人一倍こだわりを持っていたと思われる。だからこそ信長は上洛してすぐ光秀を京都奉行に任命し、朝廷との交渉役に抜擢した。まさに適役であった。同時に奉行に任命されている秀吉はその出身や経歴からして京の町衆との交渉役であったであろう。

 しかし、その後、信長の家臣として仕える過程で、信長の異常とも思える行動を目撃することになる。近江の浅井氏を滅ぼしたとき、正月の宴会で浅井父子の頭蓋骨で作った酒杯で酒を飲むことを強要されたときは、信長に対し強烈な嫌悪感を抱いたであろう。これは信長のオリジナルではなく、中国の故事にあることであり、ユーラシア大陸などではごく普通に行われていた勝者の行為であったようである。しかし、日本人のメンタリティーでは考えられないことである。また、甲斐の武田勝頼を滅ぼしたときも、その首実検の場で勝頼の首を足蹴にしたとの記述が熊本・細川家の文書に残されている。この時、光秀は細川忠興と共に信長陣中にいたので、目の前でこれを目撃したと思われる。武士の礼儀作法に反するこの信長の行為に光秀はさらなる嫌悪感を増幅させたことであろう。

 また、信長は約束を簡単に反故にすることも多かった。永禄12年(1569)、伊勢に侵攻し、伊勢国司家・北畠氏を降伏させ、次男信雄が養子に入って北畠家を継いだあと、7年後に何を思ったのか、隠居していた北畠具教以下、一族郎党を殺害して北畠氏を滅ぼしている。また、丹波の波多野秀治、秀尚兄弟も、その本拠八上城を攻囲していた光秀の説得に応じて、助命を条件に降伏したのに、その後、安土に二人を呼び出し殺害している。光秀の面目丸つぶれである。この他にも助命を条件に降伏開城した伊勢長島の一向一揆をだまし討ちして皆殺しにしている。このような例は枚挙にいとまがない。一度、信長に疑念を持たれた伊丹・有岡城主、荒木村重が黒田官兵衛の説得にも応じず、安土に行かなかったのもうなずける。その後、村重の妻子に対する仕打ちは尋常ではない。光秀の信長に対する嫌悪感は頂点に達していたであろう。このように織田信長は普通の日本人とは異質のなにか大陸的な気質を持っていたことは疑いない事実である。

 そうして、最終的に嫌悪感が憎しみに変わる事件が発生する。フロイスの『日本史』が記すところによると、伝聞ではあるが、光秀は信長から足蹴にされたというのである。このことを書いた他の資料も存在することから、おそらく事実であろう。人一倍誇り高い明智光秀にとって耐え難い屈辱であったろう。このとき信長に対する殺意が芽生えたのではないか。しかし、信長自身はなんとも思っていない。ごく普通の出来事にすぎない。こういう性格の人は現代にも少なからずいる。特にスポーツ界に多い。

 最後に朝廷との関係についてはすでに多くの人による綿密な考証があるのでここでは触れない。ただ言えることは、朝廷(その代表は皇太子・誠仁親王と近衛前久)は織田信長に対して、過去の源頼朝や足利尊氏とは違う異質な性格を見抜いていたのは事実である。当然、光秀には信長についての不安感を訴えていたであろう。信長は自分たち(朝廷)を本当に守ってくれるのだろうか。最悪の場合、自分たちは京から追放され、古代以来の天皇制も終焉を迎えるのではないかと・・。しかし、朝廷の人はずる賢い、絶対に信長を討てなどとは言わない。どちらに転んでも生き残ろうとする。変のあと光秀を持ち上げるような態度を取っていたが、山崎合戦で光秀が敗死すると、今度は手のひらを返したように秀吉にすり寄っている。これが朝廷の真の姿である。

 本能寺の変の真の原因は信長に仕えて以来、深く沈殿していた主君、信長に対する嫌悪感と憎しみが、たまたま偶然生まれた信長の一瞬の油断の間隙により、突発的に光秀をして信長襲撃という行動に駆り立てたのではないか。光秀はその後のことはそれほど深く考えてはいなかったと思う。変の直後、細川幽斎宛ての書状で「不慮の儀」(思いがけない事態)と書いていることからも分かる。織田信長をこの地上から抹殺したい。ただただその一念で、一種の夢遊状態のまま本能寺に突き進んで行ったというのがことの真相ではないのか。

<追記>

 古今東西、歴史上多くの政治的暗殺事件やそれに類する謀殺事件が起きている。これら事件には必ずなんらかの理由、原因がある。有名な古代ローマ帝国のシーザー(カエサル)暗殺、日本の大化の改新など数知れない。本能寺の変はこれまでこのような政治的側面が強調されてきた。そこで、光秀の背後にいる黒幕はだれかという類の論証が巷にあふれている。そのすべてが出尽くした感がある。私はこれら黒幕説、陰謀説をすべて否定し、また光秀野望説も有り得ないと思っている。信長ひとりを倒しても、まだまだ周辺に敵は山ほどいる。なにも織田家中だけでなく、徳川、上杉、北条、毛利、島津など強敵だらけである。主君殺しに同心(味方)する戦国武将などだれ一人いるわけがない。よしんば朝廷の支持を得たとしても、勝てば官軍、敗ければすぐ見捨てられるのが日本史の常である。天下人への道のりは絶望的に遠い。やはり、これまでも言い古されてきた「怨恨説」がもっとも妥当で自然ではないかと思う。

 平和な現代でも毎日どこかで殺人事件が発生している。その理由の大半はお金が絡んでいるが、次に多いのはやはり怨恨である。あとを絶たないストーカー殺人も怨恨の一種である。 戦国時代とて人間の本性は変わりない。主君を殺すというような行為には、やはり大きな恨みがあったとするのがごく自然である。忠臣蔵、殿中松の廊下も、浅野内匠頭は「遺恨あり」と言って吉良上野介に切りつけている。一方、吉良は取り調べで「まったく身に覚えがござらぬ」と答えている。この両者の言い分は共に正しいのである。信長は光秀が自分をそれほど恨んでいるとは夢にも思わなかった。浪々の身を家臣に取り立ててやり、その力量を評価して織田軍の軍団長にまで抜擢している。この光秀が自分に恨みなど持つわけがない。そこに信長の油断と悲劇があった。

コメント (1)
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