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日本語の諸問題 (25) 国語の授業に日本語の音声教育を

2012年09月23日 | Weblog

 音声教育と聞くと、普通、音読教育のことを連想する人が多いと思う。『声を出して読む日本語』(斎藤孝著)なる本がベストセラーになっていることからも分かる。この本でも日本語を、腹から声を出して読むことを勧めている。こんなことは、これまでも映画や演劇関係者はかねがね実践してきたことで、特に目新しいことではない。私の言う「日本語音声教育」とは、日本語の持つ音声構造のことである。次のような質問が生徒から寄せられたとき、小・中・高の国語教師はどう答えるのだろうか。おそらく、国語(日本語)の決まりなのだと言う教師が大半であろう。

 質問 1
  日本語では「 私は 」と書くが、発音は「 私わ 」である。なぜか?

 質問 2
  日本語では「 学校へ行く 」と書くが、発音は「 学校え行く 」である。なぜか?


 私自身、このような疑問に対して学校教育の国語の授業で教わった記憶はまったくない。すべて歴史や言語の本を読んで知ったことである。つまり独学であった。ところが、私が独学で学習したウズベク語の国語教科書 ( ona tili ・・母語の意味 ) ではなんと小学校3年の国語教科書にウズベク語の音声構造の話が出てくる。小学3年生で「音節」 ( ウズベク語で bo'g'iz ) についての説明があるのである。
 日本で「 音節 」などの言葉自体、高校生でも知らないのではないか。日本語は子音プラス母音の「 開音節語 」であることなど。さらに上級学年にゆくと、ウズベク語の簡単な文法や音声構造についての説明が出てくる。日本ではどうか、小学校の国語で文法の話は出て来ない、やっと中学2年で意味不明の「国文法」なる教科書が渡されるだけである。

 日本の国文法教科書に出ているのは「 音節 」ではなく、「 文節 」である。文節とは何か。実際の中学国文法教科書に出ているのは次のとおり。 「 春の海はとても静かだ 」 この文を文節に区切れ、これを文節に区切れる日本人が一体全体何人いるだろうか。私自身まったくできない。答えは 「 春の - 海は - とても - 静かだ 」と四つの文節に区切れるというのが正解である。教科書には解説として、「文節とは意味のわかる範囲で最も小さく区切った単位」とある。「 あほくさ 」としか言いようがない。こんな国語(日本語)の授業を受けて、日本語に愛情が持てるわけがない。これが日本の国語教育の現実である。

 ー質問の答えー
 質問 1 
 古くは「 は 」の発音は「  Fa ふぁ(両くちびるを合わせる)」であったが、中世期以後、(これは地域差などもあり、ある時代などと特定できない。例として、戦国時代に来日した宣教師は肥前の平戸を Firando と表記している)。つまり F 音が弱化して H 音化することによる。さらに H音が母音と母音に挟まれた結果、H 音はさらに消失し、代わって W 音が入って 「  Wa  わ  」となったものである。発音は「 わ 」に変わったのに文字表記はこれまでどおり「 は 」を使っているのである。

 質問 2 
 1、と同様、 H 音の弱化、消失により、発音は「 え 」に変わったが、文字表記はそのまま「 へ 」を使っているのである。このような現象は世界の多くの言語に起きており、フランス語でも Hotel は「 オテル 」と発音する( H 音の消失)。つまり、発音は変わっても文字表記はそのままの例である。その方がより分かり易いからである。もしも、フランスで発音どおり  Hotel  が  Otel  と表記されていたら、外国人観光客はパリには  Hotel  がないと途方にくれるであろう。なお、近年、「・・を経て」を「・・をへて」と読む人が多くなってきている。「・・を得て」との混同を避けるため変わってきたようである。

 このような日本語の基本的な音声構造でさえ現代の学校教育では教えられていない。国語・国文法が続くかぎり、日本語ひいては日本の未来は暗いと言わざるをえない。

 <追記>
 前に述べたように、戦前の表記「 ロシヤ 」と現代の表記「 ロシア 」とどちらが正しいのかと言えば、両方正しいのである。ロシア語の文字表記どおりなら「 ロシア 」、発音に忠実に書けば「 ロシヤ 」となる。つまり、「 rosi-a 」と母音が連続するとそこに半母音 y が入って 「 ya  ヤ 」となることは世界の言語にごく普通に見られる現象である。「ペルシア」と「ペルシャ」も同じこと。
 

 日本の国語の教師にお願いしたいことは、文字表記どおり生徒が発音出来ないからといって、例えば、「ロシア」を当然、「ロシヤ」と読む生徒が多いと思うが、これを間違いなどと言って無理やり「ロシア」と読めなどと強制しないで欲しいということである。文字表記と発音は違うことは普通に起こることなのであるから。東京の「 秋葉原 」は日本語の音声構造からすると当然、「 あきわばら 」となるが、現代では「 あきはばら 」と強引に決めているだけである。「 あきわばら 」と発音しても決して間違いではないし、テレビで地元のお年寄りは「あきわばら」と言っていた。同様に「観音寺」を「かんのんじ」と読むのもごく普通に起きる現象である。国語教師にも日本語の音声教育は絶対必要である。おそらく、大学の教育学部でもこのようなことは教えられていないのであろう。
  

コメント (1)
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