小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

稲荷山鉄剣銘文の読み ー通説に疑問ー

2009年10月14日 | 歴史

 ー稲荷山鉄剣銘文ー
(表) 
 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比曙 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比

(裏)
 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀 記吾奉事根原也

 上記銘文の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の読みであるが、通説では「ワカタケル大王の寺が斯鬼宮に在る時」と読まれている。ここで問題となるのが「寺」である。漢和辞典によると「寺」は役所の意味もあるので、この「寺」はそういう意味で使われたと言うのが定説となっている。はたしてそうであろうか。これは漢文としても不自然である。
 第一、漢語「寺」に役所の意味があるとしても、「記紀」「風土記」「万葉集」などに「寺」を役所の意味で使っている例があるのだろうか。あれば教えて欲しい・・。
 
 この「寺」こそ、倭王が対外的に漢字一文字で表してきたそれではないのか。五世紀、倭の五王は「讃」とか「興」とか「武」のように中国の王朝に朝貢したことが「宋書倭国伝」に記されている。この「寺」もそれであり、「獲加多支鹵大王寺」は「宋書倭国伝」風に書けば「倭王寺」となる。では「倭王寺」とは誰のことであろうか。

「辛亥年」は471年、雄略天皇(ワカタケル)の時代とされている。しかしこれは単なる推定に過ぎない。還暦60年後の531年もその候補となる。この時代の天皇はだれか。それはまさしく「寺」にもっとも相応しい人、欽明天皇となる。
 日本史教科書にもあるように、欽明天皇13年百済の聖明王が金銅仏と経典を倭国に送ったことが『日本書紀』に書かれている(仏教公伝・・538年)。この記事は百済の王が倭国王に公式に仏像などを献じたことを記録しただけで、仏教自体はそれ以前に多くの倭人が政治・軍事などの用件で半島に渡っている。また同様に、古代朝鮮三国からも多くの人が来朝しており、すでに倭国にもたらされていたであろう。仏教に帰依した欽明天皇は、自身の漢字一字表記を「寺」にしたことが十分考えられるからである。
 
 また、『古事記』には、「坐師木嶋大宮治天下」とあり、欽明天皇の宮殿は「師木嶋大宮(しきしまのおおみや)」、つまり銘文の「斯鬼宮(しきのみや)」と一致する。
 このことは、私がすでに論証した「隅田八幡神社の人物画像鏡の読み」とも関連してくる。 それには、「癸未年八月日十大王年」とあり、「日」は特定できないが、八月のある日、つまり「八月中」と同じ意味であり、後世の「寛政三年八月 吉日」の原形ではないのか、との私の説。漢字一文字で表した「十大王」を「宋書倭国伝」風に表記すれば「倭王十」となる。
 稲荷山鉄剣銘文は「ワカタケル大王、寺が斯鬼の宮に在る時」と読むべきであろう。「ワカタケル」は「若き勇者」という意味の通称にすぎない。(「記紀」には天皇の本名などほとんど書かれていない)

 <追記>
「獲加多支鹵大王」雄略説の根拠はこれが「ワカタケル」と読め、雄略天皇の和名(大長谷若建命)に一致することから来ている。しかし、雄略天皇は『古事記』によると「長谷朝倉宮」に居たとあり、ここが大和・磯城(しき)郡にあることから、「斯鬼宮」でよいとする。まさに牽強付会のご都合主義である。
 そもそも、「記紀」の記事というものは、実際の歴史の半分も書かれていないであろう。私は津田左右吉流に「記紀」は8世紀の朝廷の史官の創作とは思っていない。やはり、歴史の核となる事実があり、それが文字記録のない時代、神話化されたり、物語風に潤色され語り継がれてきたものだと思っている。(安本美典氏も常にこの点を主張している)。
 
 今、この小論を読まれている諸兄に聞きたい。現在の天皇の本名を知っていますか。まして、明治天皇や大正天皇の場合はどうですか。だれも即答出来ないでしょう。しかし、大量の記録文化を持つ現代では調べればすぐ判ることです。ちなみに明治天皇は「睦仁」(むつひと)。
 
 日本で文字文化が始まった時代とされている推古天皇(6~7世紀初頭)でさえ和名は「豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)」とのみ記され、なにか食物の神様みたいな名前である。とても本名とは思えない。その父親の欽明天皇でも「天国排開広庭天皇」と記され、この中で「広庭(ひろにわ)」が本名のようでもあるが、なんとも言えない。史料的に実在が確実な中大兄皇子(天智天皇)でさえ、本名は分からない。「大兄」とは長兄、年長者の意味の尊称であり、つまり、通称のみである。天智天皇の和風諡号は「天命開別尊」であり、「開別」(ひらきわけ)が名前とは思えない。百済の武寧王の名前が「斯麻(シマ)」であったことが墓誌から証明されているが、これは奇跡的なことである。
 
 文字記録されなかった時代は、我々が明治天皇とか大正天皇のように通称で記憶しているように、様々な要素が組み合わされて生まれた通称名が記憶・伝承されてきたと見るべきであろう。「ワカタケル」は「若き勇者」、「ヤマトタケル」は「大和の勇者」、仁徳天皇の「オホサザキ」は「大きな鳥」(現在、堺市の仁徳陵の横に大鳥神社があるのは象徴的)。欽明天皇が当時、通称、ワカタケル大王と呼ばれ、漢字一字で「寺」と自称していたことは十分あり得ることである。ちなみに、ほぼ同時代の百済・武寧王は「余隆」を名乗って中国に朝貢している。「余」は百済の王姓なので「隆」を漢字名としていたのである。ほかにも、「余映」「余固」「余歴」などの名で中国・南朝に朝貢している。

 ー新証拠の発見ー
 NHK教育テレビ「日本と朝鮮の2000年」という番組で、10月25日の「倭寇」のとき、李氏朝鮮王が対馬の海賊の頭領・早田(そうだ)氏に、倭寇を懐柔する目的で送った「告身」(朝鮮王朝官位任命書)には「弘治六年三月 日」とある。日付の数字は入っておらず、一文字空けてある。つまり、朝鮮王の命令はこの「告身」を三月中に早田氏に渡すようにとのことであり、その日までは特定できないので空けてあるのであろう。(実際は「弘治」は3年まで、西暦1561年に当たる)
 この「告身」と千年の時間差はあるが、百済武寧王が送った隅田八幡宮の鏡「日十大王」もやはり、「八月 日 十大王」と読むのが正しいであろう。この鏡が「男弟王」(後の継体天皇)に渡る正確な日は武寧王にも分からないが、八月中には渡すようにと命じたことだけは言える。稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年七月中記」も「辛亥年七月日記」とも表記できたのではないかと思う・・。





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日本語の諸問題(15) 「おみやげ」の語源

2009年04月15日 | 歴史

「おみやげ」の語源については「語源辞典」には「お宮」(神社)からできた言葉であろう、というのが有力である。江戸時代に流行した「お伊勢参り」などの信仰と遊山をかねた行事が念頭にあるのであろうが、「おみやげ」の語源は単純に旅先で買ってきたものを「あげる」から出来た言葉であると考えられる。「おみ」は「おみ足」とか「おみくじ」の「おみ」で、尊敬の接頭語が二つ続いたもの。「あげ」は動詞「あげる」の語幹「あげ」(国文法の連用形)であろう。(例. お膳のあげさげ、あげ足を取る)
 

 つまり、「おみ・あげ」( omi-age ) が、母音が連続するので、その間に半母音 y が挿入され  omi-y-age  「おみやげ」という言葉が生まれたのであろう。 この母音と母音の間に y が入る音声現象は世界のどの言語にも見られるものであり、別に日本語に限ったものではない。例えば、英語でも  mayer (市長)は「メイヤー」、Royal (王室)は「ロイヤル」と発音されるのがそれである。現代日本語では Russia は「ロシア」と書かれるが、戦前はすべて「ロシヤ」と表記されていた。これは、戦前は発音どおり書かれていたのであるが、戦後は文字表記に忠実に書くようになったからであり、どちらでもいいのである。同じような例として、ペルシャとペルシア  ( persia ) がある。
 現代日本語で「物をあげる」は同輩もしくは目下の人に使う言葉であるが、それに代わる表現として「さしあげる」という尊敬語が生まれて使われている。「おみやげ」は旅先で買ってきたものを「あげる」ことから生まれた言葉であろう。

 <追記>
 一般的に世界のどの言語でも大なり小なり発音と文字表記が違っている場合が多い。英語でも honest は「オネスト」と発音する( H音の消失)、複数形の books は「ス」と読むが dogs は「ドッグズ」となるのがその一例である。(発音どおり表記すると dogz となる)。日本語でも「観音寺」を「かんおんじ」と読む地方があると思うと「かんのんじ」と発音する地方もある。これは  kan-on-ji  の  n  と  o  が同化した結果であるが、文字表記が「かんおんじ」でも、その土地では「かんのんじ」と発音している場合がある。
 

 同様に、日本語の清音と濁音の区別も非常に曖昧で、文字表記はあくまでも行政的に決定された場合が多い。大阪・茨木市は行政上は「いばらき」と清音を使っているが、土地の古老の発音は「いばらぎ」と濁音である。九州の「竹田」も「日田」も共に「たけた」「ひた」と清音とされているが、これとて江戸、明治の文献に「たけた」「ひた」と書かれていたので、おそらく行政的にそう決めたものであろう。江戸時代以前、濁音表記は少なく、蕎麦(そば) は「そは」、「・・すべし」は「・・すへし」と清音で書かれるのが一般的であった。「竹田」「日田」も多分そうであったろう。

 同じく東京の「秋葉原」も本来の発音は「あきわばら」であろうが、(テレビで土地のお年寄りはそう発音していた)。江戸、明治の文献に「あきはばら」と書かれていたとの理由と、漢字「葉」の現代音は「は」なので、「あきはばら」と決定されたものと思う。現代日本語でも「私は」と書いて「私わ」と発音する。この理由は、中世期、主格助詞「は」( Fa ) 音が弱くなり Ha に近くなることにより、H 音が弱化して H が W 音に代わったものである。言語学的に H 音は脱落しやすい。フランス語では Hotel は「オテル」と発音されるが(H音の消失)、文字表記は勿論  Hotel である。
 発音が変わっても文字表記はそのままであることは、先の英語の honest と同じである。文字表記は人為的に変えられるが、発音はなかなか変わらないものである。要するに、文字表記と実際の発音は違う場合があるのである。無理に文字表記どおりの発音をする必要はない。

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赤報隊はなぜ偽官軍にされたのか -通説は間違い-

2009年01月28日 | 歴史

 官軍先鋒として鳥羽伏見の戦いの直後に結成された赤報隊は、隊長・相楽総三以下8名の幹部が信州・下諏訪において斬首(慶応四年3月3日)されたことによって終結する。この赤報隊事件については、これまで、明治新政府が太政官布告として出した年貢半減令(正月14日には備前、安芸などの西国諸藩にその通達を出している)を、その直後、取り消したため、それとも知らず、新政府の年貢半減令を行軍途中の村々に触れて回った赤報隊を、自分たち(太政官政府)の面子(メンツ)を守るため偽官軍の烙印を押して抹殺したというのが通説である。
 しかし、この通説はおかしい。古今東西、権力者が己の約束した政策を実行できないからといって、人民大衆に謝罪したり、自己を恥じたりした例があるだろうか。朝令暮改という言葉があるように、そのような小心者はもともと権力の座に就いたりはしない。(ごく最近でも、民主党の鳩山首相の例がそうである) 。
 明治新政府の実質の支配者、岩倉具視や西郷隆盛、大久保利通もしかり、朝令暮改など意にも介さない権力者である。赤報隊が偽官軍とされ処断されたには他に理由がある。
 
 1)西郷隆盛と赤報隊
 この事件の発端と終結には西郷隆盛が深くかかわっている。相楽総三(本名・小島将満)は下総の庄屋階級出身で、父親がすでに江戸で両替商などをやり財をなしていた。その金を元手に相楽総三は江戸で国学・勤王塾を開いていた。(このような私塾が江戸にあったこと自体、幕府権力の衰退を物語っている)。
 幕府と薩長との緊張が頂点に達していた慶応3年暮れ、西郷隆盛は幕府との開戦を急がせるため、江戸で浪士を雇って騒擾を起こさせた。これに応じたのが勤王家の相楽総三とその同志たちであった。幕府はこの挑発に乗って、三田の薩摩藩邸を焼き討ちした。上方に先立って幕府と薩摩との戦闘は始まっていたのである。
 この報が大坂城に集結していた幕府側に伝わると、激昂した幕府軍は「薩摩討つべし」と、京都に進撃を始める。(形としては徳川慶喜がそれを命じたことになっているが、もはや慶喜もそれを制止するだけの力もなかったのであろう)。西郷の作戦はものの見事に成功したといえる。このことが赤報隊事件への伏線となってゆく。
 

 江戸を船で脱出した相楽総三たちは、鳥羽伏見の戦いの真っ最中の正月4日には京都に入る。そこで、西郷隆盛に官軍先鋒として江戸まで進軍したい旨を伝える。このときの西郷の判断が後の赤報隊の悲劇を生む。 鳥羽・伏見ではかろうじて勝ったが、まだ徳川政権は江戸に健在であり、諸藩の動向もつかめない。まさに、世情は混沌としていた。がしかし、ただ一つ言えることは、もはや時代は相楽など草莽の志士たちを必要とはしない、日本国の正式の権力機構である各藩の軍隊(藩兵)が正面に出て戦う国内戦に移っていた。 赤報隊事件はその時代の転換点に翻弄された結果、起こるべくして起きた悲劇といえる。
 
 2)官軍先鋒の進発
 史実をひも解くと、鳥羽伏見の戦いが薩長軍の勝利に終わった5日には、太政官政府は東海道鎮撫総督に公卿、橋本実梁を任命し、熊本、岡山などの藩兵を率いて京都を進発させている。なんと、相楽たちが草莽の同志を募って江戸まで諸藩を鎮撫して進軍したいと西郷に申し入れしたのとほぼ一致する。西郷はこの相楽の申し入れに許諾の返事を与えた。この瞬間、赤報隊の運命は決まった。また、9日には岩倉具定を総督に、東山道鎮撫軍も京を進発している。
 

 なぜ、西郷、岩倉がこれを認めたのか、これこそ幕末維新史の謎の一つである。西郷はもはや草莽の志士は必要ないことを十分認識していたはずである。江戸での騒擾行動に対する慰労として、なにがしかの金品を渡し、それでもって縁切りとすれば何んの問題もなかった。西郷が相楽の熱意に負けたのか、それとも、いまだ諸藩の動向がはっきりしない今、探りを入れるため赤報隊を利用しようとしたのか、西郷の性格からして、後者の方が真の狙いだったと思われる。軍事用語でいう「武力偵察」である。
 

 とにかく、西郷、岩倉の承認を得た相楽は、8日には近江の金剛輪寺で近在の勤王の同志を募り旗上げする。それでも不安であった相楽は、自から京都に出向き、太政官から官軍先鋒のお墨付きをもらう。太政官の坊城大納言の名で、官軍の「饗導先鋒」を命じるとの勅書を得た相楽は、これで名実共に官軍先鋒であるとの誇りのもと、1月15日、勇躍出発する。(この太政官から官軍先鋒を命じるとの勅書は、後年、赤報隊復権の理由となる)
 

 3)赤報隊の輝かしい戦果
 相楽総三率いる赤報隊本隊は道中の幕府方の諸藩や旗本陣屋を恭順させ、木曽路から伊那谷に抜け、諏訪湖方面に向かう。実は、赤報隊には別働隊(第2隊、第3隊)があり、大垣から南の桑名に向かう。この別働隊には京を無断で脱出した下級の公家2名が参加していた。(太政官は公家が無断で京を離れることを禁じていた)。出発から僅か一週間ほどでこの別働隊は悲劇的な結末を迎える。この顛末が赤報隊事件のすべてを物語っている。

 別働隊が桑名近郊まで来たとき、なんと、桑名藩の重役が嘆願書を携えて、宿舎となっていたお寺(安永村・清雲寺)に現れ平伏した。桑名藩としては、別働隊は公家(滋野井公寿)を伴っており、官軍の先鋒隊と思ったことは無理もない。しかし、その頃すでに四日市まで来ていた東海道鎮撫軍は、その報に接するや、すぐさま兵を差し向け、別働隊の幹部7名ほどを四日市に連行し、何の弁明も許さず、即刻、首をはねてしまった。隊は解散させられ、公家二人は京に戻された。

 鎮撫軍にすれば、公権力である桑名藩(幕末、京都所司代の任にあった)と一介の草莽の集団が交渉するなどもってのほかの越権行為であり、同行の公家たちにはなんの権限も太政官から付与されていない。正式の官軍からすれば、これまた当然の行動であった。このとき、相楽の赤報隊本隊の運命も決まったと言える。なお、桑名藩はこのあと家老が幼い新藩主を伴い、四日市の総督府に出向いて正式に恭順の意を表わした。これに対し、総督・橋本実梁は寛大な処分で桑名藩を赦している。 

 4)西郷の配慮
 この桑名の事態を知った西郷は、すぐさま赤報隊討伐を命じたわけではない。西郷の狙い、つまり、街道筋の諸藩の動向を探るという目的は桑名の一件で達成された。このまま赤報隊を放置しておけば、本当に江戸まで行ってしまい、徳川慶喜さえ恭順させかねない。西郷は赤報隊に戻ってくるように命じた(この時、赤報隊は美濃・中津川あたりにいた)。それを受けて、西郷が目付として同行させていた薩摩人、富山弥兵衛(高台寺党の一員)や元新撰組隊士(高台寺党)らは京に戻っている。しかし、相楽とその同志たちはそれを無視し進軍を続けた。
 
 それでも西郷は伊牟田尚平を相楽の元に派遣して説得にあたらせた。伊牟田こそ、江戸での騒擾を指揮した薩摩藩士であり、相楽と船で上方に脱出し、共に戦った同志でもあった。この配慮に西郷隆盛という人間の温情を感じる。西郷は相楽とその同志たちによって江戸で受けた恩義に報いようとしたのであろう。相楽はその命を受けて2月初め、その時、大垣にまで来ていた東山道鎮撫軍総督府まで出頭している。この時、相楽が素直に伊牟田の説得を聞き入れて戻ってきておればなんの処分もなかったと思われる。しかし、相楽とその同志たちは純粋であった。一身を投げ打ってでも天朝のため尽くそうとの赤心の思いがさらに江戸への進軍に駆り立てた。それに、自分たちは太政官から官軍先鋒を命ずるとの勅書をもらっているとの自負もあった。伊牟田の説得は失敗した。この時点で赤報隊の運命は定まった。


 5)赤報隊の最期
 2月末頃になって、諏訪湖周辺で小戦闘が発生する。赤報隊にとっては結成以来初めての戦闘であった。相手は小諸、上田、岩村田などの北信濃諸藩であった。赤報隊としては天朝にそむく逆賊との戦いと思い込んでいたであろうが、実は、これら諸藩は太政官からの布告により、偽官軍である赤報隊を討伐せよとの命令により出兵してきた官軍にほかならなかった。すでに、自分たち赤報隊が朝敵とされていたことに相楽とその同志たちも夢にも思わなかったであろう。まさに悲劇である。
 そうして、最後の時がやってくる。3月2日、下諏訪に本営を置いていた東山道総督府に出頭するようにとの通達があった。そこで相楽たちは捕縛され、翌3月3日、赤報隊の隊長・相楽総三以下幹部8人が斬首され、その首は街道にさらされた。罪状は官軍の名をかたって強盗無頼を働いたという簡単なものであった。これでもって、赤報隊は結成からわずか2ヵ月ほどの短い歴史に幕を閉じた。

 <追記>
 幕末・赤報隊に関する本は何冊かあるが、なぜ偽官軍とされ処断された理由については、年貢半減令以外に十分な理由が見当たらない、というのが一般的である。私が本稿で述べたとおり、相楽とその同志たちはあまりにも若く、純粋な勤王家であり、政治の世界の非情さが十分理解できなかった。(相楽は30歳、他の同志たちもほとんど20歳代だった)。このことが悲劇を生んだ最大の原因であると思っている。この点では昭和の二・二六事件の青年将校にあい通じるものがある。

 古今東西、政権の委譲にはそれなりの手続きと儀式が要るものである。鳥羽伏見の戦いのあと、時代はすでに政治の舞台に移っていた。戦争は政治の延長にすぎない。ただ、赤報隊は太政官から正式に官軍先鋒を命ずるとのお墨付きをもらっていた。この頃、官軍を私称して街道筋の旗本陣屋や庄屋から御用金を巻き上げていた偽官軍が横行していたが、これら偽官軍と赤報隊とは根本的に違う。後年、処刑された赤報隊士の子孫からの請願により、昭和3年、時の政府はこれを認め、赤報隊の名誉が回復された。相楽総三には正五位が追贈された。天皇の名で忠勇なる兵士を徴兵していたときの政府にとって、天皇の代行機関である太政官発行の勅書を無視するわけにはいかなかったのであろう。
 

 赤報隊の悲劇は現代社会にも通じる多くの教訓を与えてくれる。一つの思想、理念、イデオロギーに固執する人は今でも多い。しかし、現実世界は利害の衝突する争いの世界である。日本の平和憲法の理念を世界に訴えても、世界中の人は誰もそんなことは知らないし、もともと他国の憲法などに何の興味もない。対応を誤ると日本が赤報隊になりかねない。歴史から学ぶことは多い。
 
 

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龍馬暗殺に残された謎

2008年11月22日 | 歴史

 坂本龍馬暗殺についてはいまだに真犯人は誰かとの如き説が出されているが、この事件については京都見廻組の今井信郎と渡辺篤が認めているし、新選組の幹部の一人、永倉新八が否定しているのでこれは動かない。この三人は大正時代まで生き、多くの聞き書きを残している。永倉は自伝『浪士文久報国記事』も書いている。
 ここではこの事件の背景について再考してみる。

1)見廻組とは
 万延元年(1860年)の井伊大老暗殺事件に衝撃を受けた幕府は、元治元年(1864年)腕の立つ旗本子弟よりなる見廻組を新たに創設した。あまりにも応募者が少なかったので御家人にまで拡大してやっと人数を揃えるほどの体たらくであった。もはや将軍親衛隊である旗本は刀さえ抜く気力も失せていたのである。その役割は将軍や老中などの身辺警護するためであり、本来その役を担っていた世襲の旗本がまったくあてにならなかったからである。
「見廻り」との文字を使用したため、新選組と同様、市中見廻りがその任務のように誤解されがちであるが、実際は要人警護、つまり今日で言えば警視庁SPにあたる。幕府組織内では大目付直属である。従って、見廻組が出動するとすれば、それを命じたのは大目付となる。丁度、警視庁SPが出動すれば、その命令者は警視総監以外ありえないように。つまり、龍馬襲撃を命じたのは、当時京都二条城にいた大目付・永井尚志であると言うことになる。永井の前職は京都町奉行であった。 

2)なぜ、大目付・永井尚志はそれを命じたのか。
 龍馬ファンには真に気の毒であるが、実は、坂本龍馬は生涯一度、二人の人間を殺害している。近江屋で暗殺される前の年、伏見の寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われたとき短銃を放ち脱出している。そのとき銃弾を受けた奉行所の同心が2名死んでいる。別の同心が龍馬に斬り付け、それを短銃で受け止めたとき両手に負傷した。龍馬からすれば正当防衛と言えないこともないが、殺された幕府側からすれば赦しがたい下手人ということになる。(この傷を癒すため、薩摩藩家老・小松帯刀の計らいで薩摩に赴き、妻、お龍と霧島温泉に新婚旅行に行ったことは有名な話)
 当時の京都の治安機関として、京都守護職、所司代、町奉行所の三つがあるが、守護職と所司代は共に大名(藩主)であり、命令権は幕府(徳川将軍)にしかない。町奉行所は幕府の官僚機構の一つであり、本来、京都では所司代の支配下にあるが、幕末京都では幕府大目付や老中が出張って来ており、その直接指揮下にあった。つまり、大目付・永井尚志にとっては伏見奉行所の同心は直属の部下なのである。まして、数年前まで京都町奉行であったことも大きく影響しているであろう。このことが近江屋事件の悲劇を生んだと考えられる。

3)見廻組はなぜ近江屋の2階に二人しかいないことを知りえたのか。
 この事件の最大の謎は見廻組が近江屋の2階に3人で上がり、その内の二人が部屋に入り、坂本龍馬と中岡慎太郎にいきなり斬り付けたことである。この種の事件では、襲う側は事前に相手の状況を的確に把握することが常識である。有名な荒木又右衛門の鍵屋ノ辻の仇討ちも、相手の状況を物見で十分把握した上で、不意打ちしている。36人斬りなどは講談の世界の話である。また、佐々木只三郎が江戸で幕閣の命により清河八郎を暗殺したときも、相手に酒をしこたま飲ませた後、闇討ちしている。有名な新選組局長、芹沢鴨の暗殺も、近藤、土方、沖田らは、酒を飲んで熟睡している芹沢の寝込みを襲っている。  

 近江屋の場合も相手を十分把握せず踏み込むと、そこに何人かの土佐陸援隊土が居るかも知れないし、当然、乱闘となって双方に死傷者が出るであろう。見廻組は明らかにそこに二人しかいないことを事前に知った上で綿密な作戦を立てている。この情報を見廻組に教えた者がいる。そうとしか考えられない。そこに土佐藩の関与が浮上してくる。この事件の謎を解く最大の鍵でもある。

4)近江屋事件に至るまでの龍馬の行動。
 事件の3週間ほど前、龍馬は後藤象二郎の使いで福井に行っている。松平春嶽に後藤から託された容堂公の手紙を渡している。春嶽には直接会えなかったようであるが、そのブレーン三岡八郎(由利公正)に会っている。この時、同行したのが後藤の腹心の部下である下横目・岡本健三郎である。この人物こそ近江屋事件のキーパーソンである。
 11月5日、福井から戻った龍馬はなんと11日、二条城に大目付・永井尚志を訪ねている。どのような用向きで永井に会ったのかは不明であるが、混沌とした時局に対する自身の考えを披露したのであろう。龍馬は倒幕派にも、幕府側にも顔の利く周旋屋のような立場であったが、幕府の要人にも面会できるほどの人物になっていたことは紛れもない事実であった。

 しかし、龍馬は忘れてしまっていたであろうが、永井にとって龍馬は前年の伏見での同心殺しの下手人であったことはこれまた事実であった。丁度、警官殺しの犯人がひょっこり警視庁に警視総監を訪ねて来たようなものである。永井は決断した、龍馬に制裁を加えることを・・。
 後年、今井信郎の妻「いわ」の証言によると、事件の数日前から、夕刻、見廻組の同僚が迎えにきて二人連れだって出かけた。事件の当日15日も同じように出かけ、その夜は帰宅しなかったという。毎晩、京都先斗町のお茶屋で待機していたのであろう。それを指図したのは、当然、永井しかいない。実は、龍馬は事件前日にも永井の元を訪ねている。いよいよ運命の時が近つ"いてきた。

5)事件当日は偶然か。
 事件の当日、その場になぜ中岡慎太郎が居たのか。たまたま偶然居合わせてそのとばっちりを受けたのか。いや、そうではないであろう。二人が揃うのを待っていたかの如く事件は起きている。通説では、少し前「高札引き抜き事件」というのがあり、そこで新選組に捕縛され京都町奉行所の牢に入れられていた宮川助五郎を釈放するとの通告が奉行所から土佐藩にあり、その相談に近江屋の龍馬を訪れていたと言われている。事実、宮川は事件の当日、15日に釈放され土佐藩邸で奉行所から引き渡されている。(土佐藩重役の『神山左多衛雑記』)。
 このことは、中岡をおびき出す為に仕組まれた罠であった可能性を示唆している。宮川は上士ではあったが尊王倒幕派であり、土佐勤王党に加盟していた。土佐陸援隊の仲間とも言えた。それに、土佐藩邸の重役、福岡藤次(孝悌)は宮川を陸援隊で預かって欲しいとの手紙を中岡慎太郎に送っていたとの話もある。土佐藩邸と近江屋は目と鼻の先である。そのことで中岡が近江屋を訪れていたと考えれば自然である。これを仕組んだのは、永井尚志と土佐藩上層部をおいては不可能である。京都町奉行所は永井の指揮下にある。
 
 では、中岡慎太郎はなぜ土佐藩上層部にその命を狙われたのか。それには十分な理由がある。ここで誤解してはいけないのは、龍馬や中岡は脱藩浪士であったが、これより少し前、山内容堂より脱藩の罪を赦され、元の土佐藩士の身分に戻っている。容堂は過去のことは水に流し(土佐勤王党領袖・武市半平太の切腹など)、土佐藩士は上下の別なく一丸となってこの難局に当たるようにとの配慮からであった。
 がしかし、人間は簡単には過去の恨みを忘れることは出来ないものである。土佐藩上層部には中岡慎太郎に対する深い恨みがあった。それは、土佐藩参政、吉田東洋暗殺事件である。
 

 この事件に中岡は直接関与していないが、逃亡した下手人、岡田以蔵などを陰に陽に支援した。事実、犯人探索のため上方に派遣された下横目・広田章次が京都伏見で何者かにより殺害されている。この殺害事件に中岡が直接関わっていたことは、土佐藩上層部にとっては明々白々なことであった。この時、中岡は京都におり、事件当日は仲間と3人で伏見に行って1泊している(宮地佐一郎著『中岡慎太郎』)。この時、同じく探索方として上方に派遣されていた後の三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎は危ういところで土佐に逃げ帰っている。他にも、大阪での土佐藩監察、井上佐一郎暗殺事件の下手人、岡田以蔵が拷問により自供し、この背後に中岡がいることは疑いの余地がない。少なくとも、藩上層部はそう思っていた。いよいよ刺客が近江屋に近つ"いてきた。

6)近江屋事件の真実
 それはかくの如く推測される。11月11日、龍馬が永井尚志の元を訪れる、(資料にはないがおそらく二条城そばの永井の役宅であろう)。永井はそのとき龍馬に制裁を加えることを決意する。そこで、永井は人を土佐藩邸にやり、龍馬の宿所を尋ねさせる。それを知った土佐側は、この機会をうまく利用して憎き中岡慎太郎も一緒に葬り去ろうとの策をたてる。そうして、永井に刺客を先斗町の茶屋で待機させるように頼む。踏み込むタイミングはこちら(土佐側)が案内すると言う。さらに、奉行所から牢にいる宮川助五郎を15日に釈放する通告があったから、陸援隊長の中岡慎太郎に宮川を16日に藩邸まで引き取りにくるように通知する。

  
 いよいよ事件当日11月15日を迎える。ここで、近江屋の数軒先にあった貸本屋菊屋の息子、峰吉の証言が重要性を帯びてくる。後年、峰吉が語ったことによると、夕刻いつものように近江屋の龍馬のもとに遊びに行った。そこにはすでに中岡が来ていた。ほどなく岡本健三郎がやってきた。龍馬に同行して福井に行った下横目である。 龍馬が軍鶏(しゃも)鍋が食いたいと言って、峰吉を買いにやる。そのとき、あい前後して岡本も近江屋を出る。ほどなく、近江屋に戻ってきた時 (夜9時頃) すべては終わったあとであった。事件を知った峰吉は陸援隊の本部(今の京大農学部のある所)に走って知らせた。急を聞いて多くの関係者が近江屋に駆けつけた。陸援隊からも中岡の部下、田中光顕(後の宮内大臣)らが駆けつけた。

 後年、渡辺篤の手記によると、あの日、お指図により先斗町のお茶屋で待機していた。夜になって、ある人物(渡辺は諜吏の「増次郎」と言っているが真偽のほどは不明)により現場の近江屋に案内された。あとは組頭・佐々木只三郎の指示どおり動いた。このタイミングを見計らって見廻組を近江屋に案内したのは誰か、岡本健三郎以外には考えられない。勿論、岡本自身でなく、配下の中間・小者であったとしても同じ事である。今、近江屋の2階に二人しかいないとの情報なくして佐々木只三郎も作戦を立てられない。それと偶然とは思えない事実もある。龍馬は最初、近江屋の奥の土蔵の中二階に居た。この日(15日)、風邪気味とのことで母屋の2階の奥の八畳間に移ったばかりであった。まさにその日に事件が起きている。岡本健三郎は毎日夕刻には近江屋の龍馬の元に来ていた。土佐藩の関与は疑いの余地がない。

7)事件のその後
 通説では事件の報を近江屋から受けた土佐藩邸から、谷干城らがおっとり刀で駆け付けたことになっているが、実際は、谷はすぐに救援に向かわず、当時、京都藩邸の責任者であった福岡藤次(そのとき祇園の茶屋にいた、後藤象二郎は土佐に帰っていて不在であった)に連絡し、福岡が藩邸に戻った後、その指示でおもむろに近江屋に出向いている。まるで、二人が死ぬのを待っているかのような行動である。
 その後の土佐藩の取った行動には疑念を抱かせる。土佐藩は何の証拠もないのに、いち早くこれは新選組の仕業だと断定し、現場に残された刀の鞘は新選組の原田左之助のものだとか、新選組がよく行く料亭の下駄があったなど、しかし、これらはすべて土佐側が言っていることであり、実際にあったかどうかさえ定かでない。事実、鞘があったとしても、それが原田佐之助のものだと断定できる根拠もない。それと、賊が「こなくそ」と伊予弁を使って斬りつけてきたとの証言も、谷が瀕死の中岡から聞いたと言っているだけである。本当だろうか・・(原田左之助は伊予松山出身)。
 

 そうして、土佐藩は新選組を取り調べて欲しいと大目付・永井尚志に強硬に申し入れしている。これを受けて永井は直接、局長・近藤勇を二条城に呼び、形ばかりの尋問をしているが、近藤は当然否認した。この件はこれでうやむやとなった。土佐藩と永井との出来レースである。
 谷干城は西南戦争時の熊本鎮台司令官であり、後に商務大臣にまで出世した。引退後もあちこちの講演会に招かれ、近江屋事件について話している。しかし、見廻組の今井信郎の証言があるにもかかわらず、終生、事件は新選組の犯行だと言い続けた。ことの真相を墓場まで持ってゆき、土佐藩の名誉を守ったと言うべきか・・。
 岡本健三郎は明治政府の役人となっていたが、征韓論で後藤象二郎と共に下野した。その後、かっての同僚(下横目)、岩崎弥太郎の招きで三菱に入り、のちに三菱財閥の大番頭となり生涯を終えた。近江屋事件については何も語っていない。

<追記>
 司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のあとがきで、近江屋事件の真相については、様々な俗説を羅列するだけで、実行犯の詮索はしたくないようである。もし、この問題を追求すると、見廻組の今井信郎、渡辺篤の証言を取り上げざるえず、それは大目付・永井尚志のお指図。そこから、伏見寺田屋での同心殺しに対する報復へと発展して行かざるを得ない。それでは、国民的ヒーロー、坂本龍馬像がもろくも崩れてしまう。そこで、司馬は意図的にそれを避けたのではないか。私はそう思っている。勿論、この土佐藩関与説は以前からあったが、私なりに再考してみた。

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閑話休題 -「楢山節考」は本当か-

2008年10月14日 | 歴史

 この1年間、大阪大学(旧・大阪外国語大学)のウズベキスタンの客員教授から250枚のウズベク語論文の日本語への翻訳を頼まれ、それに時間を取られらたため、このブログをしばし休まざる得なかった。ようやく翻訳も終わったので、再び続けていくつもりです。
 
 俳優・緒形拳が亡くなった。緒形拳の代表作、映画「楢山節考」はカンヌ映画祭でグランプリを取ったという。あの映画を見た世界中の人たちは、日本も昔は貧しく、食い扶持を減らすため、自分の母親でもあのように山に捨てたのだなあ・・と思ったであろう。
 とんでもない、そのような事実を示す文献資料も、その場所を特定できるような洞窟や洞穴(ほらあな)が見つかったためしを聞いたこともない。あのような話は農民(庶民)のしたたかな創り話であり、自分たちがいかに貧しく、毎年のように餓死者が出ていることを強調し、領主(武士)に納める年貢を少しでも軽減してもらおうとの魂胆から生まれたものである。
 
 私の郷里・徳島に「祖谷の振り米(いやのふりごめ)」という話がある。吉野川上流の祖谷地方は貧しく、そこの住民は一生涯、米を食べることが出来なかった。そこで、死んだとき棺おけに小さな穴を開け、そこから米粒をパラパラと落として「これが米だぞ」と言った、とのことである。この話は馬鹿げている、米さえ口に出来なかった人がなぜ棺おけを用意することが出来たのか・・。
 

  話はこれに留まらない。これと全く同じ話が東北地方にもあることをあるテレビ番組で見た。多分、これに類した話は日本各地に残っているであろう。日本の農民のしたたかさを表わしている以外の何ものでもない。「楢山節考」もこの類であり、そもそも、昔の人はそんなに長生きは出来なかった。人生は五十年であった。それに、日本では昔から年寄りや子供は大事にされてきた。幕末から明治初期に日本にやってきた外国人の記録にも、家の手伝いは別として、子供が働かされずに遊んでいることに驚いている。(当時のイギリスでも、下層階級の子供は学校にも行かず働かされていた)。「楢山節考」は映画芸術としては優れた作品とは思うが、あれはあくまで架空の創り話であることを我々は確認しておく必要がある。
 
 <追記>
 私の郷里の徳島城(秀吉の参謀、蜂須賀家)の大手門に架かる橋(今は石造りだが、藩政時代は木橋であった)には「人柱の伝説」がある。城下の若い娘が人柱となって、生き埋めにされたと言われている。馬鹿げた話である。城の大手門といえば、神社の鳥居にも相当する神聖な場所である。日本にはそのような風習があるわけがない。(古代には殉葬の風習があったが、それも禁止され埴輪に代えられた)。 この人柱の伝説も全国どこにでもある。「楢山節考」や「祖谷の振り米」同様、架空の創り話である。人間はこのような話を創りたがるものである。その事実だけは証明していると言える。

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平城京と韓国の首都・ソウル

2007年12月21日 | 歴史

 韓国の首都・ソウルの語源は古代新羅の首都「金城」にある。朝鮮の史書『三国史記』には金城を「徐伐(ソボル)」と漢字の音を借りて表記している。「ソ」は「金とか鉄」の意味、「ポル」は「地、所、野」などの意味なので、「ソボル」は日本語の「みやこ(京)」と同じ意味の言葉なのである。新羅語の「ソボル」を漢字で書けば「金城」となる。なお、「ソ」は現代朝鮮語の  soi (鉄)と一致し、満州語の aisin (金)と比較されている。「ポル」は日本語の「原(はら)」、九州・沖縄地方の「原(ばる)」と比較される。韓国の首都・ソウルはこの「ソボル  so-pol」の P音が脱落して生まれた言葉なのである。李氏朝鮮の首都は漢字で「漢城」と書くが、同時代の文献にはソウルの意味で「京師」と書かれたものもある。
 

 -古代日本にもあったソウルー 
 今、奈良県奈良市の昔の郡名は「添下(そふのしも)郡」である(『日本書紀』天武紀、676年)。「藤原京木簡」には「所布評(そふのこおり)」とある。この「所布(そふ)」こそ新羅の都「徐伐(ソボル)」に当たるものである。
「評」は新羅で「郡」と同じ意味で使っていた。百済では都を「所夫里(そふり)」と表記しているので、日本の「所布(そふ)」は百済語からの借用であろう。 日本では国名や郡名は漢字二文字が原則なので、「所夫里」の「里」を省略して「所布(そふ)評」となったと考えられる。後に、上下二郡に分かれた。つまり、「所布(そふ)郡」とは日本語で言えば「京(みやこ)郡」の意味であり、首都・平城京の置かれた地にふさわしい名である。ところで、福岡県には「京都(みやこ)郡」があるが、律令制度の豊前の国、古代の「豊(とよ)の国」の地である。そこに邪馬台国時代には王城の一つがあったのであろう。なお、「所布(そふ)評」 は現在でも奈良県・添上(そえかみ)郡として存在している。

 -日本古代国家は半島の影響が大ー 
 以上のことから見えてくるものは、7世紀の飛鳥時代の政治・文化は大きく古代朝鮮三国の影響を受けているということ。王城や朝廷に関する言葉は特に顕著である。つまり、大和政権の中枢部にかれら半島の人々が多く仕えていた証拠でもある。
 錦(にしき)は新羅の王号「尼斯今(ニシクム)」、奈良の都は「楽浪(ナラ)」、明日香は古朝鮮の「阿斯達(アシダル)」、平城京のある郡名「所夫(そふ)」は都(みやこ)を意味する新羅・百済語からきている。しかし、日本語の基礎語彙や音声構造はなんら影響は受けていない。日本固有の文化および日本語の強固な生命力はわれわれ日本人として誇るべきものであろう。(例えば、朝鮮では統一新羅時代に民族固有の人名や地名などを中国風に改めている)。一方、日本では人名、地名はおろか、出雲大社など古墳時代に起源をもつ神社を今でも尊崇している。つまり、古代の倭人が大陸から受け入れたのは政治制度であり、民族固有の文化は守ってきたと言える。

 最後に、佐賀県・吉野ケ里遺跡の北方に聳える山は「背振(せぶり)山」と呼ばれている。「背振」(せぶり)とはまさに新羅の「徐伐(ソボル)」、百済の「所夫里(ソフリ)」、まさに都城、王城の意味である。女王・卑弥呼の都、邪馬台国の所在地になにか示唆を与えているように思えてならない。吉野ケ里こそ邪馬台国ではなかったのか。

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「錦の御旗」はなぜ朝廷の代名詞なのか  -錦 (にしき) の語源ー

2007年11月24日 | 歴史

 幕末、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に錦旗(にしきのみはた)が翻ったとき、幕府軍は総崩れとなり敗走した。「錦の御旗」とは天皇(朝廷)そのものを指す言葉であるので、この時から徳川幕府は朝敵となった。漢和辞典で「錦」を引くと「金糸や色糸を織りこんだ美しい模様の織物」とある。もともと織物の一種であるが、これを中国の皇帝や貴族が着用することから「錦」は皇帝(朝廷)の代名詞となったである。
 

 では、漢字「錦」はなぜ「にしき」と読まれるのか。これまで様々な説が出されている。「丹敷き」や「虹色」などなど。この「にしき」も先の「奈良」「明日香」同様、古代朝鮮語から入ったものであると考えられる。
 朝鮮の歴史書『三国史記』によると、新羅の王号は「尼斯今」(ニシクム)とある。「脱解尼斯今」と表記された王がおり、現代朝鮮語でも「脱(タル)」は「月」、「解(へ)」は「日」の意味であるので漢字で書けば「月日王」の意味になる。このように、日本の万葉仮名に先駆する表記法がすでに新羅にはあったのである。これを「吏読」という。新羅人からこの用法を学び、日本語に適用させたのが万葉仮名であった。
 

 この「尼斯今」 ni-si-kum  を開音節語(子音プラス母音)の倭人は「ニシキ」と発音した。明治時代でも英語の ink は「インキ」、strike は「ストライキ」とか「ストライク」と借用していることからも分かる。
 また、『古事記』によると、応神天皇のとき「論語」「千字文」を持って来朝した百済の「王仁」を「わに」と読ませるのも、漢字「王」は  wang  と鼻音なので、鼻音を持たない倭人は現代日本語同様「ワン」と発音したが、この時代「ん」に当たる文字がなかったので、「ん」に「仁」の字を当てたと考えられる。この「王仁」は漢文に習熟した漢人、楽浪王氏の一族であった可能性が高い。

 漢語「錦」に新羅の王号「にしき」の訓読みを与えた当時の飛鳥・奈良時代の日本人は、その意味を当然知っていたはずである。がしかし、「明日香」や「奈良の都」同様、時代を経るにしたがいその記憶はうすれ、だれも分からなくなってしまったのであろう。
 なお戦前、大槻文彦がその著『大言海』において、「錦(にしき)」の説明のなかで「新羅の王号を尼斯今と云う」と控え目に書いている。皇室に遠慮したのであろうか。この説のプライオリティ(先取権)は勿論、大槻文彦にある。
 

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明日香と朝鮮

2007年11月19日 | 歴史

 明日香(あすか)の語源についてはこれまで色々な説が出されている。大和・磯城郡の「磯城(しき)」と関係があるとか、「あ-すか」と読んで、横須賀などの「すか」(土地)の意味だとか言われてきた。私は「明日香」も先に述べた平城京(奈良)と同じように朝鮮半島と密接な関係があると思っている。

 -古代朝鮮の神話ー
 
 朝鮮・高麗時代(1285年)に書かれた『三国遺事』には朝鮮半島の神話が語られている。それによると、半島の北部から旧満州にかけて4000年ほど前に「古朝鮮」という国があり、その始祖は「檀君(だんくん)」と言われ、都を「阿斯達(アシダル)」に置いたとある。その「阿斯達」が高句麗の首都・平壌であるとされている。これは、漢の楽浪郡の中心地が「朝鮮県」(今の平壌)であったことから思いついたものであろう。「朝鮮」という国名も元々は漢帝国の支配地、楽浪郡の一県名であったのである。

 古事記の神武天皇神話と同じようなもので、所謂「檀君神話」と言われている。この「阿斯達(アシダル)」こそ「明日香」の語源であると思われる。
「阿斯達」の「あし」は「朝(あさ)」の意味だと考えられる。日本語の「あさ(朝)」は「あす(明日)」「あした(明日)」と単語家族  word family  を形成する。古語では「朝」は「あした」とも読み、翌朝、早朝の意味でもあったことは高校の古文の授業で学んでご存知と思う。「あした」が明日 tomorrow の意味に限定されるようになったのは近世以後である。言語学的には日本語の「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした(朝)」「あずま(東)」と朝鮮語で朝の意味の「アチム」が比較されている。

 ただ、古代朝鮮語の文献資料が非常に少なく、「阿斯」が高句麗語で「朝」の意味があったのかどうかは不明であるが、「達(タル)」は高句麗語で「山」(土地、場所の意味にも使う)の意味であることは朝鮮の古代史書『三国史記』の記述から証明されている。つまり、漢字で書けば「朝鮮」、漢字の音を借りて万葉仮名風に書けば「阿斯達」となり、同じ意味である。なお、1392年李成桂が高麗国王から禅譲という形で新王朝を開いたとき、国名を古朝鮮(檀君朝鮮)の神話からとって「朝鮮」とした。

 ー明日香と阿斯達ー

「明日香」は「あす・か」と読み、「あす」は「あさ」「あした」と単語家族であり、同じような意味である。「香」は「有りか」「棲みか」の「か」で土地、場所の意味であるので、「あすか(明日香)」とはまさに「阿斯達(朝鮮)」を日本語に置きかえたものだと考えられる。これは何を意味するのか。6、7世紀の倭国には半島から多くの移住者があり、さまざまな分野で貢献している。政治制度、建築、仏教、漢字文化などに半島の顕著な影響がみられる。このような背景の元で日本の新たな都(みやこ)として造営された地に「あすか」の名が付けられたのであろう。これは、後の平城京を「なら(楽浪)のみやこ」と呼ぶのと同じ発想である。

 このような例は世界史上いくらでも見られる。18~19世紀の帝政ロシアはこれまで軍事的には強国であったが、西欧列強からは政治制度や文化、技術で遅れをとっていた。そのため、国家をあらゆる面から強国にしようと多くのドイツ人を招いた。その結果、西欧列強にひけをとらない大国となった。実は、帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)はドイツ語なのである。また、オスマン・トルコ帝国でも政治、法律、経済などで多くのペルシャ人が登用されていた。古代日本も、巨大古墳を作るほどの強国であった(4世紀末には渡海して高句麗と戦っている…好太王碑文)。また、5世紀には中国・南朝の宋に朝貢し、半島の南部(任那・加羅)の支配権を認めさせている…「宋書倭国伝」。

 その後、6~7世紀頃には朝鮮三国が中国(隋、唐)の諸制度や文化を導入し、古代版の近代国家へと変貌した。地勢上、遅れをとった倭国はかれら半島の人を登用して日本を近代国家にしようとした。その中心となったのが蘇我氏であり聖徳太子であった。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧であったことは『日本書紀』に書かれている。そうして、藤原京の造営や大宝律令の制定によって倭国の近代化は完成した。それが飛鳥・藤原京時代であったのである。

 

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卑弥呼は漢字を知っていた!

2007年11月03日 | 歴史

 邪馬台国時代(三世紀)には倭人は漢字を知らなかったというのが古代史の定説となっている。「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の地名、人名などは倭人の発音を聞いた魏の使者が漢字表記したものであると。日本に漢字が伝わったのは五世紀頃で、『古事記』にある百済から「王仁(わに)」の来朝記事がその根拠とされてきた。毎年、洪水のように出される邪馬台国関係の本や論考でもそれが自明のこととして書かれている。
 

  しかし、これに「異」を唱える人が現れた。『邪馬台国はなかった』の著者・古田武彦である。古田氏は、倭人は前漢以来「以歳時来献見」(『前漢書』地理誌)と半島の楽浪郡に朝貢し、漢字文明と接触していること。「魏志倭人伝」にも「郡使倭国 皆臨津捜露 伝送文書」と文字を使った事務作業を行っていること。そうして、決定的なことは帯方郡使が卑弥呼に対して「奉詔書印綬」と書面を渡しており、それに対して卑弥呼は「倭王因使上表 答謝詔恩」と魏の皇帝に対して答礼の上表文を呈している。これらの記事を読むかぎり、卑弥呼の宮廷には漢字に習熟した人がいたことは明らかである。(その人が倭人であったかどうかは別として)
 古田氏は至極当り前のことを言っているのである。明治以来日本の学者は「倭人伝」を本当に真面目に読んできたのであろうか。ただし、古田氏の唱える「邪馬壱国」は支持できない。中国史書『後漢書』(五世紀) にはちゃんと「邪馬台国」とあるのである。日本の学者が「大和(やまと)」に合わせるため、勝手に「壱」を「台」に読み替えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の「倭人の条」は『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。現存している『魏志』はずっと後の12世紀(南宋代)の版木本のみである。
 私も邪馬台国には漢字に習熟していた人がいたと思っている。その根拠は「倭人伝」に記された「対馬国」と「末盧國」にある。

(1)対馬国
 「対馬」の表記は「倭人伝」以来、今日まで変わらない。七世紀の『隋書』倭国伝には対馬は「都斯麻」と万葉仮名で表記されている。これは中国人が当時の日本人の発音を聞いて書いた文字ではなく、すでに漢字で日本語を書き表す方法を習得していた日本側が隋の使者に示した文字であろう。万葉仮名というのは子音プラス母音で一音節を構成する日本語を、漢字一文字で書き表すものである。現代でも新彊ウイグル自治区の首都ウルムチは漢字で「烏魯木斉」、内モンゴル自治区の首都フホホトは「呼和浩特」と表記される。日本の万葉仮名そっくりである。もし、定説のように邪馬台国の倭人が漢字を全く知らず、「ツシマ」と倭人が発音したのを漢人が表記したとすれば、先の「烏魯木斉」「呼和浩特」の例のように漢字3文字になるはずである。時代は下がるが、『明史』日本伝にも「明智光秀」を「阿奇支」と表記した例もある。しかし、「つしま」は「対馬」と漢字2文字である。これは何を意味するのか。
 

 一つには対馬は三世紀には「ツマ」と2音節語であったのか。いや、私は対馬は三世紀も「ツシマ」であったと思う。なぜなら、対馬の語源は「津島」であるからである。「倭人伝」の「対馬」は倭国側で使っていた表記をそのまま魏使が書き写したものと考えられる。対馬は上下二つの島から成り立っている。正確には日露戦争のとき狭い水路を掘削して完全に二島に分離されたものだが、古くから二島と認識されていた。むしろ、二つの島が対(ペアー)になっているというのがより正確である。「対馬」はまさにそれに適っている。つまり、漢字の意味を借りたのである(訓借)。では、なぜ「対島」と表記されなかったのか、その理由は分からないが、「対馬」は邪馬台国側で使っていた表記であることは間違いない。                                  

(2)末盧國
 現在の長崎県松浦半島にあった「末盧國」も「マツラ」と3音節である。当然、魏使は漢字3文字で表記したはずである。ところが、実際は「末盧」と2文字である。なぜか、 それは一音節語の漢字「末  mat 」を倭人語風に「 mat-u (マツ)」と母音を加えて2音節にして使用しているからである。 これは漢字で日本語を書き表す手法を習得していた七世紀頃には一般的であった。筑紫の「筑」は漢字音  tik を  tik-u 「チク」又は「ツク」と2音節で使う。 地名表記でも「信濃(シナノ)」は「 sin-a no 」、「讃岐(サヌキ)」は「 san-u  ki 」というふうに母音を加えて使う。『魏志』より400年後に成立した『隋書』倭国伝には「筑紫」を「竹斯国」と表記している。「魏志倭人伝」の「末盧國」と同じ用法である。つまり、「竹   ti k 」を  ti k-u  と母音を加えて二音節として使っている。( 一音節の漢語「末 」や「竹」を「マツ」や「チク」と母音を加えてニ音節化して使う, この用法を国語学で「ニ合仮名」と言う)。なお、『古事記』には「末羅縣(まつらのあがた)」として出てくる。
 

 この用法はすでに五~六世紀頃に造営されたと思われる埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘文に現れる。それには「多加利足尼」とあり、この「足尼」が飛鳥・奈良時代の位階のひとつ「宿禰(すくね)」を意味する言葉であるとされている、(例、大伴宿禰家持)。 三世紀の邪馬台国時代にすでに、七世紀の飛鳥時代と同じ漢字使用法が定着していたのである。朝鮮漢字音では漢字はそのまま一音節で借用している。(例えば、「国」は kuk 、日本語の  koku  (コク) とは全く違う)
 

 これらの事実は驚くべき結論をさし示す。つまり、邪馬台国時代の倭人は漢字を知らないどころか、すでに漢字で倭人語を表記する方法を習得していた。その証拠が「対馬国」と「末盧國」である。倭人に漢字をもたらしたのは楽浪・帯方郡の漢人であろう。漢人のうち何人かは卑弥呼の宮廷に近侍していたはずである。そうして、倭人の中にも漢字に習熟していた人たちがすでに存在していた。そう考えなければ「倭人伝」にいう「倭王因使上表、答謝詔恩」などの文が理解できない。他にも、国々にあった「市(いち)」の監督官「大倭」、伊都国に置かれた政治・軍事の監察官「一大率」、この「大倭」と「一大率」などは邪馬台国が独自に決めて使っていた文字であることは明らかである。邪馬台国にやってきた漢人(魏使)がどうしてこんな漢字を思いつくだろうか、あり得ないことである。前漢以来の楽浪・帯方郡と倭国との密接な交流の歴史を再認識する必要があるのではないか。
 

 <追記>

 なぜ、明治以来の邪馬台国論争でこれらのこと(倭人が漢字を使っていた)が無視されてきたのか。その理由は単純なところにある。日本国家の中心は大和の天皇家であり、日本のすべての古代文化(古墳も漢字も仏教も)はまず大和から始まり、そこから列島の隅々まであまねく伝えられたという虚構(皇国史観あるいは大和中心史観)にある。邪馬台国=大和説こそ皇国史観そのものである。今でも、地方で立派な出土物が出ると、大和朝廷の勢力はここまで及んでいたのか、と言う学者が少なからずいる。すべてはここにある。

 近年、九州の弥生時代遺跡(紀元前後)から相次いで、硯(すずり)石の断片が出土している。卑弥呼の時代の吉野ヶ里遺跡からも硯石と研石が発見されている。おそらく、楽浪・帯方郡から倭国に移住してきていた漢人が持ち込んだものであろう。「卑弥呼は漢字を知っていた」との私の論考の正しさを証明してくれている。

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平城京はなぜ「ならのみやこ」と称されるのか ?

2007年10月16日 | 歴史

 奈良時代の大宰権帥・小野老(おゆ)の有名な歌「 あおによし 寧楽(なら)の都は 咲く花の 匂うが如く いま盛りなり 」。平城京は「ならのみやこ」と称されてきた。万葉仮名では「寧楽」とか「奈良」と表記される。なぜ「なら」なのか、これまで色々な説がだされてきた。土地をナラして造営したから「ナラ」だとか、朝鮮語の「ナラ(国)」が語源だとか。私は「ナラ」の語源は前漢・武帝が朝鮮半島に設置した楽浪郡(現在の平壌)にあると思っている。「楽浪」は朝鮮漢字音で「 nak - rang (ナラ)」と読める。このことをすでに指摘している人はいる( 駒井和愛『楽浪』中公新書 )。朝鮮漢字音では語頭の R音は脱落もしくは N音に変化する。ちなみに、韓国では姓の「李」は「イ」と発音するが、スポーツ選手などは対外的に「Li(リ)」を使っている。北朝鮮ではすべて「リ」に統一している。
 

 漢帝国の出先機関・楽浪郡は倭人をはじめ東夷諸民族の憧れの地でもあった。この間の事情を『前漢書』地理誌は「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」と記録している。ところが、世紀313年、北方の高句麗が南下して楽浪郡を併合し、427年にこの地を「平壌」と命名して首都にした。ここで旧名称「 楽浪(ナラ)」と新名称「平壌」の関係ができた。丁度、「江戸」と「東京」の関係と同じように。
 漢字「壌」は土や土地のほかに国や国土の意味もあり、「城」にも国の意味もあるので「壌」と「城」は音義ともに一致する。つまり、次のような関係が成り立つ。
          

                   高句麗    ・・ 平壌  ー 楽浪(ナラ)
       日本     ・・ 平城  ー 奈良(なら)

 ー楽浪府は土塁の城市ー
 高句麗が「城」ではなくなぜ「壌」の文字を使ったのか、その理由は簡単明瞭である。楽浪府は土塁で囲まれた城市であった。戦前の調査でも土塁の一部が確認されている。 日本の7世紀は、朝鮮半島の高句麗、百済が滅んで多くの半島人が日本に亡命してきた時代でもあった。故国を失った彼らは日本の地に自分たちの理想の国家像を重ね合わせ、日本の古代律令国家建設に貢献した。聖徳太子が建立した日本最古の寺・法興寺(現在の飛鳥寺)は高句麗の清岩里廃寺と同じ様式であったことが分かっている。『日本書紀』にも高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置したとの記事もある。現在、埼玉県日高市に高(句)麗一族を祀る高麗神社がある。足利尊氏の家臣、高師直もその末裔であろう。高句麗の王姓「高」を名乗っている。
 これらの事実を背景にして710年平城京の成立とともに「ナラのみやこ」と呼ばれるようになったと思われる。この時にはまだ亡命半島系の人たちの影響が残っていたのであろう。しかし、時代が経るにつれて半島の記憶はうすれ、いつしかなぜ平城京が別名「ならのみやこ」と呼ばれるのか誰も分からなくなってしまったのであろう。

 最後に朝鮮語の「ナラ(国)」との関係であるが、高句麗語、満州語、日本語では土地のことを「ナ」と言う。日本語では「名主(なぬし)」として江戸時代まで使われてきた。また、出雲神話の主人公「大国主命」は、古事記には別名「大己貴神」ともあり「オホナムチ」と読ませている。「ムチ」は尊称なので「己」(ナ)は「国」の意味でもある。だが、 朝鮮語の「ナラ」が高句麗時代に存在していたかどうかは資料がなく分からない。韓国・朝鮮の人が書いた本などに古代朝鮮語ではこうだなどの記述が散見されるが、古代朝鮮語の文献資料はほとんど残っておらず、せいぜい、李氏朝鮮時代(16世紀頃)までしか遡れない。この「ナラ(国)」もしかり。私は漢字「楽浪」を高句麗風に「ナラ」と読んだことから「国」の意味が生じたと思っている。なぜなら、漢の楽浪府こそ朝鮮半島で最初の本格的な都城、つまり、国都であったから。それが、なんと800年後の海東の日本にまで伝わり、平城京は「なら(楽浪)」と呼ばれた。
 
 <追記>

 万葉集の柿本人麻呂の有名な歌  「楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」
 

 この志賀にかかる枕詞「さざなみの」になぜ「楽浪」の文字を当てるのか、これまで明確な説明をした人はいない。誰も分からなかったのである。この枕詞「楽浪の」は別の歌で「楽浪(さざなみ)の 国つ御神・・・」ともあり、国にかかる枕詞でもある。私のこれまでの論証、「楽浪」=「ナラ(国)」であると7世紀の万葉人たちが認識していたと考えれば、「楽浪の志賀(近江京)」という表記が生まれた理由がわけなく理解できる。平城京=奈良の都の生まれた所以(ゆえん)である。
 また、近年発見された奈良県明日香のキトラ古墳(7世紀頃)の天井の星宿図がなんと紀元前一世紀頃の平壌(当時は前漢の楽浪府)の夜空の観測図であったとのこと、飛鳥時代の日本人の「楽浪」に対する思い入れの深さを如実に物語っていると言える。  

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坂本龍馬の妻「おりょうさん」 異聞  -終章ー

2007年09月01日 | 歴史

  龍馬の妻「おりょうさん」の墓は横須賀市の信楽寺にある(写真)。このお墓にまつわる物語でもってこの話の終章としたい。
 このお墓の建造者は鈴木清治郎という人物である。この墓ができた時(大正3年)当時の新聞などで報道された。その後、清冶郎は何度かマスコミ関係者から取材を受けている。この鈴木清冶郎へのインタビュー記事が、昭和15年1月15日号の「サンデー毎日」に掲載された。この記事を『歴史読本・特集号』(1989・5)が「日本史の目撃者」と題して引用している。この記事のなかで語る清治郎の話が一番信用できる(同氏の写真も出ている)。

 鈴木氏が語るには、おりょうの死の2年ほど前(明治37年ごろ)横須賀の町の露店で、おりょうの夫、西村松兵衛と知り合う。清治郎は大道易者であり、松兵衛も露天商を営んでいた。二人は親しくなり松兵衛の家に泊めてもらうほどになった。横須賀の裏長屋のその家に松兵衛の妻「おりょう」がいたのである(その時は西村ツルであった)。そのツル本人が「自分は坂本龍馬の妻、おりょうだ」と言ったのである。同氏の印象では酒好きの鉄火婆さんだったとのこと。今、信楽寺にある「おりょう」の晩年の写真は本人が死ぬ数年前にある雑誌社の取材を受けたときに撮影されたものである。
 

 その後、しばらくして坂本龍馬のことが新聞に載り(これは日露戦争のとき、龍馬の姿が皇后の夢枕に立ったとのことであろう)、清冶郎は松兵衛の家を訪ねたが、そこで「おりょう」が死んだことを知ったと語っている(明治39年)。しかし、夫、松兵衛は零落しており、お墓もないとのことなので、自分が「おりょう」のお墓を建ててやろうと思い立ち、龍馬ゆかりの元勲、香川敬三とか当時の横須賀鎮守府長官などからお金を集めて建てたのが、横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。

 お墓の銘には 「 贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓 」とある。(阪は間違い)
 墓の土台部分の側面に4人の名前が刻まれており、西村松平(松兵衛)、鈴木漁龍(清次郎)、あと一人は不明、それと石工の名前である。

「龍子」は「たつこ」と読むべきだと考えている。新発見の写真から「おりょう」の本名は「たつ」であり、夫、龍馬が「おりょうさん」と愛称で呼び、その周辺の人は通称として「おりょう」と認識していた。「龍子」とは夫が正四位の官位を持っているので、当然、公家風に「龍子」とするのが当時のならいであった。(木戸孝允の妻は幾松という名の芸者だったが、明治以後は松子を名乗っている)。
「おりょうさん」は明治8年に西村松兵衛と「ツル」という名で再婚しているが、その人生はけっして幸せではなかったのである。
 

 <追記>

 秋篠宮の長男の名前は悠仁(ひさひと)と言う。秋篠宮が記者会見で「悠仁親王を家庭ではどう呼んでいますか」との質問に、同宮は「ゆう(悠)ちゃんと呼んでいます」と答えていた。父親が子供の名前を間違えるはずはないので、「悠仁(ひさひと)」は間違いで「悠(ゆう)」が正しいと主張する人はいないであろう。
 昔の女性の名前は文献資料が非常に少なくほとんど伝わっていない。初代土佐藩主山内一豊の妻の名「千代」も確実な文献史料では確認されていない。織田信長の正室・濃姫も「美濃の姫様」という通称名であろう(斎藤道三の娘)。同じく、源頼朝と妻、政子の娘「大姫」も通称であろう。本名は伝わっていない。
 北政所の「おね」も、龍馬の妻「おりょう」も、夫が妻を日常そう呼んでいたにすぎないというのが私の考えである。秋篠宮の例を出すまでもなく、親しい人を愛称や通称で呼ぶという人間の心は古今東西、民族と時代を超えて変わらないものである。

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坂本龍馬の妻「 おりょうさん 」異聞

2007年07月28日 | 歴史

                                   

おりょう写真の画像

                              写真 2

おりょう写真の画像

                              写真 1          

 坂本龍馬の妻は「おりょう(龍)」と呼ばれている。よく雑誌の幕末特集号にその写真が掲載されご存知の方も多いと思う(写真 1)。ところが近年もう一枚のおりょうの写真が偶然古本市で、明治の古写真として売られていた。それはこれまでの立ちポーズと違い、椅子に腰掛けたものであった(写真 2)。ところが、なんとその写真の裏面に墨書で「 たつ 」と書かれていたことから、これまでの「おりょうさん」の写真も本当におりょうさんか疑わしくなった。このことを京都国立博物館の宮川学芸員が雑誌「歴史読本」(2002年2月号)で紹介されていた。私の結論として、このもう一枚の写真が出てきたことで従来のおりょうの写真がまぎれもなく「龍馬の妻、おりょうさん」その人であることが証明されたと思う。その理由は・・・

 (1)本来の写真の所有者・中井 弘にある
 写真の所有者、中井 弘は薩摩藩士であったが脱藩し、攘夷活動のなかで土佐の後藤象二郎の知己を得て英国に留学した。帰国後は宇和島藩主・伊達宗城に見込まれて、幕末の京都で宇和島藩の(外交)周旋方として活躍した。このとき坂本龍馬とも知り合ったものと思われる。 明治新政府のもとで外国事務応接係に任命され、明治元年、御所に向かう英国公使パークスが尊攘浪士に襲撃されたとき、先導役であった中井は自ら抜刀して応戦し、浪士を斬り倒したことで知られている。その後、明治政府の要職を歴任し、明治17年滋賀県知事、元老院議員、27年には京都府知事になったがほどなく病で57歳で死去した。この中井 弘が死の直前、所有していた遺品、書簡類や写真アルバムを、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された京都の近江屋の主人、井口新助に託したものである。最近、それらが井口家から京都国立博物館に寄贈された。
 

 そのアルバムの中に丸々一ページをさいてきちんと装丁されていたのが(写真 1)の立ち姿なのである。そのアルバムには中井と親交のあった明治の顕官、黒田清隆なども含まれており、これまでよく言われてきた ーあれはお龍さんの写真ではない、明治時代に外国人にみやげ用として撮影された芸者とか遊女の写真だー と。しかし、残されている芸者の写真はきちんとお座敷に出る正装をしているし、明治の元勲、中井 弘が同じアルバムにそのような写真をはめ込む訳がない。また、井口家では代々、その写真は龍馬の妻、おりょうであると言い伝えられてきた。近江屋主人、井口新助は幕末に多くの志士たちを陰で援助していたことが知られている。龍馬はたまたま偶然、近江屋に止宿していたのではないのである。また、中井弘の京での下宿先は近江屋があった河原町のすぐ隣の木屋町であった。近江屋を介して龍馬と中井 弘がつながった。

 (2)新発見のもう一枚の写真にある
 もう一枚の写真の裏面の文字「たつ」こそ「おりょう」の本名であったと考えられる。そのいきさつは先の「北政所」と同じで、坂本龍馬は本名「たつ」を漢字で書けば自分の名前「龍」と同じことから愛称として「お龍(おりょう)」と呼ぶことにしたのであろう。龍馬が「おりょうさん」と呼んでいたことは、有名な霧島温泉への新婚旅行に同行した薩摩藩士、吉井幸輔の孫の証言から分かっている。「おりょう」は龍馬の死後一時、土佐の坂本家に身を寄せていたが、ほどなく京都に戻っている。その後、龍馬ゆかりの人を頼って東京に出て、明治8年に再婚している。「おりょう(龍)」が頼った人こそ中井 弘その人ではなかったか。「おりょう」の上京を世話したのは近江屋主人、井口新助であろう。
 

 「おりょう」は上京するまでの数年間は京都にいた。両親はすでに無く、弟はいたが京都で頼れる所は近江屋以外に考えられない。龍馬が暗殺された後、土佐の坂本家に行く前、いったん京都に戻り、その時、近江屋に泊まっていたことをお龍本人が後年語っていることから推測される。(一坂太郎編『わが夫、坂本龍馬』)
 撮られた2枚の写真は当時東京の有名な写真館で、その背景や備品などから多くの明治の顕官やその妻女が撮影している所である。芸者や遊女が撮影できるような場所ではない(その経営者は明治天皇のお抱え写真師でもあった内田九一である)。そこに「おりょう」を連れて行ったのは中井 弘その人だったと私は思う。だからこそ、立ち姿の一枚を中井に渡し、おりょう本人がもう一枚を所持した。そこに本名の「 たつ 」と署名した。坂本龍馬の妻としての「おりょう」と決別しようとしたのであろう。これが真相ではないのか。 
 この「 たつ 」と署名された写真がどのような経緯で現代の古書市に出回るようになったのかは知る由もない。龍馬に愛称で「おりょうさん」と呼ばれ可愛がられた京の町屋の娘「たつ(龍)」の薄幸の人生に思いをはせるばかりである。

 実は「おりょう(たつ)」の名前は晩年に再び当時のマスコミに登場する。このことは次回に。乞御期待
  
 <追記>
 この文を書いたときは気付かなかったが、最近(2010年)自説を補強する新事実を発見した。それは「おりょう」について故郷の乙女姉に書き送った手紙の内容であるが、それには「今の名ハ龍と申 私しニにており候」とあり、続けて「早々たずねしニ、生レし時父がつれし名よし」とある。(「つれし」は「つけし」の誤記であろう)
 この手紙の日付は慶応元年9月9日(1865年)、この時、二人はまだ結婚していない。ここで「今の名」とは寺田屋の女中としての呼び名ではないのか。龍馬はそれをそのまま使った。「おりょう」の父(楢崎将作)は安政の大獄に連座して亡くなった。その後、おりょう自身は寺田屋の女将・お登勢の世話で女中奉公していた。その寺田屋におりょうを連れて行ったのは他ならぬ龍馬その人であった。
 

 この時代、旅籠やお茶屋の女中、あるいは芸者などの呼び名は本名を使わず通称名を使うのが一般的であった。現代でも水商売関係では「源氏名」を用いる。この「今の名」とは寺田屋での女中としての呼び名であったと解釈すればすんなり理解できる。
 漢字「龍」は「りゅう」と「たつ」の音訓二つの読みがある。本名は「たつ」であるが、寺田屋では「おりょう」と呼ばれ、漢字で書けば「龍」なので自分の名前と似ていると言っているのがこの手紙の真意ではないのか。そうでなければ「今の名」の意味が理解できない。この手紙だけでは父が「龍」と名付けたことしか証明できないし、振り仮名はない。
 
 この手紙の全文を読むと、龍馬とおりょうは寺田屋以前に既知の間柄であったことが分かる。それも単なる知人ではなく、相当親密な関係であったことが推測される。その理由は、おりょうの身の上話をかなり詳しく書いていること、おりょうが乙女姉を真の姉のように思い、会いたがっているとまで書いていることである。つまり、龍馬自身が故郷高知の家族の話をおりょうに語っているのである。普通、自分の家族のことや身の上話をする場合、当然、相手の名前は知っているはずである。
 だからこそ、龍馬は「元の名」を知っていた上で、「今の名」と書いたのであろう。元の名は「たつ(龍)」、今の名は寺田屋の女中名「おりょう(龍)」、このように理解するのが一番自然である。龍馬が日常、「おりょうさん」と呼んでいたので、三吉慎蔵などその周辺の人もそう認識していた。新発見の写真の裏面の墨書「たつ」の真相はこんなところにあるのではないか。

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北政所の本名は「 ねね 」か「 おね 」か ?

2007年07月09日 | 歴史

 ドラマや小説などで豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の本名は「ねね」と「おね」と二通り出てくる。最近はほとんど「おね」が使われているが、京都の観光名所、東山・高台寺前の通りは「ねねの道」となっている。一体、どちらが正しいのか。結論は両方とも妥当性があると言える。

1)「ねね」説の由来
 戦国時代の女性の名前で文献資料ではっきり分かっている人は少ない。武田信玄の正室・三条夫人は京都の三条家から来ているのでそう呼ばれているが、本名は分かっていない。同じく、土佐の藩祖・山内一豊の妻「千代(ちよ)」も文献資料にはない。代々、土佐藩でそう言い伝えられてきたにすぎない。北政所の場合は、江戸時代の初期に二代将軍秀忠の馬廻りで、大阪夏の陣にも参加した土屋知貞という武士が書き残した『太閤素性記』という書物があり、それには

 「太閤本妻ハ同国朝日郷ノ生レ父タシカナラス同国津島ノ住浅野又右衛門姪ナリ幼名禰々」
 
 とあり、明確に「禰々(ねね)」と書かれている。また続けて「幼名禰々御料人後政所 後号高台院」とも書かれている。この『太閤素生記』という本があったからこそ、北政所の名前は「ねね」と分かったのである。有名な『太閤記』には「北政所」や「政所様」はあるが「禰々(ねね)」はない。(『太閤素生記』は「史籍集覧・第13冊」に収められており、大きな図書館にはある)

 なお同書には、お市の方の三人の娘の名前を
 
「太閤別妻淀ノ御方幼名チャ へ 御料人秀頼御母・・二女ハ幼名ハツ御料人高次京極宰相方ヘ・・三女ハ幼名督御名小督御料人ト云」
 
 と正確に書かれている。三女「督(ごう)」は、普通は「江」の字が使われるが、通称「おごう」と呼ばれていたようである。(『徳川幕府家譜』には「於江与君」とあるので、本名は「江与(えよ)」であったのかも知れない。通称がそのまま本名のように使われていたのであろう)。 この時代、別に戸籍制度があるわけでないので通称名が一般化する場合も多い。例えば、「阿姫」とか「小姫」などの人名が史料に出てくるが、日本には「阿(あ)」とか「小(こ)」などの一音節の名前はないので通称名であることは明らかである。源頼朝と妻、政子とのあいだに生まれた娘は「大姫(おおひめ)」と呼ばれているが、これも通称であろう。本名は伝わっていない。また、漢字表記も様々あるのが普通である。二女「初(はつ)」も「発」と書かれた例もある。土屋知貞は『平家物語』の「小督(おごう)」にちなんで「督」の字を使ったようである。おそらく、土屋知貞は『平家物語』を愛読していたのであろう。

2)「おね」説の根拠
 北政所の甥の家系、木下家の備中足守藩の文書(足守文書)の中から近年、夫の秀吉が肥前名護屋から大坂の北政所に書き送った手紙が発見された。それによると 「(秀吉が)大坂に戻ったらそもじと抱き合ってゆるゆる昔物語りなどしたい」とあり、われわれ現代人でも赤面するような文面である。人たらしの名人、秀吉の面目躍如たるゆえんである。自身は肥前・名護屋城に側室の「淀殿」や「京極殿」を伴っているのに・・。
 この手紙の末尾に 「  お祢へ  」と秀吉が署名しているのである。(祢は禰の略字)  このことから、日本史の学者らが、夫が妻の名前を間違えるはずがないと、北政所の本名は「ねね」ではなく「おね」が正しいと言い始めたのである。他にも、秀吉が小田原の陣所から北政所に送った手紙の宛名も「 お禰 」になっている。
 

 この時代、女性の名前には「お」を付けて呼ぶのが普通である。「おまつ」とか「おたま」のように、「ねね」の場合は「おねね」と言いにくいので、夫、秀吉が「おね、おね」と愛称として呼んでいたのではないか。秀吉の手紙も書状というより会語体の今でいうメールである。秀吉が日常そう呼んでいたにすぎないと考えるのが一番無理がない。近親者を本名ではなく愛称や通称で呼ぶことは古今東西どこにでもあることである。ただ文献史料には残りにくいだけである。
 結論として、北政所の本名は『太閤素生記』にあるとおり「ねね」であり、「おね」は夫・秀吉にのみ許された愛称であったと思われる。この時代「ねね」の名を持つ女性は数多い (諏訪頼重に嫁いだ武田信玄の姉など)。
 
  なお、子がなかった北政所は甥たち(実兄、木下家定の子供)をとても可愛がり、彼らに書き送った愛情細やかな手紙が何通か残されている。そして、その手紙に「寧」とか「祢」と署名している。このことから北政所の名前は「禰(ね)」だと主張する人がいるが、これは論外である。日本人の名前は古代の女王・卑弥呼以来、今日に至るまで「ね」などの一音節の名前はない(中国や朝鮮には「美(ミ)」などの一音節の名前はある)。                                                             

 織田信長が長浜時代の「ねね」に書き送った手紙(秀吉の浮気を大目にみてやれとの内容)があるが、それにはなんと平仮名で「 のぶ 」と署名しているし、坂本龍馬が高知の家族に送った手紙にも「 龍 」とのみ署名されているものが多い。このような例は日本史上いくらでもあり、人間の心は今も昔も変わりない。また、自筆の書状には「寧子」と署名されたものもある。これは従一位の官位を持つ北政所が公家風に署名したものであり何の不思議もない。

 <追記>
 秀吉の死(慶長3年・1596年)の翌年、徳川秀忠とお江の間に生まれた娘が「ねね(子々姫)」と名付けられている。秀忠は子供のとき、秀吉の人質として大坂城にいた。その時、北政所から我が子のようにやさしく可愛がられたことを生涯忘れなかったようである。自身の娘に「 ねね 」と名付けただけでなく、豊臣家滅亡後も高台寺に小大名並みの寺領を安堵している。また、京都に来たときはいつも高台寺に北政所を訪ねている。なお、北政所「ねね」の妹は「やや」という。

 最近、興味ある古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に  ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには

        「 大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女 」

 とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの寄付をしたことがうかがえる。この銘文で北政所が夫の姓(豊臣氏)を称している。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてくれていたら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。

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隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(後編)

2007年06月25日 | 歴史

 前編で鏡の銘文「日十大王」を「日」と「十大王」に分けて読むべきだとの説を発表したが、今回は全銘文の読みを考察する。(便宜上、分けて書く)
 

     癸未年八月日 十大王年 男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直
  穢人今州利 二人等 取白上同二百旱 作此鏡
 
(読み) 癸未年(503年)八月(ある)日、十大王年(武烈天皇の時代)、男弟王(ヲオト王、後の継体天皇)が意柴沙加宮に在る時、(百済王)斯麻は長寿を念じて開中費直(河内直)と穢人の今州利(クムスリ)二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
 
 
 今州利は「州利」が名前で「今」は新羅の王姓「金」と同じで、朝鮮半島東北部から満州にかけて居住していた穢人(後の女真・満州人)の王族・貴人の姓(本来は氏族名)  aisin (アイシン・・金、ゴールド)と同起源と考えられる。現代朝鮮語では姓の「金」は  kim (キム) で、日本語の「きん」同様、唐の長安音であるが、ゴールドの「金」は  kum  (クム) と読み、日本語同様呉音系を使っている、(金銅・・こんどう)。「金(ゴールド)」と「今」の朝鮮漢字音は同じ  kum  (クム) である。おそらく、百済の王姓「余」に配慮して、より権威のある新羅の王姓「金」をあえて使わず、同音の「今」を姓にしていたのであろう。

 百済と日本はこの時代(5世紀ごろ)中国南朝(呉音系)に朝貢していた。百済武寧王は501年即位したが、当時、北の高句麗、東の新羅の圧迫を受け、国の存立は危うかった時代でもある。倭国は百済を支援するため何度も半島に兵を送っている。このことは『日本書紀』の「雄略紀」や「継体紀」に詳しく書かれている。その感謝の意と百済王位(倭王は武烈)に就いたことを記念してこの鏡を作らせたのではないか。「書紀」継体紀に百済の将軍、州利即爾 (スリソニ)が出ているが、「即爾」は尊称と考えられるので、鏡の銘文と同一人物と思われる。現代朝鮮語でも  nim (ニム)  は尊称としてある。 百済武寧王「斯麻」の願いの甲斐なく、百済の首都・熊津(クマナリ、今の公州)は538年に陥落し、南の扶余に遷都したが、最終的に663年、日本の救援もむなしく滅亡した。(白村江の戦い)

『日本書紀』武烈紀と百済武寧王の墓誌が「斯麻」で一致しているのは当然と言えば当然であったのである。「書紀」は武烈天皇を悪逆非道な王として描いているが、これは王位をさん奪した継体天皇側の粉飾であろう。実体は不明である。

 <追記>
 NHK教育テレビ「日本と朝鮮の2000年」という番組で、10月25日の「倭寇」のとき、李氏朝鮮王が対馬の海賊の頭領、早田(そうだ)氏に、倭寇を懐柔する目的で送った「告身」(朝鮮王朝官位任命書)には「弘治六年三月 日」とある、日付の数字は入っていない。つまり、朝鮮王の命令はこの「告身」を三月中に早田氏に渡すようにとのことであり、その日までは特定できないので一字空けてあるのである。(実際、「弘治」は3年まで、西暦1561年に当たる。朝鮮側に正確な情報が伝わっていなかったようである)
 この「告身」と千年の時間差はあるが、百済武寧王が送った隅田八幡宮の鏡「日十大王」もやはり、「日 十大王」と読むのが正しいであろう。この鏡が「男弟王」(後の継体天皇)に渡る正確な日は武寧王にも分からないのであるから。がしかし、八月中には渡すようにと命じたことだけは言える。

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隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(前編)

2007年06月18日 | 歴史

 和歌山県橋本市にある隅田八幡神社の鏡の銘文の読み方については、これまで多くの説が出されている。福山敏夫説が一番有力で日本史教科書にも出ている。しかし、冒頭の「癸未年八月日十大王年」の解釈は「日十 (ひと) 大王」と読むことですべての説が一致している。果たしてそうであろうか ?

 ー人名を「日十」で表記するのは不自然ー
 
 古代の人名で「ひと」の名を持つ人は数多い(彦人皇子、古人皇子、山部赤人など)。「ひと大王」では誰のことか分からない。また、万葉仮名では「人」は「比登」とか「比等」と表記され(例、藤原不比等)、「人」を「日十」と表記した例はない。(「彦」を「日子」、「姫」を「日女」との表記は「記紀」にある)。
 これは八月と日を分けて読むべきではないのか。つまり「癸未年八月(ある)日」と、これは後代に「寛政八年三月 吉日」のように、よく神社の鳥居などに刻まれている用法の原形ではないのか。では「十大王」とは誰なのか。これはこの時代(5世紀頃)中国の南朝の宋に朝貢していた倭の五王にそのヒントがある。倭の五王はすべて「讃」とか「興」とか「武」のように漢字一文字で自身を表わしている。同時代の百済・武寧王は中国の南朝に「余隆」という名で朝貢している。(「余」は百済の王姓なので、「隆」一文字で自身を表していた。他にも、「余映」とか「余固」「余歴」などの例もある)。
 
 この「十大王」も「十」でもって自身を表していたのではないか。その人はだれか。倭の五王も「記紀」に表記された和名と一致するのは雄略天皇ただ一人である。(「大泊瀬幼武」・・倭王武 )。このことから「十」が誰かは特定できないが、雄略のあとの武烈天皇が最有力であると思われる。なぜなら、この銘文にはある特定できる人物名が出ている。それは「斯麻(シマ)」である。その人物こそ百済の武寧王である。

「書紀」武烈紀は「斯麻」、雄略紀は「嶋」と出ている。朝鮮の『三国史記』百済本紀は「斯摩」、そしてなによりも半世紀ほど前、朝鮮半島で未盗掘の状態で発見された唯一の古代の王墳である百済・武寧王陵、その墓誌銘には「斯麻」とあり人々を驚かせた。(武寧王、462~523年) 従って、「十大王」も百済武寧王時代に重なる人物であることは間違いないと言える。「宋書倭国伝」ふうに書けば「倭王十」となる。
 
 現在、韓国・公州市の国立博物館で武寧王陵の出土物は常設展示されているので、一度、行って見学されることをお勧めする。圧巻は日本自生の高野槇で作られた巨大な木棺である。これからも武寧王と倭国との親密な関係がうかがえる。

 <追記>
 歴史雑誌「歴史と旅」(昭和59年5月号)の特集記事で、京都大学の岸俊男教授が「稲荷山古墳の鉄剣」と題して小論を寄せているが、その中で、古代の中国や朝鮮の金石文を何例か出している。それによると、中国で出土した鉄刀のなかに「元嘉三年五月丙午日 造此口官刀・・・」(後漢元嘉3年・・153年)との例が紹介されている。漢代中国では日付を干支で表していた。これを受けて『日本書紀』でも同じ用法を使っている。(下記の史料1.2参照)。

 つまり、隅田八幡宮の鏡の銘文「癸未年八月日十大王年」の場合、日本や百済では元号が無かったので、文頭に干支(癸未)を入れることにより年号を表わし、不特定の意味で「日」のみを刻印したと見るのが一番妥当な考え方ではないだろうか。
 また、日本での発見例として東大寺山古墳出土の鉄刀銘文「中平口年五月丙午 造作大刀・・・」(後漢中平年間・・184~190年)の例も紹介している。やはり、この銘文は「八月(ある)日 十大王年」と読むべきであろう。

 史料1.建始ニ年十月乙卯朔丙子(建始ニ年十月二十二日)・・西域出土の漢代木簡 (籾山 明著『漢帝国と辺境社会』)

 史料2.十二年春三月丙辰朔甲子(十二年春三月九日)・・『日本書紀』継体紀

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