小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

幕末史に激震 ! -「新政府綱領八策」はやはり捏造 ー

2018年02月15日 | Weblog

  幕末安政6年(1859)来日したアメリカの宣教医であったヘボン博士( 本名は Hepburn 日本式に「ヘボン」を名乗った。ヘボン式ローマ字の考案者として有名)が、慶応3年(1867)に中国・上海で印刷し、横浜で発行した和英辞典、『和英語林集成』という本がある。この本は第2版(明治5年)と第3版(明治19年)の三部作として現存している。今、これらの本は博士が創立に尽力した明治学院大学図書館デジタルアーカイブスで検索して誰でも閲覧できる。また、初版本は大阪府立図書館にも所蔵されており、私はそこで直接手に取って見たが劣化がひどく、デジタル化されて本当に良かったと思っている。 さてその結果は・・・

 -「新政府綱領八策」にある「顧問」も「大典」も「部下」も初版本(慶応3年)には無かったー

 慶応3年はまさに龍馬が書いて処々に配ったとされるこの「新政府綱領八策」と同じ年、この年の五月に『和英語林集成』は横浜で刊行されている。ヘボン博士は日本人弟子たちの協力を得て、当時の日本語約2万語を収録している、(第2版は約2万3千語、第3版は約3万5千語)。見出しはローマ字なので非常に分かりやすい。

 「顧問」は明治19年の第3版に出ており 「 Komon  顧問  Adviser 」とある。 福沢諭吉の『文明論之概略』(明治8年)は当時のベストセラーとなったので、その影響で一般化したのであろう。だが、龍馬の「八策」にある「部下」も「大典」も第2版にも第3版にも無い。ただ、「部下」という言葉の元となったと考えられる 「本部」 は「顧問」と同じく第3版にはある。がしかし、「部下」との言葉は明治19年段階ではまだ生まれていなかったようである(「配下」は初版本にすでに出ている)。「部下」を龍馬が普通に使うぐらいに一般化していたなら、初版本に当然あってしかるべきである。「大典」も大日本帝国憲法発布時(明治22年)の明治天皇の勅語で初めて出てきた言葉であることはこれでハッキリしたと思う。

 また、佐藤亨著『 幕末・明治初期「漢語辞典」』(明治書院 2010年)にも「部下」も「大典」もない。著者はこの時代の様々な文献資料から引用しているが、龍馬の「八策」は知らなかったのであろうか? いや、知ってはいたが資料的価値はないと判断したのか、つまり、ニセモノと・・。ただ、「部下」の元となった「部局」との用語は長束宗太郎著『主権論纂』(明治15年)から引用している。勿論、「顧問」はあるが、私と同じく福沢諭吉(明治8年)とヘボンの『語林集成』を引用している。幕府や諸藩の資料には無かったようである。ただし、「教官」は幕末の資料にあり、明治時代にはそのまま軍隊や官立の諸学校で使われている。

 <追記>

「船中八策」や「新政府綱領八策」をねつ造して、坂本龍馬を維新のヒーローに祭り上げようとした集団に対して私は怒りすら覚える。さらに、それに便乗して龍馬の手紙や様々な資料を偽造して金儲けを企んだ連中も沢山いたと思う。私のこの論考は、薩長同盟条文の龍馬の朱筆の裏書きや暗殺5日前の中根雪江あての手紙などへも波及していくと思っている。この二つもやはりニセモノであろう。帝国憲法の草案には多くの漢学者が協力している。明治天皇の勅語の「大典」も、明の『永楽大典』が念頭にあり、「大典法」の略として思いついたものであろう。朝鮮の『経国大典』(15世紀末)も同じ発想と思われる。「大典」とは憲法の意味と思っている人が多いようであるが、戦後の日本国憲法は「大典」ではない。「大典」とは、皇帝、天皇、国王が勅命により、臣民に与えるものである。龍馬は明治憲法が「大典」(欽定憲法)になることを幕末にすでに予言していたことになる。龍馬はまさに神に近い天才である!?。

 思うに、龍馬は当代一流の多くの人士との交流で、世界を見据えた開明的な考えに到達していた(この点では明治維新の波にうまく乗って成功した同郷の岩崎弥太郎や幕臣の渋沢栄一より遥かに先を行っていた)。だが、龍馬はこれら先人の構想を借用して、あたかも自分の思想のように文書にして残したことはただの一度もない。龍馬はそれぐらいの節度と礼儀はわきまえていた。これら一連のねつ造文書は坂本龍馬に対する侮辱以外なにものでもない。泉下の龍馬も怒っているのではないか・・。

             

コメント
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