小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「幕府」と「天下」についての最終章  ー日本の言語文化の破壊ー

2024年01月27日 | Weblog

(1)「幕府」に何の問題もない

「幕府」は日本人の言語文化に深く定着している。むしろ、この言葉を明治の学者が日本史歴史用語と決めてくれたことに、我々日本人は感謝しなければならない。その根拠はすでに書いているので、くり返さないが、専門の日本史学者だけでなく、小説、テレビ、漫画などのあらゆるジャンルで、日常、ごく普通に使われている。「幕藩体制」「幕末」「幕臣」「幕命」「幕府洋式歩兵隊」「幕長戦争」「幕府が招聘したフランス軍事顧問団」など、上げればきりがない。また、言語上も語感(言葉の響き)も良い。

 この「幕府」という歴史用語に問題があると、日本史の学会で論争が起きているのを知ったのは10年ほど前の読売新聞の記事が最初であった。その時、「え! なんで?」と思ったのが私の偽らざる心境であった。その時代に「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」などの言葉はなかった。これらは日本の子供たちに日本の歴史を教えるために作られた歴史用語、日本史教育用語である。漢語「幕府」を日本風に借用した明治の日本史学者の言語力にただただ敬服するばかりである。それを近年、「幕府」の定義に問題があるとの論文や著作物が数多く出ている。とうとう、鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍に補任された1192年ではないとの高校日本史教科書まで出現した。なぜなのか? まったく理解に苦しむ。

 それなら、いっそのこと日本史から「幕府」との言葉自体、廃止してはどうか。勿論、明治以前の漢語の「幕府」は抹消できないが、明治以後の歴史教育用語としての「幕府」に問題があると言うのだから。そうすれば「幕府」についての論争などいっさい起きないし、その方が余程スッキリする。「室町幕府」は「足利武家政権」、「江戸幕府」は「徳川武家政権」で十分である。「幕末」は「江戸時代末」、「幕臣・勝海舟」は「徳川将軍家家臣・勝海舟」とすればよい。当然、「幕藩体制」も消える。 ー皮肉を込めてー

(2)「天下」の意味は不変である

 「天下」が日本史上最初に出てくるのは「稲荷山鉄検銘文」に刻まれた「吾左治天下」である(6世紀頃〉、文献資料としては「記紀」にある神武天皇の和名「始馭天下之天皇」(ハツクニシラススメラノミコト)である。この時代(飛鳥・奈良時代)の「天下」はまさに「天(あめ)下(した)」であり、漢語の意味どおりである。ところが、近年、東大教授が言い出した「戦国時代には天下の意味は京とその周辺のことだった」との説が、その権威のゆえか、なぜか真実の如く定説化している。『三好一族』の著者、天野氏もそれに従っている。とんでもない間違い、俗説である。今ここに、その決定的証拠を書く。

 織田信長が武田勝頼を滅ぼした年(天正10年・・1582年)、朝廷は信長を天下人にしようと動き始める。この年の五月、皇太子・誠仁(さねひと)親王が信長に宛てた直筆の書状がある。それには、

「天下いよいよ静謐に申し付けられ候、奇特 日を経ては猶際限なき朝家の御満足、古今比類なき事候へば、いか様の官にも任ぜられ油断なく馳走申され候はん事肝要に候、余りのめでたさのまま・・・」(以下略)

 これを読むと朝廷の真の姿が如実に見えてくる。武田家を討ち果たした信長に歯の浮くようなお世辞(際限なき朝家の御満足)と最高の賛辞(古今比類なき事)を並べ、いかなる官職も望みしだいだと書き送っているのである。さらに続けて、「馳走」(奉公、奉仕)と「肝要」(必要、必須)を使うことで、天皇(朝廷)に仕えるようにと婉曲的に諭(さと)しているのである。(「余りのめでたさ」に至っては少々脱線気味ではあるが・・筆のすべりか)

 ここで重要なことを書いている。冒頭の「天下いよいよ静謐に申し付けられ候」である。この場合の「天下」は東大教授が言うように、京とその周辺のことだろうか。甲州・武田軍はそんなに天下(京と畿内)の脅威であったのか?。京と甲斐は遠く何の関係もない。誠仁親王の使っている「天下いよいよ静謐」とはまさに「記紀」と同じく「天(あめ)の下(した)」(全国・全土)の意味であり、信長の「天下布武」への一歩前進だと褒めちぎっているのである(今日、俗にいう「ほめ殺し」である)。これからも朝廷がいかに信長に不安感を抱いていたかがよく分かる。この親王の書状をその東大教授はどう説明するのだろうか。まさか、関東の武田家が滅んだことにより、京と畿内が静謐になったので、その喜びと感謝の意を信長に伝えたものだとでも・・。一度、その教授に聞いてみたい。

 <追記>

 この「幕府」と「天下」の問題は単なる日本史だけの問題に留まらない。「幕府」も「天下」も現代日本人の言語文化に深く定着している。その意味を否定したり、勝手に変えたりすることは日本の文化そのものの破壊にほかならない。私はそう思っている。まさに憂慮すべき事態である。古今東西、世界のいかなる独裁者でも出来ないこと(言語の意味を勝手に変える)を日本のある一流大学の教授はできるのである。まさに、現代日本は世界に類を見ない超独裁国家と言える。そうして、その権力を支えているのは、ほかでもない某国営テレビとマスコミ各社である。

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三好長慶は「天下人」なのか ? ー 天野忠幸『三好一族』(中公新書)を読んで ー

2023年10月29日 | Weblog

 この本の副題に ー 戦国最初の「天下人」ーとある 。おそらく近年、東大教授が言い出した「この時代(戦国時代)は天下の意味は京とその周辺のことであった」との説を引用した結果だと思うが、この説自体とんでもない俗説である。すでに私が「信長の天下布武について」で書いたように、漢語「天下」の意味は中国も日本も古代から現代に至るまで不変である。文字どおり「天(あめ)の下(した)」である。

 ーこの時代、三好長慶を「天下人」と書いている文献史料はなかったー

 たしかに、三好長慶は名目上の天下人である12代将軍足利義晴、13代義輝を近江に追放して京と畿内九ヶ国を支配していた。さらに、足利将軍に代って朝廷と交渉したり、実際、将軍の権限を代行している事例があったことが本書に書かれていた。だからと言って、この時代の公家、武家、寺社などに残された史料の中に三好長慶を「天下人」と呼んでいる例はなかった。天野氏はこの時代の膨大な文献資料に目を通し本書を書いている。このことには頭が下がる思いであるが、やはり、見つからなかったようである。当然である。その時代の人たちは誰も三好長慶を「天下人」とは見なしていなかったからである。ただし、京を支配する実力者であるとは思っていたであろうが・・。

 ー日本国で「天下人」を指名できるのは天皇だけー

 織田信長が安土城を築き、甲斐の武田勝頼を滅ぼした段階で、朝廷は信長を天下人にしようと画策して、信長に「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」どれでも好きなものを選べと提示した。ところが、信長はすべて蹴った(正確には、返答をしなかった。天皇の命を無視したのである)。朝廷の驚きと不安は相当なものであったろう。過去の源頼朝や足利尊氏とは違うと、信長は天皇や朝廷を廃止して自分が皇帝になろうとしているのではないかと・・。これから本能寺の変、朝廷黒幕説が出ている。この三職とも天皇が任命するものであり、朝廷の官職なのだから。つまり、天皇の臣下になることを意味する。では、三好長慶に朝廷からそのような打診があったのだろうか。この天野氏の本にはないし、その他、この時代を扱ったいかなる著作物でも見たことがない。三好長慶は形式上、足利将軍の家臣である管領・細川晴元のそのまた家臣、摂津・守護代にすぎない。

 ー鎌倉幕府の成立に関する奇妙な高校教科書ー

 SNSで見つけたのであるが、山川出版社の高校日本史教科書には鎌倉幕府の成立についてとんでもない間違いが書かれていた。それには、鎌倉幕府の成立は私が習った1192年(源頼朝が征夷大将軍に補任された年)ではなく、特定の年は書かれておらず次のようにある。

「 1185(文治元)年・・・諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当たり5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が確立した」つまり、頼朝が様々な政策を実行する過程で鎌倉幕府が序々に成立して行った、と言っているのである。

 この教科書の執筆者は基本的な誤りを犯している。源頼朝の時代には「鎌倉幕府」との言葉はなかった。「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」は明治以後に作られた歴史用語である。天皇が頼朝を征夷大将軍に補任して初めて使える言葉であることはすでに書いた。守護・地頭の設置(1185年)を中心に置くのなら 当然、「頼朝政権の成立」か「鎌倉武家政権の成立」とするしかない(「幕府」との言葉は使えない)。ところが「鎌倉幕府」との用語は普通に使っている。この矛盾に執筆者自身は気付いていない。いや、気付いてはいるが、政治的イデオロギーからあえて無視しているかのどちらかであろう。つまり、天皇の任命ということに嫌悪感を持っている人。日本の歴史は天皇(朝廷)を抜きにしては語れない。たしかに、日本国を支えてきたのは全国津々浦々の無名の日本人の力であることは事実であるが、中央政府の歴史はそれとは違うものである。(この出版社の高校日本史教科書は戦後、東大の左派系学者が代々書いてきたものである)

  この鎌倉幕府の問題は当然、室町幕府、江戸幕府へと波及してゆく。今、手元に山川出版社の教科書がないので何とも言えないが、多分、室町幕府と江戸幕府の成立も、足利尊氏や徳川家康が様々な合戦や政治活動の結果、生まれた武家政権であり、天皇(’朝廷)が征夷大将軍に任命した年ではないと思う。そうでなければ「鎌倉幕府の成立」との整合性がとれない。この教科書の執筆者は明治の日本史学者が決めた「幕府」の意味を完全に否定している。それなら、「幕府」とか「幕藩体制」などの用語自体いっさい使うべきではない。「鎌倉幕府」は「鎌倉武家政権」で十分である。

 結論として、現代の日本で「日本は万世一系の天皇が統治する国である」などと書かれた日本史教科書はないように、同じく、「鎌倉幕府の成立は源頼朝が天皇により征夷大将軍に補任された年ではない」と書くような教科書もまた、あってはならないのである。この両者とも日本の歴史を歪曲している。その日本史学者個人がどのような政治思想を持とうと、現代日本は思想信条の自由が保障されており自由であるが、公教育の場にそれを持ち込むことは許されない。この日本史教科書を検定パスさせた文科省の見識のなさに唖然とするばかりである。義務教育で学んだ鎌倉幕府の成立は1192年、ところが、高校日本史では1192年ではないと教師は言う。日本の生徒は一体、どちらを信用すればいいのか? 一度、文科省の担当者に聞いてみたい・・。

 <追記>

 前に書いたが、世界中どの国であれ、いかなる独裁者でも言語の意味を勝手に変えられない。(唯一、例外として、日本のある一流大学教授は別として・・?)。あるテレビの歴史番組に出演していた日本史学者が「戦国時代には天下の意味は京とその周辺のことだった」と話していた。その人はその後、天下は現代風の意味に変わって行ったと言っていた。とんでもない間違い、俗説である。この『三好一族』の著者、天野氏もその俗説に惑(まど)わされた被害者と言える。三好長慶は「戦国最初の天下人」ではなく、「戦国最初の天下人の魁(さきがけ)」とするのが一番正しい評価であろう。京とその周辺九ヶ国を支配し、天下人への第一歩を踏み出したが、結果的に、「天下人」にはなれなかったのであるから・・。

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『「 幕府」とは何か 』(東島 誠 NHK books)を読んで  ーたしかに新事実はあるがー

2023年04月27日 | Weblog

 結論から先に言うと、本書の著者に限らず、日本史で使う「幕府」は明治以前と以後では意味が全く違うとの認識が欠落していると言わざるを得ない。明治の日本史学者が決めた歴史用語(日本史教育用語でもある)を戦後世代の現代学者がいとも簡単に変えてしまうことに私(小松)は憤りさえおぼえる。明治の学者の方がずっと日本語に対する言語力があり、「幕府」との言葉を正しく認識していた。現代学者の言語力はここまで劣化してしまった。坂本龍馬が60歳の他藩の重役に「一筆啓上」を使って手紙を書いている。明治の日本史学者ならこれだけで「一発アウト」と判定するであろう。夏目漱石の弟子たちが漱石先生に対して「一筆啓上」などを使って手紙を書くわけがない。

 ー本書で知った新事実ー

 「幕府」との言葉自体は『吾妻鏡』に出ており、これは「国語辞典」や「歴史辞典」から誰でも知ることができる。ところが、本書には他にも使用例があることを書いている、それは、高野山のある僧侶の記録で「将軍家の裁を申し請う事・・・地頭・守護所に下知せられ・・・もし幕府の御裁定無くんば・・・延応二年二月(1240年)日」とある史料を紹介している。また、蒙古襲来のときには「東関幕府」との用例もあり、室町時代に入って「関東幕府」(鎌倉公方のこと)の使用例も紹介している。著者の説では、東国の武家政権は当時でも「幕府」と呼ばれていた証拠であるとのことであった。しかし、『吾妻鏡』には「文応元年(1260年) 将軍家御居所者称幕府」とあり、鎌倉武家政権自体が自ら「幕府」と称している。鎌倉時代には「将軍府」の意味で「幕府」との呼称は一般的であったのである。新資料はそれを補完したにすぎない。問題は足利尊氏の京の武家政権であるが、「幕府」と呼ばれていたとの資料は全くない。「室町幕府」は明治以後の歴史用語。なぜか、次にこの問題に触れたい。

 ー日本国には東夷(あずまえびす)しかいなかったー

 中国では昔から 東夷、南蛮、西戎、北狄といって、中国の周辺に住む異民族を夷狄と見なしてきた。「幕府」とは中国の皇帝の命により、政治・軍事の全権を委任され、派遣された夷狄討伐軍の本営(将軍府)のことである。日本でも平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が有名。実は、源頼朝はまさに京の朝廷から見れば夷狄である奥州・藤原氏を討伐している(実際、藤原氏は夷狄とはほど遠い京の文化を取り入れた文化国家ではあったが・・平泉・中尊寺)。

 だが、頼朝の先祖、源頼信や八幡太郎義家などは当時「俘囚」と呼ばれ、京の朝廷から軽侮されていた出羽・陸奥地方を平定している(前九年・後三年の役)。その先祖の御威光もあって、頼朝は征夷大将軍に補任され、その本営(将軍府)は「幕府」とよ呼ばれるようになったのであろう。だが、室町幕府の開祖・足利尊氏が滅ぼしたのは鎌倉の執権・北条氏であって夷狄ではない。征夷大将軍補任も形式上のものであり、従って、当時も「幕府」との呼称は生まれなかったようである。次の徳川家康も同じことが言える。家康が滅ぼしたのは大坂の右大臣、豊臣秀頼である。やはり、「幕府」との呼称はなかったのである。幕末に至り、尊王攘夷の志士たちが使い始めるまでは。水戸学を中心とする尊攘思想からすれば欧米列強はまさに「夷狄」であり、天皇から夷狄討伐を命じられている征夷大将軍の本営こそ「幕府」そのものなのであるから。

  ー日本で「幕府」を称することの出来る存在は「征夷大将軍」だけー

 征夷大将軍に補任する権限のあるのは唯一「天皇」だけである。征夷大将軍を中国風に言い換えると夷狄討伐軍の大将軍となる。その本営(将軍府)が「幕府」なのである(戦後の東京 G H Q と同じもの)。江戸幕府の成立も慶長八年(1603)家康が征夷大将軍に補任された時であり、これ以外あり得ない。家康が実質的に国の権力を握ったのは慶長五年(1600)関ヶ原合戦のあとであるが、これでもって「徳川幕府の成立」とは言えない(「家康政権の成立」とは言えても・・)。武家政権イコール幕府ではないのである。日本史の「幕府」との用語はあくまでも天皇が武家の棟梁を征夷大将軍に任命して初めて使える言葉であるからである。明治の日本史学者はこのことを十分理解していた。だからこそ、鎌倉・室町・江戸にだけ「幕府」を使っているのである。(もし、秀吉が関白ではなく征夷大将軍を選択しでいたら、当然、「大坂幕府」との用語は日本史にあるであろう)。がしかし、「六波羅幕府」「福原幕府」「安土幕府」などの用語は絶対にあり得ないのである。

 <追記>

 なぜ、現代の日本史学者は明治の学者が決めた歴史用語をひっくり返すのか。「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」もすべて日本史教育のための歴史用語にすぎない。だが、これには十分な根拠がある。漢語「幕府」は中国・皇帝が派遣した夷狄討伐軍の本営(将軍府)のことであり、日本史ではこの「幕府」を政治体制の意味として使っていることはすでに書いた。私の中・高時代は、鎌倉幕府の成立は頼朝が征夷大将軍に補任された1192年(いい国つくる鎌倉幕府)であった。何の問題もないどころか、これ以外あり得ない。他の説はすべて誤りである。(今の日本史教科書は違うらしい)。現代の日本史学者は先の信長の「天下布武」同様、言語力が劣化しているとしか言いようがない。

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日本語の諸問題(49) またまた文化庁の日本語教師国家資格構想

2023年01月18日 | Weblog

 3年前、この件について書いたが、昨年末、また文化庁が日本語教師国家資格構想を発表した。その新聞記事を読んでも、今一つその主旨がハッキリしない。おそらく、フランスのフランス語教師国家資格制度を真似た結果だと思うが、この文化庁の担当者は現在、日本語が抱えている根本的な問題についての知識が全くないと言わざるをえない。私は以前、たまたま旅行先の民宿でフランス人の若者と一緒になり、英語で話をしたことがある。その人は今、日本の外国語専門学校でフランス語の講師をしているとのことで、自分はフランス政府公認のフランス語教師の国家資格を持っていると言っていた。フランスでは外国人にフランス語を教える国家資格取得には難しい試験があるとのことだった。

 ー文化庁は日本語教師国家資格取得のための試験をどこに委嘱するつもりなのかー

 日本語(国語)の最高研究機関である「国立国語研究所」なのか、多分、断られるであろう。当研究所は外国人を対象にはしていないと。では、留学生に日本語を教えている大学の教授先生方なのか。この場合も、日本語文法理論は様々であり、統一された日本語文法書はない。前に書いたが、ヘボン式ローマ字考案者として有名なヘボン博士の本名は Hepburn (ヘップバーン)であるが、当時の日本人はその名を憶えるどころか発音さえ出来なかった。そこで日本式に「ヘボン」との3音節にしたらすぐ憶えてくれたようである。つまり、ある「日本語教育書」に出ている「読む」の子音語幹  yom  などの設定は日本語の音声構造上あり得ないのである。日本語国家資格者は日本語の文法と音声構造をきちんと外国人学習者に説明出来なくてはならない。勿論、それには文部科学省認定の正式の日本語文法書があっての話ではあるが。(文法抜きの「ホステス日本語」を教えるだけなら何も国家資格など必要ない)

 <追記>

 今回の文化庁の日本語教師国家資格構想もそのうちウヤムヤになって消えてしまうであろう。日本語の正式の文法書すらないのに土台無理な話なのである。大方の国語学者も日本語学者もおそらく、私同様そう思っているであろう。「捨て猫」を例にとれば、国語学者は「捨てる」の連用形「捨て」を使って「捨て猫」と言うと説明する(語幹は「す」)。一方、日本語学者は「捨てる」の語幹「捨て」を使って「捨て猫」と言うと教える。国文法と日本語文法ではこれ程違うのである(まず、世界中にこんな例はない)。文化庁は一体どちらを正式の日本語文法として認定するつもりなのか。日本語教師国家資格制度が正式に発足したら、私も挑戦したいと思っているので早くどちらかに決めてほしい・・。-皮肉を込めて-

 

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日本語の諸問題(48)  「君死にたまふことなかれ」 に使われている「し」について

2022年04月25日 | Weblog

 これは前の  ー「然る」は動詞ではない ー の続編に当たる。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」は日露戦争時の有名な詩であるが、この詩は私の説、助動詞「し」について重要な示唆を与えてくれる。与謝野晶子は明治11年生まれで、堺の高等女学校を出ている。東京帝大の橋本進吉(明治15年生まれ)はまだ「国文法」をつくり上げていない。つまり、与謝野晶子は幸運にも「国文法」なる意味不明の日本語文法を知ることなく、この「君死にたまふことなかれ」を書いたのである。この中の「し」について再考してみる。

1)「末に生まれし君なれば」この「生まれし君」の「し」は国文法では過去の助動詞「き」(有りき)の連体形とされている。ところがである。現代語訳では「末に生まれた君」と訳されている。この助動詞「た」は国文法でも「たる」の「る」が落ちたものであるというのが定説である(「静かな」は「静かなる」の「る」が落ちたもの)。つまり、「生まれし君」の「し」は「たる」(そうある)と同じ意味である証拠でもある。過去の助動詞「き」とは無関係の言葉なのである。(元々、この「き」は活用などしない)

2)「親のなさけは勝りしも」「人を殺せと教へしや」「二十四までを育てしや」この三つの「し」はいずれも同じで、「勝る」の名詞形「勝り」、「教へる」「育てる」の語幹「教へ」「育て」に「し」が付いたもの(「教へ」は古い表記)。もし、「し」が助動詞「き」の連体形なら、「教へき」とか「育てき」などの文が普通にあって然るべきであるが、まずそんな文はない。当然、「教へたり」「育てたり」となるはずである。これからも「し」は「き」の連体形ではなく、この二つ言葉は無関係であると言わざるを得ない。

3)「過ぎにし秋を父君に」・・これも「過ぎる」の名詞語幹「過ぎ」に助詞「に」が付き(例、5時過ぎに行きます)、それに「し」が付いたものである。

 以上のことから言えることは、与謝野晶子は、「し」は助動詞「き」の連体形であるとの国文法の法則など何も知らなくても、ちゃんと見事な詩を書く能力があったとの事実である。彼女はこの「し」の持つ意味を多くの古典文学から日本人の感性として体得していたのであろう。凡人なら「親のなさけは勝りたり」とするところを、「勝りしも」と「し」を使うことで親の愛情の深さを表わしているのである。「し」は詩文としても優雅であるだけでなく、強い思いを込めた言葉でもあるのである。大伯皇女が実弟、大津皇子の身を案じて詠んだ歌「わが背子を大和にやると小夜ふけてあかとき露にわが立濡れし」の「し」も同じ感性である。国文法ではこの「し」は「き」の連体止め、では、「勝りしも」「教へしや」「育てしや」の「し」も連体止めなのか? 「勝りしも」は「勝っているのに・・」と訳されている。 

 ー万葉集のとんでもない誤訳ー

 巻11-2366  まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ (詠み人知らず)

 この歌の現代語訳では「姿を見たいと思う妹(いも)に逢わないものかなあ、一度絶えた恋心がしきりに蘇ってくる」(「万葉集」岩波・古典文学大系)。「まそ鏡」は「見る」にかかる枕詞で、「まそ」は美称。問題は「見しか」であるが、この訳を付けた人は男女の恋愛の機微などまったく理解できない中年のオジサン国文学者であろう。それも無理もない。「見しか」の「し」は助動詞「き」の連体形であるので、「しか」を勝手に願望の意味だとしているのである。私の解釈では「見し」は「見る」の語幹「見(み)」(花見、味見)であり、それに「し」(そうある)が付いたもの。「か」は疑問や不明瞭を表わす助詞(例、有るかどうか分からない)

 真の意味は「まそ鏡を見ているであろう妹に逢いたいものだ・・あとは同じ」(鏡に写る自分の顔を見つめている妹の姿を思い浮かべているのである)。それを「妹の姿を見たい」とは、与謝野晶子や樋口一葉もびっくり仰天するのではないか・・。

  また、同じ巻-2394にある柿本人麻呂の歌、「朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去(い)にし子ゆえに」も「い(往)ぬ」の名詞形「いに」に「し」が付いたものである。(生まれたばかりで亡くなった我が子をしのんで詠んだ歌)。他にも万葉集には「我が見し子ら」(万-1266)、「我が見し人」(万-2396)など「し」を使った用例は数多い。後世の国語学者が「し」の本来の意味を誤解し、ねじ曲げてしまった。古代の万葉歌人たちも怒っているのではないか・・。(ちなみに、「いにしへ(昔)」も「いに・し・へ(辺、方)」のこと)

 結論として日本語の「し」は古代から現代まで非常に重要な言語要素である。「波高し」「風の如し」「藍より青し」「撫子(なでしこ)」「在りし日」「過ぎ去りし日々」「来し方行く末」「三笠の山にい出し月かも」「あかとき露にわが立ち濡れし」(「濡れ」は「濡れる」の語幹・・ずぶ濡れ、濡れ衣)。これらはすべて「そうある」との意味の助動詞とすべきである(語源は動詞「する」の連用形)。前に書いたが朝鮮語の ha-da(する)に対応するものである。朝鮮語でも  ha-da は「そうである」との助動詞の意味もある(誠実 ha-da は「誠実する」ではなく、「誠実である」の意味)。

  私自身、古文によく出てくる「し」について、この「し」はどういう意味なのだろうか・・、と疑問に思ったことは唯の一度もない。大伯皇女の歌も、与謝野晶子の詩もそうである。何の説明もなくてもスンナリ理解できた。大方の日本人はそうであろう。それぐらい、この「し」は日本人の感性に深く根いている言葉なのである。現代語でも、「雨も止んだし、出掛けようか」などと日常、普通に使う。この場合の「し」は「そうある」と念を押しているのである。(古歌の「大和しうるわし」の「大和し」も同じく強調の意味)。それを助動詞「き」の連体形であるとは・・。前に「なでしこジャパン」のところで書いたが、「我がなでし野菊の花」の「し」は過去の意味ではない。「なでしこ」の語源は「なで・し・子」である。ほぼすべての日本人が国文法をスルーするはずである。

 <追記>

 与謝野晶子や樋口一葉にとって幸いだったのは明治の学校教育で国文法がまだ無かったことである。もしその時代に国文法が学校で強制されていたら、彼女らも国語嫌いになって、立派な文学作品を残せなかったのではないかと思っている。彼女たちは若い頃から万葉集や王朝時代の作品に親しみ、日本人の感性として、この「し」の意味と用い方を自分なりに理解していたと思う。金田一京助が昭和13年に書いた『国語史』の中で「国文法」なる言葉を使っているので、国文法が教えられるようになったのは昭和の時代からであろう。戦後は義務教育の必修科目となり全国民が学んではいるが、まったく理解できず何の記憶もないのが現実である。国立国語研究所や国語審議会の先生方は本当に、これではいけないと思わないのであろうか。それとも現場の国語教師の教え方が悪いとでも思っているのだろうか・・。ー日本語の未来は暗いー

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日本語の諸問題(47) 「 然 (しか) る 」は動詞ではない  -語源の取り違えー

2022年01月23日 | Weblog

 国文法では「然る」はラ行変格活用動詞とされている。果してそうであろうか。「然る」の意味として古語辞典には、(1)「然(さ)る」と読み、「と或る」のように漠然とした表現に使う(「さる人からの便り」「さる所で」) (2)「然(しか)る」と読み、「そうである」「その通りである」「ふさわしい」などの意味であるとある。例文として、「然るべき人に相談する」は現代語でも使う。連用形の「然り」は「それも又然り」のように、相手の発言を受けて、「その通り」とか「それが正しい」の意味で使う。国語学では「然り」の漢字「然」に引っ張られて「しか・る」と解釈されている。だが、「しかる」は大和言葉であり、漢字は後に当て字されたものである。我々日本人はごく普通に「歩く」「飛ぶ」「走る」などのように漢字を使っているが、実はこのような言語は非常に珍しいのである(借用語は世界中どの言語にもあるが・・)

 ー「しか(然)る」は「し・かる」が真の語源ー

 漢字「然」は漢和辞典には「肯定、同意」などの意味とある。「しかり」(そうである)に「然り」と当て字したため、当然、「しか・り」と解釈したのであろう。「し」は私が繰り返し述べてきた「する」の名詞(連用)形「し」であり、この場合「そうある」「そういう状態にある」という意味である。また、「かる」も同じ意味の助動詞。「しかる」の単語家族を拾ってみると、「しかるべき人」(当然、そうある人)、「しかれども」(そうではあるが)、「しかれば」(そうであるから)、「しかるあいだ」(そうこうしている内に)、「しかるに」(そうではあるが)などがある。いずれも、「そうある」の意味を持っている。つまり、これらの言葉はすべて「し」に中心的な意味があるのであり、決して「しか」ではない。

 助詞「しか」は「これしかない」と言うように、あるものを限定する意味である。「三十六計逃げるに如(し)かず」も「ただただ逃げるしかない・・逃げるが一番」との意味であり、「しか」は必ず否定形を取る(「如」は当て字)。この「しか」も先の「し」に「行くかどうか分からない」の「か」が付いたものであろう(「か」は疑問や不明瞭を表わす助詞)。助動詞「かる」は「から」「かり」「かれ」と活用するので、一見すると動詞の活用と同じように見えてしまうが、動詞ではない証拠として命令形の「然れ」はない。「然れども」の「然れ」は完了(已然)形。同じラ変活用の「ある」は有るのに(例、栄光あれ)。

  <追記>

 戦前の国語学者、金田一京助著『国語史 -系統編-』(1938年)を読んだ。その中で私と同じく、文語形容詞・終止形の「し」(波高し)は「する」の連用形「し」と同じものであるとの説を立てたドイツ人日本語研究者がいたことを知った。印欧語を話す人にとっては当然のことである。英語でも形容詞は必ず  be  動詞を伴う。この人は「高し」の「し」がそれに当たると思ったのであろう。おそらく、その根拠は「静かになる」の「なる」は動詞であるが、「静かなるドン」の「なる」は「そうある」との意味の助動詞である(国文法もそう説明している)。それなら、「し」も動詞(勉強します)と助動詞(波高し)の二つの機能があって然るべきである。前に書いたが、「春日なる三笠の山にい出し月かも」は「い出たる月かも」とも言い換えられる。この場合の「し」は助動詞「たる」(そうある)と同じ意味である。(「春日なる」の「なる」は「春日にある」の意味)。しかるに、国文法では「高し」は文語形容詞の終止形であって、それ以上の説明はない。

  私自身、国文法の授業でこの「し」は言語上、何か意味があると教わった記憶はない。金田一京助はこれを取り上げてはいるが、このドイツ人は国文法を知らないと一蹴している。明治以来150年、日本国には「国語」はあっても、言語としての「日本語」は無いのである。国語学者にとって、日本語は「第二言語、外国語」なのであるから(ある教育大学の大学院募集要項にはそうある)。最早、国文法はイスラム教のコーラン同様、神聖不可侵の聖典なのである。そうして、一部の聖職者(国語学者)以外、一般の日本人は誰も理解できないし、何の記憶もなければ関心もない。

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日本語の諸問題(46) 「すべからく」の語源  ーボタンの掛け違いー

2021年10月30日 | Weblog

 今ではあまり使われなくなったが、「すべからく」との言葉がある。例文として「学生はすべからく学業に専念すべし」などと、最後に「すべし」を伴って使うのが一般的である。国語辞典には「当然」「必須」「義務」などの意味であるとある。また、昨今では誤用として、「全部、全体、すべて」などの意味にも使われるようになったともある。しかし、この説明はおかしい。「必須」「義務」などの意味を表わしているのは最後の「すべし」であって「すべからく」ではない。英語で言えば「・・すべし」は  You should do it  である。むしろ、誤用とされている方がより近い意味であると私は思っている。今ここでそれを明らかにしたい。

 -この言葉の語源を取り違えているー

「すべからく」の語源はどの「国語辞典」「古語辞典」「語源辞典」を見ても「・・すべし」から来たとされている。誰でも、「・・す(る)べからず」(禁止)から、「すべから」と4文字まで一致しているので当然そう思ったのであろう。だが、助動詞「べ」に活用語尾「から」が付くと必ず否定の「ず」を取る。なぜ「すべからく」と「く」が付くのか。辞典類には様々な説が出ているが、納得できる説は一つもない。『新明解国語辞典』には「す・べから・く」のこととある。岩波版『古語辞典』には「スベク・アラク」の約とあるが、「アラク」についての説明はない。一体、どちらの辞書が正しいのか一般の人は迷ってしまう。国文法では「良かれと思って」は「良く・あれと・思って」からきたというのが定説であるが、語源はどうであれ、事実上、助動詞「かる」は存在している。「遠からず(近い内に)地震は起きる」の「から」をなぜ助動詞としなかったのか(国文法では文語形容詞の活用語尾)。この時点で国文法は言語の文法から逸脱したと私は思っている。

 ー助動詞「かる」はすでに万葉集にも使われているー

 山上憶良の有名な歌「士(をのこ)やも空(むな)しかるべき万代(よろずよ)に語り継ぐべき名は立てずして」(万-978)の「空しかるべき」の「かる」がそうである。また、大伴旅人の歌「世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり」(万‐793)、原文は「余能奈可波|牟奈之伎母乃等|志流等伎子|伊与余麻須万須|加奈之可利家理」とあり、この「可利」(かり)が「かる」の名詞(連用)形である(例、若かりし頃)。後世の国語学者が「かる」は「空しく・あるべき」から来たとか、「かり」は「悲しく・ありけり」が語源などと決め付けること自体、山上憶良や大伴旅人に対して失礼である。別のそういう言い方もあるとするのが常識ではないのか。なお、紫式部の『源氏物語』にも「ありがたかりけり」との表現があり、「かり」は使われている。では、真の語源は。

 ー「す(統)べる」の語幹「すべ」にあるー

 国語辞典には、「すべる」の意味として、(1)バラバラの物を一つにまとめる (2)全体をまとめて支配する。統治する・・とある。日常、よく使う「すべて」はこの語幹「すべ」に「て」がついたものである。(例、食べてみた)。つまり、「すべて」とは元々「集めて」「まとめて」との意味であり、そこから「全部、全体」の意味に変化したのであろう。

 「すべからく」の「から」とは、私の日本語文法理論の接尾語「かる」(そうある)の発展形の「から」である。(例、「良かろう」は「よ・から・う」からきている)。この「すべ・から」に「良く」「高く」の「く」 が付いたものであり、「すべ・から・く」と分析できる。意味は「全身全霊」「全力で」「集中して」「全面的に」など沢山ある。「すべる」とはバラバラのものを一つに集めること。転じて、「精神を集中して何かをやること」、これから「統(す)べる、支配する」の意味が生じたのであろう。つまり、「すべて」も「すべからく」も共に語幹「すべ」に「て」と「からく」という接尾語が付いたものであり、その意味にも大きな違いはない。言語学でいう word family (単語家族)である。(国文法では「統べる」の語幹は「す(統)」であり、「すべ」はその連用形・・念のため)

 「思えらく」との言葉があるが、これは「思える」の「る」が「ら」に変わり、接尾語「く」が付いたものであり、意味は「思うに・・」「思うところ・・」である。また、「おそらく」(多分)も古語の「恐(おそ)る」に「く」が付き、「る」が「ら」に変わって「おそ(恐)らく」が出来ている。現代語でも「恐る恐る近つ゛く」とか「恐るべきパワー」などの表現はある。(現代語は「恐れる」、その語幹「恐れ」は「明日は大雪の恐れ」などと使う)。

 他にも、「思わく(惑)」「言わ(曰)く」も同じ語法である。未然形「思わ」「言わ」に「く」が付いたもの。(「思惑」の「惑」は当て字、元の意味は「思えらく」と同じ)。「思える」の語幹は「思え」であり、「る」自体は活用しないが、「く」が付くと「ら」に変わる。この点では「すべる」も同じで、語尾の「る」は活用しない。同じ発音の「すべ(滑)る」は活用する(例、滑り台)。この「思わく」「いわく」は名詞化して、「思惑」とか「いわく付きの物件」として日常よく使われている。

 「すべからく」も上記の「思えらく」「恐らく」と同じ語法で成り立っている。「すべ・かる」(集中すること)に「く」が付いて「すべ・から・く」との言葉が生まれたのであろう。「学生はすべからく学業に専念すべし」とは、「学生は全身全霊(全力集中して)勉学に励むこと」と言っているのである。誤用とされている現代風の「全部、全体、すべて」とは多少の意味上の違いはあるが、基本的には同じような意味である。つまり、「すべて」は静止の状態、「すべからく」は発展・向上の意味を持たせているのである。(「すべからく」を「須く」とも表記するが「須」は当て字。「思惑」の「惑」と同じ)

  <追記>

 何度も言うが、日本語の構造は単純でやさしい言語である。この助動詞(接尾語)「かる」は「から」「かり」「かれ」と活用する。「良からぬ噂」「浅からぬ因縁」「良かれと思って」「遅かれ早かれ」「若かりし頃」「良ろしかるべし」「良ろしからず」「悪(あ)しからず」「・・するべからず」、また、「安かろう」は「安・から・う」、「良かった」は「よ・かり・た」からきている。(「取った」が「取り・た」から来ているのと同じ)。「良ろしければ」は「かれば」からの音変化であろう。これらは国文法ではすべて形容詞・助動詞の活用語尾として一覧表に出ている(国文法助動詞に「かる」はない)。この活用表を見るだけで大方の日本人はウンザリする。他にも、「寒がる」「怖がる」「淋しがる」「また(股)がる」「つな(綱)がる」「不思議がる」「欲しがる」の「がる」も濁音化しているが同じものであろう(動詞形成の接尾語化)。日本語は論理的に成り立っている言語である。故・井上ひさし氏は自著に「日本語に文法はいらない」と書いていた(当然 国文法のことだと思うが)。私も真実、国文法はいらない。

 

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昔は夫婦別姓だったのか?  番外編 -古代日本は北方騎馬民族に同じー

2021年07月11日 | Weblog

 前に-最終章-で法学部の大学教授の一文を紹介したが(毎日新聞の記事)、今度は朝日新聞が別の法学部の元女性教授の小論を掲載した(2021・7・6)。これは最高裁が夫婦同姓は違憲ではないとの判断を下したことを受けての反論であった。その見出しは ー同姓は「伝統」と言えないー というものであった。この両者の主張はほぼ同じものであったが、この二人は憲法や法律の専門家であって、明治以前の日本の歴史についての知識はあまり無いようである。ただ、日本史学者がいとも簡単に「日本も昔は夫婦別姓であった」と言うものだから、それを信じ込んでいるようである。それは無理もない。大方の日本人がそうなのだから・・。

 ― たしかに、夫婦同姓は日本の伝統とは言えないが、また夫婦別姓も日本の伝統とは言えない ―

 この問題に関してすでに3回書いているのでここでは繰り返さないが、この女性教授の小論には事実誤認がある。それを指摘したい。「武家の女性は結婚後も実家の名字を名乗っていた」とある。 これは大きな誤解である。実家の姓で呼ばれてきただけであり、自分自身を中国や朝鮮のように「姓・名」で名乗っていたわけではない。「北条政子」「杉原ねね」「浅井茶々」「明智たま」「石束りく」もそのような人格は存在しなかった。江戸時代の婦人の墓の側面に俗名として実家の「姓・名」を刻んだものがある(正面は戒名)。これを日本史学者が「姓・名」で自分を名乗っていた証拠だと判断したことから生まれた誤解である。

 続けて、「夫婦同姓制度は、西洋の影響を受けた明治政府によってつくられ・・・日本の伝統ということはできない・・」とあるが、私が-再論-で書いたように、明治8年にすべての日本国民は姓を持つように政府から布告があったとき(平民苗字必称令)、 石川県、宮城県など全国各地から夫婦の姓をどうするのかとの伺いが内務省に出され、これらの地域では、妻は夫の姓を名乗るのが普通であるとのことであった。東京府からは「嫁した婦人が生家の氏(姓)を称するのは極めて少数」との上申書まで出されている。 この女性教授は私(小松)と同じ資料を使っているが、自分の主張と合わないので意図的にこの事実は取り上げていない。あくまで、日本の女性は江戸時代以来の夫婦別姓を望んでいたことにしたいようである。

  がしかし、日本の女性の大半は嫁入りすることにより、夫の家の一員となるのであり、それは当然のことと思っていたのである。大石内蔵助の妻「りく」の例を上げるまでもない。(勿論、例外はある。東京府でもごく少数ではあるが、夫婦同姓が法的に決まった明治31年まで生家の姓を名乗っていた婦人がいたのである)。夫婦同姓は決して西洋を真似たものではない。夫の家の一員で、妻であり母でもある自分ひとりが別姓を名乗る。それは当時の日本女性には耐えがたいことであったのであろう。小家族化した現代の感覚で江戸、明治を判断してはいけない。

  今一度、言っておくが、明治31年の民法(夫婦同姓の決定)は当時の日本女性が選択した事実上の夫婦同姓を政府が法的に追認したにすぎない。日本人の「姓」に関してはあまりにも俗説が多すぎる。日本地図を作った伊能忠敬は下総・佐原の商人かつ名主であったが、ちゃんと姓名で自身を名乗っている。このような例は江戸時代にはいくらでもあった。(大河ドラマでも「渋沢栄一」と名乗っているし、龍馬暗殺の現場となった近江屋の主人も「井口新助」との姓名を持っていた)

 阿波徳島藩でもある村の庄屋が連名で藩に提出した文書が残っている。最初の一人だけ「姓・名」で署名しているが、あとの数名は名前だけである。これを姓がなかったからだと判断した日本史学者の無知に驚くばかりである。最初の一人は苗字帯刀を許された人(つまり、武士と同格の身分を与えられた庄屋)。あとの人たちも勿論、姓(苗字)はあったが藩庁に出す文書には「姓・名」で署名できなかっただけである(武士身分でないから)。だが日常、普通に姓は使っていた。なにも、武士と苗字帯刀を許された一部の者だけが姓を持っていたわけではない。しかるに、現在の中・高の日本史教育ではこれらの事実(多くの百姓・町人にも姓はあった)は教えられていない(私の中・高時代もそうだった)。今なお、昔の学説は生き続けているのである。

 <追記>

「夫婦別姓・同姓」問題は日本の「姓」の歴史と深くかかわっている。日本の古代氏族(大伴氏、久米氏、蘇我氏など)は北方騎馬民族トルコやモンゴルに近い存在である。その氏族に生まれた者は生涯、その氏族に属した。他氏族の男の妻となっても、生まれた氏族の女であった。この歴史的伝統が武家社会になっても生きていた。だからこそ実家の姓で呼ばれてきたのである。それは公家社会も同じであった。この古代の氏族制度(女も生涯、生まれた氏族に属する)は明治時代まで日本の伝統文化として存続していたのである。

 14~15世紀のウズベキスタンの英雄、チムールの正妃、ヴィヴィ・ハヌイムは北方キプチャク汗国の王族、ジュチ・ウルス出身であった。(ウルスはモンゴル語で氏族、部族、国の意味、ジュチはジンギス汗の長男の名前に由来している)。生涯、ジュチ・ウルスの女であった。このキプチャク汗国がロシアのロマノフ朝の勃興により東に逃がれ、カザン汗国となり、現在のタタール自治共和国となっている。金メダリスト、ザキトワ は実はタタール人である(タタール語とウズベク語はほゞ同じ)。今でこそ アリーナ・ザキトワ とロシア風の名を名乗っているが、元々、タタール人には ザキトワ という名前しかなかったのである。(姓名を名乗るようになるのはソ連時代になってから)。チムールも、そのひ孫でインド・ムガール帝国の創始者、バーブルも名前だけである。氏族・部族の名称はあったが「姓」は無かったのである。(今でも新疆のウイグル人には固定した姓はない。モンゴル共和国では21世紀になって全国民が姓を持つようになった)。これがヒントになる。なお、中国で使う「韃靼(ダッタン)」はこの「タタール」の漢字表記である。

 日本の場合もトルコやモンゴルと同じく、本来は自分の所属する氏族名と名前だけであった。だが、日本は邪馬台国以来、中華文明の影響を受け、漢字の使用と中国の「姓」の文化を導入した。最初に「姓」を持ったのは当然、氏族集団つまり貴族階級であった。その後、一般の官人も「姓」を持つようになった。だが、日本は男女とも「姓・名」で自分を名乗る中国式は採用しなかった。丁度、中国の科挙や宦官制度は拒否したように・・。つまり、女性は北方騎馬民族と同じく生まれた氏族(姓)に属する女であった。それは中世の武家社会になっても変わりなかった。日本の女性は古代以来の歴史的伝統が明治の時代になるまで原則維持されてきたのである(勿論、なんでもそうであるが、例外はある)。

 もしも、古代日本が男女とも「姓・名」で自身を名乗る中国式の姓制度を受け入れていたら、今の朝鮮と同じようになっていたであろう。だが、事実はそうはならなかった。私はそこに日本古代国家の建設に大きな影響を与えた北方騎馬民族の存在を感じている。日本語は間違いなく北方騎馬民族と同じアルタイ語文法を保持している。日本語の豊富な擬態語はアルタイ諸言語に特有なものである。また、流鏑馬(やぶさめ)や相撲は高句麗古墳の壁画に描かれているし、信長や家康が好んだ鷹狩りは今でもモンゴルやキルギス(トルコ系)の伝統文化である。余談であるが、親日国キルギスでは自分たちは日本人と兄弟であると言っている。元は北アジアにいた同民族のうち、西に移動したのがキルギス人で、海を渡って東に行ったのが日本人だということらしい。あながち、おとぎ話とも言えない・・。

 北政所が東寺の仏頭に納めた木札の銘文 「 大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女 」、もし日本が本当に中国式の夫婦別姓であったら、「大壇那亦大相國秀吉公北政所杉原ねね」と書いたはずである。杉原氏に生まれて名前が「ねね」なら、生涯、「杉原ねね」なのであるから。日本史の通説、「日本も昔は夫婦別姓であった」は人々に誤解を与えかねない。必ず、「ただし、中国式の夫婦別姓ではなかった」との文言を付記する必要がある。これが私の結論である。

 ごく最近、『夫婦別姓』(ちくま新書・・2021年11月)なる本が出版された。著者は海外で活躍されている7名の女性ジャーナリストで、欧米諸国と中国、韓国の夫婦の姓についての論考であった。それによると、欧米諸国はほぼすべて選択的夫婦別姓で、完全な男女同権であるとのこと。先進国で夫婦同姓を法律で義務化しているのは唯一日本だけであるとの要旨であった。それはいいとして、ただ、明治以前の日本人の姓についてはやはり世間一般に流布している俗説を踏襲している。本の末尾に「明治以前は特権階級のみ姓(氏・苗字)を持つことができ、女性は婚姻後も生家の姓を名乗った」とある。先の法学部の教授と同じである・・日本の女性は中国のように日常、姓名で自身を名乗っていたわけではない。また、伊能忠敬や井口新助は特権階級なのか?  この程度の商人は日本全国どこにでもいた。中学・高校の日本史教育はいまだ旧態依然である。

 

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またまた NHK のトンデモ番組  ― 「 邪馬台国は大和で~す 」 ―

2021年04月21日 | Weblog

  かの小保方晴子の「STAP細胞はありま~す」との発言はいまだ耳新しいが、先月27日、またまた NHK がトンデモ番組を放送した。「古代王権の謎」と銘打って邪馬台国=大和説の学者が次々と登場し、あたかも邪馬台国は大和であることは自明であるかの如く自説を展開した。これは学問論争ではなく、学者政治屋のプロパガンダにすぎない。私がこれまで繰り返し述べてきたように、近年の中国での発掘調査の結果、邪馬台国論争はすでに決着がついたのに。なぜ、いまだに大和説にこだわり続けるのか ・・。その理由を明らかにしたい。

 ー炭素14年代測定はピンポイントでは特定できないー

 この番組で箸墓古墳の近くから出土した土器に付着した炭化物の14年代測定の結果、西暦240~260年(卑弥呼の時代)の数値が出たという。だが、別の学者から炭化物は数値が数百年古く出る傾向があるとの報告もある。だが、そんな報告は無視である。フランスのエジプト考古学でも、時代が特定されているツタンカーメンなどの墓室に置かれていた馬車や椅子などの木製品が炭素14年代測定されているが、どうしても数値が古く出がちであり、14年代測定はピンポイントでは特定できず、大まかな年代が分かる程度であるとの結論に至っている。これが世界の常識である。

 ー箸墓古墳の形状が明らかになったー

 これまでの航空写真では木々に遮られてその形状がよく分からなかったが、近年、レーザービーム撮影などによりハッキリしてきた。それによると箸墓古墳は前方部も後円部も数段の階段状になっており、これと相似形(大きさは様々であるが)の古墳が全国に分布していることも分かってきた。日向、吉備、畿内、関東などにあり、これらは大和政権の全国統一の過程で地方にもたらされたのこと。これは事実であろうが、だからと言って箸墓古墳が三世紀中期の卑弥呼の墓となぜ言えるのか(「書紀」には倭迹迹日百襲姫命の墓とある)。また、これら相似形の古墳のいくつかは発掘調査されており、そのほぼすべてに石室、石槨がある。「倭人伝」のいう倭人の墓は「棺あり、槨なし」と合わないし、卑弥呼の墓は「径百余歩」とある。おそらく、箸墓古墳もその近くの黒塚古墳同様、大きな石槨があるであろう・・。

 -邪馬台国論争に終止符を打ったのは中国の考古学者ー

 邪馬台国=大和説の最大の根拠は大和を中心に畿内から大量に出土している三角縁神獣鏡である。昭和28年、京都と奈良の県境にある椿井大塚山古墳から三角縁神獣鏡32枚、後漢鏡3枚、画文帯神獣鏡1枚が竪穴式石室から出土した。この発掘を担当した京都大学の小林行雄は、この三角縁神獣鏡こそ女王・卑弥呼がもらった銅鏡百枚と断定し、これが今日に至るまで京大系の邪馬台国=大和説を支えている。小林はこの古墳の築造年代を三世紀末から四世紀初頭とした。その弟子の一人、樋口隆康は近年発掘調査された箸墓古墳近くの黒塚古墳から三角縁神獣鏡が33枚出土したことを受けて、「これで邪馬台国は大和で決まり」とまでマスコミに語っていた。(ただし、一枚の画文帯神獣鏡が出ていることは無視、この鏡こそ黒塚古墳の築造年代を特定する唯一の物証なのに・・)

 ちょっと待ってほしい。いつ誰が三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏鏡と決めたのか。本家の中国の学者は日本製と言っている。当たり前である。中国からはいまだ唯の一枚も出土していない。それと鏡の神獣文様は魏の敵国、江南の呉地方で流行した文様であり、その中でも一番有名で数も多いのが画文帯神獣鏡である。椿井大塚山古墳や黒塚古墳と同じく、箸墓古墳のすぐ近くにあるホケノ山古墳(この古墳も石組みの「郭」がある)からも画文帯神獣鏡が出土している。つまり、画文帯神獣鏡があるということは、これら古墳が造られた時代は南の呉地域との交流があった証拠でもある。つまり、四世紀以降の大和政権の時代の古墳。卑弥呼や台与が朝貢したのは黄河流域の魏と西晋である。その後、北方・西方からの異民族の侵入により、中国北部は五胡十六国時代となり、江南の呉地方に漢人王朝「東晋」(317~420年)が成立する(首都・建康・・南京)。百済、新羅、高句麗、倭国はこの東晋に朝貢している。この時、もたらされた神獣鏡を元に日本で三角縁神獣鏡が作られたのであろう(当然、この時、東晋から神獣鏡と一緒に銅の原材料も持ち帰ったはずである)。つまり、箸墓古墳を中心とする大和古墳群の築造年代は卑弥呼の時代(三世紀中期)より約100年も後の時代ということになる。

 中国の考古学者から発掘調査の結果による事実、(黄河流域からは三角縁神獣鏡どころか神獣鏡そのものが出土しない、一方、南の呉地方からは大量の神獣鏡が出土している) を突きつけられても、なぜ、京大系の大和説の学者は頑なに拒否するのか。最早、学問の問題ではなく、日本人の持つ精神構造に問題があるのではないかと私は思っている。真実よりも自己の属する共同体(学閥)に対する忠誠心こそすべて。つまり、「師の影を踏まず」、これである。

 実は、これまで何回か中国の考古学者を招いて古代史シンポジウムが開かれている。だが、大和説の学者は、中国人学者の言う「三角縁神獣鏡は魏鏡ではない。元々、北部の魏領域では神獣鏡そのものが作られることはない。卑弥呼がもらった銅鏡百枚は後漢鏡である」(王仲殊著『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院) との主張に対して、唯の一度も反論したことはない。出来ないのである。ただただ黙って聞き置くだけである。そして、勿論、自説(三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡)を変える気もさらさらない。今でも日本のどこかで三角縁神獣鏡が出土すると、新聞の見出しに「卑弥呼の鏡」との文字がおどる。発掘担当者が京大系の大和説の学閥に属する人だからである。そこで、魏皇帝にこういう鏡(三角縁神獣鏡)を作ってほしいと頼んだのだ・・とか(特注説)、また、最近は邪馬台国は南の呉とも交流があったのだ・・などのトンデモ説を言い出す人まで現れた。もうこうなると学問ではなく小説、漫画の世界である。日本の古代史学者の精神、知性は荒廃の度を増している・・。

 ー追記ー

 司馬遼太郎は言っている「昭和は日本ではない」と、織田信長は畿内を制圧したあと大坂本願寺を攻めたが、その時、援軍としてやってきた紀州雑賀の鉄砲衆に撃ちすくめられて惨敗した。その後、すぐ鉄砲の威力に目を付け、大量の鉄砲部隊を編成した。これが長篠の戦いの勝利に結び付いたことは誰でも知っている。戦国末期には日本の鉄砲保有数は群を抜いて世界一であった。しかし、昭和の日本陸軍は武器の開発には全く無関心で、最後まで三八歩兵銃の銃剣突撃にこだわり壊滅した。完全な思考停止状態であった。司馬はこのことを言っている。(日露戦争に勝てたのも実は日本軍とロシア軍はほぼ同じ武器で戦ったからである。勿論、日本軍も機関銃を装備していた)

 学問の世界とはいえ、邪馬台国=大和説の人は昭和の帝国陸軍同様、思考停止状態に陥っているとしか言いようがない。大和説の教祖的存在であった京大の小林行雄は「近い将来、三角縁神獣鏡は中国から続々と出土するであろう」と予言していた(それも70年も前の話である)。がしかし、小林の予想に反して、今もって唯の一枚も出てこない。だが、かれの弟子たちにとっては教祖様の予言は絶対であり、自説を変えることはない(教祖様が三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡と断定されたのであるから・・)。もはや学問というより宗教である。NHKは 自己信念のみに固執する狂信的学者集団に肩入れし、受信料を払っている国民を欺き洗脳している。まさに、戦前の大本営発表である。(今回の番組でも九州説や中国の考古学者の見解は全く出てこなかった)。

 日本国内でしか出土しない三角縁神獣鏡を日本製と認めたら、明治以来、邪馬台国=大和説を基本として書かれてきた著作物はすべて唯の紙クズになってしまう。大和説の学者たちはこれを一番恐れているのであろう。しかし、真実は一つしかない。天動説が地動説に敗北したように・・。欧米人に伍してこれだけノーベル科学省をもらっている日本人なのに、なぜいまだ、このような非科学的精神論が古代史学会でまかり通っているのか・・。本居宣長以来の皇国史観はいまだ日本で生き続けているのである。

  最後に、考古学者・森浩一は最晩年に「自伝」を出版した。その中で、自分は若い頃から三角縁神獣鏡は日本製であると主張してきたが、その学会発表の場で、ある一流大学(その名は伏せてある)の教授から、「どこの素人(シロウト)が・・」と何度も言われたと書いている(森氏は同志社大学出)。森浩一が「素人」なら、中国の考古学者たちは、その教授に言わせると、「 ド 素人」になる。自分の国(魏)で作られた鏡(三角縁神獣鏡)を自国製と認定することすら出来ないほどの無能集団なのだから。日本には卑弥呼がもらった魏鏡とそれを元に日本で作られた仿製(複製)鏡を、虫メガネの鑑定で識別できる神の目を持った学者(阪大教授)がいるのだから・・!? そして、今でもこの教授が魏鏡と断定した三角縁神獣鏡が多くの考古資料館に展示されている。まさに「STAP細胞」の古代史版と言える。これが今なお続く「邪馬台国論争」の現実である。

 

 

 

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日本語の諸問題(45)  動詞形成の接尾語 「る」 と 「す」 について

2021年02月05日 | Weblog

 前に「お墓の語源」のところで書いたが、日本語にはアルタイ語文法を持つ証拠の一つとして、名詞を動詞化する接尾語がある。世界の多くの言語は動詞化として、外来語に「する 」を使う用法は普通にある。ペルシャ語、ウズベク語、朝鮮語にもある。例えば、「研究する」の場合、朝鮮語は「研究 ha-da 」、 ウズベク語も、「tadqiqat (研究) qilmoq (する) 」 と言う。(この tadqiqat はアラビア語起源)。ところが、ウズベク語では tadqiqat-la-moq  (研究する) とのもう一つの言い方があり、この場合  LA (ラ)が動詞形成の接尾辞である。日本語の  RU(る)に当たる。(例、測る、真似る、曇る、宿る)。日本語は外にも「ゆらぐ(ユラユラ)」「ころぶ(コロコロ)」「「はらむ (腹)」など、他のアルタイ諸語と比べても豊富である。例えば、「際(きわ)・・山際(やまぎわ)」の場合、「きわめる」「きわまる」、動詞が付いて「際立つ」、古文の「きわむ」の名詞形「極み」は今でも、「痛恨の極み」と政治家がよく使っている。また、「極める」から「極めて」との副詞もできた。

 ー あと一つ、日本語は「する」の文語「す」を接尾語化してうまく使っている ー

1) 「過ぎる」と「過ごす」、語幹「過ぎ」は「5時すぎ」「過ぎし日」と用い、「過ごす」は「休みの過ごし方」と使う。

2) 文語「さと(聡)し」の語幹「さと」から、「諭(さと)す」が、「悟る」から名詞形 「悟りをひらく」が生まれた。

3) 「明るい」の語幹「あか」から「明かす」が、「明かす」の名詞形「明かし・・身のあかし(証)を立てる」ができた。「明かる」との動詞はないが、「明かり」との名詞形はある。類似語の「明ける」の語幹「あけ」から「夜明け」「明け方」「明けの明星」などの言葉が生まれた。

4) 「溜める」の語幹「ため」(溜め池)から「ためす(試)」ができた。「試し斬り」とは工程を一時止めて(タメを作って)試みること。類似語の「止める」の語幹「止め」は「通行止め」「局留め」「止めに入った」などと使われている。自動詞の「溜まる」の名詞形は「溜まり場」とか「陽だまり」などと使う。

5) 万葉時代からある「占める」(領域を表わす)の語幹「しめ」(紫野ゆき しめ野ゆき・・額田王の歌)から、神聖な場所を区切る「しめ縄」とか「ひとり占め」などの言葉が生まれた。同時に「示す」ができた。名詞形は「示しがつかない」と使う。中世期には「締める」との意味も生まれ、現代では「これでシメにしよう」などと宴会で使われている。 

  ここで取り上げた例はほんの一部でまだまだいくらでもある。(例、「成る」と「成す」、「出る」と「出す」、「渡る」と「渡す」、「戻る」と「戻す」、「回る」と「回す」、「残る」と「残す」、「帰る」と「返す」、「通る」と「通す」)。また、形容詞「早(速)い」の語幹「はや」から「はや(流行)る」と「はや(囃)す」が出来ている。(例、流行り病、おはやし・・囃子)

  日本語の動詞は一定の法則性があり、論理的こ成り立っている。国文法の「投げる」の活用、語幹は「な」で、「げ、げ、げる、げる、げれ、げろ」と活用するなど本当にゲロを吐きそうである。もう止めてほしいと思うのは私だけだろうか。かって、「日本語に文法はない」と言った人の気持ちがよく分かる。

 <追記> 

 「感じる」「断じる」「転じる」「信じる」との言葉があるが、これは元々、漢字「感」「断」「転」「信」に「する」が付いたものであり、この中で、「感じる」の語幹「感じ」だけが名詞として使われている。(例、感じのいい人)。「断じる」からは「断じて」との副詞も生まれた。 これらはすべて「する」の名詞形(連用形)の「し」が付き、それに、動詞形成の接尾語「る」が付いて出来た新語である。これら漢字が「ん」で終わるため音便化して「じ」と濁音化した。他にも同じ用法で「報じる」「通じる」がある。くり返すが、言語の文法とはその言語の持つ一定の法則性を体系化したものである。名詞の「真似」(模倣)を動詞化した「真似る」(王朝時代は「まねぶ」)の語幹は「ま(真)」で、「ね(似)」の部分が活用して、「まね(真似)」はその連用形が名詞化したもの。これが義務教育で教えられている唯一の日本語文法(国文法)である。すべての日本人がスルーするはずである。          

  

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文禄・慶長の役の降倭 「 沙也可 」 の正体

2020年11月29日 | Weblog

 韓国南部、大邱近くに秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮側に投降した日本人(降倭)の末裔が住んできたとの言い伝えがある友鹿里という小さな村がある。何十年か前、新聞やテレビで大きく取り上げられ、日本から観光客も訪れるようになった。そこにある村の学問所、鹿洞書院にその降倭の将軍、金忠善(日本名「沙也可」)の位牌が祀られている。「金忠善」という朝鮮名は、日本、後金、清国との戦いで勲功があったので、朝鮮王から将軍位と一緒に授けられたものである。これらのことはこの書院に伝わる古文書「慕夏堂文集」に詳しく書かれている。

 実は、戦前からすでにこの村の存在は知られており、当時の朝鮮総督府は朝鮮軍に投降する日本人がいるわけがないと、そんな古文書はニセモノだと一蹴してきた。ところが、1933年、同じ総督府で「朝鮮史」の編纂を担当していた中村栄孝が朝鮮の歴史書『李朝実録』などに「金忠善」と「沙也加」の記述があることを発見し、「慕夏堂文集」の記事と完全に一致することが分かった。今はその存在を疑う人はいない。ただ、問題は「 沙也可(さやか)」という名の倭人は誰かとの一点に絞られる。(「可」と「加」の音読みは日本も朝鮮も同じく「カ」である)

 ー「 沙也可 」はどの漢字音で読むのか ー

「沙也可」を日本の漢字音で読めば「さやか」であるが、朝鮮漢字音でも同じく「サヤカ」である。そこで、音がよく似ているので「沙也可」は「雑賀(さいか)」ではないかとの説は以前からあった。つまり、「降倭」とは雑賀鉄砲衆のことだとの・・。実は、「沙也可」を中国漢字音で読めばなんと 「サイカ」 となるのである。「也」は中国音で ye ( イェ )であり、他にも、漢字「野」「夜」は日本と朝鮮共に音読みで「ヤ」であるが、中国音では  ye ( イェ )である。戦前、有名な李香蘭(山口淑子)の歌「夜来香(イェライシャン)」をご存知の方も多いと思う。

 つまり、「沙也可」 は当時の中国(明)の漢字音で表記されていたのである。「沙 也 可」を現代の中国音で読むと、「 Sha( シャ)   Ye(イェ)  Ke (ケ)」となる。(この場合の「可(ケ)」は日本語の「カ」に近い音である)。それと、当時の日本語にも一致する。私の郷里・徳島県は古い発音を残していたが、今は無くなった。私の子供の頃、お年寄りは「先生」を「シェンシェイ」、「魚の鮭(サケ)」は「シャケ」と言っていた。この「雑賀」も戦国時代は「シャイカ」と発音されていたはずである。では、なぜ中国漢字音で表記されたのか・・。それには理由がある。

 ー文禄・慶長の役の真実ー

 この戦役は豊臣日本軍と李氏朝鮮軍との戦争だと思いがちだが、実はそうではなかった。たしかに、海戦では水師提督・李舜臣率いる朝鮮水軍と日本水軍は各所で激しい戦闘を繰り広げ、阿波水軍の大将も戦死している。李舜臣も最後の海戦(露梁海戦・・慶長3年)で先陣を切って指揮をとっていたのであろう、日本軍の火縄銃に狙撃されて戦死した。ところが、陸戦ではまったく様相が違った。釜山に上陸した日本軍は破竹の進撃でわずか3週間で首都・漢城に入った。朝鮮軍は逃げるばかりであった。(日本軍の入城前に国王や貴族・官僚たちは逃亡していたので、朝鮮の農民や奴婢たちが漢城を略奪、放火して廃墟同然になっていた・・韓国では略奪・放火したのは日本軍とされている。いつものパターンである)。その2カ月後には第二の国都・平壌も占領した。だが、朝鮮王からの救援要請を受けていた明国の大軍が鴨緑江を渡って平壌前面に現れた。この時から、戦争の様相は一変する。

 朝鮮軍は明皇帝の名代である明国軍司令官配下の一部隊に格下げされたのである。その後、漢城北の碧蹄館、蔚山城、泗川倭城、順天新城などで両軍の激しい戦いがあったが、実際は明軍と日本軍との戦闘であり、朝鮮軍は人数も少なくその補助部隊にすぎなかったのである。有名な蔚山籠城戦(慶長2年)では6万の明・朝鮮軍が蔚山城を包囲したが、その内、朝鮮軍は1万人にすぎない。当然、倭人兵はどの戦場でも明軍に投降したと考えるのが常識であろう。また、「降倭」(足軽鉄砲衆)をどう処遇するかの判断は配下の一部隊長(朝鮮軍)にできるわけがなく、総大将である明国軍司令官の裁量であったはずである。それを証明する事実が約30年後に満州の地で明らかになる。

 ーサルフの戦いー

 この戦いは1619年、旧満州・瀋陽(奉天)近くのサルフで起きた明国軍と女真人の英傑 ヌルハチ率いる後金軍との満州を巡る覇権争いである。この戦いで大勝したヌルハチの満州支配が確立した。実は、この戦いに明軍は多数の鳥銃(火縄銃)部隊を使っているのである。明軍は30年ほど前の朝鮮出兵時に投降してきた多くの日本の鉄砲足軽たちを本国に連れかえり、新式の鳥銃部隊を編成していたのである。(17世紀初頭に書かれた明の兵法書『軍器図説』にはなんと、信長の鉄砲三段撃ちの図解絵が描かれている。明軍はよほど日本軍の鉄砲に苦しめられたのであろう)。

  この戦いの明軍司令官、楊鎬や劉綎は、30年ほど前の朝鮮出兵にも明国軍司令官として参戦した将軍でもあった。また、明皇帝の命令で出兵させられた朝鮮軍にもやはり鳥銃部隊があり、後金軍の最前線に配置されていたが、明軍大敗の報が伝わるや、降倭の鳥銃部隊を置き去りにして、朝鮮軍はさっさと逃げてしまった。取り残された鳥銃部隊はおそらく後金軍の捕虜となり、後の清軍(1636年、二代目 ホンタイジ が国号を「清」に改めた)の2度に渡る朝鮮侵攻(丁卯胡乱と丙子胡乱)、さらにその後に続く明国征服戦争(1644年)にも、その鳥銃部隊が使われたであろう。当時、世界一の性能を誇った日本の火縄銃は世界の歴史をも変えたのである。

 ー 結び ー

 結論として、「沙也可(サイカ)」とは投降した足軽鉄砲集団の通称として使われた言葉であったと思われる。降倭がいちいち自分の名前など名乗るわけがないし、自分たちは「 シャイカ(雑賀)」だと明軍の将軍たちに言ったのであろう。それを明側で「沙也可」と表記した。朝鮮側はその中国(明)式表記をそのまま使った。後に、朝鮮漢字音で「サヤカ」と読まれるようになった。秀吉の紀州・雑賀攻めで降伏した雑賀鉄砲衆は多くの戦国大名家に鉄砲足軽として仕えている。阿波徳島藩でも城下の外れに雑賀町として今でもその名を残している。おそらく、徳島藩でもその鉄砲集団を「雑賀衆」と呼んでいたはずである。かれら足軽鉄砲集団はやはり厭戦気分から投降したのであろうが、しかし、時代は降倭・鉄砲集団に平穏な生活を保障してはくれなかった。鉄砲の威力に目を付けた明国と朝鮮国に分けられ、また、次の過酷な満州の戦場に駆り出されたのである。

 やはり、金東善=沙也可(サヤカ)は同一人物であろう。ただし、「沙也可」は個人名ではなくその集団の通称とするのが自然である。朝鮮に住んだ降倭鉄砲集団の首領が朝鮮王から金東善の名をもらい、大邱近くの友鹿洞に土地を与えられ平和な暮らしができるようになった。その後、数百年の歳月が流れ、日本の朝鮮併合で再び歴史の表舞台に登場してきた。現在は日韓友好の架け橋としてその役目を果たしている。

 最後に余談であるが、司馬遼太郎の 『韃靼疾風録』はこの時代を扱った小説である。満州時代の清国の王女がたまたま船で漂流して日本に流れつき、その王女を清国に送り届ける役目を仰せつかった日本の若き武士が運命にほんろうされて、清軍の一員として北京に入城する物語である。王女と主人公が何語でやりとりしていたのかはスルーされていた。もし、司馬氏がサルフの戦いのことを知っていたらもっと面白く書けたのに、その王女が日本語を話したとしてもおかしくはない。愛新覚羅一族である王女の父親が降倭の鳥銃部隊の差配役をしており、王女も子供の頃から降倭の子供たちとよく一緒に遊んだので、その時、日本語を憶えたことにすれば・・。さらに、主人公がその鳥銃部隊の隊長に任命され、対明戦争で大活躍するなどなど・・。小説の最後は王女を妻として日本に戻り、ハッピーエンドで終わる。司馬遼太郎の北方騎馬民族への憧れの集大成のような作品であった。

 

 

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閑話休題  -日韓問題に思うー 続編 ・ 日本の左翼はレイシスト

2020年09月27日 | Weblog

 近年、多くの自治体で反韓ヘイトスピーチ禁止条例が可決されている。私もテレビでその集団のデモを見たことがあるが、その周囲に「レイシスト」とか「人種差別主義者」との罵声を浴びせる一団がいた。しかし、この一団こそ真のレイシスト(人種差別主義者)である。今、その理由を明らかにしたい。

 ードイツのメルケル首相は隠れネオ・ナチ ?-

  ごく最近、ポーランドとギリシャの首脳が、今次大戦で自国が受けた被害は数十兆円にのぼるとの声明を出した。これに対してメルケル首相は完全ネグレクト(無視)した。当然、極右ネオ・ナチはメルケルを称賛したであろう。メルケルは我々の仲間だと・・。ところが、メルケル首相はネオ・ナチとは正反対で、中東・シリア難民をすでに数十万人受け入れており、今後も増えていくであろう。メルケルはこれら難民を全 EU 諸国に割り振ろうとしたが、旧東欧諸国は国境にフェンスをはり巡らし、唯の一人も入れない構えである。これにはメルケルも困り果てている。

 メルケルは過去のナチス・ドイツの戦争犯罪被害者には賠償しないが、現在の戦争被害者には救いの手を差しのべているのである。つまり、メルケルは人道主義者なのである。これも当然である。過去の戦争被害にドイツが賠償すればその金額は天文学的数字になり、ドイツの国家予算が吹っ飛んでしまうからである。軍人を除いた民間人だけの死者数でも優に2千万人を超える。ポーランドは500万、ギリシャは50万、いち早く中立を宣言したのに、ドイツ軍の侵攻を受け、その後の連合国軍の反攻で戦場となったオランダとベルギーは、両国併せて40万人の死者を出している。また、チトー元帥のパルチザンで有名な旧ユーゴスラビアは100万、ソ連に至っては2000万人の死者を出したと言っている。その他、鉄道、橋、建造物などの物的被害を併せれば最早、算出する手段もない。ポーランドではワルシャワ蜂起(1944年8月)でワルシャワ旧市街は廃墟となった。この時、20万人のポーランド人がドイツ軍に虐殺されている。戦後、ポーランド国民はこの旧市街を元通り再建した。その費用を全額 ドイツは負担したのであろうか? 口を開けば「ドイツは謝罪と賠償をした」と言う韓国人は一度でも在韓ポーランド大使館に問い合わせたことがあるのだろうか・・。

 ーたしかに、韓国・朝鮮人も被害を受けているー

 今次大戦で朝鮮半島は幸いなことに唯の一度も米軍の空爆や艦砲射撃を受けていない。平穏そのものだった。がしかし、20万人の死者を出している。その内訳は自分の意思で日本の軍人・軍属となって戦争に参加して戦死、もしくは日本軍人としてシベリア抑留され死亡した人が一番多い。また終戦時、満州でも日本人と見なされ、中国人に襲われている。その他、戦前から日本に出稼ぎに行った人、ならびに戦時中に徴用され日本本土の工場や炭鉱で働いていて米軍の空襲で死んだ人も多い。中でも悲惨であったのは、南太平洋の島々に労務者として徴用された人たちである。日本軍はこれら朝鮮人労務者に戦闘義務は課さなかったが、あの米軍の爆撃と艦砲射撃、その後の激しい戦闘の中で生き残ったのが奇跡といえる。硫黄島で数十人、サイパン島では千人、マキン、タラワなど日本軍が玉砕した島々でも数百人が米軍に保護されている。(太平洋戦争の写真集で米軍に投降した日本兵として、下着姿の兵士の写真が出てくるが、あれはみな朝鮮人労務者である。かれらは日本兵と見られないように、いち早く軍服を脱ぎ捨て米軍に投降したのである。帝国軍人が陛下から支給された軍服を脱ぎ捨てるわけがない)

 -フィリピンでは100万人の死者を出しているー

 フィリピンは朝鮮半島とは違い、日米両軍の戦場となり100万人のフィリピン人が死んでいる(米軍中のフィリピン人部隊も含めて)。中でも悲惨だったのはマニラ攻防戦で、当時のマニラ市は「FREE  CITY(自由都市)」を宣言して日米両軍から中立の立場をとった。山下奉文軍司令官はこれを受けて陸軍部隊を北方の山岳地帯に移動させたが、これに不服の海軍部隊がマニラ市内に残った。マニラ市民の多くは郊外に逃げず、教会、学校、病院などに避難していたが、卑劣にも日本軍はそこを占拠して市民を人質に立て籠った。当初、米軍は攻撃をためらったが、最終的にマッカーサーが攻撃の命令を下し、マニラ湾上の軍艦から艦砲射撃と空爆が始まり、避難していた市民たちに爆弾・砲弾が降り注いだ。戦闘終了後、米軍はその惨状を写真に残している。女、子供が折り重なって倒れ、まさに地獄絵図である。この時の死者は10万人にのぼる。また、山岳地帯でも補給もない日本軍は山中の村落を襲い食料を略奪した。抵抗する者は容赦なく殺している。

 -泰緬鉄道(たいめんてつどう)の建設でも数万人の死者を出しているー

 映画「戦場にかける橋」は泰緬鉄道の一つの橋の物語であり、登場人物は英軍捕虜だけである。この鉄道は日本軍がビルマ(現・ミャンマー)侵攻作戦のため、タイ北部とビルマを結ぶ鉄道として建設したものであり、今でも使われている。実はこの建設にはビルマ人、タイ人、マレー人、インドネシア人などの労務者が多数徴用され働かされた(その数、20万人と言われている)。重労働と飢餓で数万人が死んでいる(英軍捕虜も含めて)。タイは今次大戦では中立国で戦場にはならなかったのに、約1万人の死者を出している。大半はこの鉄道建設に動員された労務者である。日本政府は戦後、これら労務者には何の補償もしていない、死者にも生存者にも。この人たちはタダ働きさせられたのである。

 -ビルマ(現・ミャンマー)でも10万人の死者を出しているー

 ビルマではインパール作戦が有名であるが、その後、ビルマ中央部、マンダレーを中心に進攻してきた英軍、ならびに中国・雲南省から南下してきた国民党軍も参戦して、日本軍との激しい戦闘が行われた。それに巻き込まれて10万人のビルマ人が死んでいる。その他にも、戦場になったマレー半島でも10万人、 インドネシアではなんと400万人の死者が出ている(インドネシアでは日本の敗戦後の対オランダ独立戦争の死者数を含めてのことだと思うが、この戦争に現地残留日本兵が多数参加し、今でもインドネシア人から尊敬されている)。

 それと、日本軍が侵攻したパプア・ニュ-ギニア、南太平洋の島々のことも忘れてはならない。この地域にも数は少ないが現地住民はいた。今ではそのほとんどが独立国となっている。当時は原始的な村落が点在するだけであったので、その被害の全容はよく分かっていないが、被害者も相当数いたはずである。最後に中国がある。中国は日中戦争で1千万人の死者が出たと言っているが、話半分としても相当数の被害者を出している。かって、周恩来首相が日本に賠償は求めないと言ってくれたお陰で賠償は免れたが、その後、ODA(政府開発援助)などの経済援助で代行してきた。勿論、東南アジア諸国や南太平洋諸国にも日本は誠実に経済援助を行ってきたし、今もやっている。そのことで、これら諸国はほぼすべてが親日国である。韓国・北朝鮮を除いては・・・。

 -おわりにー

 日本の左翼はなぜ韓国サイドに立って賠償すべきと言うのか、(1965年の日韓条約で済んだことなのに)。日本 K 党の S 委員長は徴用工の韓国弁護団に日本で会って支持を表明している。では、私がここで書いた東南アジア、南太平洋の被害者のことを一体どう思っているのか、一度、S 委員長に聞いてみたい。戦後、日本政府はいっさい個人賠償はしていない。韓国人だけに賠償するなら、それは明らかにレイシスト(人種差別主義者)である。賠償するなら日本が起こした戦争の被害者すべてにする義務がある。たとえ、日本の国家予算の半分を差し出しても・・。そうでなければ、反韓ヘイトデモをやっている集団を「レイシスト」呼ばわり出来ないはずである。

 メルケル首相はナチス・ドイツの戦争犯罪を正しく認識している。だからと言ってどこにも賠償は出来ないこともまた分かっている。ある特定の一国だけに個人賠償するなどとんでもないことである。メルケルは人道主義者であるが、日本の左翼は実は人道主義を装った偽善者としか言いようがない。なぜ、韓国・朝鮮人だけを特別扱いするのか、その理由を聞かせてほしい。自分たちが人種差別主義者ではないことを証明するためにも・・。ちなみに、メルケル首相は旧東ドイツの共産党員であり、今は左派リベラルに属する。

 ヒトラーは言っている、「ドイツ人は世界一優秀な民族である。ユダヤ人やロシア人は劣等民族である」と・・。戦時中、徴用された朝鮮人は優秀民族だから賠償しなければならないが、泰緬鉄道に徴用された ビルマ人、タイ人、マレー人、インドネシア人、並びに、フィリピン人や南太平洋の島々の現地住民は劣等民族だから賠償する必要はないというのが日本の左翼の見解なのか・・。もしそうなら、それはそれで筋は通っている。

 ヒトラーは確信犯的人種差別主義者であったが、日本の左翼政治家・学者・文化人などは、むしろ自分たちは人権派の人道主義者と思っているようである。そうなら、今次大戦での全被害者の遺族に一人1000万円賠償すべきである。徴用工裁判では韓国側が正しいと認めているのだから・・。これを実行してこそ、日本は本当に世界から尊敬されるし、自分たち左翼は人種差別主義者ではないことの証明にもなる。「日本の平和憲法は世界から尊敬される」などの空虚な言葉遊びよりもはるかに・・。だが、私個人としては全く心配していない。日本の左翼はレイシスト、かつ偽善者であり、韓国・朝鮮人以外に賠償する気など毛頭ないことぐらい最初から分かっているからである。

 <追記>

 今の若い人は知らないであろうが、フィリピンで上官の命令に従い、戦後20年以上も戦闘行為を続けていた小野田寛郎少尉に父親を殺されたあるフィリピン人が、日本のマスコミの取材を受けて次のように言っていた、「日本政府から父親殺害について賠償したいとの申し出があったが、私は断った。なぜなら、日本軍に殺されたのはなにも私の父親だけではないから・・」と、その人は日米戦争に巻き込まれて死んだ全フィリピン人に賠償するなら、自分ももらうとのことであろう。このフィリピン人は立派である。一方、韓国人は有りもしないウソ話(慰安婦強制連行)をつくり、日本から金をだまし取ろうとする。事実、元慰安婦救済のため安倍首相が渡した10億円もどこに消えたか分からない。また、その詐欺行為に加担する A 新聞もある。この A 新聞も本当は正義と公正を装った人種差別新聞社である。

 

 

 

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江田船山古墳の築造年代  -通説に疑問ー

2020年07月27日 | Weblog

 江田船山古墳は熊本県玉名郡和水町に所在する前方後円墳である。築造年代は五世紀末から六世紀初頭とされているが疑問が残る。それはこの古墳と同じ型式を持つ福岡県八女市にある岩戸山古墳と石人山古墳の存在である。これら古墳の周りには短甲を着けた武人の石人と石馬が置かれている。このような古墳の周りに石人、石馬を配置するという独特の型式はこの地域特有のもので、その後、日本では見られない。この岩戸山古墳が527~8年に大和政権(継体朝)に反抗して敗北した筑紫の君・磐井(いわい)の墓であるとされているからである。「記紀」の年代表記にはかなり違いがあるが、六世紀以後であることは確実である。この三つの石人古墳はワンセットで考えるべきであり、江田船山古墳も六世紀初頭から中期とすべきであろう。

 ー 出土した鉄刀銘文の読み ー

 「 治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中・・・」 を当初は、「多遅比瑞歯(たじひみずは)大王」と読み、反正天皇に比定されてきたが、近年、埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文に、「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この江田船山古墳の銘文も「ワカタケル大王」と読み、雄略天皇に間違いないとの結論に至った。しかし、ここで大きな疑問が生じる。雄略天皇は五世紀末の人である。この三つの石人古墳のうち、岩戸山古墳は確実に筑紫の君・磐井の墓である。磐井は、527年(継体21年)に半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和政権軍を新羅側に立って妨害したため、翌528年(継体22年)11月、征討将軍物部麁鹿火によって鎮圧された。なぜ、磐井が反乱を起こしたのかは不明な点が多いが、軍隊の動員はいつの時代も人々には重い負担であるので、その不満が原因であったのかも知れない。 それはともかく、岩戸山古墳は528年以降の古墳であり、他の二つもこの時代前後の古墳であろう。そうすると、雄略天皇の時代とは半世紀も後世のものとなる。

 ー稲荷山鉄剣銘文の読みー

 先のブログ、稲荷山鉄剣銘文の「ワカタケル」は雄略天皇のあとの欽明天皇であるとの私の主張が生きてくる。「辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比曙 其児多加利足尼・・・ 」 この「辛亥年七月」を雄略天皇の471年ではなく、還暦60年後の531年とすればまさに磐井の反乱の直後となる。この時代、北部九州にのみ存在する石人・石馬を古墳の周りに置く型式は、六世紀中期頃に流行した古墳であるとのことになり、時代もピッタリ合う。また、船山古墳の出土物には新羅の王墳からの出土物と一致するものもある(朝鮮半島ではほとんどの王墳が盗掘にあっており、現存している遺物は数少ないのが実情ではあるが・・)。がしかし、この船山古墳は画文体神獣鏡などの多くの鏡が副葬されており、やはり倭人の伝統的文化を継承している。

 それと、稲荷山鉄剣銘文の中に、「乎獲居臣(オワケノオミ)」と「多加利足尼(タカリスクネ)」とあり、この「臣(オミ)」と「足尼(スクネ)」は六世紀頃に制定された「氏姓(うじかばね)制度」の位階であり、これが有るということは、この鉄剣銘文がやはり六世紀以降に作られた事実を証明していると思う。

 <追記>

 古代史学者は「ワカタケル」=雄略天皇(大長谷若建命)との思い込みが強すぎるのではないか。「ワカタケル」とは「若き勇者」との意味であり、モンゴル語では「バートゥル」と言う。ジンギス汗の孫で、ヨーロッパ遠征でドイツ・ポーランド騎士団を粉砕したワールシュタットの戦い(1241年)の勝者、「抜都(バトゥ)」は、その名「バートゥル(勇者)」の漢字表記である。モンゴルの歴史にはよく登場する名前でもある。17世紀初頭、女真人(後金)のヌルハチと北アジアの覇権を争ったリンダン・バートゥルという名のモンゴルの大可汗がいた。また、20世紀にもモンゴル人民共和国の創始者、 スフ・バートゥルという人もいた。「ワカタケル」をなにも雄略天皇に限定する必要はない。何よりも「記紀」には天皇や皇族の本名などまったくと言っていいほど書かれていないのであるから・・。「厩戸皇子(聖徳太子)」「中大兄皇子(天智天皇)」「大海人皇子(天武天皇)」も単なる通称にすぎない。

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「六波羅幕府」や「安土幕府」は成立するのか -続編ー

2020年05月29日 | Weblog

  6年前に読売新聞記事を元にこのテーマで論考を書いたが、またまた、朝日新聞が同じようなトンデモ記事を掲載した(2020・5・18)。今回の記事は「幕府」の呼称問題のほかに「天下」についても書かれていた。その見出しは「幕府・天下 もともとは」であった。くり返すことになるが、今一度、述べておきたい。

 ー「幕府」と「藩」は明治時代に決められた歴史用語 ー

 元々、漢語「幕府」は中国・皇帝(日本では天皇)の命により政治・軍事の全権を委任され、派遣された夷狄討伐軍の本営(将軍府)のことである。日本史ではこの「幕府」という漢語を日本式に変容させて使っているのである。一つの政治体制の意味として。つまり、古代律令制度に代わる武家による全国一円支配体制、その端緒を切り開いたのが他ならぬ、源頼朝の鎌倉武家政権であった。たしかに、「幕府」という言葉自体は『吾妻鏡』に出ている。「文応元年(1260年) 将軍家御居所者称幕府」とあり、中国・唐代には近衞大将の居館を「幕府」と称していたこともあり、政所別当・大江広元あたりが引用したのであろう。しかし、この時代の「幕府」はあくまで将軍の居場所(政庁)の意味であり、明治以降の「政治体制・制度」の意味ではなかった。

 また、「藩」も中国史では日本の大名(諸侯)に当たる言葉であり、そこから漢学・儒学者の新井白石(1657~1725)が『藩翰譜』という書物を著したが、この「藩」との言葉自体は江戸時代には一般化しなかった。つまり、「阿波徳島藩」などの名称は江戸時代にはなかったのである。新井白石は漢語「藩」を使うことで、自身の漢籍の才能を自慢したかったのであろう。その後、幕末に至って「幕府」と「藩」は「尊王攘夷」の水戸学の影響もあって、尊攘志士たちが使い始めたようである。

 明治の世になって学校制度も整い、国史教科書も必要となり、この時、「幕府」と「藩」も正式に歴史用語として決められた。何の問題もない。明治4年の「廃藩置県」が有名。(なお、諸藩が乱発した「藩札」も明治以後のれ歴史用語である。今に残る当時の藩札に「○○藩」などの表記はない)。また、「幕藩体制」なる用語も江戸時代を理解する上で非常に分かりやすい言葉である。ではなぜ、同じ武家政権であるのに「六波羅幕府」「福原幕府」「安土幕府」「大坂幕府」は成立しないのか、先のブログに詳しく書いてあるのでそれを読んでほしい。

 -「 天下」の意味は一つである ー

 この記事には、この時代(戦国時代)、「天下」の意味は京と五畿内のことだったとの神田千里と金子拓、二人の説を取り上げ、これがあたかも真実のように書かれているが、とんでもない俗説である。先のブログ「信長の天下布武について」を読んでほしい。言語の意味は誰であれ、いかなる独裁者であっても勝手に変えられない。ある言葉とか用語を使用禁止にすることは出来ても・・。現代でも近隣 にそういう国はある。

 上記両氏は言語の意味とその使用意図をごっちゃにしている。ある言語の意味(語源も含めて)は言語学の分野であるが、その使用意図は歴史学の領域である。織田信長がその時点で尾張と美濃の二国しか支配下に置いていないのに、なぜ「天下布武」の印章を使ったのか、漫画や小説ならどんな奇想天外な説でも言える。信長には誇大妄想癖があった・・、いや、天下の権を握るのは天が己に命じたのだ・・などなど。信長の意図がどこにあったのか、一応、説は立てられる(それが真実かどうかは別として)。本能寺の変や龍馬暗殺について諸説入り乱れているように、だが、言語としての「天下布武」に意味は一つしかない。言語とはそういうものである。

 朝廷が信長に「天下静謐」を命じたと言っても、その本音は、少なくとも自分たち(天皇や公家衆)の住む京とその周辺だけでも平和と安寧を守ってほしいと思ってのことであろう。だからと言って、「天下」が京と五畿内を指す言葉ではない。名目上、日本国の最高主権者である天皇は、臣下の誰にでも、「天下静謐」を命じることの出来る唯一の存在である。この場合、たまたまそれが織田信長であったにすぎない。「天下」の覇権を握る第一歩として天皇の居る京を支配するのは至極当然のことである。信長はそれを実践したにすぎない。言語は政治問題とは全く別の科学の領域に属するものである。そこから、西洋で言語学という学問が生まれた。(信長が「天下」を京と畿内の意味で使ったなど・・それを証明するには信長本人に聞いてみるほかない)

 <追記>

「羽柴がこねし天下餅」「かかあ天下」「亭主関白」中国の「小皇帝」、これら「天下」「関白」「皇帝」の意味は一つしかない。その意味をすべての人が共通に認識しているからこそ、いちいち説明する必要もなく、面白おかしく使っているのである。中国人に、「中国では甘やかされた一人っ子を小皇帝と言うそうですね、皇帝には子供の意味もあるのですね・・」などと言ったら、その中国人は、口をあんぐり開けて返す言葉も見つからないであろう。信長の「天下布武」の「天下」をある特定の地域を指す意味であるなどと言うこと自体、この「小皇帝」のたとえ話と同程度のものである。 龍馬が他藩の重役に「一筆啓上」を使って手紙を書いている。それを誰一人おかしいと思わない。日本人の言語に対する無知、無関心、ならびに言語力の劣化を物語っている以外なにものでもない。

 

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昔は夫婦別姓だったのか ? 最終章  - 蔓延する常識の噓 (俗説) ー

2020年03月07日 | Weblog

 先日、「選択的夫婦別姓」を推進するため、超党派国会議員の会合があったことが夜のニュースで報道された。翌日の新聞各紙も大きく取り上げていた。その時、ある全国紙がその記事に合わせて、大学教授の一文を載せていた。そこには驚きの内容が書かれていた。要約すると、「日本では古代から江戸時代まで夫婦別姓もしくは夫婦別氏であった。明治新政府が近代的民法導入のため、フランスから法学者・ボアソナードを招聘して民法作成に取り掛かり、最終的に君主制のあるドイツ民法も取り入れて、明治憲法下における新民法が成立した。そこで、夫婦同姓(原則的に妻は夫の姓を名乗る)が決められ、明治31年に正式に公布された。日本の夫婦同姓は明治政府の欧化政策によって生まれたものだ・・」とのこと。つまり、西洋を真似た結果だとの論旨であった。この説は世間一般に流布しているもので、日本史学者、とりわけ古代の戸籍制度を研究している学者の説もだいたい同じようなものである。まさに、驚天動地、最後に今一度述べておく。

 ー 日本では古代から現代まで中国式の夫婦別姓であったことは唯の一度もない ー

 古代の倭国では中国文化の影響を受けて氏族名が「姓」となって行った。大伴旅人の異母妹であり、大伴安麻呂の娘、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)も「の」を入れて読み、男女共に自分の属する氏族を表わしていた。つまり、女姓も生涯、自分の生まれた氏(うじ)に属した。他氏族の男と結婚しても「大伴氏の女」であることに変わりなかった。平安時代中期に書かれた『更級日記』(さらしなにっき )の作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)であるが、本名は伝わっていない。この女性も橘氏と結婚して子供もいるが生涯、菅原氏の女であった。同様に、王朝時代の多くの才媛たち、紫式部、清少納言、和泉式部なども本名は分かっていない。誰それの娘とか妻であるとは諸史料にあるが・・。一方、中国では有名な楊貴妃(「貴妃」は尊号」)でさえ「楊王環」という本名が伝わっている。生涯、「楊王環」を名乗っていたからである。ここにも、日本と中国の大きな違いがある。

 この日本の歴史的伝統、慣習が武家社会になっても存続していたと見るのが正しいであろう。他家に嫁に行っても生涯、実家の姓で呼ばれてきたのである。しかし、意識は婚家の一員であった。これらの事実を夫婦別姓と呼ぶことには大きな問題がある。誰でも、夫婦別姓と聞くと中国のそれをイメージするからである。ただし、古代は夫婦別氏であったとの表現は正しい。男女共に生涯、自分の生まれた「氏(うじ)」(氏族)に属したのであるから。この慣習は江戸時代の公家社会まで生きていた。(なお、武家社会の足利氏や豊臣氏の「氏」は「家、一門」の意味である。現代では「氏」と「姓」は同じ意味で使う)。

 たしかに、婦人が実家の姓を使って「姓・名」を表記した資料は存在する。ところが、逆に夫の姓を用いて「姓・名」を表記した事例もまた有ることがすでに研究者によって報告されている。その理由を「前近代には夫婦の苗字に関する法的規制は存在せず、妻が実家、婚家どちらの苗字を名乗るかは、慣行や帰属意識にゆだねられていた・・」とある (大藤修『日本人の姓・苗字・名前』吉川弘文館)。 

 がしかし、ごくわずかの文献資料でもって、日本の女性が昔から中国のように「姓・名」で自身を名乗っていたと考えるのは早計である。日本の女性が全員、「姓・名」を名乗るようになったのは明治8年の「平民苗字必称令」の布告からである。その時、生家、婚家どちらの姓を名乗るかで日本全国で混乱が起きたことはすでに書いた。(当時の日本が本当に中国式の夫婦別姓だったら、何の混乱も起きなかったはずである。政府の指示は、妻は生家の姓を名乗れとのことだったのだから・・)。つまるところ、日本は夫婦別姓・同姓どちらとも言えない曖昧な国だったとしか言いようがない。(北政所が東寺の仏頭に納めた木札に「豊臣氏女」と書いていることは象徴的)

 ー日本史学者の言う夫婦別姓と中国の夫婦別姓とは根本的に違う ー

 蒋介石の妻の名前は「宋美齢」である。娘時代は宗家の娘、「宋美齢」である。結婚しても、蒋家の嫁、「宋美齢」である。夫の死後もやはり宋家の女、「宋美齢」である。これが本当の夫婦別姓である。では、日本の場合はどうか。大石内蔵助の妻、「りく」の娘時代は石束家の娘、「石束りく」か? 結婚して、大石家の嫁、「石束りく」か? 夫の死後も石束家の女、「石束りく」か? 「りく」は「石束りく」とも「大石りく」とも名乗ったことは唯の一度もない。この両者の違いを日本史の研究者は正しく認識しているとは思えない。

 この二人の女性の人生で根本的に違うのは、「りく」は結婚そして離縁後も、「大石家の女」としてその責任をまっとうしたことである。「りく」は離縁後、幼い子供を連れて但馬豊岡藩家老・石束家に戻った。男児は幕府からお咎めを受け遠島に処されたが、ほどなく赦免され豊岡に戻った。女児は他家に嫁にやったが、男の子供は藩主の口添えがあったのであろう、浅野家本藩・広島藩に召し抱えられた。「りく」はその子と一緒に広島に行き、そこで生涯を終えた。大石家の再興に執念を燃やし、最後まで「大石家の女」として生きた人生であった。

 <追記>

「選択的夫婦別姓」を推進するため集まった与野党議員の先生方は、本当に日本史学者の言う「日本も昔は夫婦別姓であった」との主張の矛盾を理解した上で、夫婦別姓に賛同しているのだろうか。はなはだ心もとない。そのとき新聞に一文を寄せた大学教授同様、日本も、中国や朝鮮と同じように古代から江戸時代まで夫婦別姓であったのに、明治31年、ときの政府によって、それまで名乗っていた生家の姓を取り上げられたと思っているのではないのか・・。

 また、「姓」と「名字」(苗字)は違うとの通説があるが、それは歴史的由来から来ているものであり、日本で最初に中国風の姓を持ったのは氏族集団、つまり貴族階級であった。だからこそ、「大伴の旅人」と「の」を入れて読むのであり、「大伴氏の旅人」の意味である。「名字」は平安末の荘園制の崩壊から土地が私有されるようになり、その土地に「名」を付けて自分の物とした。そこから「名字」を持つ武士が生まれた。おそらく、その私有地を「名田(みょうでん)」とか「名地(みょうち)」と呼んでいたので、その「名地」から「名字」が生まれたのであろう。 「姓」(貴族・官人)と「名字」(農民・武士)は格が違うのである。その後、両者の区別はなくなった。後世、武家がよく使う「本姓は 源、平、藤原」などの表現は、自分の先祖は皇族、貴族に連なると自慢したかっただけで、別に深い意味はない。

 余談であるが、ドイツも貴族階級は戦前まで氏名の間に  von  (英語の  of  ・・の)を付けていた。東プロイセン(現在はポーランド領)にあった総統大本営爆破事件に失敗して銃殺された クラウス・フォン・シュタウフェンベルグ は地主貴族(ユンカー)出身であった。つまり、シュタウフェンベルグ家 の クラウス の意味である。他にも、フォン・モルトケ将軍 やフォン・ヒンデンブルグ元帥などが有名。日本でも阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と「の」を入れて読むことで貴族意識を持っていたのであろう。全くの偶然とはいえ人間の考えることはよく似ているものである。 

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