ワールドカップ女子サッカーで日本の「なでしこジャパン」が優勝した。まことに喜ばしいことであるが、この「なでしこ」という日本語に私は非常に興味を持った。「なでしこ」とは世界中に何十種類もある植物で、「大和なでしこ」というのは古来日本の山野に咲く一種であるらしい。テレビでもその花が紹介されていた。この「大和なでしこ」が日本女性の代名詞となった。
-「なでしこ」の語源ー
「広辞苑」や「語源辞典」には、「なでる(撫でる)」から「なで・し・子」が生まれた。漢字で書けば「撫子」となるとあった。
私の日本語文法理論では「し」は助詞ではなく、動詞「する」の名詞(連用)形「し」である。「なで・る」の「なで」は「捨てる」の「捨て」と同じで語幹である。「なで」も「猫なで声」とか「なで切り」のように名詞として使われる。また口語で「なでなでする」のように擬態語的用法もある。
この「なでしこ」と同じ用法として、与謝野晶子の有名な歌「君死にたまふことなかれ」がある。その中の「末に生まれし君なれば」の「生まれし」がそれである。名詞形「生まれ」(例、三月生まれ)に動詞「する」の名詞形「し」が付いたもの。この「し」は「する」の意味と「(ある)状態にある」「そうある」という意味、つまり、助動詞「たる」や「なる」と同じ意味を持っていると解釈すべきである。
朝鮮語の ha-da 「する」は「そうである」との意味もある。「研究 ha-da」は「研究する」で日本語と同じであるが、「平和 ha-da 」は「平和である」の意味であり、「平和 han 」で「平和な」の意味になる。日本語の「する」の名詞形「し」と対応している。この「し」は文語形容詞の「広し」「高し」の「し」とも一致するものであろう。
「末に生まれし君」は「生まれた君」とも言えるが、「し」を使った方が詩文として優雅である。すでに取り上げた阿倍仲麻呂の歌の「・・・三笠の山にい出し月かも」の「し」も同じものであろう。「い出し月」は「い出たる月」とも言い換えられる。(「い(居)」も「出」も名詞語幹)、つまり「する」の名詞形「し」は助動詞「たる」と同じ意味を有しているのである。文語で「我がなでし野菊の花」と言えるように、「なで・し・子」が語源である。(国文法ではこの「し」は助動詞「き・・有りき」の連体形である)
「なでしこ」とは「撫でさすりたいほどかわいい花」との意味を込めた日本語独特の表現なのである。日本に帰化したドナルド・キーン氏もこのような世界に類をみない繊細さを秘めた日本語に魅了された一人である。
<追記>
トルストイの小説『戦争と平和』、日本人はだれしもこの「戦争」も「平和」も名詞だと思っている。がしかし、「戦争」は名詞であるが、「平和」は、「平和の象徴」の場合は名詞だが、「平和な国」の「平和」は形容動詞である。「平和な」はその連体形である。「戦争だ」の場合、名詞「戦争」に断定の助動詞「だ」が付いたものだが、「平和だ」の場合、名詞「平和」に「だ」が付いたものとも言えるし、形容動詞「平和な」の終止形とも言える。形容動詞の活用表にそうある。一体どちらが正しいのか・・。私も分からない。
また、「舌触り」は名詞だが(例、舌触りがいい)、「目障り」は形容動詞である。(例、目障りな奴)。国語辞典にはそう書いてある。この両者は共に名詞形であり、その用法(使い方)が違うだけである。こんな文法(国文法)を日本の生徒が真面目に憶えようとするわけがない。日本人のほぼすべてが拒否反応を起こしているのである。
世界のどの国の人でも、自国の言語(母国語)に深い愛情を持っている。義務教育で学んだ基礎的な文法ぐらい頭に残っているものである。しかし、日本語の基礎文法である国文法(学校文法)はまったく理解できないし、何の記憶もない。「広く」「高く」は形容詞「広い」「高い」の連用形などと誰が憶えているだろうか。第一、連用形とは何か、一度、国語学者に聞いてみたい・・。最近『日本語が滅びるとき』(水村美苗著)との題の本を読んだが、この本の著者も日本語の将来を憂えていた。国文法をやめない限り、日本語に未来はない。