小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題 (5)「商う」の語源  ー国語学の限界ー

2007年10月25日 | 言語

 日本語には学校教育の国語と外国人に教える日本語との二つの文法がある。外国語には例がない。私たち日本人が中学の国語の時間に学ばされる「 未然、連用、終止、連体、仮定、命令 」の反復練習。この授業はまさに拷問に近い。ほとんどの人は国語(日本語)嫌いになる。私とて例外ではなかった。しかしその後、外国語と言語学を学んでみると日本語もきちんとした文法体系を持つ言語であることが分かってきた。国文法というものがいかに外国の諸言語と乖離しているか、これからこのブログで徐々に明らかにしていきたい。ある言葉を国語学と言語学で解釈してみるとどうなるか。
 

 -「商う」の語源ー
 NHKの番組で「 あきなう(商う)」の語源について元東大教授の著名な国語学者が「商う」とは農民が秋に縄をなうことから生まれた言葉であると答えていた。NHKとその国語学者の権威で決まったような感があるが、とんでもない。農民が縄をなうのは冬でも春でもできる。とくに秋である必然性はない。「商う」の語源を言語学的に解釈するにはまず類似した言葉を探し出すことである。英語で word family (単語家族)と言う。
 
 インド・ヨローパ語族(印欧語)の比較言語学の入門書に必ず取り上げられる用例に語根 -st がある。この -st を語根として英語の stone, stand, stop, stay, state, fasten などの単語が word family を形成する。物が固まる意味である。同じ印欧語のペルシャ語でも stand (立つ)は istadan,   fasten (縛る)は bastan,   state (国) は -stan, ウズベキスタンの -stanである (ウズベク人の国、カザフスタンはカザフ人の国の意味)。

「商う」の単語家族を拾ってみると「になう(担う)」「ともなう(伴う)」「つぐなう(償う)」「いざなう」「おこなう(行う)」「おぎなう(補)」「そこなう(損なう)」「うらなう(占)」などがある。これらから言えることは「なう」とは英語の attach ( 密着する、すり合わせる)とか  bear ( 携える、身に帯びる)の意味があることが分かる。

「になう」は「荷なう」、「ともなう」は「伴なう」で文字どおり。「つぐなう」の「つぐ」は「酒をつぐ」の「つぐ」で「次ぐ」「継ぐ」と同じ。「つぐなう」とはある事象に対して断絶させず、つないで行くこと。「いざなう」は「いざ、いざ」と相手を自分の元に寄せること。「おこなう」の「おこ」とは「興す」「起こる」の語幹「おこ」で物事の発生とか出現を意味し、「興す」と「起こる」はその動詞化したもの。  つまり、「行う」と「興す」は動作 (行う)と状態 (興す)の意味上の違いを表わす動詞 (「す」は「する」の文語形)。これから「おこなう(行う)」とは「おこ」を「なう」(身に寄せる、帯びる)こと。また、「おぎなう」も「起きなう」であり、「き」が「ぎ」と濁音化したものにすぎない。つまり、「起きる」の語幹 「おき(発生、出現)」を呼び寄せること。 「損なう」はどうか。「そこ(底)」とは今でも「底値」とか「資金が底をつく」という表現があるように最低、最悪の状態を表す言葉でもある。「そこなう」とはまさに「底(最悪)」を帯びること、そこから「損なう」の意味が生じたのであろう。最後に「占う」とは、「裏(うら)」を引き寄せること。つまり、何でも表(おもて)は見えるが、裏(うら)は見えない。その裏を言い当てることから生まれた言葉であろう。

 いよいよ「あきなう(商う)」の語源であるが、「縄をなう」の「なう(撚り合わせる、すり寄せる、帯びる)」から出来た言葉であることは間違いない。「あき」は「秋」ではなく「空き」と考えるのが一番妥当ではないか。「商う」とは売り手と買い手双方の間(空き)を「なう」(すり合わせる)ことであると思う。
 なお、「縄(なわ)」の語源も、物を撚り合わせる「なう」(古語の「 なふ naFu 」)から生まれたと考えられる。F 音の弱体化により、「naha なは」から「nawa なわ」となった。助詞の「は」が発音では「わ」となる現象と同じ。「なふ」と「なわ」は一つの単語家族であろう。
 
 <追記>
 漢和辞典には「商」の意味として、商売で売り手と買い手が駆け引きすることから「はかる(協議)」の意味が生じたとある。世界史の教科書に出て来る「三国協商」(20世紀初頭の英、露、仏の同盟)のあれである。私自身、ごく最近まで「三国協商」とは前述の3国が協力して貿易(商売)するものとばかり思っていた。本当の意味はこの3国が協議、協力して新興のドイツ(プロイセン)に当たることであった。これからも「商なう」の「あき」は「秋」ではなく、売り手、買い手の双方の間 (あいだ、空き)を協議してうめる(すり合わせる)ことであることは間違いない。なお、「空き」と「秋」は偶然の一致であろう。

 

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平城京はなぜ「ならのみやこ」と称されるのか ?

2007年10月16日 | 歴史

 奈良時代の大宰権帥・小野老(おゆ)の有名な歌「 あおによし 寧楽(なら)の都は 咲く花の 匂うが如く いま盛りなり 」。平城京は「ならのみやこ」と称されてきた。万葉仮名では「寧楽」とか「奈良」と表記される。なぜ「なら」なのか、これまで色々な説がだされてきた。土地をナラして造営したから「ナラ」だとか、朝鮮語の「ナラ(国)」が語源だとか。私は「ナラ」の語源は前漢・武帝が朝鮮半島に設置した楽浪郡(現在の平壌)にあると思っている。「楽浪」は朝鮮漢字音で「 nak - rang (ナラ)」と読める。このことをすでに指摘している人はいる( 駒井和愛『楽浪』中公新書 )。朝鮮漢字音では語頭の R音は脱落もしくは N音に変化する。ちなみに、韓国では姓の「李」は「イ」と発音するが、スポーツ選手などは対外的に「Li(リ)」を使っている。北朝鮮ではすべて「リ」に統一している。
 

 漢帝国の出先機関・楽浪郡は倭人をはじめ東夷諸民族の憧れの地でもあった。この間の事情を『前漢書』地理誌は「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」と記録している。ところが、世紀313年、北方の高句麗が南下して楽浪郡を併合し、427年にこの地を「平壌」と命名して首都にした。ここで旧名称「 楽浪(ナラ)」と新名称「平壌」の関係ができた。丁度、「江戸」と「東京」の関係と同じように。
 漢字「壌」は土や土地のほかに国や国土の意味もあり、「城」にも国の意味もあるので「壌」と「城」は音義ともに一致する。つまり、次のような関係が成り立つ。
          

                   高句麗    ・・ 平壌  ー 楽浪(ナラ)
       日本     ・・ 平城  ー 奈良(なら)

 ー楽浪府は土塁の城市ー
 高句麗が「城」ではなくなぜ「壌」の文字を使ったのか、その理由は簡単明瞭である。楽浪府は土塁で囲まれた城市であった。戦前の調査でも土塁の一部が確認されている。 日本の7世紀は、朝鮮半島の高句麗、百済が滅んで多くの半島人が日本に亡命してきた時代でもあった。故国を失った彼らは日本の地に自分たちの理想の国家像を重ね合わせ、日本の古代律令国家建設に貢献した。聖徳太子が建立した日本最古の寺・法興寺(現在の飛鳥寺)は高句麗の清岩里廃寺と同じ様式であったことが分かっている。『日本書紀』にも高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置したとの記事もある。現在、埼玉県日高市に高(句)麗一族を祀る高麗神社がある。足利尊氏の家臣、高師直もその末裔であろう。高句麗の王姓「高」を名乗っている。
 これらの事実を背景にして710年平城京の成立とともに「ナラのみやこ」と呼ばれるようになったと思われる。この時にはまだ亡命半島系の人たちの影響が残っていたのであろう。しかし、時代が経るにつれて半島の記憶はうすれ、いつしかなぜ平城京が別名「ならのみやこ」と呼ばれるのか誰も分からなくなってしまったのであろう。

 最後に朝鮮語の「ナラ(国)」との関係であるが、高句麗語、満州語、日本語では土地のことを「ナ」と言う。日本語では「名主(なぬし)」として江戸時代まで使われてきた。また、出雲神話の主人公「大国主命」は、古事記には別名「大己貴神」ともあり「オホナムチ」と読ませている。「ムチ」は尊称なので「己」(ナ)は「国」の意味でもある。だが、 朝鮮語の「ナラ」が高句麗時代に存在していたかどうかは資料がなく分からない。韓国・朝鮮の人が書いた本などに古代朝鮮語ではこうだなどの記述が散見されるが、古代朝鮮語の文献資料はほとんど残っておらず、せいぜい、李氏朝鮮時代(16世紀頃)までしか遡れない。この「ナラ(国)」もしかり。私は漢字「楽浪」を高句麗風に「ナラ」と読んだことから「国」の意味が生じたと思っている。なぜなら、漢の楽浪府こそ朝鮮半島で最初の本格的な都城、つまり、国都であったから。それが、なんと800年後の海東の日本にまで伝わり、平城京は「なら(楽浪)」と呼ばれた。
 
 <追記>

 万葉集の柿本人麻呂の有名な歌  「楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」
 

 この志賀にかかる枕詞「さざなみの」になぜ「楽浪」の文字を当てるのか、これまで明確な説明をした人はいない。誰も分からなかったのである。この枕詞「楽浪の」は別の歌で「楽浪(さざなみ)の 国つ御神・・・」ともあり、国にかかる枕詞でもある。私のこれまでの論証、「楽浪」=「ナラ(国)」であると7世紀の万葉人たちが認識していたと考えれば、「楽浪の志賀(近江京)」という表記が生まれた理由がわけなく理解できる。平城京=奈良の都の生まれた所以(ゆえん)である。
 また、近年発見された奈良県明日香のキトラ古墳(7世紀頃)の天井の星宿図がなんと紀元前一世紀頃の平壌(当時は前漢の楽浪府)の夜空の観測図であったとのこと、飛鳥時代の日本人の「楽浪」に対する思い入れの深さを如実に物語っていると言える。  

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日本語の諸問題 (4) いつまでも「イチロー・スズキ」でいいのか

2007年10月02日 | その他

  日本人が外国人に自己紹介する時「姓・名」を逆にする。スポーツの国際大会では  Itaru  komatsu  のように選手登録している。日本と同じく「姓・名」の名前を持つ中国や韓国ではすべて  Mao  chetung  (毛沢東)や  Li  sunsin  (李舜臣) のようにそのまま国際大会に登録している。「姓・名」を逆にするこの日本のやり方は明治の欧米崇拝から生まれたもので、徳川幕府の役人はそのまま外国人に「高橋作左衛門」のように名乗っている。このことは日本の歴史や文化を外国人に理解してもらうのに大きな障害になっている。

 なぜなら、図書館や書店にある英語版の 「History Of Japan」(日本の歴史) の中では、歴史上の人物はすべて  Oda  Nobunaga (織田信長)、Saigou  Takamori (西郷隆盛) のように「姓・名」の順で書かれているいるからである。決して Nobunaga   Oda (信長 織田)とか Hideyoshi  Toyotomi (秀吉 豊臣) とは書かれていない。このことは日本語を学ぶ外国人にも大きな誤解を与える。日本語の先生の名前は  Itaru  Komatsu で姓は「小松」であれば、当然、Oda  Nobunaga の姓は「信長」、名は「織田」と判断するであろうから・・。
 

  この問題はもはや個人の問題ではない。ローマ字の名刺も人によって違う。ちなみに私は  Komatsu  Itaru としている。日本文化を世界に発信する義務と責任のある日本政府(文科省・文化庁)が統一見解を出す時であると思う。「イチロー・スズキ 」を良しとするなら歴史上の人物もすべて Ieyasu  Tokugawa (家康 徳川)とか  Kiyomori  Tairano  (清盛  平) の如く「名・姓」に統一するように行政指導するべきではないか。 -これはジョーク-

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