小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

勝海舟と西郷隆盛の江戸会談の真相

2012年02月28日 | Weblog

 江戸開城のための勝と西郷の会談は日本史教科書にも出ているあまりにも有名な話である。しかし、前にも書いたように、西郷亡きあと勝の一方的な話が史実として信じられているにすぎない。勝の話はすべて嘘とは思わないが、勝の性格からして割引いて考える必要がある。この会談には二つの疑問点がある。それを明らかにしたい。

 疑問点その一、 なぜ西郷は江戸に急行したのか。
 

3月9日、西郷は山岡鉄太郎に駿府で五ケ条の条件を提示した。これは幕府に無条件降伏を迫るものであり、そうすれば寛大な処分になるとのことであった。山岡は、慶喜の備前藩お預け以外はすべて了承して江戸にとって返した。ところが、西郷は後を追うように、翌10日、江戸に急行している。13日朝には官軍本営のあった池上・本門寺に入っている。そうして、その日午後に勝海舟と会っている。なぜそれほど急ぐ必要があったのか。これにはやはり和宮が関係していると思われる。
 山岡はその時、江戸の情勢を西郷に詳しく話している。西郷は「江戸の状況がよく分かり申した」と答えている。この時点で江戸城内では憂慮すべき事態が起きていた。徹底抗戦を叫ぶ幕臣たちが江戸城の諸門に胸壁(バリケード)を築き、石垣上には大砲さえ据えて戦闘準備をしていた。これら主戦派の連中を、恭順派の勝海舟や大久保一翁などもどうすることもできず、ただ手をこまねいて傍観するしかなかった。江戸城内は一種の無秩序、無政府状態であったのである。
 
 すでに官軍の先鋒部隊は江戸を包囲しており、まさに一触即発の状況であった。このことを知った西郷は総督・有栖川宮に相談の結果、不測の事態を避けるため江戸に急行したのであろう。このとき、有栖川宮はそれら抗戦派を官軍の力で鎮定することはやむなしと西郷に江戸城攻撃の許可を与えた。ただし、いまだ江戸城内にいるかっての婚約者、和宮は必ず無事に城外に移すようにと命じた。おそらく、和宮の嘆願書に目を通していたのであろう。このことを証明する土佐藩の資料がある。(後述)

 疑問点その二、 なぜ会談は13、14日と二日あったのか。
 

 その時点で幕府はすでに官軍に恭順する体制が出来ていた。つまり、「徳川幕府幕引き内閣」である。『海舟日記』によると、勝海舟は1月17日に海軍奉行並(海軍副総裁)、1月23日陸軍総裁に就いていた。2月25日には軍事取扱を命じられるとある。軍事取扱とは幕府全軍の統括者の意味であろう。同じく恭順派の大久保一翁は会計総裁、田安慶頼は慶喜から徳川宗家の後継者に指名されていた。(慶頼の子が後に静岡70万石の藩主となった田安亀之助である)。この3人を中心として官軍と交渉するように慶喜が後事を託したのである。 

 しかし、3月5日、山岡鉄太郎が勝の屋敷にやって来るまで、勝とてまったく打つ手がなかったのが実情であった。この山岡の駿府行きを勝の使いのように誤解している人がいるが、実際はそうではない。寛永寺で謹慎している慶喜から相談を受けた遊撃隊長・高橋泥舟が自分の義弟、山岡鉄太郎を推薦したことに始まる。慶喜に面会した山岡は、命を賭して駿府の総督府に赴き、慶喜公の恭順謹慎の思いを大総督・有栖川宮に伝える決意であった。そこで、行く前に勝の屋敷に立寄ったのである。この時が勝と山岡の初対面であった。勝の日記によれば西郷宛てに手紙を託すとある。
 
 ところがである。山岡は後年(明治15年)、岩倉具視の求めに応じて、この駿府行きの顛末を詳しく書いて提出しているが(「戊辰談判筆記」)、そこには勝の手紙の一件は全く触れられていない。なぜか、山岡はその手紙の内容に不快感を持ったからであろうと思われる。その手紙の内容を要約すると、今、国内で戦争することは外国の干渉を招くだけであるので進撃を止めるべきであると、むしろ官軍を非難するような主旨であった。ここに勝海舟の本質が見えている。「幕府だ、藩だ、などと言って内輪もめしている場合じゃねえ、今は日本国のことを考えるときだ」、この勝の言葉に感動した龍馬の話は有名である。しかし、事態は勝の思惑をはるかに超えて進行していた。

 ー3月13、14日の会談の真相とはー

 『海舟日記』によると、13日には記述はないが、翌14日にこの2日間の出来事をまとめて書いたようである。13日に西郷に面会し、「天下之大勢愚在書を送くる」とある。14日には 「西郷江再会、諸有司之嘆願書相渡し愚在を述ふ、同人督府伺として明日出立、依って明十五日江城侵撃之日限延引之命を下たさむと云、此両日は全力を以て談判す・・・」 とある。「延引」は「引き延ばす」と読み、つまり「延期」のこと。
 日記はいたって簡略で、具体的に何が話し合われたのか一切記述はない。なぜ、西郷は江戸城攻撃を突然中止して、15日に駿府の総督府に向かうことになったのか。大きな謎である。 後年、勝が語ったことは額面どおりには受けとれない。真相はおそらくこうであろう。
 
 13日朝、池上本門寺の官軍本営に入った西郷はすぐ使いを出して勝を高輪の薩摩藩邸に呼び出した。同時に官軍各部隊に15日を期して江戸城総攻撃の命令を伝えさせた。この事実を証明する土佐藩の資料が存在する。

 『土佐藩戊辰戦争資料集成』(高知市民図書館刊行)によると、3月13日 「特ニ薩人大惣督府ノ命ヲ奉シテ来訪ス、諸道ノ官軍三月十五日ヲ以テ斉ク江戸ニ入ル」 とある。 
 また、同資料の中の「谷氏私記」によると、谷干城はその時、土佐軍本隊を率いて府中にいたが、やはり13日に江戸城攻撃の命令を薩摩人より受けている。この中で谷は注目すべきことを記録している。それは 「其時田安家、和宮様ヲ奉シ甲府ノ如ク御立退キ被遊ル付・・・」 とあり、和宮を甲府に避難させるのでそのことを兵士たちに周知徹底させるように総督府から通知があったことを書いている。これは後年、勝が13日の西郷との会談で、「和宮様を人質に取ったりはしない」と西郷に言ったことの裏付けとなる。
 つまり、勝は日記には何も書いていないが、13日の会談で西郷から15日の江戸城攻撃を通告された。 その時、西郷は有栖川宮から命じられた和宮の無事城外避難のことにつき勝に協力を求めた。そこで勝のあの発言となったのであろう。勝はこの日はこれだけの話で終わったと言っているが果たしてそうであろうか。

 おそらく、この日、西郷は3月9日に駿府で山岡鉄太郎に示した無条件降伏五カ条を再度提示したのではないか。西郷としては官軍のこの条件案はすでに山岡から勝に伝えられているとの前提での交渉であったと思われる。事実、「戊辰談判筆記」で山岡は、西郷の提示した五ケ条を慶喜と大久保一翁、勝海舟に示したと書いている。山岡は単なる使い番にすぎない。総督府参謀として西郷は正式に徳川幕府の回答を迫ったのであろう。常識的に考えてこれしかない。
 返答に窮した勝に、西郷はあと一日猶予を与えるので、幕府の他の重役と協議の上、明日ご返答お願い申すと丁寧な口調で話したと思う。つまり、和戦両様の構えであった。そこで西郷は、これを受け入れれば大総督宮様の厚き思召しがあると、一言付け加えることも忘れなかったと思う。
 

 この夜、勝は大久保一翁などと協議の上、この五カ条を受け入れることを決定した。とくに、大久保はこの降伏案に全面的に同意し、これと引き換えに15日の江戸城攻撃の中止を西郷に求めることを勝に強く要請したと思われる。勝は不本意ではあったが、これしか取るべき道はなかった。生来、人に頭を下げることを潔しとしない勝の性格からして、これは屈辱的なことであったであろう。これで、『海舟日記』の13日になぜ記述がないのかその理由がわかる。この日の午後、官軍参謀・西郷隆盛と会うという重大事件があったのにである。つまり、深夜まで最後の幕閣会議に出ていて家にいなかったからであろう。『海舟日記』には毎日記述があるわけではない。特に書くことがなければ一週間なにも書かれていない。

 この勝の不満が 後年、西郷もすでになく、戊辰戦争も過去の歴史物語となった時、勝のホラ話として噴出してくる。つまり、江戸中の町火消しを使って、江戸の町を焼土とするなどがそれである。そんなことをすれば、明暦の大火(1657年)や関東大震災以上の大惨事となったであろう。なによりも、火事を消す仕事に命をかけ、誇りを持ってきた江戸の町火消しがそんなことをするわけがない。ちょっと考えれば分かりそうなことなのに、いまだにこんな馬鹿げた話を信じ込んでいる人がいる。山岡は「戊辰談判筆記」で駿府から持ち帰った西郷の五ケ条の無条件降伏案を慶喜と大久保、勝に伝えたとちゃんと書いている。この時、慶喜は「欣喜、言語ヲ以云ヘカラス」とあり、その喜びようは言葉で言い表わせない程、尋常ではなかったようである。当然、斬首されてしかるべき命が助かったのであるから・・。勝と西郷はすべてを了解した上での会談であったのである。決して、勝の功績ではない。

 ー幕府の全面降伏ー

 そして、翌3月14日、勝は西郷にこの全面降伏五カ条の受け入れを伝えた。そうして、条件として明日の江戸城攻撃中止と慶喜の身を備前から水戸に移すことを要求した。西郷はこのニ条件をあっさり認めた。これが江戸開城に向けての勝と西郷の会談の真実ではなかったのか。
 その後、 『海舟日記』には、4月9、10日に、翌日の江戸城引渡しの最終打ち合わせのため、大久保一翁と一緒に池上・本門寺に出向いたとある。そうして、大久保は4月4日の二名の勅使の入城と11日の江戸城引渡しの幕府側の代表をつとめている。ところが、勝はこの重要な両日とも欠席している。勝の官軍に対する意識がこれからもよく分かる。
 
 この西郷の一連の動きの背景にはやはり総督・有栖川宮の意思があったと思う。それを受けて西郷は江戸での戦闘を極力避けようとした。それには幕府の全面降伏が前提であった。それが成った以上、あっさりと江戸城総攻撃中止(実際は延期)命令を下したのであろう。 先の「土佐藩資料」にも14日、すでに本隊は内藤新宿、先鋒部隊は四谷見附にまで進出していたが 「時ニ海道惣督府ヨリ明日江戸攻入ノ事ハ暫ク停止ス可キノ命アリ」 と記録されており事実である。この中止命令を受けた東山道参謀・板垣退助はすぐ馬を飛ばして池上・本門寺に急行し、西郷に抗議したが、おそらく西郷は 「大総督宮様の御意思である」 と答えたであろう。これにはさすがの板垣も返す言葉がなかったはずである。西郷は15日には江戸を立ち、駿府で大総督・有栖川宮の承認を得た後、20日には京で天皇の裁可を得ている。

 <追記>
 

 幕末史のハイライト、江戸無血開城は後年、勝海舟が書いたり話したりしたことがそのまま史実として信じられている。もう一方の当事者、西郷隆盛の証言がないのでこれでは片手落ちである。勝はあくまで自分が主役で、得意の弁舌で天下国家を論じ、西郷を説き伏せたことになっている。本当だろうか。敗者が勝者を説き伏せる、主客転倒ではないのか。ところが、もうひとりの当事者、山岡鉄太郎は駿府の総督府に持参したはずの勝の手紙について一言も触れていない。さらに、山岡が後年、弟子たちに語った話として、「江戸開城は俺と西郷の二人でやったのだ」 との言葉が伝わっている。こちらの方が真実であろう。西郷から提示された無条件降伏案を江戸に持ち帰ったのであるから。(その2日前、駿府にやって来て江戸攻撃中止を求めた寛永寺の輪王寺宮は西郷からソデにされている)。
 
 山岡鉄太郎は正直で誠実な人間である。若い時には江戸で清河八郎の勤王塾に出入りしていた。その関係で、清河が浪士隊を率いて京に上るとき、幕府から浪士取締役を命じられ共に上京している。(この時、後に新撰組を結成する近藤、土方らが同行していた)。がしかし、清河が幕府を欺いていたことが発覚し、幕命により江戸で暗殺されたとき、それに連座して幕府から謹慎処分を受けている。このような経歴を持つ山岡にとって官軍に降伏することはすなわち天皇の命に服することであり、なんら恥ずべきことではなかった。これが山岡鉄太郎の根本精神であった。
 
 一方、勝海舟はたしかに幕府とか藩を超えて日本国のことを真剣に考えていた。がしかし、今回の徳川征討軍は官軍の名をかたる薩長軍にすぎないとの思いが勝の頭を強く支配していたと思われる。勝が西郷に宛てた手紙の文面からそれが十分読み取れる。 「薩長なんぞに頭を下げたくない」 これが幕臣、勝海舟の偽らざる本音であったと思う。しかし、3月14日には現実に妥協せざるをえなかった。 その後はこの江戸占領軍に積極的に協力している。変わり身の速さも世慣れた勝の得意技の一つである。勝のこの屈折した感情が、後年、江戸無血開城も徳川家存続もすべて自分の功績だと吹聴する土台となっているのではないかと思う。

 

   

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