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日本語の諸問題(11) 国文法・未然形の矛盾

2008年12月26日 | 言語

 我々日本人が中学校で学ぶ国文法により、日本語の動詞は活用するものであり。あくまで、動詞が主体的に音変化を起こすものであると思い込まされている。しかし、このような音変化は基本的にアルタイ諸言語が共通して持っているものである。チュルク語や朝鮮語では母音の変化として非常に分かり易い。日本語では動詞、形容詞、形容動詞、助動詞などの活用と定義されている。しかし、日本語では子音と母音に切り離すことはできない。それは日本語が他のアルタイ諸言語とは違い、開音節(子音プラス母音)という音声構造を持っているからである。日本語動詞の活用は非常に特殊であると言える。

 ー国文法「未然形」とは何かー
 辞書を引くと、「未然」とは「まだそうなっていないこと」とか「いまだその動詞の動作が実現していないこと」などと説明されている。それゆえか、外国人向けの日本語教本には未然形を  negative (否定)  とか  future (未来) などと訳している本もある(例、読ま-ない)。
 では、使役の助動詞「せる、させる」が付くとどうなるのか。たしかに、「読ま-ない」は  negative  でいいが、「先生が生徒に本を読ませた」という文を外国人のみならず、日本の中高生にどう説明するのか、また古文でも「渡ら-せ-給ふ」という文が出てくる。この場合、「渡ら」は未然形であるが、今、渡って来ているのである。未然形はただ否定のみに使われるものではない。他に、「読まれる」とか「書かれる」のように受身の場合も未然形を使う。「村上春樹の小説は世界中で読まれている」という文は明らかに完了形である。

 また、日本語を言語学的に解釈すると称して、動詞の活用を子音と母音に切り離して「読む」の語幹は  yom  であり、yom-a   yom-i yom-e  などのように、日本語は母音部分を変えることにより、文を作ってゆくなどと、驚愕の論考がある。事実、そのように説明していた外国人向けの日本語文法書を知っている。この考え方は真にもっとものようであるが、日本語の音声構造を無視した空想の産物である。
 
 アルタイ諸言語は子音で終わる単語と母音で終わる単語の両方を持っている。例えば、ウズベク語では  yoz- が「書く」であり、yoz  (ヤズ) と聞けばすべてのウズベク人は「書く」を、 o`qi  (オクー)と聞けば「読む」を連想できる。では、日本人は   kak-u  の   kak   や  yom-u  の   yom  を聞いて何か連想できるだろうか。先に述べたように日本語は「 書く  kaku 」とか「 読み  yomi 」 のように子音と母音の音節から成り立っている。これは古代から現代に至るまで一貫している。だからこそ、漢字一文字を一音節として利用した万葉仮名が生まれ、万葉集という人類史上優れた文学作品を創り出したのである。万葉仮名の原形を先駆的に使用していた古代朝鮮は、自分たちの言語にうまく適用できず、消えてしまった。( 朝鮮語の「朴」は  pak  と子音で終わる )。

 これを物理学にたとえると、言語は水のような物である。文字として目にすることが出来るし、音声として聞くこともできる。しかし、水を水素と酸素に分解すれば、目に見えないし、物として認識できない。つまり、日本語の音声構造はこれ以上分解できない水のような存在である。では、なぜ「読み」(名詞形)に「ない」とか「せる」が付くと「読ま」となるのか、それを明らかにしたい。

 ー日本語のアルタイ語的要素ー
 チュルク語や朝鮮語にはつなぎの母音という言語機能があり、ウズベク語では   bor-a-man  で「私は行く」と現在形を作る ( bor-  行く ) 。朝鮮語でも   sar-a-issta  で「生きている」と継続的存在を意味している。( sar- 生きる、住む )。 日本語の未然形もこれらつなぎの母音  -a  と同じ機能を持っていると思われる。まさに、その動詞が動きつつあること、継続、発展の意味を表わしている。先に述べたように、日本語独特の音声構造から「読ま」とか「書か」となる。「読まない」とか「読ませる」は明らかに「読む」方向に向かっている。それを「ない」で打ち消し、「せる」で強いる意味をつくる。
 

 結論として、未然形は「まだそうなっていない」という意味だけでは不十分で、「そうしようと向かう」という意味も併せ持っている。しいて名付けるとすれば、「発展形」とでも言うべきか。呼び掛けるときの「行こう」も「行か-う」から来ており、私の説を支持している。(日本語では「あ」から「お」への音変化は一般的である。蔵人「くらびと」が「くろうど」、「向かい側」が「向こう側」になるように)。他にも、「花咲か爺さん」とか「花を咲かそう」などの言葉も、そうしようと向かう意味である。

 古文では未然形に「ば」がつくと仮定形とされているが、単純に仮定形とも言えない要素もある。 万葉集の次の歌 「海行かば 水つ"く屍、山行かば 草むす屍・・・」、「我、行かむ」が強い意志を表しているように「海を行く」との大伴家持の強い意志が表れているとみるべきではないか。やはり、「行か」は「行くに向かう」のであり、動詞の未然形という定義だけでは、日本語の理解には不十分である。現代語では「行けば」となるが、なぜ、已然形に付くようになったのか、それには明確な理由がある。(次章で触れるが、已然形の真の意味そのものにある)。国文法未然形は、勿論、現代語の仮定形、古文の已然形と対極な関係にある。つまり、発展してゆく  -a  と、 静止に向かう  -e  である。

<追記>
 たしかに、私の言う発展形もそれに向かっているのであるから、基本的に未然形と同じ物ではある。しかし、「まだ動作が行われていない」という説明だけでは不十分で、「外国に行きたい」とか「学校に行く時」のように、この場合の連用形と連体形も未然形と同じ意味になってしまい、学習する側は混乱してしまう。つまり、「行きたい」も「行く時」も共にまだ「行く」という動作は行われていない。日本語動詞の未然形は明らかに不完全な用語である。
 
  


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