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日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(12) 仮定形・已然形とは

2009年01月08日 | 言語

 已然形とは「すでにそうである」との意味であるが、これもチュルク語の用法と基本的に一致している。ウズベク語では bos-ib oldim.(押さえた) この文を直訳すると「押して・得た」となる。( bos-ib 押して ol-dim 私は得た )。  ol-は「得る、取る」、英語の get に当たる。(他のチュルク諸語では  al- 得る)。 ウズベク語では ol- 「得る」を使うことによって、動作が終了もしくは静止した文を作る。つまり、日本語の已然形の文である。この用法は朝鮮語にもある。-ass/-oss がこれに当たる。
 
 -「得る」の重要性ー 
 日本語の已然形にもチュルク語同様「得る」が重要な役割を果たしている。結論から先に言うと、動詞の名詞形(連用形)に「え(得る)」が付いたものであると考えられる。
 例えば、yomi-e から yome(読め)、kaki-e から kake(書け)のように。「得る」による日本語の造語法には「押さえる(押す)」「聞こえる(聞く)」などのように静止・状態の動詞を作ってゆく。現代語の仮定形、つまり古語の已然形「読め」「行け」「咲け」などは動作が終止・静止に向かう状態をさす言葉である。勿論、これらは「読め」「書け」と命令形にもなる。
 
 -已然形(完了形)は今もあるー 
 万葉集にある「夕去れば」(已然形)と「夕去らば」(未然形)では明確な意味上の違いがある。「夕、去れば」は「すでに夕方になっている(完了)状態」であり、一方、「寄らば斬るぞ」は「寄ってくれば(発展)状態」であり、共に「ば」の機能は同じである。後に、未然形「行かば」「鳴かば」が使われなくなったため、後世、已然形が仮定形と称される要因となったと考えられが、実はそうでもない。    

 例えば、現代語でも「私が君ならば、そんなことはしない」と言うように、「なる」の未然形「なら」に仮定の接尾語「ば」が付くと仮定の文になり、なにも古文だけの用法ではない。文語用法は現代語にも生きているのである。「読め」や「降れ」に仮定の意味がある訳ではない。例えば、「読めた」「取れた」などは動作の可能と完了の意味である。なぜ「読め」「書け」が学校文法で仮定形とのみされているのか理解に苦しむ。完了の意味もあるのである。

 英語で If it rains tomorrow. (明日、雨が降れば)は仮定形の文であるが、rains に仮定の意味があるのでなく、文全体にあることは誰でも分かることである。しかるに、現代国文法では「降れ」は仮定形とされている。理解に苦しむだけでなく、学習者に大きな誤解を与える。古語「降らば」は雨がふるかどうか分からないが、現代語「降れば」は、雨が降ったらと、「降る」ということがあればと言っているのであり、共に仮定の文とも言える。私が先に述べたように、未然形は「それに向かっている」ことであり、已然形は「それが完了、終止すること」であり、仮定の意味は助詞「ば」にあるのである。

「宝クジに当たれば」はたしかに仮定であるが、「春になれば桜が咲きます」は仮定とは言えない。「春になると」との意味であり、条件完了と言える。つまり、「夕されば」は現代語でも「夕されば」(夕方になると)であり、現代語と基本的に同じである。
 従って、「読めば分かる」という文は現代語では仮定形とされているが「読むという動作が終了すれば」との意味であり、已然形の要素は残されている。また、「住めば都」とか「勝てば官軍」も同様である。現代日本語でも已然形は使われている。けっして、古文だけの用法ではない。つまり、「得る」自身が動作の終了もしくは完了の意味を持っているのである。これはチュルク語や朝鮮語と同じである。その対極にあるのが未然形であり、前述したように、「読ま」「行か」「咲か」とその方向に向かってゆく意味を持っている。(例、花咲か-じいさん、花を咲か-そう)。
 
 -仮定形には完了の意味もあるー 
 また、仮定形に過去・完了の助動詞「た」が付くと「読めた」(読むことが出来た)と可能の意味にもなる。「読めた」は完了の意味も持っている。つまり、古語の已然形「読め」は「読め・リ」と言って完了の意味であったが、已然形が失われてゆく過程で「読める」との可能の意味を持つようになり、「り」に代わって「た」が使われるようになった。「読めた」は可能と完了の両方の意味を持っているのである。
 
 ところで、「得る」で可能の意味を作る用法はちゃんとチュルク語に存在している。ウズベク語では yoz-a olaman. で「書ける」(可能)となる。また、yoz-ib oldim で「書き取った」の意味になる。 yoz-書く、-a はつなぎの母音、 olaman (私が)得る、日本語「書けた」が「書き終えた」(完了)と「書くことが出来た」(可能)の二つの意味を持っているのはチュルク語と全く同じである。日本語文法はチュルク語と親縁な関係があると思われる。 
 英語でも She got married.(結婚した)と get で完了体をつくるように、人間の感性は共通している。
 現代日本語では「読め・る」「書け・る」などは可能動詞、「取れ・る」は自動詞と呼ばれているが、その起源は動詞「得る」にある。
 
 論点をまとめると、
1)已然形は動詞の名詞形(連用形)に「え(得)」が付いたものであり、終止・完了の状態を表す。学校文法で仮定形とされているのは根本的な誤り。「書け-た」は「書き終えた」もしくは「書くことが出来た」とのことなので、現代語でも已然形又は完了形とするべき。助詞「ば」が付くと仮定の意味を持つ文にもなるだけである。

2)万葉集にもある已然形に「ば」が付く場合、「夕されば・・」とか「夕浪千鳥汝が鳴けば」も現代日本語でも理解できる。つまり、「夕方になれば・・」「汝が鳴くと」であり、現代語と同じ。「去れ」や「鳴け」自体が仮定形ではない。このような名称は学習者に誤解を与える。已然形(完了形)は復権すべきである。

3)現代日本語動詞の活用は次のようになる。
  基本形「読む」(これは連体形であるが、終止形も兼ねる)

 1.発展形・・読ま(その方向に向かう)

 2.名詞形・・読み(連用形と称されているもの)

 3. 完了形・・読め(終止、静止状態)
 
 呼び掛けの「行こう」も未然形「行か」に願望の助詞「う」が付いたものである。 学習者は「読ま、読み、読め」、の3つを暗記すればよく、「ま、み、む、む、め、め」などは廃止すべき。また、「見る」の場合は、基本形が「見る」で、「見(み)」が名詞語幹である。(花見、見もの、見方)。仮定形を作るとき、接尾語「る」が「れ」に音変化するだけである。
 最後に文語とされている「寄らば大樹の陰」「死なばもろとも」などの表現も、現代日本語の文語表現として認知すべき。文語表現は古語に由来しているが現代語の一部である。

 <追記>
 最初に述べたように、国文法(学校文法)はまさに拷問である。動詞の五段活用とか上一段活用などの意味不明の用語が出てくる。生徒は全く理解できない。このような苦痛からの解放なくしては日本語、ひいては日本文化の未来はない。日本語は整然としたアルタイ語文法を持っており、音声構造さえきちんと把握すれば、けっして難しい言語ではない。勿論、これは外国人の日本語学習者にも当てはまることである。なお、助動詞の活用も動詞に準じている。


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2 コメント

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仮定形 (Maria)
2013-11-04 11:32:19
 仮定形は使われなくなって、助動詞「なら」で表されるようになった、という説明がよいかもしれません。
 「仮定形」に相当するのは、「去らば去れ」「毒を喰らわば皿までねぶれ」「死なば諸共」「海ゆかば水漬く屍」などだと思います。
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仮定形 (大橋行雄)
2018-07-11 09:37:58
>>仮定形に過去・完了の助動詞「た」が付くと「読めた」(読むことが出来た)と可能の意味にもなる。

動詞「読む」の可能形が「読める」で、これに「た」が付いたもので、「た」が付いたので可能の意味になったのではありません。「読む」の仮定表現は「読めば」です。

活用に意味の変化を求めるため論理が混乱しています。■
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